容疑者Xの献身 その1 | 映画、その支配の虚しい栄光

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または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「容疑者Xの献身」東野圭吾 (○○○●●)

直木賞受賞作であり、「このミス」ベスト1作品として高名な東野圭吾作品。ミステリーファンにとっては、この作品を巡って、二階堂黎人と笠井潔が論争したことでも有名なのですが、文庫本になってやっと読むことができました。
いまさら、何言ってんの?とぉおおっくに論争は終わったよ、ってとこだけど、ま、いいじゃないか。


笠井潔はこの作を「難易度の低い本格」と評し、つまり、すぐネタ割れちゃうじゃん、こんなのに騙される奴は「本格初心者といわれても仕方がない」というわけである。

が、私は実に見事に騙された。巧いミステリだなぁと思う。
論争になっている本格かどうかはともかく、これは買い。
しかし、かんなり問題が多い、というよりもフラストレーションのたまる作でもあって、そのへんが二階堂黎人のいう「本格推理小説」ではないという部分なのだろう。

(以下、ネタバレ)

まず、東野が仕掛けるトリックは2つある。一つ目は容疑者Xが警察の目を逃れるために用意する死体偽装トリックA、二つ目はそのトリックAをミスディレクションするために作者が読者に仕掛ける叙述トリックBである。

笠井潔は、読者は作中の探偵には知らされていないトリックBを推理することによって、トリックAを解明することができるが故に、この作は「フェア」であり「本格」に相違ないと述べる。確かに、一面においてはそうである。

一方、この作は倒叙モノ(犯人側から犯罪を描く形式)であり、「作中の犯人にも読者にも完璧に思われた犯行計画が、どのように破綻するのか」(笠井)についての物語でもある。

「どのように破綻するのか」。探偵はいかにして犯行計画の盲点を突くことができるのかについて、トリックBのようなメタミステリ的な手法はありえない。犯行計画は読者に対してではなく、作中の探偵に対してのみ為されているからだ。
つまり、この点に関して、探偵は「直感」ではなく客観的なデータ、読者に対しても探偵に対しても開示されたデータによってトリックAを暴く必要があるのではないか。

東野がそうしないのは、客観的な証拠によって犯人を追いつめることで、クライマックスの「感動」なり「純愛」なるテーマが描けないからに相違ないだろう。「倒叙」としての体裁を壊し「感動」を選択する、その姿勢からもこれは「本格推理小説」ではないと私は思う。