潜水服は蝶の夢をみる | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「潜水服は蝶の夢を見る」(2007・仏/米・112分)
監督/ジュリアン・シュナーベル、脚本/ロナルド・ハーウッド、撮影/ヤヌス・カミンスキー

主人公の主観から捉えられた映像が、何らかのインタラクティブな効果を期待したものだとしたら、それは余りにも浅薄な思いつきでしかない。
そもそも映画が、観客の意識の有り様を問題としているインタラクティブなメディアであることに、作者は愚かにも気づいていない。
だから、この映画で主人公=観客が見る映像は、平穏無事に日々を過ごす我々の現実を捉えたものと同等なものでしかなく、(作者が期待したような)特異な位置におかれた主人公の見る映像では決してない。

主人公の主観であることを想定された、半ばアウトフォーカスの医者のアップや療養士のアップ、あるいは海の見えるテラスや揺れるカーテンは、単に私たちの現実を捉えただけだ。
そこにアフレコで重ねられたのであろう、繊細さを欠いたマチュー・アマルリックのナレーション(モノローグ?心の声?)が続く。そんなものを見続けることの退屈。

また、「潜水夫」という軽薄な比喩をそのまま映像化すること、主人公の夢や幻想をそのまま描いて良しとする愚劣さ。

主人公は全身麻痺の状態で他者とコミュニケーションを図り、一冊の本を書き上げる。それは、アルファベットを一文字ずつ読んでいき、瞼を閉じることで、ある単語の一文字を特定しようという困難な作業だ。
しかし、この映画は音声や映像の程よい省略によって、この過酷な作業を描こうとする。
映画的なバランス、収まりの良さと、主人公が抱いた絶望と希望との齟齬に作者は気づいているのだろうか。

「映画」への軽薄で愚劣な対し方。「映画」に安易に依存し、そのシステムに無意識的に、あるいは意識的に準拠することで、作者はこの映画のモデルである人物を単なる売り物に堕している。

NHK朝の連続テレビドラマ「ちりとてちん」がいよいよ佳境に入ってきた。「ちりとてちん」の誠実さをジュリアン・シュナーベルは学んだ方がいい。