幸せのレシピ | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

キャサリン・ゼタ=ジョーンズの自室では、常に壁を入れ込む構図がとられ、とりわけ廊下を中央に配した縦構図に逆光気味に彼女は捉えられ、レストランの厨房では、アシスタントの女性と共に、金属製の棚や食器に囲まれた中央の狭い空間に配される。

唯一、開放的な空間は魚市場と窓を大きくとったセラピーの診療室で、それ以外の空間を閉鎖的なものとすること、自室に帰る度に鍵がたてるカチャリという硬質な音や冷蔵庫での彼女の白いため息(冷蔵庫ですから)。
スコット・ヒックスは他者とコミュニケーションをとることに不器用な、孤独な女性の姿を的確に演出する。

ところが、姉が亡くなり、その一人娘が彼女の生活に介入してから、映画の調子がおかしくなる。

彼女と子供、あるいは男性料理人との対立と、その解消を通じて、次第に彼女はレベルアップしていくわけだが、その繰り返しが単調だし、前述した空間構成も単なる形式へと堕してしまう。何より、解決の方法が極めて情緒的なのが致命的だ。

適当に気持ちのいい音楽とにこやかなゼタ=ジョーンズの姿をリズミカルに捉えれば、すべては解決するのか、と。店主を悪役にする安易な展開もいかがなものか、と。

その物語上の設定から抑制されてはいるものの、ゼタ=ジョーンズの演技はふくらみに欠けるし、スコット・ヒックスはシナリオに描かれている以上のことには頭が回らないようだ。

繊細なショットは確かに散見されるが、いかにもこれは駄目なアメリカ映画であった。
ちなみにオリジナルのドイツ映画は未見。評判いいんだよね。