犬神家の一族 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

今年最後の劇場鑑賞映画が「何とかのベートーヴェン」じゃナニだよなぁ、と全く期待せず、しかし、腐っても崑、というわけで観に行きました。

「八つ墓村」の惨憺たる出来ばえ以来、市川崑作品を観ておらず、そもそも市川崑が好きではない。ピチカートが何を言おうと、岩井俊二が何を創ろうと、正直、たいしたことない監督、一昔前の言説下での巨匠というイメージしかなく、現に50年代、「プーさん」「満員電車」あたり、さっぱり面白くない。

多くの人が最高傑作と推す「愛人」ですら、技法のための技法、モダニストたる所以を示すだけの映画としか思えぬ。確かに、有馬稲子は「サブリナ」のオードリー・ヘップバーンのようにかっこよく、キュートなのだが、「愛人」が53年、溝口の、あるいは久我美子の「噂の女」が54年という当時の日本映画の水準にあっては、まるで駄目じゃないか。

同じモダニストであっても、例えば60年前後の石井輝男の方が、全然かっこいいし、おしゃれだし、何より、物語をいかにモダンに語るかについての、映画からの考察がある。

だから、正直、市川崑は「ぼんち」の人、「ぼんち」だけの人なわけです、私には。
「炎上」は?といわれると困るんだけど、観念だけが先行した「炎上」より、川島の「雁の寺」、三隅の「剣」の方が全然凄いと思うんだけど、どうでしょ?

というわけで、何も期待せぬまま行った「犬神家」。これが実は、えらく楽しめた。
大野雄二による♪チャララ、チャララ、ラ・ラ~ラ~、というテーマ曲が流れ、70年代っぽい妙な画調の絵が登場したあたりで、ちょっと目頭が熱くなりもしたのだ。

もちろん、結論から言うと、「八つ墓村」とまではいかないまでも、相当、出来は酷い。
妙にピントが合っていないかのような、コントラストの浅い、いわゆる寝ぼけた絵は、70年代っぽさを狙ったもんなのだろうが、失敗していると思う。
また、ロケ時に晴天が臨めなかったのだろうか、曇天下で人工光をあて、ハイの部分がとんでしまった絵はいかにも貧しい。
美術はすかすかだし、照明は単調、外景と室内のトーンは違っている。

それより何よりも市川演出に粘りがまるでない。
これが市川崑の絵か、宮川一夫と組んできた監督の絵かと思うし、セリフや芝居のタイミング、オーバーアクト、手を抜いたかのような長回しなど、これがOKテイクすか?というようなシーンがやけに目立ち、寂しくなる。

ところが、そんな寂しい絵の中に、どいうわけか不意に、往年の市川崑タッチが紛れ込むのだ。
遺言書披露から自室に戻ってきた、岸部一徳、松阪慶子らを捉えるシーンの見事さ。人物の動かし、望遠気味のレンズでぼけを生かした縦構図、重なるセリフ。
特に藤純子と松阪慶子がいい。加藤泰に愛された女優と、嫌われた女優、というわけではなく、また私が熟女好みだからというわけでもない。この二人が凛としてフレームに収まると、なぜか画面がばしっと決まるのだ。

さらに、謎の解明時における殺人シーンは、これぞ和製ジャッロとでもいいたくなるような楽しさ。犯人が血しぶきを浴びるシーンは、かなり鳥肌モノです。

市川崑、老いたり。しかし、老いてもなお、映画人としての本能はしっかりと映画の中に生きている。そんな映画でした。うん、楽しめた。

メモ/深田恭子(=坂口良子)がもの凄くへたっぴいなのに驚いた。可愛いからそれでいいんだけど。「リング2」の時はそれほどでもなかったと思ったのだけど、これは新人監督と老いたる巨匠との粘りの差か。すんごく下手。可愛いからいいけど。

奥菜恵(=川口晶(笑)当時、角川春樹とつきあってたらしいす、姫田真作久によると)が大笑い。いや~、ラスト近くはガマガエルを抱きしめたりして、離婚してふっきれたのか奥菜、横から見るか、下から見るか。

松嶋菜々子はやけにでかい。奥菜との切り返しに大笑い。