マラソンは毎日走っても完走できない | 白州本樹のブログ

マラソンは毎日走っても完走できない

この前の日曜日、
高校のサッカー部の同期、先輩、後輩達が久々に集まってフットサルをやるというので稽古前にちょっと顔を出してきました。

同期はともかく先輩、後輩となるともう20年以上会っていない人達ばかりです。

ちょっと遅れてフットサルコートに入った瞬間、四方から「お~!久しぶり」と言う出迎えの言葉が。
しかしその瞬間、僕の中の時計が一瞬静止しました…


「誰だこの人達…」




その後ポツポツと判別できる顔ぶれを発見すると、止まった時計の針が再び動き出しましたが、

●禿げちらかした人…
●白髪まみれの人…
●激太りした人…
●そのすべてを兼ね備えた人…

かつてのチームメイトも、高校生の頃のイメージのまま完全にストップしていたので、
おそらく脳の中で「かつての姿」から、目の前に存在する「現在の姿」に軌道修正しなくてはならず、
脳の処理能力がそれに追いつかなかったために一瞬時が止まったような空白の時間が出来たのではないかと思われますが、

それでも依然

●5分以上たっても誰だかわからない人
●結局誰だか聞いてしまった人

なんて人達もいて、20年の時を軌道修正するのは思いのほか大変だということを痛感しました。


終了後田町の駅前で軽く一杯やりました。話はやはり昔話になります。

まぁ、あの頃はよく走らされたもんです。

今となっては青春の輝かしい思い出ではありますが、当時は大変でした。

夏合宿では毎日死ぬほど走らされて、合宿が終わったころには一応みんなそれなりに走れる人達に仕上がっていく。

ところが合宿が終わるとしばらく練習が休みになったり、練習もそんなにきついメニューではなくなっていく…
そして、あれだけ走れるからだを作り上げたにもかかわらず、
一ヶ月後の高校サッカー東京都予選の頃にはすっかり走れない元の状態に戻ってしまっている。

なんとももったいなかったと言う思いが今でも残っていますが、

ここで本日の一冊



「マラソンは毎日走っても完走できない」

小出義男 著
角川sss新書



あのQちゃんこと高橋尚子、そして有森裕子のコーチでおなじみの小出監督の本です。

完全にマラソンをやる人のため用の本なので、僕みたいにまったく走る気のない人には一見無用の本ではありますが、
やはりこの人が一流の指導者であるということと、その人柄と理論に裏づけされた説得力のおかげで楽しく読むことが出来ました。

やはり良き指導者というのは人に伝える術に長けているし、マラソンのような専門的な話をしていても、他のものにも通じるものがあったりします。


○あまり最初から飛ばしすぎずにまずはゆっくりやりながら体を作っていく
○頑張りすぎると三日坊主になる。
○でもどこかで負荷をかけていかないとタイムは伸びない…

ただ我武者羅にやるのではなく効率よく負荷をかけていく方法や、レース前のコンディショニングなど、具体的なメニューが紹介されています。

マラソンに興味ない僕でもちょっと「走ってみたいな…」と思わせる本です。


そしてこれを読むと、高校時代、いかに非科学的な練習を繰り返してきたかを改めて痛感させられます。

例えば本番前のコンディショニングを知っていれば、
大会何日前にどのくらい走りこんで、
どのくらい休息期間をとって、
いかに練習して本番にベストの状態に持っていくかを知ったでしょう。

あの頃にはそんな発想は一切ありませんでした。

ただひたすら死ぬほど走らされるだけ…

そこには理論も法則もありません。意味も目的もわからず、ただただ根性論だけで走らされていました。

我々の頃はすでに「巨人の星」と言うと古い戦後の根性論の世界だと思っていましたが、
今考えればその名残は当時も各所に残っており、科学的トレーニングが導入されていくのはもっともっと後の世代。

我々はちょうどその移行期の狭間の世代だったのではないかと思います。

○体罰は当たり前。
○炎天下であっても練習中は一切水を飲めない。
○うさぎ跳び
○両足を伸ばしたままの腹筋
○肩車をしながらスクワット(しかも下まで完全に膝を曲げて)等々

今では間違った練習方といわれるこれらのものも我々はギリギリ体験しています。

そう考えると我々の世代は、両方を知る。あるいはどっちも理解できる、
そして悪く言えば一番宙ぶらりんな世代なのではないでしょうか?

上の世代が手放しで良いとはいえないが、しかし下の世代も効率的ではあるけれどどこか物足りない…



飲み屋で、やはり今時の若者論になりました。

そう言う話になること自体すでにもうおやじになったことを意味するものの、やはり我々からみると今の若い世代は単に経験が浅いだけにとどまらず、「草食」にうつってしまうのでしょう。

決して我々がガツガツの「肉食」であるという実感はないが、比較するとやはり我々の世代は「肉食」であったのかもしれない。

おじさん達のフットサルを見ても、相変わらず怖いぐらいに攻めるし削りまくる。
もう体がついていってないにもかかわらずである。



しかしそうやって若者批判をするのは簡単ですが、

じゃあ上の世代が良かったのか?

そこには依然として非効率なおよそ民主主義とはかけ離れた前近代的価値観がはびこり手放しでは賛同できない。


じゃあ、どっちなんだ?
つまるところ俺達は一体なんなんだ?


そしてそういう自分達は他の世代からみてバブル世代の一番使えない世代とも見られたりする…

我々の世代の問題は意外に根が深いものだと思います。

しかしかつて「新人類」と言われた我々も、結局今は「おじさん世代」に仲間入りしてるのかなぁ…