四年に一度のワールドカップ、忙しい日々を送っています。
さて先日の決勝トーナメント一回戦、屈指の好カード、イングランド対ドイツ戦、
ご存じのとおり、世紀の大誤審が起きました。
事のおこりは前半、2-1でドイツがリード、1点を追うイングランドはランパードがシュート、ボールはゴールポストの上に当たり跳ね落ちたボールはそのままゴールに中に…
喜ぶイングランドの選手達、しかし主審の判定は「ノーゴール」
確かに一瞬の出来事、微妙なゴールだった。
主審、そしてラインズマンの位置からは微妙に見づらく、ワンバウンドしてゴールに入ったボールはツーバウンド目には確かにゴールの外に出ていた。
しかしリプレイ映像を観た世界中の人々は衝撃の事実を目の当たりにする。
「ボールは誰の目にも明らかに、ゴールに入っていたのである…」
「これは後世に語り継がれる世紀の大誤審になるぞ…」
全世界のサッカーファンが瞬時にそう思ったに違いない…
無論、イングランドが勝てばさして問題にはならないかもしれない、
しかし結果は勢いづいたドイツが4-1でイングランドを撃破する。
もう収拾はつかない。
しかしこれには前史があった。
遡ること44年前、ワールドカップ1966年イングランド大会決勝戦
イングランドとドイツが2-2のまま延長戦へ、そしてこの時「疑惑のゴール」が生まれた。
イングランドのシュートがまさに今回と同じくクロスバーのあたり、ボールはそのまま真下に落下。判定はイングランドのゴール。
イングランドは更に1点を追加し、4-2で地元優勝を果たすのである。
しかし、当時の映像を観る限りでは、落下したのはクロスバーの真下、つまりどうやら
「入っていない…」のである。
ドイツの老人達とサッカーの話をすると、今だにあのゴールのことを
「あれは入ってなかった…」と熱く語りだす人が多いと聞く。
歴史は巡り巡る…
今度はイングランドが「入った」筈のゴールが「ノーゴール」とされドイツに敗れるのである。
そして民放で解説していた「さんま」がこの大誤審を振り返ってこうコメントしました。
「サッカーにビデオ判定だけは絶対に入れないで欲しい…」
サッカーと人生にはミスジャッジが付き物、だからおもしろい。
「あれは入ってた」とか「入ってなかった」とか、ああだこうだと何年も言い続ける
それが楽しい。
サッカーをわかっている人の発言である。
サッカーはヨーロッパで生まれたスポーツ、そこにはアメリカには無いヨーロッパとしての長い歴史観、伝統、文化、精神性が根底に流れています。
人はミスする。
選手も監督も審判もみんなミスする。それを全部ひっくるめてサッカーなんだという哲学がそこには存在します。
今、手元に、スポーツライターの玉木正之氏が書いた新書
「スポーツとは何か」 1999年 講談社現代新書があります。
ここにサッカー、ラグビーを始めイングランド発祥のスポーツと
アメリカ発祥のスポーツとの考察が記されています。
アメリカ発祥のスポーツと言うと、ベースボール、アメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケー、バレーボールが五大スポーツといわれてますが、
アメリカのスポーツの特長としてまず、
① 選手交代が可能
② 複数の審判
③ 情報の公開
が、挙げられます。
最近でこそサッカーでも選手交代は3人まで認められ、
審判も副審が主審に助言を行うようになったり、
ロスタイムの時間が表示されるようになった。
これはあきらかにアメリカ的デモクラシーの影響であり、アメリカンスポーツのルールのほうが、公正であり、合理的であり、民主的であり、世界的な普遍性を獲得しやすいといえるからである。
試合の残り時間など、アメフトやバスケットのように電光掲示板により観客にもわかるように情報公開されているが、サッカーの場合は基本は主審の腕時計の中にすべてがある。
そしてすべての権限は最終的には主審の手中にある。
それは絶対王政の歴史を持つヨーロッパと、建国以来、王様を持たないアメリカとのメンタルの違いとも取れるが、
少々の判定ミスや数分の試合時間の長短など、長い歴史の中では些細なことであるというヨーロッパ的な思想を、ここで読み取ることもできる。
またもう一つの違いに、アメリカのスポーツは総じて
④ 間が多い
ということもあげられる。アメフトやホッケーなども一回一回プレイが止まり、その度に電光掲示板の時計も止まる。
野球に関して言えば3時間の試合中、ボールがインプレイにあるのは25分少々で、残りの2時間半はボールデッドの状態(プレイを休んだ状態)にある。
私見ではあるがこれを演劇に例えると、サッカーは暗転の無い芝居
アメリカンスポーツは暗転だらけの芝居ということが言えよう。
サッカーのほうがより「演劇的」であるといえる。
このようにアメリカのスポーツが全体的に間を楽しむスポーツということができるが、間が多いということは商業的なアドバンテージを持つとも言える。
つまり「間」があると「コマーシャル」を入れやすいのである。
かつてJリーグが発足したころは試合中にタイミングを観て強引にコマーシャルを入れる試みもあったが、結局うまく機能せず、Jリーグのナイター中継もテレビからほとんど姿を消した。
何度も言うがサッカーは演劇と一緒である。演劇の途中にコマーシャルを入れてしまえばそれはもはや演劇ではない。
他にもアメリカンスポーツの特徴として
⑤ チアガールの存在
なども挙げられているが、長くなるのでここでは触れない。
話がそれた、元に戻そう…
我が日本選手にとっての誤審と言えばまず頭に浮かぶのは、シドニーオリンピック、柔道男子無差別級決勝の篠原選手の誤審でしょう。
このときも篠原選手が「一本」を取り、金メダルかと思いきやニュージーランド人の主審の判定は逆に相手のフランス選手への「技あり」。
試合後、山下団長率いる日本選手団が猛烈な抗議をするも判定は覆らず、篠原選手は屈辱の銀メダルに終わる。
この時、ビデオ判定を取り入れるべきという議論が最高潮に達したのを思い出す。
確かにそのほうが公正であり、サッカーのように主審に全権力を与えるというのに比べればより民主的で現代的であるとも言える。ミスも減るだろう。
しかし、どんなにビデオ判定の技術が進歩しようとも、それに人間か関わる以上、ミスは無くならない。
人間はミスをする動物である。ミスをする動物である以上、ミスは「絶対悪」ではない。
今回の大誤審、実は続きがあります。
続くアルゼンチン対メキシコ戦でも、オフサイドを巡るジャッジで、明らかに「ノーゴール」であったものがアルゼンチンのゴールとみなされ、
結果メキシコは敗退するのである。
つまりあってはならない「大誤審」が一日に2回も立て続けに起きたのである。
これはイングランドやメキシコ、当事者にとってはたまらない問題である。
今後相当物議を交わすことになると思われるが
今のところFIFAは、ビデオ判定の導入や、ボールに電子チップを埋め込むというような電子判定システムは導入しないことを発表している。
最近テレビなどで、
GPS機能搭載のタクシーとか、
厨房に監視カメラを付けられ、マニュアル通りに調理しているか常に本部から監視されている回転すし屋など、
なかば好意的に紹介されることがあるが
まったくもって愚かとしか言いようが無い。
もしヨーロッパでこんな企業があったら非難の嵐になることでしょう。
人としてどこからがやってはいけないかと言う線引きできていない企業は幼稚な企業とみられても仕方が無い。
サッカーには長年ヨーロッパの人たちが培ってきた文化や生き方、英知などが詰まっている。
ミスは悪ではない。発想さえ変えればそれを楽しむことも出来る。
またどんなにテクノロジーが発展しようと、侵してはならないアナログな部分が存在する。
僕は
そんなことを体現しているヨーロッパ人の生き方が好きだし、
そんなサッカーが好きである。