「靴」 ワールド フットウェア ギャラリー  日高 竜介のブログ
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 昔むかし、時は明治維新、まだ皆の足元がわらじであった頃、それまで武士たちが日本国内で行ってきたような戦ではなく、列国の近代武装との戦争にどうしても必要だったもの。そのひとつが靴(ブーツ)だったそうです。当時の兵士は輸入靴を履いていたそうです。

 想像してみてください。。。いままでずっと足を開放し続けてきた日本人にとって、靴を履いて動き回るのは、まさに地獄だったのでは。そう思っていました。
 がしかし、調べてみると、どうもそんなことはなかったのではないか?という事実が紐解けます。

 3月15日は靴の記念日だそうです。なんでも、それまで兵士が履いていた輸入靴があまりに大きすぎるので国産靴を作ることを決めた日だと。と。待てよ、あまりに大きすぎる??
 おそらくアメリカやドイツの標準サイズの靴を輸入して、各々が自分の足に合わせてみたのでしょうね。小さいサイズは木型も無く製造していなかった。必然的に足の小さな人は大きい靴を無理やり履き、大きめの人も窮屈でないサイズを選んでみると、、、ブカブカの靴になってしまったのでしょうか?

 いずれにしろ、革靴が合わなくて地獄のような思いをしたと言うのは、案外、私の思い込み、妄想であったのかも知れません。

 実際のところは、靴に無頓着なうちは大きなサイズを履き、靴に精通すればするほど痛い思いをし、結局はベストなサイジング、フィッティングを体得していくものです。そしてその期間を出来るだけ短くするのが私たち靴店の仕事だと肝に銘じて。。。




 「他人は自分を映す鏡」とはよく言ったもので、これは己を知ることの本質であると、私が大学生の時に先生に教わりました。
授業はさぼってばかりいた私がたまたま出席した授業で、ドイツ語だったか英語だったか、もしかしたら数学だったかもしれません(笑)

 「あなたたちは今、自己を確立しようと躍起になっている。自分とは何か、どこから来てどこに向かうのか、必死にもがいているのが見て取れます。もがいて苦しんで、部屋に閉じこもって内省的になる学生を嫌というほど見てきました。がしかし、それでは自分の何たるかのかけらさえ見つからないでしょう。」

 その先生はこう続けました。「部屋で本を読んだりしているのではなく、まずは外に出て、人に関わり、ありのままの自分をぶつけてみなさい。そこで相手の浮かべた表情こそが、あなた自身です。本当の自分というものはそうやってしか知る事の出来ないものなのです。」

 20年経った今でも、その時の感動は忘れ得ません。皆様。是非、良い靴を履いて出かけましょう。そして素晴らしい世界の素晴らしい人たちに自分自身をぶつけてみましょう。その時相手の取った行動、浮かべた表情、言った言動こそがその時の自分自身なのです。

 幸い、私どものお客様は皆様、人格的に素晴らしい方たちばかりです。これがそうでない方たちの集う店になった時。。。私どもの行動を変えねばならない時なのでしょう。

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kata

 先日、2011年11月にフランス・パリで開催された「第21回世界空手道選手権大会」の女子個人『形』の部で初優¬勝した宇佐美里香選手の動画を観ました。私はその存在さえも知らなかったのですが、『形』という競技は、相手と拳を交えて試合をするのではなく、ひとりで『カタ』だけを披露する審美競技です。

 個人的には、審美競技というのは観戦するのに今一つ興味を惹かれない競技であり、ましてや、空手の『形』となるとその何たるかさえ全く知らないので、観ても面白くないだろうなと軽い気持ちでそのYou Tube動画を再生し始めたのです。

 するとどうでしょう。はじまるとすぐに引き込まれ、その美しく、力強い動きはもちろん、静止している姿からにじみ出る『気』とでもいうのでしょうか、それに魂を揺さぶられます。動画が終わるその最後は会場総立ちのスタンディングオーベーション、そして涙が止まらなくなって茫然としている自分だけが取り残されていました。

 そこで素晴らしかったのは試技だけでなく、実は観客の方でした。試技の終盤までは皆息をのんで静かに見守り、最後には皆で手拍子、そして最後の蹴りが終わると同時に全員がスタンディング。。。何とも感動的な動画です。


http://www.youtube.com/watch?v=KTpM0d6lr4A


 そこで感じたのは、我々の日々の活動はすべて相手との共鳴による心の震えに支えられているのだなぁという事でした。どちらが不足していても成り立たない繊細なものですが、もし起これば、素晴らしい瞬間となります。どうか今回のコレクションが皆様の琴線に触れ共鳴するものでありますように。

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 私がまだ中学生の時に、星新一さんの「鍵」という短編小説を読みました。


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主人公は自宅で古びた鍵を拾い、その鍵はどこの鍵だろうと家中の鍵穴を試します。
どこにも合わず、とりあえず近所の鍵穴を試したところまたもやどこにも合わない。

 休日に隣町で同じことを試し、そのまた隣の町を試しては休みのたびにその範囲を広げていくのです。ついには長期休暇を取って海外にまで足をのばし、毎年違う国を訪れてはその鍵に合う鍵穴を試す旅を繰り返します。

 そして主人公が死を目前にした時には、その鍵以外何も残っていませんでした。愛する家族も、お金も、名を残す偉大な仕事も何も残してこなかったのです。ただ一つ、その鍵とともに旅をした最高の思い出以外は。。。という短い話。

 我々の人生はかように儚くも切ない、そしてとても美しいものなのだと思います。ただ意志を持って移動する。それこそが生きるということなのではないかと思います。そして最高の靴は、その移動を可能にする大切なパートナーです。そんな靴をご紹介できれば良いなぁ、そんな風に毎シーズン考えています。
 店にいて様々なお客さんと話すことは本当に素晴らしい経験です。自分が行動する範囲外のひとと、それもたくさんのひととゆっくりと話しをする機会なんて、普通の人々にはなかなか訪れないものです。
 先日、70歳代のお客様とお話しする機会があって、それはそれはとても興味深いものでした。

「あなた、私がシャンデリアのどこを見るか分かるかね?」

その方は私にそう質問しました。

私どもの店にはいわゆるシャンデリアが飾られています。最近の東京では様々なショップで見られます。シャンデリアは云わば、憧れ、非日常、手に入れたいキラキラ光るものの象徴、といったところでしょうか?
そのシャンデリアを見ながら質問したのです。

「そうですね。。どこでしょうか。。。」

私が答えに窮していると、

「ホヤだよ。」

その方はそうおっしゃいました。

「ホヤですか!? 材質、クリスタルとかですか?」

と、感心したように応える私の言葉をさえぎるように、

「違う違う。ホコリだよ。ホヤのホコリ。」

ハッとした私の顔が見る見るうちに赤くなっていくのを見たその方は優しく微笑み、こう言った。

「最近では偽物ばかりが増えて、しかも厄介なことに偽物ほど本物に見える。本来、シャンデリアは毎日ひとつひとつのホヤを掃除できる召使を雇えるものが持つものだ。それが出来ないでホコリをかぶったシャンデリアのいかに多いことか。。」

とても含蓄のあるお話しでした。

というわけで今日もお店のホヤをすべてきれいに掃除したのでした。
当店には、車椅子がないと移動出来ないお客様が少なからずいらっしゃいます。

そのひとは、大切なものを選ぶときに特徴的なあの表情を浮かべながら店内を一瞥し、私に尋ねます。

「ブーツを探しています。比較的クラシカルなもので長く履けるものを提案していただけませんか?」

「喜んで。」

私たちにとっては背筋の伸びる、そしてアドレナリンだかドーパミンだかセロトニンだかが噴出する最高の瞬間です。

これは、レストランで言うと、今日の(胃袋の)気分を伝えて、「とにかくうまいものを食べさせてくれ」と言うようなもの。

信頼関係の築けている馴染みの客ならそれはプロとしての仕事を期待されている証拠ですが、一見の客のそれは値踏みが目的です。もちろんうまく提案出来れば信頼を勝ち得ます。

さて、そんなとき靴店の販売員はどんなブーツを薦めるのでしょう。ちょっと頭を巡らせて、障害をお持ちのお客様だから着脱の容易なジップアップブーツとかサイドゴアブーツ、といったところでしょうか。

しかし果たして、そのひとはそんなものを求めているのでしょうか?そのひとは車椅子がなければ移動出来ないのです。機能的な観点から言えば何も好き好んでブーツを履く必要などないのです。

それなのにブーツを求める理由を考えると、それは見た目でしょうか?もちろんそれも重要でしょう。靴が実用品でないのなら、そこには必ず嗜好がなくてはなりません。

結局、私の選んだブーツは紐を通す穴が11個もある編み上げのブーツでした。革底で黒のブーツ、筒部分がグレーのスエードで切り替えてあるクラシカルなもの。ボタン留めのブーツと並んで、20世紀初頭のフォーマルフットウェアとしてのスタンダードだったブーツです。

試着してもらうときには、普段なら紐を締めて差し上げるのですが今回は特別です。お客様自身でやってもらいます。そのひとは紐を締めて行く動作ひとつひとつを愛おしそうに噛みしめるように紐を締めて最後にブーツ最上でリボン結びをして満足そうに微笑み、

「気に入りました、これをいただきます。」

と言いました。

靴に求めるものは、ひとそれぞれです。百人いたら百個の求めるものが存在します。そして、その求めるものは、お客様自身でさえもはっきり認識してないケースがほとんどです。少なくとも、100%を言葉には出来ません。

我々靴店はその欲求を探らなければなりません。探ってそれを形にし、お客様自身が手にとってわかる形にして差し出さねばなりません。それが靴店の仕事です。

きっとそのひとは、靴に、生きるエネルギーを求めていたのではないかと思うのです。そして私が知る限り最も古くから存在するスタイルのブーツが持つエネルギーは推し量ることの出来ないほどのものだと思います。新しいデザインだとか、色付けの芸術性とかといったものとは次元の異なる、歴史というエネルギーがそこにはあります。

生きるということは、移動することだと思います。ひとは、意志を持って移動するからこそ生きているのです。靴はその移動に必要不可欠なものなのです。たとえその靴が地面を蹴って歩くことがなくても。

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 フランスはイタリアと並んで、世界最高の革産地だ。中でもカーフと呼ばれる仔牛の革に関しては最高の素材がつくられる。この背景には質の良い原皮が大量に取れるという事情がある。つまり、なめされた革以前に、仔牛の皮がたくさん取れるのだ。イタリア原皮に関しては、イタリア国内に世界一大きな革製造(なめし)産業を擁するので、多くは国内で消費されてしまい、日本まではなかなか届かないが、フランスのタンナー(革なめし業者)の数はそれほど多くなく、フランスの仔牛皮は、ヨーロッパはもちろん全世界に輸出されている。これは、フランスやイタリアに古くから仔牛を食べる文化があったことで、ドレスシューズにとって最もポピュラーな素材であるカーフが存在しているということだ。少なくとも今はそういう状況である。

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 カーフが生まれた当初のことは正直分からない。昔の貴族が靴をはじめとした装い全体に、尋常ではない情熱を注いでいたことを考えると、もしかしたら、カーフを取るために仔牛を殺めたのではないかと思ったりもする。肌理が細かいが故に艶やかな光沢を放つ、その上適度に柔らかくしなやかな仔牛の革はそれほど魅力的な素材なのである。まあでも、人間の強欲という観点で考えれば、食以上のものはないのかもしれない。きっとたまたま死んでしまった仔牛の肉が思いのほか美味で、その副産物として生まれたカーフが革製品として理想的な素材だったのだろう。普通に考えれば成牛になるまで育て上げ、食肉部分を大きくしたほうが効率的だが、きっと昔の貴族の食に対する欲求はそんなことを気にもしなかったのだろう。

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 さて話は戻るが、何故質の良い原皮が取れる土地だから質の良いカーフが出来るのか? 日本のタンナーだってフランスをはじめとしたヨーロッパ各国から最高の原皮を輸入して最高のなめしを行っている。何が違うか? 輸送の距離が違うだけだ。通常、原皮は塩漬けにして寝かすから鮮度は関係ない。これはカーフを製造する業者にとって長い間の謎だったようである。ところが最近、ひとつの仮説が真実味を帯びてきたという。何と、原皮が運ばれてくる過程で赤道を通過するからだというのだ。ヨーロッパ原皮は船で輸入される。塩漬けにした大量の牛皮は嵩も張るし、それ以上にものすごい重さを有する。とても飛行機で運べるものではないし、第一そんなことをしたら原皮の値段以上に輸送費がかかる。同じ理由で冷凍船も使えないのだろう。よって、フランスの仔牛の原皮は南アフリカ喜望峰を廻るまでに一回、そして東南アジアを北上するときにもう一回、計二回赤道を通過することになる。この際にどうしようもなく付きまとう熱が原皮を痛めているのではないかというのだ。

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 その仮説をもとにすると、フランスから北極を通って日本に運べばOKということになる。近年の地球温暖化によってこのまま北極海の氷が解け続けたら、きっとそうするのだろう。そのほうが距離も圧倒的に短いし効率的だ。ただし、そんなことでは決してチャラにならない、遥かに大きなマイナスこそが、現在深刻に討議されている環境問題そのものだ。軽々しく「効率的だ。」などと言ってはいえない。もし「愛」というものの様々な表現に関するコンテストがあれば、環境保護はかなり有力な優勝候補だ。我々人間が自然界に対して行ってきた無智な行動を自覚し改める行為は、我々の未来に対する愛から来るものだ。自然界への罪に対する懺悔というものが一体どこまで意義のあることなのかは分からない。恐らく歴史にしか証明できないことであろう。ただ、自分たちの子供に残す未来のために環境を保護するという行為には真摯な愛がある。きれいごとは抜きにして信用できる。

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 いずれにしても、フランスの食文化によって生まれる最高の仔牛皮は、フランスの最高のタンナーによって最高のカーフとなる。そしてフランスの最高の靴職人が最高の靴をつくる。ただ残念なことに、フランスの靴産業はほぼ壊滅状態で、多くの靴ブランドが生産地をイタリアやスペイン、ポルトガルなどに移してしまっている。それでも小さな規模で手縫いのオーダーメイド靴をつくっている素晴らしい職人さんたちも現存する。一足の靴に四、五十万円の値段を受け入れられる人は決して多くはないが、それでも多くのビスポークシューズショップを目にするたびに、フランスには深い靴文化があるのだなと実感する。

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 フランスにはたくさんの有名紳士靴ブランドが存在する。JMウェストン、パラブーツ、コルテ、ベルルッティー。そして洋服とのトータルブランドのそれを含めると枚挙に暇がない。それにバッグ等の革製品ブランドの靴も合わせると膨大な数になる。その中でも、最もフランスらしい、それもクラシックなドレスシューズという範疇の中で最高の靴はジョン・ロブであろう。ご存知エルメスの持つブランドである。ジョン・ロブというブランドはちょっとややこしい。

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 もともと、ジョン・ロブはイギリスのビスポークシューズブランドである。ロンドンのセントジェームスストリートにある由緒正しき、英国王室御用達の店だ。ここではビスポークシューズのみを販売する。そして、パリにもビスポークシューズを販売するジョン・ロブ・パリがある。これはもともとロンドンのジョン・ロブの支店だったのだが、結局この店をエルメスが買い取り、自社の顧客に向けて靴をつくったのがいまのジョン・ロブの始まりである。そして、「ジョン・ロブ」の既成靴はイギリス・ノーザンプトンでつくられる。もともとエドワード・グリーンというイギリスのブランドの工場だった場所だ。イギリス最高の既成靴メーカーであったエドワード・グリーンの工場を買い取って「ジョン・ロブ」の既成靴をつくったのだ。つまりロンドン・セントジェームスストリートの「ジョン・ロブ・ロンドン」以外の「ジョン・ロブ」は、すべてエルメスによるもので、ロンドン・ジャーミンストリートのほか、全世界中で販売する「ジョン・ロブ」はイギリス製のフランスのブランドとなる。

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 一九九八年、私が靴の販売職を始めて間もない頃、ここの黒のシングルモンクストラップシューズを毎日眺めることを日課としていた。昼食を早々に済ませて、仕事がある日は一日も欠かさず毎日、銀座のとあるセレクトショップに飾ってあったこの靴をただじっと眺めていた。三度の飯より、という言葉があるが、正にこの靴を眺めることは私にとって最高の時間であった。いま思うと、私が持っている靴の美意識と、靴に対する愛はここで培われたように思う。その美しい一足の靴は、いまでも細部にわたって克明に、鮮明に思い出すことが出来る。本当に美しい靴だった。あとで知ったところによると、その靴は(一時的に)イタリアでつくられたものであったようだが、私にとっての美しいフランスは、いまでもこの一足に集約される。
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 二〇一〇年、シーシェパードというアメリカの動物愛護団体が日本の調査捕鯨船を妨害していたことがニュースになった。実際には監視船への攻撃という犯罪行為によって大きなニュースになった。この団体に港を提供し、このテロを行った小型高速艇を発進させたのがオーストラリアである。それまでも、オーストラリアは日本の調査捕鯨に対しては一貫的に攻撃的な態度をとってきたが、この事件でさすがにその機運もひと段落したようだ。しかし、この国際捕鯨問題は各国の利害が入り混じって一層、複雑化して来ている。

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 私も含めて、捕鯨といわれてもピンと来ないという人が多かったのではないだろうか? 私に関して言えば、鯨の肉はこの三十年食べていないし、小学校低学年の給食メニューにあったのをかすかに覚えているくらいだ。なので、アメリカやオーストラリアの(我々に対する)非難を聞いていると、何だか別世界のことのように思えてしまうが、これは現実の深刻な問題なのだ。

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 現在、捕鯨推進国は日本、ノルウェー、アイスランド、ロシア、カナダなどで、反対派はその他の多数、その急先鋒がアメリカ、ニュージーランドとオーストラリアである。(ただし、アメリカは自国アラスカ先住民のエスキモーに関しては、絶滅危惧種を含めて全ての捕鯨を認めている。) 日本は現在、一切の商業捕鯨は中止し、生存数の多いミンク鯨などの調査捕鯨のみを行っている。まだまだ解明されていない鯨の生態などの研究・調査が目的ということになっている。もちろん、必要のない部分がほとんどなので、それらは国際規約に則って国の管理の下、魚市場や他の流通にまわされている。鯨からは食用の肉以外にも、鯨油、ひげなどの副産物がとれる。これら日本の態度は大変礼儀正しいものだ。ノルウェーは商業捕鯨を再開し、カナダは捕鯨委員会自体を脱退してしまっている。正直、原理原則に従えば、一〇〇年前(イギリスやアメリカなど、現在の反捕鯨国がシロナガスクジラの乱獲を始めた頃)と比べて増えすぎている種の鯨のみに限った商業捕鯨再開という日本側の主張は正しいと思う。それに対してオーストラリアは、絶滅の危機云々の問題ではなく、鯨は特別に知能の高い可愛い哺乳類だからいかなる捕獲も許さないと言っている。増えすぎたカンガルーを国の政策で殺している国らしい言い分だ。賛成、反対ともに言い分や論拠は様々だが、調べてみると、日本側の本音のひとつには、鯨の増加による漁獲量減少の危惧のようだ。裏返すと、捕獲した分の鯨が食べるはずだった魚が獲れるということだ。ある調査によると鯨の食べる魚の量は全世界の漁獲量の三倍から五倍との結果が出たそうだ。まあどの程度正確なものかは分からないが、その数字だけ見せられるとちょっとびっくりする。では全世界の魚全体はどれくらいいて、鯨がどれくらいの割合で我々人類が食す魚を食べているのかはよく分からない。よくあるレトリックなのか。

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 そしてオーストラリアの本音はというと、これが良くわからない。オーストラリアにとって鯨が、インドにとっての牛のように特別な動物だとは思えないし、ノルウェーやカナダの捕鯨は批判していないのも変だ。白人至上主義による日本人差別だという人もいるが、政府が堂々とそんな感情をむき出しにするとも思えない。とりわけ批判的なニュージーランド、アメリカと同様にオーストラリアも日本への牛肉、穀物の大輸出国ばかりなので、捕鯨のせいで自国経済が危うくなるからだという人もいるが、これもちょっと納得できない。捕鯨した肉が牛肉の替わりになるはずもなく、量もせいぜい知れている。
 ひとつ言えるのは、オーストラリアの対日感情が悪化しているということだ。私が中学生であった一九八〇年代前半には、地理の授業で「オーストラリアは大変な親日国です。大学で選択する第二外国語で最も人気のあるのは日本語です。」と教わったものだ。今は中国語に変わっているのであろう。オーストラリアがオセアニアで生き残っていくために必要なアジアとの連携を考えて、中国に乗り換えたというのは言い過ぎではないだろう。

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 捕鯨反対をはじめとして、動物愛護を強硬に訴える人の多くは、程度の差こそあれ、ベジタリアンだという。程度の差というのは、卵や乳製品を食べたり食べなかったり、ゼラチンをどう捉えるかとかそういったことだ。とにかく肉と魚は食べない。そして厳格なベジタリアンは革靴を履かない。宗教上の理由でなく、信条としてベジタリアンになった人は、だんだんと厳格になる傾向があるらしく、いずれは革靴を履かなくなるらしい。これはちょっと悲しい。確かに現在は合成皮革と呼ばれる化学製品の進化も成されてきてはいるが、どう進化しても、逆立ちしても天然皮革には追いつけない。それに合成皮革の開発にはたくさんの動物皮膚実験が必要不可欠です。布の靴は寒くて湿った土地では非機能的だし、ゴムの靴は蒸れて水虫の天国となる。そしてどれもエコロジーからは程遠いものだ。

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 我々人類は、まだ宗教的なべジタリズムなんてものが存在する前から、食肉の副産物である革とともに生きてきたのだ。革は呼吸し、伸び、縮み、屈曲に強靭に耐え、水を遮断し、蒸気を逃がし、熱の調節をし、人間の身体に溜まる静電気を地面に通電し、そのうえで年を経るごとに美しくなる。植物でなめされた革はその役目を終えた後では完全に土に還る。医療における最高の人工皮膚が人間の(実際の)皮膚なしではあり得ないのを見れば明らかだが、革は靴の素材としてはまず最高のものである。

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 私はこの職業についてからは意識して牛肉を食べるようにしている。私の扱う革製品は圧倒的に牛革が多いからだ。もちろん豚革も羊革も扱うので、すべての肉を意識して食すようにしている。ヤギは食べないのでなるべく扱いたくない。爬虫類は別として、我々が扱う哺乳類の革のほとんどが、食肉の副産物として生まれたものだ。革のために哺乳類を殺すことは私も罪悪のように感じる。だからこそ、それらの肉を天の恵みとしてありがたくいただく。それが動物の魂にとって最高の供養だと信じる。二〇〇九年からは我々の店で扱う馬革の割合が飛躍的に大きくなったので、機会があるたびに馬刺しを食すようにしている。高価な場合も多いが、いくら食べても食べ飽きないくらい、とても美味しい。可愛い馬や牛だからこそ、最後までしっかりと食べたい。もしアラスカに行く機会があれば是非アザラシの肉も食してみたい。(少量だがアザラシの革も扱っている。)

 ベジタリアンの方の信条、心情は理解するが、出来れば人類の叡智である革靴を毛嫌いしないで欲しい。私があなたたちの分まで食べますから。

 余談だが、一九四〇年前後には鯨革の靴というのがあったそうだ。戦時体制で牛革や豚革が庶民の靴にまでまわらなかったのだ。戦争の話だ。
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 ジャマイカの生んだ偉大なるポピュラーミュージックは、何といってもレゲエとスカだ。イギリス支配によって英語が公用語であったことがこの二つの音楽ジャンルを世界的メジャーにした要因であったことは確かではあるが、もちろんそれだけではない。国民の九割以上がアフリカ系人種という南米では珍しい民族性と、アメリカのジャズやリズム&ブルースが出会うことによってそれらは生まれた。最初にスカが生まれた。単調なバックビート(二拍目と四拍目を強調したリズム)にのせて自由奔放なトロンボーンやピアノが絡み、ベースとドラム、そしてリズムギターはあくまで単調なリズムを刻むその音楽は、当初もっぱらレコーディングを基本とした音楽であったらしい。この点が様々な音楽の中でも極めて珍しい性格を持つ音楽となった要因である。感覚的な表現で申し訳ないが、スカは閉じた音楽である。北方音楽と南方音楽の例でいうと完全に北方の性格を持つ。北方音楽は寒い地域で発展した音楽で、内省的で神経質で身体が縮こまり背筋がピンと伸びるような音楽、南方音楽は暑い地域のそれで、開放的、伸びやかでリラックス効果のある、そして出来ればソファーに身を横たえて聞きたくなるような音楽のことをいう。いずれにしろ、スカはもともとジャマイカの炎天下のもと鳴らされた音楽ではなかったのだ。

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 これに対しレゲエはというと、そう、全く逆の音楽である。「スカを遅くしたのがレゲエで、レゲエを早くしたのがスカでしょ?」というくらいに考えている人も多いと思うが、これら二つの音楽は成り立ちからして真逆である。レゲエはもともと野外演奏を前提とした音楽であった。リズムとしては、ギターが二拍目と四拍目を強調するのはスカと同じだが、ドラムは三拍目にアクセントを置く。そしてベースは複雑なリズムでうねるようなラインを弾くのが特徴だ。

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 私自身はレコーディング音楽の愛好家である。多くの音楽ファンがそうであるが、普段はレコーディングされた音楽を聴く。そして、感動したそのアーティスト(演奏者)がライブコンサートを開くたびにそれを聴きにいった。しかしどのコンサートに行っても、そのCDなりレコードを聴いたときの感動ほどの満足は得られなかった。それは私にとって、コンプレックスでもあり、どうしても解けない謎でもあった。音楽が元々ライブ演奏で楽しまれたことは周知の歴史だし、人々は必死になってチケットを入手し嬉々としてコンサートに足を運ぶ。確かにそこには迫力のようなものは存在する。アーティストと同じ空間を共有していることも実感できる。音が空気を震わせ、その振動が自分の心臓を揺らす感覚もある。しかしなかなか心は震えない。

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 初めは自分の性格が内向的だから、とか、自意識過剰で周りの目を気にしながら聴いているからコンサートをうまく楽しめないのだと思っていた。周りの近しい人たちにもコンサートのどういうところが楽しいのか、いろいろと聞いてみたりもしたが、それ以上の理由は見つけられなかった。ところが、三十歳を越え、四十歳になろうとして、そんなことが理由ではないと確信した。ライブ会場で自由に踊ってみたり、大きな声を上げてみたりすることにそれほどの恥ずかしさも覚えなくなり実行してみたが、それでも結果は何ら変わりなかった。

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 ライブミュージックは実話、そしてレコーディングミュージックは物語なのである。

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 これに思い至ったのは、大岡昇平氏の『靴の話』という短編小説を読んだのがきっかけだった。内容は、戦死した戦友の靴を盗んで履いてしまう、というそれだけの話だ。そこにはドラマチックな展開も、涙を誘う郷愁も、そして何の教訓もない。きっとそれこそが戦争の真実なのだろう。それを読んだ後、私はライブミュージックを聴いた後のような感覚にとらわれたのだ。私は物語を期待して『靴の話』を読んだ。するとそこで語られたのは物語ではなく実話だったというわけである。主人公はただそこにあった靴を盗んで履いた。生きるために必要な靴だったからだ。それが戦友のものであることは意識していたが、戦友の生前の意志や生きたかった想い、彼の生を引き継ぐとか、自分が彼の分まで生きるとか、そういった意識はない。恐らく潜在的な意識もなかったはずだ。そこに描かれているのは、生き抜くための本能と戦友の遺品を盗んでしまったことの事後葛藤だ。もちろんその小説はフィクションであろうし、欧米の逸話に基づいたものであったようだ。ただし、語り口は実話としてのそれであり、戦争という何とも表現のしようのない、無力感、絶望、やり場のない怒りといった感情を伴う悲劇を表現する一つの方法だったのだろう。今思えば、スピルバーグの『セイビング・プライベート・ライアン』という映画もそのような語り口であった。

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 私は物語を愛する。この奇妙で歪んだ現実、そして人間というものを整理して置き換え、そこから学び取れる教訓を手に取れる形にして差し出してくれる、心を震わせてくれるドラマを愛する。それがゆえに、ライブミュージックに対して過大な期待を抱き、相対してしまっていたことに気付いた。ライブミュージックは実話のようなものであり、決して構えて聴いてしまってはいけない。実話は実談として語られ、それは対話に発展すべきものだ。ライブ演奏のDVDを観るようにして聴いては駄目なのだ。

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 その昔、レコーディングミュージックが存在しなかった時代の音楽はもっとシンプルだったに違いない。人々、それもごく限られた豊かな人々にとって、音楽はライブでしかなかった。そこでは皆、何の先入観もなく、音楽を楽しんだことだろう。いま私を取り巻く音楽環境はその時代とは比べ物にならないほど恵まれているが、現代には現代の息苦しさみたいなものがあるのも確かだ。奇妙なことだが、それが我々人間のつくりあげてきた世界だ。

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 いまの日本では靴が生きるためのライフラインであるという意識は遠くのほうに押しやられてしまっている。また、戦争中に我々の先達が、胃の痛くなるような思いをして盗んだ革靴の話もごく最近の話だ。もっと以前においては良心の呵責もなく靴を盗んでいたことだろう。ちなみに二十世紀初頭のイギリスやアメリカでは、紳士靴は立派な質草だったそうだ。質屋に入れられた靴は高い確率で(利子の返済とともに)回収されたという。もちろん今とは比べ物にならないくらい高価なものだったのだろうが、とても興味深い話だ。
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 ポルトガル第二の都市ポルトの郊外には、一大革靴生産地がある。サン・ジョアン・ダ・マデイラという名の小さな街だ。ポルトから車で三十分ほど南へ下ったところにある。この街とその周辺にポルトガル靴産業を支えるほとんどが集中して集まる。数多くのメーカーが存在するが、残念ながら聞き知ったものはほとんどないのが事実だ。何故なら、ほとんどのメーカーは自社ブランドではなく、他社のブランドの靴をつくっているからだ。それもポルトガルのブランドではなく、フランスやイギリスのものが多い。

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 フランス人やイギリス人はブランディングが上手い。ある程度の広告費と靴の紙箱や靴の袋、靴べらのような販促物など、靴周辺の備品に投資し、付加価値をつくる。あとは芸能人などに履かせて話題を作り、メディアを利用したブランディングを行う。もちろん能力のあるデザイナーを登用したりしてキャッチーな商品づくりをする。そうしておいて、製造は他国の職人と設備に頼ることになる。ただし、そこでは職人の工賃などはコストのうちのほんの一部となり、非常に高価な商品として店に並ぶ。消費者はそれをブランド=信用として受け入れて対価を支払う。そこには素の商品である靴そのものを購入する満足以外に、そのブランドを所有する満足が加わる。話題になっている今年一番の流行を、または、ジュード・ロウと同じ靴を履くことの満足が加わる。そこには非常に高度な、そして年々高度になっていく資本主義経済が成り立っている。

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 この仕組みは何も今始まったことではなく、三十年前から行われてきた。最初はイタリアで製造した。当時イタリアには、安価な労働力、熟練の職人、高度な設備という、製造に必要なすべてが揃っていた。イタリアの工賃が上がると、スペイン、ポルトガル、トルコと、下請けの国は変化している。現在、下請け国のトップは中国だ。いくらポルトガルの労働力がEUのなかでは安価だとはいっても中国にはかないっこない。

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 イタリア人はフランス人やイギリス人ほど上手ではないけれど、何とか自分のブランドを立ち上げてきた。イタリアの工場は、自社ブランドの開発に日々努力している。イタリアブランドが中国やルーマニア、クロアチアなどに下請けを出すようにもなってきている。スペインもイタリアとは違うアプローチで独自のブランドを立ち上げつつある。今度はポルトガルの番だ。

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 いま現在、ポルトガルの工場は非常に厳しい状況に追い込まれている。いままで様々なブランドの下請けとして仕事を受注してきたメーカーたちは、その仕事を中国などに奪われつつある。職人技を必要とする高価な靴の分野ではまだ下請けを受注できているが、これも時間の問題だという人もいる。

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 それにしても、大航海時代には栄華を誇った国である。ブラジルをはじめとしてインド、アフリカなどにその勢力を広げていた。ただしそこには、ヨーロッパ西端の小国という前提があったのかもしれない。事実、スペインとの国境は世界で最も古い国境として知られている。つまり、スペイン側には勢力を広げようとしなかったのだ。また、近代のポルトガルの歴史は、栄華を誇った時代の植民地支配を喪失してゆく歴史そのものであった。少し寂しい歴史だ。

 一時的にイギリスの実質支配を受けていた時代があるにもかかわらず、ポルトガル自身はイギリスよりもフランスとの関係が深い国である。実際、十数年前には、第二外国語としてフランス語を勉強していたそうだ。(現在は他国同様に英語である。)そのせいで、ある程度年配の人にはフランス語を話せる人が多い。そして現在もフランスブランドの靴や洋服を下請け製造しているわけだ。

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 ポルトガルの紳士靴で有名なのは、ドライビングシューズやデッキシューズなど、モカシン製法を用いたおしゃれなカジュアルシューズと、イギリス式のグッドイヤーウェルテッド製法の堅牢なドレスシューズだ。いずれもフランスの下請け時代に培ったノウハウを活かしたヨーロッパテイスト溢れるものだ。そしてこの、「ヨーロッパテイスト」こそがポルトガルの生き残る道だと思う。人々はこの「ヨーロッパテイスト」を求めてヨーロッパブランドの商品を購入する。中国にはこれが出せない。中国製品にはどうしても実用品の匂いがある。足を保護するために履いてボロボロになったら捨てる、といった雰囲気が漂ってしまう。地中海の燦々と降り注ぐ太陽のもとに生まれた、リゾート気分溢れる商品をつくるのが難しい。また、ヨーロッパ伝統の格式高いドレスシューズにしても同じだ。紳士の洋装文化という点では、我々日本も中国も大幅な遅れを取っている。そしてヨーロッパの最高の素材を自由に使用できる環境が整っているのも大きなアドバンテージだ。

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 ポルトガルの人々は本当に陽気だ。イタリアやスペインにも増してのんびりとして楽天的な感じがする。ギリシャの次に破綻する国とまで言われているその暗い国内情勢とは裏腹に、心底から嘘のない、豊かな人間性を備えているように感じられる。そんな彼らのつくる靴には、やはり誤魔化しのない誠実なものが多いが、ブランドをどうするか? という問題でいつも困る。お客様の安心という点では、我々の店の名前を冠したオリジナルネームにしたほうが良い場合がある。何しろ他ブランドの下請けを業としてきたメーカーだし、オウンブランドは見たことも聞いたこともないネームになってしまう。メーカー側も自分たちのつくった靴に他ブランドを冠することには慣れっこなので何とも思わないのだが、彼らの素晴らしい人柄と、そのまっすぐな瞳を見ていると、ビジネスは抜きにして迷ってしまう。そして、今後彼らがますます厳しい状況に追い込まれ、自社ブランドのブランディングが不可欠になってくるということを考えてしまうと、ついつい彼らのブランドを日本に紹介してあげたくなってしまう。例えそれがあまり洗練されたロゴでなくとも、キャッチーな響きでなくとも、彼らの嘘のない、まっすぐな眼差しがお客様の足元に届くことを信じて。

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 現在、多くのショップではその店のオリジナルブランドを冠した靴が存在する。そして実際はメーカーのオリジナル商品のネームを張り替えただけのものがほとんどだ。そこにはビジネス、利益、(建前として)お客様の安心があるが、つくり手へのリスペクトはない。リスペクトのないところに発展はないし、ただ高度な資本主義原理による消費が繰り返されるだけだ。私を含め、皆こんなことは望んでいないと思う。最高の形としては、ユーザーがつくり手へのリスペクトを持って誇らしく履くことだ。買い物の際にも、またその靴を履くたびにリスペクトの交換が為されるとしたら、本当に最高だ。世界はずっと理想に近づくに違いない。
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