2014年02月06日(木) 00時01分15秒

“時”の認識から「思想」(宗教)と「現実」(科学)を照合する。

テーマ:専属カメラマン☆チャーリーの寄稿ブログ
毎週木曜日“専属カメラマン☆チャーリーの寄稿ブログ”の回がやってまいりました。
どうぞ。
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“神への問い合わせ”(照会)と名付けようかと思った。

※この回では便宜上「神」という言葉を使っていますが、大自然でも地球でも太陽でも宇宙でもご自由に置き換えてください。決して思想を誘導・狭める目的はありません。

ネオハイヒールズ
ルチアーノショー“ネオ・ハイヒールズ”より。

あなたの“時間”は、過去から未来へ(A)と流れている。または未来から過去へ(B)と流れている。どちらだろう。

(A)ユダヤ・キリスト教由来と言われている「過去から未来へ」という時の概念は、過去があって今がある。今があって未来があるという考え方だ。言わば、我々が未来に向かって歩いていると見る。

(B)一方、苫米地論と言われる「未来から過去へ」という時の概念は、予め定まった未来が訪れるという考え方で、言ってみれば立っている我々に未来がやってくるイメージだ。

(A)を宗教的(というよりほぼ世界的な現代人の感覚)目線で受け止めるならば、「日頃の行いが未来に結びついている」と教えなくては、誰も“精進”をしなくなるので、宗教の教えが成立しなくなる。よって、過去が現在の私を構成し、現在の行いが私の未来を決定付けると説くわけである。
過去の報酬を現在受け取ることもできるし、過去が悪くても現在を精進すれば豊かな未来が訪れるという“希望”を与えるものとも言える。
この感覚は私が知る限り仏教もイスラム教も似ており、精神論の基本とも言える。

今、赤いボールがある。それを拾ったから次は青いボールが出てきた。前回赤いボールを拾わなかったから、青いボールが出てこなかったという認識像だ。
“チャンス”の概念に照らし合わせると、「あの時赤いボールを見逃したから、青いボールが得られなかった」という「後悔」の念もそこに通ずる。
そして、時と時を結びつけているのは人間の脳であるという感覚に陥る。

(B)はその反対だ。赤いボールを拾っても拾わなくても見逃しても、次の青いボールは表れるという考え方だ。赤いボールと青いボールは関連付けられていないため、道路を走っている車の中から見る風景に似ている。銀座中央通りを京橋方面から新橋方面に走る際、左手に松屋が見えたら次に三越が見え、そして日産が見える。松屋を見逃したから三越が出てこないわけでもなければ、松屋と三越をちゃんと確認しからこそ日産がそこにあるわけではない。
乱暴な物の見方をすると「努力したって明日は変わらない」ことになるし、どこか「時間は不連続である」という説の、「細切れの集合体」(さっきと今は分断されていて関連性がない)に通ずる。

この2つの時の概念は、「思想」(宗教)と「現実」(科学)を照合しているかのように思える。

バーカウンター花

私も何の迷いなく(A)の感覚で生きてきたので、(B)は新鮮だし「ごもっとも」だ。
しかし、人間の脳は慣れないものに「違和感」を感じやすく、早速(B)について疑問を抱いてみた。

家でゴロゴロしていても明日は訪れるし太陽も定時に昇る。
犯罪者にも聖人君子にも平等に陽は照り、雨が降り、花は咲き乱れる。
未来が予め決定しているのであれば、汗水流して明日に向かって走って「明日を取りに行く」よりも、コタツでテレビ観ながらミカンでも食べつつ、明日が勝手に来るのを迎え入れようよという“ノリ”だ。

でもその受け止め方は何か“浅はか”さがあり、恥ずかしい気持ちになってくる。
よし。こういうことじゃないか。

3秒前から見たら“今”は未来だった。
未来は「予め決まっている」ということは、今走ることも学ぶことも、努力することも必死になることも決まっている。物事に対してどう向き合い、何を感じ取り、どのように対応するかも決まっている。
私は私であり、「私」大肯定だ。
こうしてあれこれ考えをめぐらせ思い悩んでみることも決まっているということだ。

よって、(B)の苫米地論に触れた際、「じゃぁ家でゴロゴロして待とう」「努力しても無駄」と考えることも、変わらず「私は走るために生まれてきたんだ」「私は戦うために生まれてきたんだ」と決して手を緩めないことも“決まっている”ということになる。

全ては神の創造物であると考えたら、むしろ(B)の苫米地論が客観的目線で妥当な気がしてきた。
脳科学的見地による現実論のように思えたのが、思いっきり「神」肯定論に変貌した。

一方(A)の宗教的時の概念は、下手すると「昨日頑張ったらから今日休もう」を生み出してしまうではないか(笑)。「今まで頑張ってきたらからこれからは楽しても罰は当たらない」的なズルだ。
宗教(神)的な概念だと思っていたら、思いっきり「人間の自己都合」論に変貌した。

※1 確率論で言う“収束”の受け止め方の違いに似ている。

神の創造した絶対なる未来を信じるか、私という1人の人間の「行い」が神の創造物=未来さえも変えてしまえるのかという「天秤」にかけているかのようだ。
そう思えば人間のただの“思い上がり”にしか感じられなくなる。

神への祈り
神への祈り Anna "Sunflower" Karenina (アンナ “ヒマワリ” カレーニナ)より

天に乞うのではない。自ら裁きを受けるのだ。—— 舞台監督

そうですね。
ちょっとネスプレッソでも飲みませんか。
ネスプレッソ
君に捧げるポエムはアルペジオ。
奏でる君は自由きままなカプリチオ。

的な。
※代表作 脚韻を踏んだらガムを踏んだ。Here Without You より。

対極論とは、多くの場合どこかで「反転」し、気がつけば元の相手の主張根拠を肯定し、元の自分の主張根拠を否定する証拠と化する。実は“鏡”のようなものだ。

だから「争う」もんじゃない。“感じる”ことだ。

私は(A)にも(B)にも落ち着いたわけではない。
どちらの概念も今“均等”に脳内に存在している。

こうして「思想」(宗教)と「現実」(科学)は融合されていくんじゃないのかなというチャーリー論でありました。

動くアガタ
“台車で運ばれるアガタ”より。
背景が移動しているのだろうか、アガタが移動しているのだろうか。
マイク・タケダが押す台車で運ばれて行くアガタを見ていると、コミカルさを超えてゲシュタルト崩壊を起こしそうになり、モダン“ゆるめ”アートの最先端かとさえ思う(笑)。


★あとがき★
高速シャッター、高速閃光フラッシュから、時間の最小単位、πと追求してきたところ、カメラマンとして私が一番意識しているのは「時」なんだと気付かされた。
よくシャッターを切る前に私は——耳を澄ませ——“停まる”ことがある。多くの場合、床の振動やビルの揺れが収まるのを待っている。
ルチアーノショーはビルの真下に地下鉄千代田線が走っているため、電車が走るとビルがほんの僅か(普段は体感できない程)だが振動する。
私のカメラ=ニコンD800は3,600万画素もあり、この僅かな振動とルチアーノショーの低照度(スローシャッター)環境が、「原寸における“ブレ”」へとつながる。そもそもカメラ自身のシャッターの衝撃でブレるくらいなので本当にセンシティブだ。
モニタや通常の印刷物では何の影響もない程度だが、神経質な私はそこにうるさい。

私のレンズのピントは被写体にありつつ、心のピントは“間合い”すなわち「時」に合わせているんだということを悟った。

これは“一時停止”というよりは“フェルマータ”(fermata【音楽】)に近い。

合わせるのはレンズのフォーカスじゃないんだ。心のピントさ。

※代表作 今宵の赤坂はSwingにのって。Sing. Sing? Sing! and I Think. より。

なんてセリフを思い出す(笑)。

結局、自己都合でシャッター切ってるだけじゃないの?って話しですな(笑)

次回はいよいよ“時”完結編であります。

ロマンに酔いたくなったらルチアーノショーへ。

Photographer: Charlie

※1 確率論で言う“収束”の受け止め方の違いに似ている。
次回の記事にてお届け致します。

この記事は、下記の記事の延長線上にあります。

1°=0.27777%のズレと地球のbitの上昇と2038年問題と。
「時間は不連続ではない」二人の世界。
ルチアーノショーの科学。8,000兆桁のπ(パイ)と予言。
1/38500秒=0.0000259秒のアガタと水風船。
1/8000秒=0.000125秒のドラマ。


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