現在の日本国憲法は米国からの押しつけだ、と多くの人が語ります(前回のブログで取り上げた記事の中でも加藤典洋さんがそう述べていました)。しかし、果たしてこの言明は正しいのでしょうか。

伊藤真(いとう・まこと)さんが、その誤りをただします。




2007.4.11


伊藤真のけんぽう手習い塾 第43回

「日本国憲法は、押しつけなのか?


■日本国憲法制定過程の真実


先日、『日本の青空』という映画を観る機会がありました。大澤豊監督の作品で、高橋和也さん、田丸麻紀さんなどが出演していますが、単なる娯楽作品ではなく、日本国憲法誕生の真相を明らかにした劇映画です。伊藤塾でも少しだけ協力させていただいています。

 日本の憲法は、“押しつけ”であるという人が今だにいます。しかし、それが間違いであることがこの映画を観ることでよくわかります。日本国憲法が制定される過程でGHQの果たした役割は大きなものがありました。しかし、そのGHQ案は鈴木安蔵という日本人作成の憲法案がベースになっていたことをこの映画は見事に明らかにしてくれます。

 けっしてGHQが作った押しつけ憲法などではなかったのです。仮に押しつけられたと感じた人がいたとしたら、それは旧体制を維持したかった一部の為政者にすぎないこともよくわかります。今回は憲法制定の過程を振り返りながら、この押しつけ憲法論について考えてみたいと思います。

 もともと憲法は国家権力を担っている政治家などを拘束するために彼ら権力者に国民が押しつけたものです。よって、権力者にとっては常に押しつけられたと感じられるものです。国民はこの憲法ができたことによって封建制や身分制、理不尽な人権侵害から解放されました。押しつけと感じるか、解放されたと感じるかは、その人の立場によって違うだけなのです。

 それでは、憲法制定過程を少し振り返ってみましょう。 日本は1945年8月14日にポツダム宣言という休戦条約を受諾したことにより、それまでの天皇主権に基づく軍国主義国家ではなく、民主的な国家に変貌する国際法上の義務を負いました。そこで天皇主権に基づく明治憲法のままにしておくことはできませんでした。


■GHQ草案はどのように作られたのか?


そこで日本政府は新憲法を作成するために1945年10月に松本蒸治国務大臣(商法学者)を長とする憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)を発足させました。しかし、松本委員長は天皇に統治権が集中する明治憲法の根本は変えない方針を採りました。これが毎日新聞のスクープによりGHQ(連合軍総司令部)の知るところとなり、その保守的な内容に驚いたGHQはもう日本政府にはまかせておけないと、独自の憲法草案を作成することにしたのです。

 マッカーサーは草案の中に3つの原則をいれるように幕僚に命じました。①天皇制は残すが機能は憲法の定めに従い、国民に対して責任を負うものとすること、②戦争は一切放棄すること、③封建制を廃止すること、この3つです。戦争放棄の条項は、当時の幣原喜重郎総理大臣の発案をマッカーサーが取り入れたものであるとも言われています。

 GHQの民政局の25名はたった9日間で草案を作り上げました。彼らは世界の憲法を参考にするだけでなく、植木枝盛の研究者だった鈴木安蔵氏などの憲法研究会の憲法草案要綱を手本にしたのです。そのあたりのいきさつが先に紹介した映画ではとてもわかりやすく表現されています。

 鈴木安蔵氏は後に静岡大学、愛知大学、立正大学の教授になりますが、当時は在野の憲法研究者でした。彼が中心となって作り上げた憲法草案要綱がGHQ案の元になったのですから、鈴木安蔵氏は日本国憲法の間接的な起草者であるということができます。


■日本の議会で審議されつくり上げられた憲法


その後、GHQ案をもとに作られた草案が日本の国会で審議されます。普通選挙で選ばれた代表者の国会で審議されるのですが、そこで、例えば25条の生存権の規定や、17条の国家賠償や40条の刑事補償などいろいろな条文が新たに入りました。もともとマッカーサー草案では国会は1院制だったものが2院制にもなりました。こうしたさまざまな修正を含めて審議し、討論され、議決してつくり上げられました。

 憲法に限らず、法案というものは、だれが案を出したのかは重要ではありません。それを審議、議決したのがだれかが重要なのです。例えば、今、国会がつくっている法律の大多数は内閣提出法案です。議員立法といって、国会議員が自分で案までつくって出している法案はほとんどありません。大半は政府、官僚が法案をつくり、国会に提案し、国会で審議し、議決して国会で法律にします。


■押しつけられたのは、何だったのか?


法案をつくったのが役人だからといって、この法案が無効だという人はだれ1人としていません。審議、議決さえすれば、その法律は国会がつくった法律になります。憲法も同じことです。だれが案を出してきたのかは本質的でなく、それを審議し議決したのが日本国民である以上、日本の国民がつくった憲法です。押しつけ憲法でもマッカーサーが作った憲法でもありません。制定後60年間、国民が憲法として受け入れてきた事実はさらにこの憲法の正当性を根拠づけるものです。

 そもそも当時、押しつけ憲法という概念はありませんでした。押しつけ憲法という言葉が初めて出てきたのは、1954年の自由党の憲法調査会のときです。そこで、明治憲法の体制を維持したかった松本蒸治氏が感情的に押しつけられたと発言し、それが押しつけ憲法という決まり言葉として政治的に利用されてきただけのことです。

 そして本当にアメリカに押しつけられたのは、警察予備隊の創設から始まる憲法9条の形骸化であったことも認識しておかなければなりません。


(magazine9.jpより)





伊藤真さんの指摘で重要な点は2つあります。

①「押しつけと感じるか、解放されたと感じるかは、その人の立場によって違う」

②「だれが案を出してきたのかは本質的でなく、それを審議し議決したのが日本国民である以上、日本の国民が作った憲法です」


最近「立憲主義」ということがよく言われます。立憲主義とは、国家権力を法的に制限した憲法に基づいて政治を行うことですが、その立場に立てば憲法の本質とは、国家権力を制限して国民の人権を保障するものです。

つまり憲法とは国家権力を拘束するものであって、国民に義務を課すものではありません。

憲法がそのようなものである限り、「押しつけ」と感じるのがどのような立場の人間であるかは明らかです。



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