日記じゃないのよブログは…(´・ε・`)

このブログは、「ロングテールズ・カフェ」のアメブロ支局でございます。
なんとなくうだうだしてゆきます!
本殿→ http://longtailscafe.com


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こんなのもやってるゾ!

 

これはこれでケッコー楽しいゾ!

 

 

 

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2017の正月ももう終わりですね。

 

僕が子供の頃は正月には凧揚げなんかした思い出があります。ゲイラカイトなんてのも非常に流行ってたな。それが今やドローンですか…。あれもなかなか楽しそうなもので、一度はやってみたい気がするけどね。

 

とにかく人は何かを空に飛ばしてみたいもののようで、かのユーミン御大もかつて「あの子は昇ってゆく 何もおそれない そして舞い上がる 空に憧れて 空をかけてゆく あの子の命はひこうき雲 」などと唄った程です。

 

しかし僕にはこれといって飛ばすべきものが無いなぁと考えると、いや、ひとつだけあった。本来、飛ぶべきものが。
それは以前作った戦闘機のペーパーモデルだ!

http://longtailscafe.com/papermodelworld/papermodelworld_charged_02.html

 

 

 

この前後逆さまな感じの変な飛行機は、終戦間際にB-29を迎撃する目的で開発中だった試作機です。海軍がこれを発注する際、ゆくゆくはジェットエンジンに換装できるよう注文をつけたとかつけなかったとかで、今でもなんとな~く人気の機体なのです。

 

おおこれだ!いっそこれを飛ばしたい。しかし言うまでも無く、これは紙飛行機じゃないから実際、飛ぶわけもない。
でも、飛ばしたいなあ。自分でつくった飛行機が大空を縦横無尽にかけてゆく姿を一ぺん見てみたい。

 

さて、こんな場合の奥の手としてどうするかというと、これを糸でぶらさげて青空をバックに撮影すればいいのである(というのは以前、そのように模型飛行機を撮影していて非常に素晴らしいものを見たことがあったのだ)。もちろん、映り込んだ糸は後からレタッチでちゃちゃっと消してやればよい。

 

と、いうわけでさっそくベランダへ出て、物干しに模型を糸で吊って撮影してみた。
紙製の軽い機体は良い感じに風になびいて、撮影しているとまるで実機を狙っているような楽しさを憶える。固定した状態で撮影するのと違って、あちこちがリアルにぶれるのも素晴らしい!
こんなこと、プラスチックモデルなら破損が怖くてなかなか大胆にできないが、紙の場合、落としてもまず大破なんてことはないし、パーツが取れたくらい簡単に直せるので安心安心。紙模型にこんな遊び方があったなんて、と、ひょんなことから知った気がしたな。

 

が、しか~し。結論から言うとこれの最大の目的だった、青空をバックに一発撮りする、というのは僕の場合、ちと無理だった。環境的に僕には空がちと足りない。背景に360度空が望める屋上のような場所に行くと通報されそうなのでこれは断念。

しゃあないな。背景はレタッチ合成でいくか。僕の場合、そういうのはエキスパートなんだけど、普通に仕事の延長みたいになっちゃってみもふたもない気もするが、こうなったらやむを得ず。

 

そんなわけで↓になりました。

 

 

本土上空にB-29編隊が接近中!震電特別迎撃隊、緊急発進します!ブ~ン

 

 

雷電、紫電改以下、護衛機を残してB-29の飛行高度に到達!敵発見!

 

 

敵前に廻って必殺の30ミリ機銃4門で攻撃開始!パッキューン、パッキューン

 

 

ボカーン!なんとか撃破。まだ幼い石原慎太郎もこれを知ったら大喜びだ!

 

 

只今より帰投します。とりあえず無事で良かったなー。護衛機は結構やられたみたいだぞ。

 

 

任務は遂行したけどなんとなくたそがれる…。もうすぐ終戦だ。それまでは達者でな!

 

 

跳べ震電!大空に駆けあがれ!

そして願わくばB-29を殲滅セヨ!
さらに願わくば戦争はやめて、愛と平和を謳歌サレタシ!ロケンロール!!




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これもまた随分と昔の話になりますが、僕が10代の頃、寺山修司という人にたいそうはまっていた時期がありました。
僕の場合、彼の著作もそうですが、殊に映画に夢中だったんです。

当時、一番好きな寺山映画は『草迷宮』という短編作品でしたが、僕の中でこれと双璧を成していたのが、何と言っても『田園に死す』でした。
これはもう、どこかの上映会でかかる度、何度となく出かけて観たものです。

寺山修司の一連の劇映画作品というのは、劇団「天井桟敷」の演劇的手法の延長上にあって、非常に〝アングラ″なものです。その中では大抵、怨嗟、呪詛というテーマが好んで使われていました。
ですから端的に言うと、こういう手のものを見慣れない向きには、少々、刺激が過剰で、後味が悪いものなのです。

この映画『田園に死す』の中で、ててなし子(私生児)を生んだ娘がそのことで村人から虐められ、泣く泣く赤子を川に流して間引きするシーンがあります。
子供が流されてゆくと上手の上流からは雛壇が流れてきて「惜春鳥」という強烈な恨み節が奏でられる。
「姉が血を吐く 妹が火吐く 謎の暗黒壜を吐く…」

ある上映会ではこの陰惨過ぎるシーンの時、女性客の「いやーっ」という小さな悲鳴が響いて、僕は笑いをこらえるのに一苦労した思い出があります。

それにしてもTERAYAMAって凄いなー!と、このシーンを観る度、当時の僕は感じていました。
「姉が血を吐く 妹が火吐く」というフレーズはどうだ!初めて観た時からこれが強烈に耳に残って忘れられなかったのです。凄まじい言語感覚、言葉のエッジだと思いました。

「惜春鳥」の歌詞全編は次のようなものです。



惜春鳥

姉が血を吐く妹が火吐く 謎の暗黒壜を吐く 

壜の中味の三日月青く 指でさわれば身もほそる 

ひとり地獄をさまようあなた 戸籍謄本ぬすまれて 

血よりも赤き花ふりながら 人のうらみをめじるしに 

影を失くした天文学は まっくらくらの家なき子 

銀の羊とうぐいす連れて あたしゃ死ぬまであとつける



ところがですね、実はこの詩の中の最も印象的な一説「姉が血を吐く 妹が火吐く」という、かつて僕が最も衝撃を覚えたフレーズというのは、何と何と寺山修司が一人の先輩詩人に対するオマージュとして、そのまま拝借した既存の詩の一説だったのです(ガーン。しかしこれをそのまま持ってくるTERAYAMAのセンスもやっぱりどてらい!)。

その詩人というのは作詞家として殊に著名な西條八十であり、このフレーズは彼が1919年に自費出版した処女詩集『砂金』の中の「トミノの地獄」という詩の冒頭部分でした。

寺山修司が西條八十をどのくらい敬愛していたのか僕はよく知りませんが、相当リスペクトしていたのは間違い無いことで、例えば、寺山修司の『誰か故郷を想はざる』という著作のタイトルはやはり西條八十作詞のヒット曲からとられていますし、『誰か故郷を想はざる』という言葉の意味は、誰が故郷を想わないことなどあるだろうか?(そんな人はいない)という、いわゆる反語表現なのですが、このまた〝反語″を成す有名な句が寺山修司にはあります。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」というやつで、これは(在日の人の心境を詠ったものとも昔どこかで読んだ気がしますが)煙草に火を点けようとすると港が霧に霞んでいて、祖国など何処にも感じられない。そもそも身を呈して想い続ける程の故郷などあるだろうか?(いや、無いかもしれない)という意味です。西條八十に対する寺山修司の気骨が表れた一品といえるでしょう。

さて、それでは件の西條八十作「トミノの地獄」というのは一体どんな詩なのか?それはこんなものです。



トミノの地獄

姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く。

ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。

鞭で叩くはトミノの姉か、鞭の朱総(しゅぶさ)が気にかかる。

叩けや叩けやれ叩かずとても、無間地獄はひとつみち。

暗い地獄へ案内をたのむ、金の羊に、鶯に。

皮の嚢(ふくろ)にゃいくらほど入れよ、無間地獄の旅支度。

春が来て候(そろ)林に谿(たに)に、くらい地獄谷七曲り。

籠にや鶯、車にゃ羊、可愛いトミノの眼にや涙。

啼けよ、鶯、林の雨に妹恋しと声かぎり。

啼けば反響(こだま)が地獄にひびき、狐牡丹の花がさく。

地獄七山七谿めぐる、可愛いトミノのひとり旅。

地獄ござらばもて来てたもれ、針の御山の留針(とめばり)を。

赤い留針だてにはささぬ、可愛いトミノのめじるしに。



ところで、最近知ったところによるとこの「トミノの地獄」には、何だかこじつけめいた解釈や、近頃ありがちな都市伝説やらが語られているらしく、それもこれもこの作品についての、その解釈に至るヒントを作者自身が殆ど語っていないかららしいのです(もっとも、本当に西條八十自身がこの作品について核心を語っていないのか、それ自体、僕には知る由もありませんが、語っていない方が断然面白いので、これは信じることにします)。

ネットで検索してみると、「トミノ」という変な名前の主人公はそもそも男なのか女なのか?という部分に端を発し、これはきっと少年が泣く泣く戦争に行かされる悲哀を詠っているのだ、とか、いやいや、姉に虐待される妹が地獄をさまよう詩なのだ、とか、「妹恋し」なんていうからいっそ兄と妹の近親相姦(!?)をテーマにしたものだろう、とか、いろいろ言われているみたいです(おまけに地獄、地獄なんて物騒なフレーズが続くから、これきっと呪われますよ!音読なんかしたら絶対ヤバイ!みたいな噂まで…)。

う~む。まあ、いいけどね。でも、元々、西條八十ってそんな感じの詩人だったのかな?これって大正8年以前の作品だろ?なんてことを考えると、これら諸説はどうも解せない気がします(「トミノの地獄」が収録された第一詩集『砂金』の序文には「明治四十五年頃から今日(大正八年)に至る約八年間の仕事」とあり、この中で「トミノの地獄」がいつ頃書かれたかは不明)。
殊に昨今においては、例えば丸尾末広版『トミノの地獄』とかにインスパイアされちゃうのか、むしょ~に漫画チックな、猟奇めいた感じに解釈したくなるみたいですが、そもそも大正8年当時というのはまだ江戸川乱歩も夢野久作も登場前だし、妖しく倒錯的な谷崎文学が開花するのもこれより後のことです(関東大震災の4年前。そんな時代の詩のテーマが「虐待」とか「近親相姦」なんてね…)。
加えて僕には、この詩というのは、一見、難解に見えるけれどもよくよく読み込んでみるうち、どうもこういうことでは、という辻褄が見えてくる気もするのです。そして、その僕の解釈が大枠で外れていなければ、この詩は特段、難解なものでも、高度に観念的なものでもない筈なんです。

まあ、そんなわけで、僕もひとつ僕なりの解釈でこの詩を読み解いてみたいと思うわけですが、但し断っておくと、そもそも詩というのは必ずこう解釈しなければならないというようなものではありません。例えそれが誤訳、意訳であっても、あくまで自分にとってしっくりきたり、面白いと思うなら、それはそれで結構というものなのです。ですから〝解釈″も所詮、一つの遊びという余地を踏まえて、これを自由に考えてみたいと思います。

まず初めに消去法で行くと、少なくともネット上で見かけた「戦争テーマ説」てのは、僕的には考え難い。
この説を唱える誰かはこの詩が〝可愛い″トミノ少年が徴兵されることを憂いて泣いているのだ、というのですが、何度も言うように、この詩集が発表されたのは1919年(大正8年)です。ご存知のように、最も熾烈な激戦だった日中戦争が勃発するのはだいぶ後の1937年(昭和12年)で、太平洋戦争が1941年(昭和16年)からです。さらにそれ以前の日露戦争が終わったのは1905年(明治38年)。
「トミノの地獄」が書かれたと思しき時代には第一次世界大戦が4年程重なっていますが、これは世界的にはとんでもない数の犠牲者を出しているものの、今日、日本で語られることはほとんどありません。何故なら、一応、日本も連合国として参戦していますが、戦没者は500人以下で、他の戦争とは比較ができないからです。
確かに当時は国民皆兵制でしたから、西條八十だって徴兵にとられる可能性はあり、兵役なんてまっぴらだと思っていたかもしれませんが、それにしてもこの頃はまだ、誰彼構わず(西條八十みたいななまっちょろい文学青年までもを)最前戦に送るなんていう切羽詰った状況ではなかった筈です(徴兵は太平洋戦争末期の極限状況を省いて、甲・乙・丙と体格差を吟味の上、強い者順に出兵したのです)。あるいは西條八十のようなボンボンのインテリなんかは、兵役逃れすら可能だったかもしれない。
にもかかわらず「戦争テーマ説」では、姉に出兵をけしかけられてトミノ少年が泣きべそまでかくという解釈を与えていますが、当時、富国強兵下の国民感情から考えても、また女性に参政権すら無く、強烈な男尊女卑の時代の価値観、倫理観から考えても、これはかなり飛躍に思えます(この頃既に一部の傑出した左翼文化人は「君死にたまふことなかれ」と書いていますが、後に西條八十という人は、自ら軍歌を作詞し、大成功すら納めるのですから)。
おそらく厭戦的な「戦争テーマ説」は戦後ならではのこじつけ的発想ですね。
そしてそもそも「戦争テーマ説」が弱過ぎるのは、「赤い留針だてにはささぬ」というのが「千人針」のことだとする具体的解釈以外は、ほぼ全くの無根拠だという点です(ちなみに千人針が広く行われるようになったのも、日中戦争・太平洋戦争になってからみたいですよ)。


この他にも、僕がどうもしっくりこない、疑問に思う説というのは、そもそも「トミノ」というのが少年の名で、この少年が「地獄めぐり」をする筋書きだ、とする説ですね。
これこそ如何にも漫画チックなイメージで、あたかも丸尾末広先生の作品なんかを彷彿とします。
「地獄めぐり」と言われても、この場合の地獄とは果たしてどんなものなのでしょう(ぐっとオカルティックに鬼やら閻魔様やら登場するのかな?なんだかそれも楽しそう)。
確かに「トミノの地獄」の中には「無間地獄」みたいなショッキングな言葉が乱舞しますから、昨今の人々にとっては、ビジュアル・エフェクト満載の映画化決定!みたいな方向に妄想が膨らむのかもしれませんが、大体、西條八十という人は寺山修司や丸尾末広のようなはちゃめちゃにイマジネーティブな作家性ではなく、「象徴性」ではあっても、イメージのためのイメージに遊ぶような性分ではないというのが僕の見方です(まあ、時代を考えてもね)。ですからこの詩には何かきっと、暗示されるべき具体的なテーマが存在する筈なんです(きっとそうだ)。

そういう意味でも、まず何より重要な手掛かりは、「トミノ」というのがどんな人物を指しているのかという部分ですよね。少なくとも僕は「少年」ではないと思う。苗字(富野とか)じゃあるまいし「ノ」で終わる男子の名前なんてものがあの時代といえども存在したと思えないからです(全然、無いこともないだろうけどね…)。
勿論、これは女子の名前であれば普通に、今日でも存在します。その場合「ノ」は「乃」と表記し、尻上がりに発音します。
例えば「十美乃」とか「富乃」とか。
が、しかーし。この名前はどことなく、大正時代のその辺の女の子にしてはゴージャス過ぎると思いませんか?まるで料亭の名前とか池波志乃とか、はたまた風俗嬢の源氏名じゃあるまいし…。

さて、もうお解かりのことと思いますが、僕はこの詩作の主人公である「トミノ」の名は、遊女の源氏名ではないかと考えているのです。この裏付けとして、試しに下記URLの「舞妓・芸妓さんの名前によく使われる文字まとめ」というサイトを眺めてみたら、花街では「トミ」も「乃」も、今でも非常に好んで使われていることがわかりました。ここにはドンピのは無いにせよ、割と近いのは色々ありますね。例えば、「市十美(いちとみ)」「富美芳(とみよし)」「富鶴(とみづる)」「富多愛(とみたえ)」「章乃(ふみの)」真希乃(まきの)「市乃(いちの)」「琴乃(ことの)」といった具合です。

http://hanamachitimes.jp/popular-character-of-geisha-name/

大体、僕は、この「トミノの地獄」という詩の中に、一片の男性的な臭いも感じないのです。
思い返してみると、かつて寺山修司がこの詩の一節をどんなシーンで使っていたか?ということです。
前にも書いたけれどそれは、ててなし子を宿した娘が村人に追われ、泣く泣く赤子を間引きするシーンであり、それはつまり、土俗的な因習社会の中の女性の「地獄」を描いた一節でした(ちなみにこの娘はその後、村を出て、ずっと経ってから、見るからに都会の娼婦となって戻って来るのです)。
そもそも何故、寺山修司はこの詩を「惜春鳥」と名づけたのでしょう?また「惜春鳥」の「春を惜(お)しむ」とはどういう意味なのか?
実はここに、僕は、いかにも寺山修司らしい詩人としての直観と嗅覚を感じるのです(実際に寺山が「トミノの地獄」をどんなふうに読んでいたか、知る由もありませんが…)。


やれやれ、ここまで語ったところでようやく核心に触れることにします。
僕の場合、「トミノの地獄」という作品は、ある一人の遊女が、まだ幼い頃に廓に売られた、その日の記憶を詠っているのでは?と思っています。

と、いうわけで、以下に具体的な解釈をしてみます。



トミノの地獄

姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く。
→「姉は血を吐く」というのは普通に考えればこの時代、労咳(結核)のことであろうと思います。戦前までは結核というのは中・低所得者層を中心に、国民病とも呼ばれ、死の病でしたから「血を吐く」=「結核」というキーワ-ドは、そこが不衛生な貧しい家庭、例えば貧農のような場所であることをも暗示している筈です。更に、吐血する程病気が進行しているのでしょう。姉が病弱で労働力にならず、薬さえ必要な状況となれば、家計は火の車となる。後の「妹は火吐く」というのは韻を踏んだ表現ながら、妹がその火をかぶるというほどの意味ではないでしょうか?「火の車」という言葉の由来は元々、燃え盛る車に乗せられ地獄へ運ばれる、という故事来歴によるもので、どこかこの妹の行く末を暗示しているようでもあります。更に、妹(後の源氏名「トミノ」)の場合はたまたま器量が良かったばかりに価値が付き、人買いに売られることになった。「宝玉(たま)を吐く」というのは値段が付くこと、と考えるとしっくりきますし、ここで強調されている「可愛い」というのは大正当時、子供のように年若い娘に対してでなければ使われない言葉の気がします。ですからトミノはこの時、12~14才くらいの生娘ではなかったかと思われます。


ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。
→トミノは誰の祝福も受けることなく(花も無き)、たった一人でこの辺境の村からさらに社会の底辺へと旅立たなければならず、心細さがつのるばかりです。


鞭で叩くはトミノの姉か、鞭の朱総(しゅぶさ)が気にかかる。
→トミノが身売りさせられる原因のひとつは姉の病気かもしれないけれど、それにしてもトミノは姉の容態(鞭の朱総=急き立てるものの元凶)が気にかかっている。


叩けや叩けやれ叩かずとても、無間地獄はひとつみち。
→そんなこともあって、兎に角、働いて、少しでも多く稼がなければならないが、元から、そうでなくとも希望は無いのだ。


暗い地獄へ案内をたのむ、金の羊に、鶯に。
→暗い地獄へ案内をたのむ(身請け先を取り持ってもらう)ということは「金の羊」とは明らかに人買いの意味でしょう(文字通り、金銭を持つ者の意で「金の羊」となると考えられる)。しかし、あるいは「金の羊」自身がパトロンで、その情婦におさまる意味とも取れます。「鶯」はこの後出てくるトミノの兄としかとれない人物ですが、ここがこの「トミノの地獄」の中でも最も不可解な点に思われます。普通に解釈すれば、トミノの兄が自分のつてで人買い(あるいはパトロン)を連れて来た、というようにも読めます…。


皮の嚢(ふくろ)にゃいくらほど入れよ、無間地獄の旅支度。
→トミノの身請け料は幾らほどになるだろう?これが奈落に向かうための支度金となるのだ。


春が来て候(そろ)林に谿(たに)に、くらい地獄谷七曲り。
→僕の解釈でいけば、この一節の「春が来て候」という言葉がこの詩を理解する上で非常に重要な示唆になっていると思います。まだ幼い生娘のトミノは、性に目覚める思春期と同時に、その同じ春を略取され、穢される(春が来て候林に谿に=ひとつの春が林にも来れば谿にも来る)。この引き裂かれるような理不尽さ、無情さを「くらい地獄谷七曲り」と表しているのでしょう。さながら本来、待ち望まれるべき春はトミノの場合、〝惜しむべき春″であったというのでしょう。


籠にや鶯、車にゃ羊、可愛いトミノの眼にや涙。
→兄(鶯)は籠で、人買い(身請け人)は車で、その日、トミノを迎えに来た。まだ幼いトミノの瞳に涙が浮かんだ。
大正当時に「籠」というのは、単なる詩的比喩でなければ何なのでしょう?明らかに「籠」と「車」を対置させていますが、ひょっとするとこの詩はもっと昔の、例えば明治初期頃の何らかの逸話を題材にしているという可能性も否定できない気がします。



啼けよ、鶯、林の雨に妹恋しと声かぎり。
→トミノの兄(鶯)は可愛い妹を売らなければならない境遇を呪って泣く。
兄が鶯で妹は「春を惜しむ鳥」というのならば、もしもこの『トミノの地獄』に別のタイトルを与える場合、例えば『惜春鳥』でぴったりなわけです…。



啼けば反響(こだま)が地獄にひびき、狐牡丹の花がさく。

地獄七山七谿めぐる、可愛いトミノのひとり旅。

地獄ござらばもて来てたもれ、針の御山の留針(とめばり)を。
→この世の本当の地獄を知らない(不幸を知らない)人があるならば、針山の留針を持ってきてごらん。
言うまでもなく、針仕事というのは女性労働の象徴です。小さな留針の中に、その地獄のような歴史が込められている。人買いに連れられてゆく少女の情景を軸に、当時の、余りに苛酷な女性達の境遇を訴えているのでしょう。



赤い留針だてにはささぬ、可愛いトミノのめじるしに。
→魂のように赤い留め針を刺すのは女である証だ。あの可憐なトミノの思い出とともに…。



と、まあ、こんな感じです。もしも実際に「トミノの地獄」がこんな意味の作品であったならば、西條八十がこれについてあまり語りたがらなかった真意も、おおよそわかるような気がします。大体、「トミノ」という名があまり生々しいというか、どうも実在した女性の名ではないか?と思わせる点ですね(だからこそ「十美乃の地獄」ではあんまりだというので「トミノの地獄」としたというのはどうでしょう?)。何しろ西條八十という人は出自も富裕層のスーパーインテリですから、あまり明け透けに「いやぁ、実は私も二十代の頃はいっぱしに廓通いもしましてね、その中である歳若い遊女に入れあげたこともあります。しかしこの女の身の上話には心底、心打たれましたな。なんでも、労咳で寝たきりの姉がいて、年端も行かない時分に村から売りに出されたんだそうですが、あんまり不憫で、私はこの話を以前、詩の題材に使ったこともあるのです」とかなんとか、話すのも憚られたんじゃないだろうか?

ちなみに、「トミノの地獄」が書かれてからだいぶ後になりますが、昭和11年(1936年)に起こった二・二六事件というのは、陸軍青年将校達が政治腐敗などを直接、天皇陛下に奏上する目的で起こしたクーデター未遂事件ですが、当時の陸軍は東北の農村出身者が多く、事件の決起理由の一つが、飢饉によって寒村では娘が売りに出されている、ということを憂う旨があったと言われています(ついでに言うと、ネットを見てたら、ある全集の解説には「もうこんな苦しみはトミノで終わらせて下さい」とトミノは言っている」との記述があったそうです。これが本当だとするなら、前記の僕の解釈もあながち良い線いってるかもしれませんね)。


最後になりますが、僕はもう一つだけ、この「トミノの地獄」を正確に理解する上で重要な点があると思っています。それは、何処となくこの詩が、かつてあった浪花節調の体裁で書かれてあることです。(これは僕の場合、先に節(ふし)付きの「惜春鳥」を聴いていたから明白に感じることですが)この詩は自由詩でありながら非常に韻律を踏んでいて、ある意味では、西條八十の後の作詞家としての指向を感じなくもないものです(初刊本を極力再現した日本図書センター版でも、例えば「妹」の箇所に「いもと」とルビがある)。
つまりこの点からも、僕は今日、流布されている「トミノの地獄」をめぐる諸説が腑に落ちないし、どうもノリが違うだろと感じてしまうのです。
残念ながら「トミノの地獄」という作品本来の姿は、昨今、都市伝説ファンが期待するような虚無的でホラーな「地獄」などではなく、かつての人情ものの浪曲が奏でる、泣きの「地獄」に近いものであろうことは間違い無いと思いますよ。




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既に少し前の話題になりますが、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、ご覧になりましたでしょうか?
僕は勿論、ご覧になりました。2D字幕版で二度、3Dで一度、計三度程、劇場に足を運ばせて頂きました。
何せ、企画立ち上げの噂からかれこれ10年以上も待たされた作品ですからね、これは。

そもそも、かつての『マッドマックス』というのは、僕の映画体験の中でも最も衝撃を受けたものの一つです。というより、トラウマですね。それは暴力に対する恐怖という意味でのトラウマだったと思います。
例えば、映画が持つ潜在的な機能として、人間の理性の深層を呼び覚まし、より本能に近いもう一つの人生を疑似体験させる、ということがあるとすれば、この『マッドマックス』というのも、全くもって傑出した作品だったわけです。

僕が始めて『マッドマックス』を観た日のことは今でもはっきり憶えています。それは小学六年生の頃、同級生の藤井君と映画の梯子をしようということになり、新宿へ行った時のこと。
僕の勧めでまず『戦国自衛隊』を観て(因みにこのとき僕は既に『戦国自衛隊』を一、二度観ていた筈です)、次に何を観るかということになって、僕は『男はつらいよ』でも観ようぜと主張したのですが、藤井君が、マッドマックスとかいう映画がそこでやってるけど、あれって凄いらしいぜ、というのです。
僕は、そんなわけのわからない映画観るの嫌だな、どうせ『戦国自衛隊』よりはつまらないに決まってるし、と思いながらも、その時は藤井君が妙に強く主張するので、やむなく承諾し、そのマッド何とかとやらを鑑賞したわけです。
言うまでもなくですが、劇場を出る頃には僕の中には、全く新しい〝スーパー・バイオレンス・カー・アクション″という形式の映画言語が生まれていました。僕はマッド何とかに完全にやられてしまったのです。

当時、カー・チェイスものというのは一つの映画ジャンルを形成していましたが、それらは全てアメリカ産で、すべからく能天気で、どこかユーモラスな風合いのものばかりでしたから、あのオーストラリア産の、陰鬱でシリアスなハードボイルド感は新鮮でした。
より厳密に言えば『マッドマックス』は、アメリカのカー・チェイスものとはジャンル自体、別物だと思います。『マッドマックス』というのはマカロニ・ウエスタンのガン・ファイトを車に置き換えた感じ、といった方が近いでしょうね。

要するに、あれは車同士が追っかけ合う従来の〝カー・チェイスもの″ではなく、ガン・マンよろしく車同士が一騎打ちし合う、〝カー・バトル映画″というスタイルの発明だったのです。
それと、表現手法的にも、疾走する車を路面すれすれから捉えるカメラ・アングル、劇映画中では観たこともなかった実車のスピード感、車というより戦闘機を思わせるスーパーチャージャーの嘶き、自主映画のせいか、一般劇映画には無い、どこかドキュメンタリー風の生々しさ、そして、余りに容赦ない暴力描写の真実味を伴った手応え等、『マッドマックス』という映画は兎にも角にも、それまでのどんな映画にもあてはまらない、限りなく未曾有の形式であったわけです。

さて、更に僕個人の『マッドマックス』に纏わる記憶を振り返ってみると、その後、僕の親父が『エイリアン』だったか何だかの映画を観に行った折、マッドマックスの続編の予告がやっていたけど、これがとんでもなく凄そうだった、というではありませんか。
あの『マッドマックス』の続編?
僕は再び有頂天になりました。
そして公開を待ちに待って、とうとう劇場に足を運んでみると、これがまた今考えても映画史に残る〝事件″と呼べる程の凄まじい出来で、前作を別の意味で10倍くらいにちゅーんなっぷし、更にニトロをぶっかけたような代物でした。
これが伝説の『マッドマックス2』(アメリカ題は『ロード・ウォリアー』)であり、今回の第4作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のベースとなった作品でした(厳密に言えば今作には若干、第3作の要素も含まれておりますが)。

こうして僕は、この『マッドマックス』シリーズと、加えて、ほぼ同時期に公開された日本の伝説的自主映画『狂い咲きサンダーロード』(この両作は何かと類似点が指摘されたものです)の影響により、免許が取れる齢になると、やおらGSX-400FSインパルスというバイクを購入し、ところ構わずぶっ飛ばすようになったのでした(そういえば町山さんもラジオで似たようなことを言っておられましたね)。

蛇足ながら、僕は未だかつて『北斗の拳』という漫画をまともに読んだことがありません。この漫画の連載開始当初から僕は、『マッドマックス2』をまるパクりし、ブルース・リーをミックスさせたようなメル・ギブソンに拳法で戦わせる(しかも主人公は日本名)という、脳が炸裂しそうな恥知らずな設定に耐えられなかったのです。
ですから今だに僕の中では、そんなものは金輪際、存在しなかったことになっています。
それは例えば、『北斗の拳』をまるパクリした変な設定の漫画を中国で作って、大人気になれば、この気持ち、解ってもらえるかもしれませんね。いや、わからないかなぁ…。

まあ、そんなことはいいとしても、何しろ時代は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ですよ。
いやぁ~、色々あったなー、ここまで。
最も、この本編については何も申すことはありません。この作品についてはとやかく言っても始まらない。これは断然、観て、感じて〝MADに染まれ″ばいいだけの映画ですから。
僕的には勿論、期待以上に大満足させて頂きました。

そういうわけで、内容に細かく言及するわけではないにしろ、少しだけ、感じた点を以下に記しておきたいと思います。

今回、リブートされた『マッドマックス』が過去作と趣を異にする最大のポイントは、何と言っても文明崩壊後のデテールのリアリティにあると思います。
今作のベースとなった『マッドマックス2』では、世界が終末に至った具体的な要因はぼかされていましたが、今作でははっきり核戦争と明かされています。しかも特筆すべきは、元々、医者であった監督ジョージ・ミラーの洞察を通し、これまでどんな終末映画でも描かなかったほど生々しく放射能汚染された人々の姿を描き、これがこの世界の決定的に救われない元凶だと暗示している点です。
人間の寿命は半分になり、人々の体は腫瘍や染色体異常に蝕まれ、生まれてくる子供は五体満足なことが稀になる。
また、あちこちの土地に種を植えてみたけれど、結局、一つも発芽することはなかった。

言うまでもなく、この設定こそがこの作品が伝えようとする裏の(真の?)メッセージでありながら、同時に、この部分こそ、今日の日本の表立ったマスコミが、この作品の解説に当たっても極力触れたがらないであろうことの要諦なのでしょう(現に僕は、この作品の良さを熱く語っている媒体は見受けても、この点を掘り下げているものに今のところ出会えていません)。
実際、原発を持たないオーストラリア出身監督が持つ放射能に対する恐怖のイメージとはこれ程のものかと、密かに慄いた日本人は僕だけではなかった筈です。
最も、逆に言えば、あれ程までに絶望的状況にありながらも、どうして人はあれ程までに生き抜こうとするのか?その理屈を超えたMADな姿こそが、実のところ、この映画が語りかけることの全てであろうとも思うのですが。

さて、それともう一つ、今回、僕的に気にかかった点は、実は、この映画が、かつて無いほどあの異形の未来像をリアルに、緻密に再現しているのにもかかわらず、何故か、かつて感じた程の驚き、つまり、『マッドマックス2』を観た当時ほどの異質な感覚を覚えなかったことです。
というより、所々に、ある種の微かな既視感すらフラッシュバックし、これは今や、途方もなく飛躍した世界の話ではなくなったことを感じたわけです(そしてその原因は直ぐに見出されました)。
何のことは無い、それらは僕らが普段、見ているニュース映像やYouTubeの中に氾濫する中東の戦場、また、イスラム国がアフリカの砂漠を車で行進する様子などにダブっていたわけです。
おまけに、この作品に登場する「ウォー・ボーイ」などは現実の自爆テロ部隊を露骨に連想させるわけで、僕はふと、砂漠を舞台に人間同士が熾烈に殺し合う以上、その道具立てが、奇想を凝らした改造車であろうが、単に現代兵器であろうが、本質的に何の違いがあるだろう?と、一瞬、醒めた気持ちにもなりました。
もっとも、映画を含む全ての表現とは、単なる現実の雛形ではなく、また根も葉もない虚構というのでもない、いわば一つの〝象徴″を編み出すものですから、今度の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』にしても、過去作とは違った今日ならではの現実とダブったり、時にダブらなかったりすること自体、本来、表現というものの醍醐味であり、また、非常に興味深いことではあると思っています。

ところで、最後に少し軽妙な話題になりますが、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』には日本版オリジナル・テーマソングが使われていて、これはMAN WITH A MISSION×Zebraheadの 『Out of Control』というものですが、これは中々良かったですね。曲も良かったし、何より、マッドマックスのオールド・ファンには日本配給側の粋な計らいだった気がします。
何故なら、『マッドマックス』第1作には日本版初公開時のみ、オリジナル・テーマ曲が使われていたからなんです。
それは『Rollin' into The Night』という曲で、唄ったのは後にサンライズ系ロボットアニメ「ザブングル」なんかの主題歌を唄う、串田アキラという人です(因みにこの「ザブングル」というのも典型的に『マッドマックス2』にインスパイアされた作品の一つでした)。
こちらの方も日本で勝手に作ったものの割には非常に本編に合う曲で、当時、僕はソッコーでレコード店に走って購入し、ヘビーローテーションで聴いていたのを憶えています。

確かに、本来『マッドマックス』シリーズの音楽は(異色の第3作を省いて)ブライアン・メイによる歌もの無しのシリアスなオーケストレーションのみであり、そのテイストが、安易なヒロイズムを導入する物語とは一線を画すのに一役買ってもいました。
こうした音楽の使い方は、主人公マックスが決して完全無欠のヒーローではなく、心の闇を抱えた、いわばアンチ・ヒーローであることをよく印象付けたし、このシリーズの奥行きをも物語る重要な特徴であったとも思います。
しかしながら、こうしたことを基本として重々承知していれば、時に、かっこいいプレミアム・バージョンをスカッと楽しむのもまた、一興というものですよね。






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先日、ちょっと前に話題だった映画『凶悪』というのを観たんですね。日本○○賞を幾つも受賞みたいなこと書いてあったんで、へぇ~、これってそんなに良いのかな、なんてね。

しかし結論からいうと、どうもアレでしたね。
まるっきりダメとは思わないにせよ、内容の恐ろしさとは別に、これって映画だろ?映画ってこんなもんか?という感じで。 テレビドラマでもなく、Vシネでもなく、映画なんだろ?と…。

僕はどんなジャンルの映画も観るけれど、中でも犯罪もの、殊に実際の事件を扱ったものは好きで、『愛のコリーダ』や『水のないプール』『TATOOあり』、それに何と言っても『復讐するは我にあり』とか『死んでもいい』なんかは今でも忘れることのできない作品ですね。

『凶悪』がアカンのは、そもそも、映画の体裁として、あまりに芸が無さ過ぎる(僕に言わせればね)。
あんな安易な寄りの画ばかり撮ってちゃダメだ!画がシナリオを説明するだけの絵解きにしかなってないじゃないか、というのが感想です。

要するに僕は、映画ってのは、筋立てでもない、〝映像″というだけでもない、「映画」というほか言いようのない瞬間、いわば映画ならではの視点でそのテーマをぶった切ってしまうような強烈なビジョン(もしくはキラーカット)が無ければ駄目だと思うのですが、どうもこの作品にはそれが無い。いや、弱い、というか拙い。
やっていることは、単に事のあらましを説明するのが精一杯で、もういっちょう咀嚼されていない。ドラマではあっても、「映画」というところまでには至っていない気がします(まあ、僕の見解ではね。怒らないで下さいね)。

脚本にしても演出にしても、それは結局、この事件(テーマ)に対する作家の、独自の視点、バイアスが無いからですよ。 ほとんど紋切り型です。
主人公の家庭も介護問題で悩んでますから、ほら、何がテーマか馬鹿でもわかりますよね、なんて程度の着想でベタな映画作りして、これは評価できる、なんて言ってると、海外のこの手の秀作に太刀打ちできなくなりますよ(もうなってるのか知らないけどね)。

あと、リリー・フランキーは良いと思うけど、プロモーション的事情を抜きにすれば、純粋に映画として、やっぱりピエール瀧はちょっと甘かったなぁ。

そういえばリリー・フランキー出演作としては、前に観た『ぐるりのこと。』の方が断然、良かったな。なんせ映画的ですね。



まあ、それはそれとして、しかしこの映画『凶悪』が取り扱ってるテーマも、実に嫌な事件ではありましたね。

あー、いやだ、いやだ。

話は変わりますが、僕は人間の「良心」というのは、元から人間に備わっているものではないと考えてきたところがあります。
「良心」や「善意」というのは、人が社会や文明を形成する過程で便宜上編み出した高等な概念に過ぎないと…。
従ってそれは自然界に存在するわけがないと感じてきました。

ところが最近、YOUTUBEで何となくゴリラを映した動画を観ているうちに、これはもしかするとそうではなくて、むしろ純粋な「悪意」こそが文明が生み出した発明なのかも、と思うようになりました。
だとするならば、悪意を行動原理にしがちな人が、群(社会)の中で歪(いびつ)に見えることも説明がつくしね。

その辺、どう思われます?















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帝国海軍、最後の希望も打ち砕かれたか…。

何のことかというと、武蔵ですよ。
少し前の話題ですが、戦後70年目にして、とうとうあの大和型二番艦、武蔵が姿を現しましたね。
驚きと共に、少々がっかりもしました。武蔵の沈没状況を聞いたことのある人なら恐らく真っ先に、大和と違って非常に綺麗な状態で眠っているのを想像したかもしれません。

これまでの目撃証言では、海面で爆発せずに、艦首から徐々に没して行ったとされてきたので、そう思っても無理も無いのですが、しかし実際には、海中で水蒸気爆発、ないしは海底に到達するまでに回転した拍子に火薬庫が爆裂したようで、艦首、艦尾、艦橋、主砲塔がばらんばらんの有様で発見されました(大和とほぼ同じような状況)。

ああ、現実なんてそんなもんだよな。
帝国海軍、最後の希望=せめて武蔵がカッコイイ感じで発見される、なんてのも虚しい妄想に過ぎなかったわけです。
これは察するところ、日本の再軍備化なんて考えるなかれ、というメッセージかもしれませんね。


希望的残骸戦艦武蔵
ちょっと、こんなの想像してたでしょ?



そういえば、戦争の話に絡めて言うと、先日、例の『アメリカン•スナイパー』を観てきましてね。
イーストウッドもさすがに高齢なだけに、これが遺作になることも考えられなくないわけですから、そういう意味でも、劇場に足を運んだわけです。


ちなみに僕の場合、イーストウッドの監督作で特に好きなのは、『アウトロー』『バード』『許されざる者』、そしてなんといっても『ミリオンダラー・ベイビー』といったところですね。


今回の『アメリカン•スナイパー』はというと、これがまた、非常に良かった。
かつて『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』を撮った監督なだけに、とても良心的な戦争映画でありながら、同時に、今回もまたイーストウッドらしい〝純然たるアメリカ映画″に仕上がっていたと思います。


『アメリカン•スナイパー』のモデルはクリス・カイル(劇中でも実名)という狙撃の名手で、彼はイラク戦争において実に、公式160人、非公式255人もの敵を殺害したんだそうです(公式、非公式というくくりの意味は劇中でさらっと説明するくだりがあります)。


しかし彼は、除隊後の2013年に、戦場体験によるPTSDを病んだ同じ退役軍人によってあっさり射殺されてしまう。
つまりこの人も、結局は戦争によって殺されたわけで、しかも皮肉にも、完全に死角となった相手(仲間)から〝狙撃″されたわけです。


果たしてこの人物〝アメリカの英雄″クリス・カイルという人の人生をどのように解釈すべきなのでしょう?
如何なる大義があろうとも、200人からの命を奪うというのは、事の善悪を超えて、そりゃ因果応報の末路を辿るわな、なんて自然に思えてしまうのは、僕が仏教圏のメンタリティを持っている所以でしょうか?


僕がこの映画の中で殊に気に掛かったのは、クリス・カイルが彼の人生感とも言うべき信条を語る部分です。


人間には三つの種類しかいない。それは「羊」と「狼」と「番犬」だ。「羊」は自分を襲ってくる悪辣な外敵などいないと信じている連中。「狼」は悪辣な存在、そして自分たち「番犬」は「狼」から「羊」を守る者なのだ、という。


なるほど。これはまた一見、もっともらしいが、素晴らしく即物的で図式的な考え方ですね。正直、どうかと思います。
というのはこれは、現象としてのありがちな役割論を語っているだけで、実は人間というものの本質に、なんら触れていないからです。
例えば、犯罪者の数より警察官の方を増やせば幸せになれる、と本気で考えるような、脳天気な理論に過ぎません。
重要なことは、この意味の狼というのは、生まれながらに狼なのではなく、狼に〝なる″のだということです。もしくは狼に仕立て上げられる。
同じように、番犬は所詮、人間が番犬の役割をしているだけだから、いつまでも続けてはいられない。心が折れてしまうから(どのように折れてゆくのかはこの作品が上手に語っています)。


要するに最も重要なことは、そもそも狼を生み出さないこと、その努力に尽きるわけですが、これはもう戦場では何一つ解決されない。残念ながら手遅れです。これらを解決できるのは結局、「戦争」より遥かに前段階の、政治と教育しかないのです。


付け加えて言うなら、現実の世界においては、実はこの「番犬」と称する奴が「狼」を生み出すことに一枚も二枚も噛んでいて、一方で番犬の役割りもやっているわけです…。

まあ、そういう話でいうと、我が国も、頼まれもしないのに、きな臭いところに首を突っ込んで行って、自衛隊を政治カードに組み込もうなんて、考えが甘過ぎると思いますよ。
無敵の米軍さえが不用意に兵を出さない方向なんだから、まして実戦経験も無い自衛隊なんかがね…。

思い返してみましょう。かつて国家予算並みの建造費をかけた戦艦武蔵が、一体、何の役に立ったのか?
一番艦大和の末路は?もっと仕様もない例で言えば、三番艦信濃は?更には陸奥は?

実をいうと、僕が戦艦とかミリタリーを好きな本当の理由は、それが余りに荒唐無稽でバカバカしいものだからなのです。
僕は、盛大にバカバカしければバカバカしいほど好きなのです。

ただし…。
そうは言っても、人はそんなことのために、たった一度の人生を奪われてはいけません。絶対にっ!

今日はこれ憶えて帰ってください。






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あ~あ。痛い痛い、歯が痛い。
まあ、本文に関係が無いので、これは割愛しますね。

僕がロバート・ロドリゲス作品の中で一番好きなのは、何と言っても『シン・シティ』ですね。これはもう、面白くて面白くて仕方が無いほどだと思っています。

映画『シン・シティ』を知らない人のために少し解説しておくと、これはフランク・ミラーのグラフィック・ノベルを原作とした2005年のアメリカ映画です。
監督には『フロム・ダスク・ティル・ドーン』や『グラインドハウス』なんかのロバート・ロドリゲスと、映画『300〈スリーハンドレッド〉』の原作者としても知られるフランク・ミラーがあたっていて、さらに一部のシークエンスをクエンティン・タランティーノが担当しているという具合です。

この作品の特徴は、いわゆるコミックの〝実写化″というのではなく、逆に実写を「モーション・グラフィック」化させるという発想の面白さにあります。
そして、墨ベタのみで構築された原作のクールな世界観を見事に再現しつつ、尚且つ、50年代60年代のフィルム・ノワール(暗黒街映画)の空気感をも蘇生させて見せた。

こうした、高度なデジタル処理によるエフェクタブルな劇映画としては他に、トゥーンレンダリングを使った『スキャナー・ダークリー』が印象的だったけれど、でも、僕はやっぱりこの『シン・シティ』が一番、好きです。というのは、単に技術的に目新しいというだけではなくて、何より非常に映画的だと思うからです。

それと、この映画を考える時に何となく思い出される作品としては、1990年の映画『ディック・トレイシー』があります。
これは案外、語られることの少ない作品ですが、往年の同名コミックを原作としたポップな暗黒街もので、これが『シン・シティ』と通底するのは、やはり、安易な実写化を拒否し、逆に、実写をコミック特有の虚構感に当て嵌めようとした点です。
この作品が素晴らしかったのは、『シン・シティ』とは対照的に、原色のアメコミ・カラーを再現した撮影でした。
当時、純アナログによるその意欲的な試みは、何と、あのヴィットリオ・ストラーロの手によるものだったのです(ストラーロはベルトルッチの作品や『地獄の黙示録』を撮った、世界屈指のカメラマンです)。

さて、話変わって『シン・シティ』の筋立てというのは大体、こうです。
犯罪者、サイコパス、邪悪な権力者、汚職警官、売春婦のみで構成されたような街〝ゴッサム・シティ″ならぬ「シン・シティ」(罪の街)を舞台に、アウトロー達の、巨悪や権力に対する凄まじい報復戦が開始される(正味、これだけ!)。
ほとんどの場合、アウトロー達は名も無き女達のためだけに命を張るが、僕はどうも、いつになってもこの手のシチュエーションは好きですね。何かあの『浪人街』みたいなパターン、あれ泣けます。

まあ、このようなごくシンプルな物語が、登場人物達の濃厚過ぎる性格描写と、練りこまれた物語の綾を織り交ぜながら、『パルプ・フィクション』のように、同時並行的にエピソード展開されるわけです。

あ~、痛い。あそこが痛い。


さてさて、前置きが長くなりましたが、この作品『シン・シティ』の続編が今回、10年ぶりに完成し、僕は早々に観に行ってきました。歯が痛いのに…。

何故そこまでして観に行ったかというと、僕はこの10年、それとなくこの『シン・シティ』の続編の完成を待ちわびていたからです(実際、続編の話は前作の公開直後から出ていましたからね。確か、ジェシカ・アルバ演ずるナンシーが復讐に行く話だってこともね)。

そして、10年間の期待を込めて観た感想はというと…、フム、面白かったです。ええ。
面白かった。
相変わらず、画づくりの精度において遜色は無かったし、惜しむらくは前作に比べればもうひとつ盛り上がりに欠けたことと、10年の時を経て、役者陣が確実に老化してしまったことくらいかな(だからロドリゲスは『マチェーテ』なんか撮ってる場合じゃなかったんだよ!)。

まあ、良かったんだけど、正直、想像の域を超えるものでもなかったわけで、こうなりゃもう一本くらいシン・シティを舞台に、まったく別の群像劇をつくっても、これくらいしっかり面白いフォーマットならばやれるんじゃね、なんて思いましたね。

まあね。そんなもんだよね。10年なんてね。
何が〝そんなもん″なのかわからないけどね。

私は歯医者に行きます。










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昨日、映画『フューリー』というのを観てきました。

この作品は、恐らく、ミリタリー好きの人なら、かなりの確率で観たのではないかと思われますが、内容は、機甲師団(戦車部隊)を主人公にした、〝ほぼほぼ『プライベート・ライアン』″というようなものです。
実は観る前からそうに違いない!と思っていたらやはり図星でしたね。
ついでに言うと、宣伝文句の「アカデミー賞最有力」というのも、これが単に〝ほぼ『プライベート・ライアン』″だからそんな風に謳っているのでしょうが、しかし僕は、そうはならない気がするなあ。その理由は、むしろこの作品が〝ほぼほぼ『プライベート・ライアン』″だからです。

そういう意味では、逆にこの映画の特徴は、スピルバーグ系戦場ものとは違った独特の詩情を随所に持たせてある点と、これまでの戦場もので余り描かれてこなかった〝性処理″の問題に触れているあたりだと思います。

戦争映画における〝詩情″という意味で言うと、これは少し曲者で、僕は以前、件の『プライベート・ライアン』が初公開当時、時を同じくして少し後に公開された『シン・レッド・ライン』(テレンス・マリック監督)という戦争映画が描き出す『プライベート・ライアン』とは対照的な〝詩情″に、いたくいたく閉口させられた記憶があります。戦場にしては内省的だな、と…。
では『プライベート・ライアン』には詩情が無いのかというと、決してそんなことはなく、むしろ『プライベート・ライアン』ほど詩的な映画は無いというのが僕の考えです。
唯、戦場という真の生き地獄を描く場合に、作家の主観性、例えばナイーブさ、センチメンタルな部分なんかを前面に出してしまうと、かえって出来事の恐ろしさや重みそのものを曖昧化させてしまうことになります。
そういう意味では、只々、生々しい現実を極力客観的に積み上げた末に、ある種の詩情にさえ至るという『プライベート・ライアン』のさじ加減こそ、断然、本物だと僕は思っています。
その点、今回の『フューリー』は、まあ、鼻につかない程度の詩的表現ではあったように思われます(一応、言っておきますけど、ここで語っているのは『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』なんかの、大枠の戦争ものの話しではなく、あくまで〝戦場″をテーマにしたドンパチものについての所見です)。

話は変わって、『フューリー』の中で描かれる〝性処理″のくだりですが、こうした、戦場における大義とは離れた矮小で無残な側面こそ、どんどん描いて欲しいものです。そういう意味では、『フューリー』の描き方はまだまだ甘い気もしました。
また、これとは少し違うのですが、爆撃にあってお相手が死ぬところも、あんな見え見えの感じで死んでるんではなく、只、手首だけが落ちているのを横目でちらっと見て腰砕けになるのを、無言で仲間が押し戻すくらいの演出の方が怖い気がするがなあ。
更にそういう部分でいうと、激戦のさ中、仲間がやられて泣き叫ぶなんてのも絶対、嘘だと思います(実際は自分の身を守るのが精一杯で、もっと遥かに虚無的になるはず)。
それと、なんといってもクライマックス、300人の師団を前に退避せず、走行不能のシャーマン戦車に立て籠もって(正に鋼鉄の棺桶!)迎え撃つ動機付けが弱すぎる。「これが俺の家だから」という一言で済ますこの展開は、詩情なんてことよりむしろ安めのポエムを感じて、まあ、ナンセンスですね。
戦車なんて兵器は元々、恐ろしく燃費が悪く、一度、補給を断たれたら幾らも走れないから、いつでも放棄することを前提に運用すべきものなのに、「家」って…。

大体、『フューリー』に限らず、近頃のハリウッド大作って、必ず最後、特攻しますよね。西欧人は実際には決して特攻などしないくせに、やたらキリスト教的殉教と掛けて、ファンタジーの世界で遊びたがるんです。そんなにカミカゼ・アタックが好きなら、貿易センタービルに突っ込んだあいつを尊敬でもしてるんでしょうか?

批判ついでに、もう一つだけテクニカルな部分で言うと、これも『プライベート・ライアン』から始まったと思しき、弾丸の軌道を描くCGエフェクトですが、『フューリー』では一部のシーンでちとやり過ぎ、「スターウォーズ」ばりにファンタスティックになってました(残念)。


さてさて、それなりに細かな難点はあるものの、しかし結論から言うと、僕的にはこの映画は結構、良かった。明らかに及第点はいっていると思います。
中でも最も良かったのは、兵士達の性格描写。つまりこれまでのどんな戦場ものより明白に、そして暗に、最前線に送られるのがどんな社会的地位の人達なのか、それを語っている気がする。そのことが戦争というものの隠された構造を照らして、何とも不気味に見える点です。これは非常に重要なポイントだと思います。
それと、なんといっても見事な〝汚し″を施されたシャーマン戦車の存在感!そしてまた、博物館所蔵の本物のティーガーⅠ型がスクリーンに登場する驚き(実際、ほとんどのミリタリー好きはこのために劇場に足を運んだはずです)。

圧巻はやはり4台のシャーマンと一台のティーガーとの一騎打ちだけど、これはよく言われる、「ティーガーの恐ろしさ」を生々しく体感できるシーンに仕上がっていたと思います。
本当を言うと少し前に公開された、T-34と訳ありティーガーが激突するロシア製の戦争映画『ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火』ってやつと比べてみたかったんだけど、こっちは今のところ観れていません(この映画には本物のT-34が登場する)。
ミリタリーって意味で言うと、『フューリー』にはもういっちょう、自走砲なりパンターなりがちょろっとでも出て来てたら、言うことなしだったけどな。
また、細かい部分でいうと、印象的に登場する小火器が、通常、米軍ものだとどうしてもガバーメントになるところを、あえてM1917リボルバーにしてさりげなく差別化を図っているあたりはいいんじゃないかと思います。あのブラピ演ずる「ウォーダディー」には似合っているかもね。


映画『フューリー』は松本零士の「ザ・コクピット」を連想させるものでもあり、考えてみれば陸上でありながら密室劇の要素もあるという点では、どこか往年の傑作映画『U・ボート』に通底する怖さもあって、例えばこうした今日の技術を駆使して『パットン大戦車軍団』的なスペクタクルをやったらどうかみたいな、一ジャンルとしての可能性を感じるものでもあった。

それと蛇足ながら、この映画はエンディングのタイトルバックが非常にかっこよかったです。

大体以上です編集長!










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