シーツ・オブ・サウンドの獲得へ向けて | ジョン・コルトレーン John Coltrane

シーツ・オブ・サウンドの獲得へ向けて

、苛酷な練習が始まる


コルトレーン、ヘロインを断つ その29


というわけで、ジョン・コルトレーンがコールド・ターキーによってヘロインを完全に断った後、不可避的に生ずる渇望を鎮め、やり過ごすのに効果があったであろうこと、依存の再発を防ぐのに有効であっただろうことの、音楽的探求、信仰の回復に続く三つ目は、ハードな練習だ。


コルトレーンが非常に練習熱心だったということについては、コルトレーンやマイルス・デイヴィスの各バイオグラフィーで多くのエピソードが紹介されており、コルトレーン・ファンのみならず一般のジャズ・ファンにまで広く知られている。


特に、ジョン・ポーターの "John Coltrane, His Life and Music" では "The Man: "A Quitet, Shy Guy"" というコルトレーンの人となりをテーマにした章を特別に設け、その中でコルトレーンの練習熱心さに言及した幾人かの証言をコレクションしている。


章の冒頭でポーターは、コルトレーンを知る者が例外なく皆口を揃えて指摘する三つの特徴を挙げており(p.250)、無論ハードな練習もそこにちゃんとリスト・アップされている。一つ目は穏やかでもの静かな男であること、二つ目はドライなユーモアのセンスがあること、ハードな練習は三つ目だが、前二者とは全くカテゴリーの異なるそれが同列に挙げられているのは意味深い。ハードな練習はコルトレーンのパーソナリティから決して切り離すことができない、あたかも天性のものであるかのような特質と見なされている。確かにそうだろう、しかしそれだけではない、ということを依存との関わりにおいて穿鑿するのがこの「コルトレーン、ヘロインを断つ」最後のパートの目的の一つでもある。



そもそもハードな練習は1957年に始まったハーモニーの探求から要請されたものであり、両者は不可分に結びついている。しかし先に少し触れたように、その渇望に対する効果という点では明確な違いが窺われる。探求の快楽は閃きの瞬間にドーパミンが放出されることで生ずるが、練習の場合はその運動としてのハードさがまずエンドルフィンを放出させ、それがドーパミンを誘発するために快感が生ずる。加えて恐らく、両者はその強度も頻度もかなり違ったものであるだろう。音楽的探求とハードな練習を分けるのはそのためだ。信仰によって得られた態度変更によって(この部分は仮説だが)、生じた渇望を昂じさせることなく最小限に留めることができたら、次はより適正な行為・事象にそれは条件づけられなければならない、依存を適正な活動によって代替しなければならない。音楽的探求がその重要な代替物の一つのであることは既に述べたが(*)、ここでは取り敢えず主にその理論的達成をリアライズする側面に焦点を当てる。
(*)「ジャイアント・ステップスの萌芽:コルトレーン、ヘロインを断つ その17」



コルトレーン、熱心に練習する


友人達はコルトレーンの所へ遊びに行っても本人からはまともなもてなしを期待できない。彼らに冷蔵庫とトイレの所在を示すと、つまり勝手にやってくれ、というわけで、コルトレーンはそそくさとその場を離れて練習に戻り、訪問者をほったらかしにして独り練習に励み続けるからだ(*)。時には二、三時間も待たされる。まるでカフカが描く理不尽な官僚制の世界みたいだ。その間、ナイーマが延々と話し相手になってくれるのだが、そのためむしろナイーマと気心が知れてしまうほどだった(**)。しかしナイーマが不在の時はもっとまずい。玄関のベルを鳴らしてもコルトレーンは練習を中断して応対しようとはしないから、アパートにあがることすらできない(***)。
(*)ジェームズ・ムーディの証言。John Coltrane The Prestige Recordings, booklet, p.12
(**)アート・テイラーの証言。ブライアン・プリーストリー『ジョン・コルトレーン』、p.51-52
(***)ベニー・ゴルソンの証言。Porter, p.254



「ジャイアント・ステップスの萌芽」 で既に述べた通り、1957年に入ってコルトレーンは既存曲のコード進行に新たにコードをスパーインポーズしてハーモニーを拡張する試み、コルトレーン自らの言い回しによれば、"three-on-one chord approach" に取り組み始めた。コールド・ターキー後のコルトレーンの当面の課題は、そのアプローチに見合ったテクニックを習得することだった。スーパーインポーズされたいくつかのコードを限られた時間内で処理する必要に迫られると共に、使用可能になったノートを尽く探査・踏破しなければならない。コルトレーンはそれぞれのコードに対応したスケール全ての音を吹き尽くそうとしたのだ(*)。そのためにコルトレーンは食事を摂ることも忘れて毎日一日中練習に没頭した。そしてファイヴ・スポットでの仕事へ行くために、漸く練習をやめた(**)。セット間の休憩時間にはバックルームへいって練習したし、さもなければテーブルについていかに自分の音楽を向上させることができるかをあれこれ真剣に考えた(***)。
(*)"Coltrane on Coltrane" /『コルトレーンの世界』星野正治訳「コルトレーン・オン・コルトレーン」p.105
(**)シャーリー・スコットの証言。Porter, p.254。1957年コルトレーンが西103番ストリートのアパートに住んでいた頃、スコットはその近所に住んでいてよくコルトレーン宅を訪れた。スコットはオルガン奏者で、1954年後半から1955年前半にかけて断続的に活動したビル・カーネイのハイ-トーンズというコンボでコルトレーン、アル・ヒースと共演経験がある。後スタンリー・タレンタインと結婚し、60年代しばしば夫婦で揃ってレコーディングした。
(***)Simpkins, p.68



ハープの滑らかなサウンドがいいヒントになった。それは鍵盤を押すことで間接的に弦をハンマーで打って音を生じさせるピアノとは全く違ったニュアンスを持った純音だった。コルトレーンはハープの教則本を使ってその独特のアルペジオをテナーで演奏しようと試みた(*)。この通常なら誰も試みないようなアイディアが、あの音の波が次々と切れ目なく矢継ぎ早に織り成される急過するサウンド sweeping sound(**)、アイラ・ギトラーが「シーツ・オブ・サウンド」と命名することになる難易度の高い奏法へと結実することになる。だからたとえツアー先といえども、クラブでの3セットに及ぶ長いステージを終えた後でさえ、バンドの他の連中が気晴らしに街へ繰り出すのを尻目に、すぐホテルの自室へ戻ってその実現のために平気で何時間でも練習したのだ(***)。
(*)コルトレーンお気に入りのハープ奏者はクラシックのカルロス・サルセード( Carlos Salzedo, 1885年-1961年)。マルクス・ブラザーズの映画がテレビで放映される時は次男ハーポ・マルクスのハープ演奏を目当てに時間通りに帰宅した。またアリス・コルトレーンのピアノ・スタイルはハープを念頭に置いたコルトレーンのアドヴァイスによるという。ハープのエピソードについては以下を参照せよ。Simpkins, p.70, 72, 92, 193/『コルトレーンの生涯』p.168-170, 228-230/Porter, p.138-139, 272-273
(**)コルトレーン自身は「シーツ・オブ・サウンド」を sweeping sound と呼んでいた。"Coltrane on Coltrane "/『コルトレーンの世界』「コルトレーン・オン・コルトレーン」p.105
(***)マイルス・デイヴィスの証言。『マイルス・デイヴィス自叙伝Ⅱ』p.13-14



恐らく、この半端ではないハードな練習は、音楽的探求の快楽と相俟って渇望を鎮めることに大きく作用しただろう。それはヘロインやアルコールの誘惑を心理的に退ける防壁といった受動的な効能であるのみならず、エンドルフィンの産生を促し、積極的に快楽としても渇望を適正になだめたに違いないのだ。だが、ここで一つの疑問が浮上する。 そもそも、コルトレーンの練習熱は今に始まったことではないではないか? コルトレーンのバイオグラフィーに目を通したことがある者はそう訝らざるを得ない。 (つづく)





◆ジョン・コルトレーンに関連してその他


『ジョン・コルトレーン 『至上の愛』の真実』 / 『コルトレーンを聴け!』



◆ジョン・コルトレーン・サイト


Trane's Works 55, 56 / ジョン・コルトレーン年譜




コウタ姐 目次


コルトレーン、ヘロインを断つ 目次

目次 index(ここからすべての記事に行けます) (うそ)





--------| ・人気blogランキング | ・ブログセンター | ・音楽ブログ ジャズ・フュージョン |-------

-----------| ・くつろぐ ブログランキング | ・ブログの 殿堂 | ・音楽広場:ジャズ |------------