未来リボン(Mirai Reborn)ー未来と結ぶ、幸せ愛をとどけたい。

日本文学科(中原中也研究)を卒業して、商社の営業、突然経済のど真ん中に。その後自分の夢に向け転職すること数回。会社を設立。経済学、情報学を勉強するために大学院へ。今は地球未来学者として研究と実践と。幸せ愛を見つけるために、日々放浪(^^)


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2015年8月13日(木)仏滅

ちょっとしたきっかけがあって、ケインズ経済学を見直している。そこで見えてきたのは、早々に、コトの経済学をまとめなければならないのではないかとの思いの元、自分の備忘録として、今思っていることを記したいと思います。(自分の今の考え方としての備忘録なので、誤った考えもあるかもしれないので、、、あしからず。)

改めてケインズ経済学を見てみると、【国民所得=消費+投資】で成り立っているらしい。そして、有効需要は、その消費と投資によって規定されるらしい。さて、このあたりに疑問を感じる。本当に、有効需要は、消費と投資によって規定されるのであろうかそこには、限界消費性向が関わるらしいが、その考え方でさえ無理がある。それは、消費が無限に広がることが前提になっているからであり、右肩上がりの成長が前提になっているからである。消費は無限に広がるのかおそらく、この前提が間違っている。消費は、無限に広がらない。なぜなら、人は必ず死ぬため、どんなに消費を拡大しようとしても、限界が生ずる。そこで支持されている消費は、人が利用するモノに他ならないのである。(相続や古びてくること、人が増えることにより、消費は広がる、と反論されそうだが、そこについては後ほど。)では、ケインズ経済学はまったくもって間違っているかというと、そうではない。なぜなら、有効需要が、経済を活発にする、という考え方が前提にあるからだ。では、有効需要はどこから生まれてくるのであろうか

有効需要が、モノの経済社会を活性化させる因子だと考えると、有効需要は、この社会における財の量を規定する考えだと捉え直すことができるのだろう。財の量とは、経済学的には付加価値の量(経済的幸福量)と考えることができる。するとその財の量は、資源量と労働量で規定されることができるのではないかと仮説を立てることで考えてみることを考えてみた。(なぜここで資源量が突然出てくるかというと、財を作り出すときには、必ず素材を含めた資源が必要だからである。)つまり、【財の量=資源量×労働量】と表現され得るのではないかという考えである。資源量は、自然の中に存在する形のままの素材の量で、そこには、「消費」と「修復」が存在する。それは、資源量を財の量に変えるためには、労働量を投入して素材を「消費」するからである。そして、自然の力のすごいところは、その「消費」に対して、必ず元に戻ろうとする力「修復」が働くことである。しかし、素材の「消費」が多く、また時間的速度が早い場合は、その「修復」が追いつかず、資源量が減少することになる。すると、そこに、どんなに労働量を投入しようとも、財の量は増えないのである。ちなみに、労働量とは、加工や工夫によって人間社会に有用な形に人の手で変化させる力の量のことと捉える。この考え方においても、消費は無限に広がらないことが理解できる。また、このケインズ経済学で使われている付加価値は、主にモノのことを指している。そのため、ここでのモノは、主に地中にある素材を、地上に加工した上で、地上に置いている状態にある。つまり、通常では地上になかったものを、地上に置いているのである。地上における人間の生活空間は限られている。なぜなら人間が生きていくためには、空気が必要であり、その空気は気体の状態でしか得ることができないような体の構造になっているからである。(魚のように、えら呼吸ができ、液体から空気が取り出せるような構造なら別の話になるのだが笑い、、、あしからず。)ここにおいても、消費が無限に広がる可能性は少なくなるわけである。

そこで、無限に消費が広がる可能性として、ケインズは文化に着目している。おそらく、この資源量と労働量の関係に気づかなかったがために、自己矛盾をここで解消しようとしていたのではないだろうかと、憶測する。その形が、現代社会ではバーチャルワールドとしてのネットワーク社会につながっていくことが感じられる。(さすがのケインズも、ここまでの未来は見えなかったであろうが、、、)そのために、ケインズは、政府の役割に不況脱出の糸口を見出そうとする。しかし、そのために、ケインズ経済学の批判がここに集まることになる。消費は無限に広がらない。それは、モノの経済学の社会では当然のことで、コトの経済学の社会でも当然のこととして捉えられる。

しかし、この「消費が無限に広がる」ことを前提としたケインズの理論では、その有効需要喚起のために、政府の投資を促そうとするわけである。そこには、ミクロ経済学の基本となる、政府ー家計ー企業の関係があり、その枠から脱しきれない考えがあるような気がしてならない。つまり、近年の経済社会の中では、先の3者の役割のほか、NPOの役割が加わってきていることを蔑ろにしているからではないだろうか、ということを考えている。NPOは、政府の役割と企業の役割を組み合わせた形になってきているような気がしている。(ちなみに、企業の考え方の基本として、収益>投資があるという考えであり、政府の役割はそこでは見いだせないような社会的役割である。)そして、うまい具合にその3者にNPOを組み合わせれば、これからの社会を形成できるような気がしている

ちなみに、余談になるが、資源量として指す内容の一つに、人間が食す食べ物がある。(なぜなら、ここでいう経済社会は、人間が活動することにあり、その活動の源は、食べ物であるからである。)ここへの労働量と、その資源の素材の「消費」と「修復」の関係を整えるだけでも、経済的幸福は高まると思っている。(ただし、やはり資源量が限られていれば、どんなに労働量を増やしても財の量は増えないのであるが、、、あしからず。)

もう一つちなみに。では、これからの産業のネタとして、どんな考えを持つべきかについて。おそらく、コトの経済学の分野になってくるのであろう。バーチャルやサービス、文化と言った分野。そして、モノの経済学の遺産は、新しく作ることではなく、リサイクルやリユースといった、メンテナンスを中心とした考え方になってくるではないだろうか今のネットオークションなど最たるもの。誰かの使い古しのものを効率よく使いまわしている。この社会的変化に対応できるかどうか、のような気がしている

などと、考えていた。コトの経済学を取りまとめることも重要であるが、このあたりをまとめないと始まらないなーと。ちょっとした考えの整理を自分の備忘録として書いてみた。。。
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2015年8月10日(月)先勝

昨日、ライオンの兄弟の生き方について、密着観察されたテレビを見た。(温泉の休憩室で見たので、どんな番組名かはよくわからない、、、あしからず。)

ライオンの社会は、生きるという厳しさを徹底的に教え込むらしい。というのは、弱肉強食の生物界の中で、それを知らなければその生物種が失われていくからなのだろう。ライオンの社会では、一定の縄張りの中で生活し、その中で母ライオンが狩りをし、父ライオンが敵を追い払う役目が与えられているらしい。(ここで言う母ライオンや父ライオンは一匹のライオンを指すのではなく、協力し合う複数のライオンである、、、あしからず。)そして、各々が協力し合いながら、その縄張りを守る形を作るらしい。ここで重要なことは、ライオンの社会では、一定の縄張りの中で、協力して働きながら生きていることだと思う。いわゆる、協働の形ができているのである

このライオンの社会を見ていたら、人間の社会における虚しさを感じた。というのは、現代の人間社会においては、この協働の形が崩れつつある状態を感じるからだ。自分がよければいい、もっとひどいときには、自分さえよければいい、ということを感じることが増えてきた。しかも、誰かが困っていても、手伝おうともしない。何かやることにおいても、誰かのためというより、自分のため。そこにはまったくもって、協働、ということが感じられない。そのために、社会が劣化していることも知らず存ぜず。社会が劣化していくことは、その生物種が失われる恐れがあることさえ、危機感が感じられない。その考えは、一定の縄張りを侵略しに行く形になる。いわゆる、縄張りを大きくしようという考えに通ずるのだろう。しかし、それは、社会を壊すことでしかないのではないかと思う。ライオンの社会では、一定の縄張りを広げようとはしない。いわゆる、その縄張りの中の数を調整することで、自分たちの社会を保つことに努めるわけである。そのために、親子と言えでも、親は子を縄張りから追い出す。そこには、生きる力をつけてもらうためと、社会を保つための意味があるのではないかと思った

生きる力をつけた子供ライオンは、いずれ大人ライオンになり、縄張りの主に戦いを挑む。そして、勝てばそこの縄張りの主になれるらしい。そこでは、殺し合いの戦いは行われない。力の強弱をつけるための戦いである。傷は負うが、死にはしないのである。そして、追い出された大人ライオンは、別の縄張りをめざし、やはり生きるために戦うのである。ちなみに、その縄張りの中で生活している母ライオンや子ライオンは、一定の縄張りの中で、父ライオンに守られ戦うことはしないのである。なんとなくではあるが、現代人間社会で忘れられていることが、そのライオンの社会の中にあるような気がした。。。
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2015年7月21日(火)大安

最近気になる言葉で、レジリエンス、という言葉がある。どうやら日本語に訳すと、「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」「自発的治癒力」「折れない心」などとなるらしい。そして、このキーワードは、世界のエリートがIQや学歴よりも求められるものになっているらしい。さて、その中でもわかりやすいので、折れない心、ということについて、少し考えていみたいと思う

折れない心とはどんな心かそれはしつこいくらいに諦めない心になるような気がしている。(これは、方向性を間違えると、ストーカーになってしまうのでお気を付けを、、、あしからず。)諦めないことの方向性を定める時、おそらくそこには、漠然とした目標(例えば、人類の幸福など)があるのだろう。そして、評価基準としては、社会貢献や社会道徳、につながるような気がするのです

その評価基準として、自己VS利他があるような気がするが、自己に走った場合、目標達成は程遠く、利他に走った場合、目標が近付く構図になるのではないだろうかさて、最近話題になるものごとには、この自己都合が目立つことにより、目標が遠のいていく感覚が感じられる。安倍政権の安保法制可決議論、東芝の利益水増し事件、沖縄米軍基地移設問題、等々。これらの問題は、先の目標である人類の幸福からは、程遠くなっていくような問題であるような気がする。

これらの問題は、20世紀型の社会であれば成り立っていたのかもしれない。しかし、いつの間にか世界は21世紀に入り、分岐点を通り過ぎた状態になっている。人類全体の分岐点における方向性は、間違った方向には進んでいないのだと思う。というのは、そんな事件や出来事が増える一方で、ボランティアや奉仕活動が急激に増えている状態を感じられるからだ。つまり、未だに20世紀型社会を引きずっている世代に起こっていた膿のようなものが、急激な社会的変化の中で清算されているのかもしれないという感覚を覚えさせるからだ。

もともと、経済学というものは庶民の幸福のために生まれてきた学問である。しかし、それもいつの間にか金融のみがクローズアップされ、本来の意味は蔑ろになってきたような雰囲気がある。そして、その学問を探求している面々は、やはり自己都合の20世紀型から脱しきれない状態に陥っていることを感じる。そんな状態の高等教育機関やその環境は21世紀型に進化しなければいけないのではないだろうか

間違った方向性は、正しい方向からは程遠くなっていく。しかし、遠回りになるけれど、分岐を正せば、正しい方向に近づいていくことはできる。レジリエンスは、ぜひそんな分岐を正すときにしつこいくらいに諦めずに達してほしいと思うのです。レジリエンスが、今のエリートたちに求められている理由はそこにあるのではないだろうか間違った方向を正そうという、その風潮にこそ求められる人類の知恵のような気がします。今は、いくつかのところで間違った方向に向かおうとする力が働くことが起こる。しかし、その方向性を正そうとした時、レジリエンスを持ったリーダーが必要になる。そこには、利他の気持ちを理解した愛情深い人物像が浮かんでくるような気がするのです。。。
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