未来リボン(Mirai Reborn)ー未来と結ぶ、幸せ愛をとどけたい。

日本文学科(中原中也研究)を卒業して、商社の営業、突然経済のど真ん中に。その後自分の夢に向け転職すること数回。会社を設立。経済学、情報学を勉強するために大学院へ。今は文化人類学者として研究と実践と。幸せ愛を見つけるために、日々放浪(^^)


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2015年3月26日(木)友引

昨日、有名な大阪桐蔭で、裏金(簿外帳簿)の問題が明らかになった。その金額は、5億円以上とのこと。少し前までは、3億円事件などと言って、大騒ぎしていたのが、嘘のような多額の金額。この裏金について、教材費から蓄積していったことが問題とされているが、もっと大きな問題は、簿外帳簿が存在していることではないだろうかどうも、今のマスコミ各社のニュースを見ていると、ピントがずれているような気がしてならない。

資本主義が進んでいき、政治の力が増大してくると、必ず起こるこの問題。政治とカネで、国会審議が空転しているようだが、その国会運営でさえ、血税で賄われている。血税の垂れ流しも、一日3億円とも言われている

さて、問題は、正直者が馬鹿を見る、この社会の仕組み自体のような気がします。なぜ、簿外帳簿をつけるかというと、おそらくそこには、税金を払いたくない、という気持ちが含まれているのでしょう。じゃーなぜ税金を払いたくない、と思うかというと、その税金を支払った分だけの見返りが感じられないからでしょう。

今、誰が責められるかというと、先生と呼ばれる立場の人たちです。政治家の先生、学校の先生、医者の先生etc...それらの人たちで、目線がずれると、こういった問題が起こります。世の大半は、正直者です。ので、格差の下の方で、がんばっているのです。上の人たちは、なぜか、目線が変わります。政治家の先生は日本国民のため、学校の先生は生徒や学生のため、医者の先生は患者のため。本来はこれを第一優先で考え、行動するべきなのに、なぜか、上の世界に行く人は自分のために行動する。(先生方の大半も、下のほうでがんばっているのですが。)それは、その支払った人からの期待に十分に応えらえていないから、そういう話になり、簿外帳簿や機密費などと裏金作りに走るのでしょうね。

つくづく思いますが、残念な世の中になったものだと思います。昔の人は、何かをちょっとやって、というと、快く引き受けてくれたものですが、今の人たちは、じゃーいくらくれるとなる。それは、お金じゃないでしょ。お金は、その見返りで、申し訳ないな、と思わせたら、自然と来るものだと思います。なぜなら、お金は、その人への信頼であるからです。信頼は、一朝一夕には作れません。長年かけて構築されていくものです。(但し、壊れる時は一瞬ですが。)

今の日本は、昔存在していた、人への信頼というものが、極端に薄れていっているのだと思います。それは、模範となるべき先生たちが、それこそ、サービスやおもてなしの心を蔑ろにし、自分がよいようになれば、と考えるようになってきたからのような気がします。経済成長するということは、給与も上がるけれど、物価も上がるわけで、その角度がちょっとでもずれると、生活に窮する状態になります。先生方は、いつの間にか、その生活レベルというものがあがり、角度がずれてしまったのでしょうか

いずれにしても、世の中の人々の中にある信頼が回復していき、それが維持できるような社会体制ができていってほしいものだと、思うのでした。。。
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2015年3月7日(土)大安

最近大学で何を教えるのだろうと、ふと考える時がある。そんな時に考えることをつらつらと綴ってみようと思う。

私の個人的な考えであるが、大学教育と言う最高学府において教育される(もしくは、教育する)ということを考えると、知識や教養はもとより、倫理や道徳といった人格に至るところまでピッカピカの状態に育て上げることが大学教育の本分ではなかろうかと考えている。それは、社会人の実学として立派に育てることではなく、社会の一員のための社会人を育てる、ということにつながっていくような気がするのです。そのために、大学や大学教員は最先端の科学を研究し、その成果について(上から目線ではなく)、対等な立場で教授し、その教養の深さに憧れや尊敬の念を抱かせる。そして、受ける学生は、その姿に憧れや興味が起こり、自らが自発的に研究し、それによってさらなる科学の進展が促される。その好循環があって初めて人類の進化があるのだろうし、大学の存在意義があるのではないだろうかと思うのだ。

しかし、残念なことに、この「最先端の研究ー興味関心ー考える教育」という流れがあまりうまく行っていないのではないかと感じることがある。それは、もしかしたら社会でイノベーションが起きないのと同様の問題があるのかもしれない。自分の研究の秘匿性、自己利益ばかりを追いかけるがために、ブラックボックスという名のもとに、自分の研究を積極的に公開しない。(もしくは、させない。)または、変化を望まない(諸行無常の日常は変化しているのにである。)。そのため、実際に学生に教えるスタイルは、今まで誰かが研究発表した内容(過去の遺産のような内容)ばかりを教え、それを覚えさせ、考えさせることをしない形になりがちな傾向を感じるのです。それは、入試の形態にも表れているのだろう。効率性ばかりを求め、記憶力を試すような、まるでクイズ番組のような形である。実際は、その知識をもとに、そこから見えてくる【何か】を考えることが求められるはずなのに、である

実際は、その【何か】が問題となる。大学教員が上から目線で教えている場合、自分の知識外のその【何か】をぶつけられると、その考えを異端視する。加えて、異端視し、さらに除外しようとする。そのため、学生は除外されまいと、教員の考えに従うようになる。しかし、ここでの矛盾は、大学の教員は概して専門家のため、専門のことには詳しいが、専門外の範囲というのも広くなる。この視点が抜け落ちることがあるのである。そのため、その学生がぶつけた【何か】の本来の意味を見逃し、つぶすことになる。

大学教員の難しさはこの部分になる。専門の知識の深さに尊敬の念を集めないといけないのであるが、そのことはなかなか理解されずらいため、別のところで威厳を保とうとする。今までの社会的流れでは、年齢や肩書である。(時には、性別なども入るが、それは最近はジェンダー問題で少しずつ解消されつつあるような気もしますが。)しかし、そのことに年齢や肩書などは関係ない。そこで大切なことは、その何かを見つけ、探求する姿勢を作り上げることであり、そのための支援をするのが、大学教員における教育の形なのではないだろうか

なんとなくではあるが、もしかしたらその形は、大学教員として直接関わらなくてもできるような気がするし、直接だとその専門性ゆえの幅狭さが邪魔をする気もします。この形を作り上げるために大切なことは、いかに研究に興味関心を持ってもらうかであり、その研究内容を知ってもらうことにあるような気がするのです。そして、この教育の形を作り上げないことには、これからの日本社会の先行きに不安を感じるのです。先に述べたとおり、大学が最高学府である以上、大学教育の形を整えない限り、社会人を育てる、という、全体の教育の形が整わないような気がするのです。そんなことを沸々と考えてみたのでした。。。
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2015年3月2日(月)赤口

先日、ESDステイクホルダーミーティングに参加してきた。ここでもなんとなく感じたことであるが、このステイクホルダーの主役は誰なのだろうということであった。参加メンバーは行政の方、教員の方、NPOの方など様々なメンバーが来ていたけれど、この教育の主役は、小学生や中学生なのではないだろうかであれば、こういうミーティングにも、積極的に小中学生を参加させるべきではないかと感じた

最近、教育を考えるときに、大切なことってなんだろうと思うことがある。おそらく、その時に大切なことは、上意下達ではなく、仲間づくり、がキーワードになりつつあるのではないだろうかと感じている。仲間は、年齢や学年などは関係ない気がする。が、そこには、上下関係があってはならない気がする。お互いに尊敬しあい、切磋琢磨しあい、励ましあい。そんな気持ちが必要なのだろう

今までは、上意下達の形の中で、心にもやもやを抱えながら仲間意識を作っていく。が、そのもやもやがある以上、心からの付き合いができない。最近、悲しい事件があった。この事件を風化させてはいけないし、かといって、英雄的な扱いも許されない。過去に、サカキバラ事件があった。これは、どこかで曲がった形で、一部の人からは熱狂的に受け入れられているようだ。残念でならない。人が人を殺すことは、ゲームではない。人は、自然に生かされ、社会のために生きているのである。人が人を殺す権利など微塵もないと思っている。そして、社会のために生きていることを実感するためには、仲間を意識することにあるような気がする。一番身近な仲間は、家族であり、友人であるのだろう。そんな周りにいう人たちを意識すると、仲間意識が芽生え、どんなに些細なことでも自分の生を感じることができるのではないだろうかそして、人を殺すということは、そんな他人の人生も背負うことになることを気付くのではないだろうかそうすると、自分の人生でさえ精一杯なのに、他人の人生など背負えないことを気付くのではないだろうかそこには理屈はない。人が人を殺めることに対して、それが許される理由など何の理屈もないのだ

そんなことを考えていると、持続可能な開発のための教育(ESD:Education for Sustainable Development)の訳に疑問を感じるのである。なぜなら、開発にはどうしても工業的意味合いが先立つように感じるからである。それが悪いわけではないのかもしれないが、そこにはなんとなくではあるが、人の心がないように感じるのである。であれば、今回の「Development」の訳には、社会厚生とか社会構成、社会構築あたりが適当なのではないだろうかなどと思うのでした。。。
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