未来リボン(Mirai Reborn)ー未来と結ぶ、幸せ愛をとどけたい。

日本文学科(中原中也研究)を卒業して、商社の営業、突然経済のど真ん中に。その後自分の夢に向け転職すること数回。会社を設立。経済学、情報学を勉強するために大学院へ。今は文化人類学者として研究と実践と。幸せ愛を見つけるために、日々放浪(^^)


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2015年3月2日(月)赤口

先日、ESDステイクホルダーミーティングに参加してきた。ここでもなんとなく感じたことであるが、このステイクホルダーの主役は誰なのだろうということであった。参加メンバーは行政の方、教員の方、NPOの方など様々なメンバーが来ていたけれど、この教育の主役は、小学生や中学生なのではないだろうかであれば、こういうミーティングにも、積極的に小中学生を参加させるべきではないかと感じた

最近、教育を考えるときに、大切なことってなんだろうと思うことがある。おそらく、その時に大切なことは、上意下達ではなく、仲間づくり、がキーワードになりつつあるのではないだろうかと感じている。仲間は、年齢や学年などは関係ない気がする。が、そこには、上下関係があってはならない気がする。お互いに尊敬しあい、切磋琢磨しあい、励ましあい。そんな気持ちが必要なのだろう

今までは、上意下達の形の中で、心にもやもやを抱えながら仲間意識を作っていく。が、そのもやもやがある以上、心からの付き合いができない。最近、悲しい事件があった。この事件を風化させてはいけないし、かといって、英雄的な扱いも許されない。過去に、サカキバラ事件があった。これは、どこかで曲がった形で、一部の人からは熱狂的に受け入れられているようだ。残念でならない。人が人を殺すことは、ゲームではない。人は、自然に生かされ、社会のために生きているのである。人が人を殺す権利など微塵もないと思っている。そして、社会のために生きていることを実感するためには、仲間を意識することにあるような気がする。一番身近な仲間は、家族であり、友人であるのだろう。そんな周りにいう人たちを意識すると、仲間意識が芽生え、どんなに些細なことでも自分の生を感じることができるのではないだろうかそして、人を殺すということは、そんな他人の人生も背負うことになることを気付くのではないだろうかそうすると、自分の人生でさえ精一杯なのに、他人の人生など背負えないことを気付くのではないだろうかそこには理屈はない。人が人を殺めることに対して、それが許される理由など何の理屈もないのだ

そんなことを考えていると、持続可能な開発のための教育(ESD:Education for Sustainable Development)の訳に疑問を感じるのである。なぜなら、開発にはどうしても工業的意味合いが先立つように感じるからである。それが悪いわけではないのかもしれないが、そこにはなんとなくではあるが、人の心がないように感じるのである。であれば、今回の「Development」の訳には、社会厚生とか社会構成、社会構築あたりが適当なのではないだろうかなどと思うのでした。。。
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2015年3月1日(日)大安

先に話していたように、私は地域活性化なるものをやっている。この活動をやっていると、たまに残念な場面に出くわす。それは、データやアンケートのうわべの結果のみの分析がされることによる、現実性のない提案である。話を聞いていて、それをやるのに、いくらかかるんだよ、という形である。当然、取りかかりにはお金のことを気にせず、夢ある考えは必要です。でも、調べ始めた後は、具体的な実現可能性が大切になるでしょう。そもそも、そのような形は、住民ではない人たちが主体となっているため、住民の意向とは程遠い形になっていることがある。

しかし、一方ではこの一連の流れは、仕方のないことだとも思うときがある。それは、マーケティングについて考えている時である。残念ながら、今言われているマーケティングは、そこにあるモノをどのように売るかという形に終始されている。そのため、当たり外れが大きくなる。なぜ当たり外れが大きくなるかというと、そのモノを買うのは、消費者であり、人なのである。そのことが忘れ去られる。そのために、小手先の技術で何とかしようとするのである。人の考えは、そんなに単純なものではないと思う。ちょっとしたきっかけで、欲求が生まれたり、ちょっとしたきっかけで、何かをしたくなったり。

私がよく考えることに、【ある行動をした後で、ふと思い返し、なぜこのことをしているのだっけ】ということがある。そして、よくよく思い返してみると、その行動のきっかけは、視界の端っこの方に映った何かであったり、BGMとして流れていた音楽であったりでするのである。ある行動経済学の実験であったそうだ。ドイツワインとフランスワインを同じように棚に並べて販売する実験である。その時に、流すBGMによって売れ方が変わるそうだ。いかにも、信じられない出来事かもしれないが、それが本来の人間の姿なのだろう。

教育にしてもしかり。教える立場と教えられる立場の状態において、教える立場の人が、教えられる立場の人を性善説で信じないことには、教える立場の者も信じられない。それは、おそらく、言葉の端々に表れてくるのだろう。私の専門分野に、サービスマーケティングがある。これはよく、マーケティングと何が違うのだ、と聞かれるのだが、それこそまったく違う代物である。というのも、一般的なマーケティングはモノを扱うが、サービスマーケティングはヒトを扱う。それ故、マーケティングで有名な4Pでさえ、サービスマーケティングはさらに3つ増えて、7Pと表される。ちなみに、4Pは、product(製品),price(価格),promotion(プロモーション),place(流通)の4つで、7Pに至っては、そこにさらに、participants(参加者),physical evidence(物的な環境),process of service assembly(サービスの組み立てプロセス)が加わる。このさらに加わった3つの部分においては、見ての通り、いかにも強引に付けられたような感があるが、まさしくこの3Pには、ヒトが関わっているのである。しかし、このサービスマーケティングの考えは、なかなか浸透しない。どうやら、その人を中心に考える考え方について、今の日本社会は苦手なように感じる。それは、型どおりに進める進め方は得意なのであるが、臨機応変が苦手な感じがあるからだろう。しかし、この臨機応変の形は、そのことを楽しむことによって実現できる。楽しむためには、もう少しだけ、先を見通そうと努力をするだけなのかもしれない。その、もう少し、を考えることができれば、地域活性化についても、もう少しだけ、楽しんでできるのかもしれないなー、と密かに思うのでした。。。
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2015年2月26日(木)友引

誕生日占いによると、この日生まれの人は運命の人らしい笑いので、この日に、今考えている自分の命題について記そうと思う。(ちなみに、今日生まれの人に、誕生日おめでとう

私の活動のひとつに、地域活性化活動がある。それは、旅好きの私が、いろんな町や地域を訪れた時に感じた、「こんなにいい町(もしくは、地域)なのに、元気がないのはもったいない」という思いから始まっている。そんな活動をしていたおかげで、最近は、ある一定の形が見えつつある

それは、地域を域内と域外とで分類し、地域経営4C分析なる手法で地域の特徴を明らかにする。そんな手法を開発できたのも、そんな思いがあったからだ。その手法の分析の後には、ICTや地域通貨の概念を存分に導入し、また、再生可能エネルギーや自然エネルギーを存分に活用し、さらに、その地域社会の形を、資源をベースに脱成長型に変化させていく過程が考えられる。そのための食やエネルギーの自給自足から始まる地域づくりが考えられる。しかしそれは、現代資本主義にどっぷり浸かった日本人にとっては、なかなか理解できない構図で、いずれも時間はかかるかもしれないが、目指すべき方向性だと思うし、そうなっていくことで、そこの住民の幸せが増すものだと思っていた。(←過去形なのは、後ほど。)

しかし、ここに大きな壁が立ちはだかる。というのは、この形を作っていくと、圧倒的に生活が安定し、かつ、住民ひとりひとりの時間が余るのである。基本的な仕事と言われるものは、農作業と、自然エネルギーを作るときに邪魔になる落ち葉の除去()、もしくは、今まで行政の方々が作ってきた仕事(隣のおじいちゃんやおばあちゃんの介護や、上下水道の整備等々)になり、なんだろう、今まで生き甲斐としてきた仕事やその目標が大きく変わるのである。つまり、社会における自分の立ち位置を仕事に当てはめて考えてきた日本人にとって、一気に生きる意味が解らなくなる事態に陥るのである。さて、困った、と考えていたところ、その生き甲斐について、遠い昔には、地域に必要な人だったり、ハレの日の過ごし方だったりしたのではないだろうかと思ったのです。

つまり、地域活性化において大切なことは、遊び、なのではないだろうかと思ったのです。幸いにして、遊びについて調べたところ、Wikipediaには「遊び(あそび)とは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。」(出典が明らかではないようなので、考えの参考までにではあるが、、、あしからず。)とあった。昔の遊びの代表に祭りがある。祭りは、到底一人ではできるものではない。しかも、神輿を担ぐなどは、息を合わせなければ、面白くもない。こんな行動ひとつに、社会との協調性やコミュニケーションが求められ、うまくいけばその生きるための能力は自分のものにできる。遊びではないかもしれないが、田んぼの稲刈りや茅葺屋根の葺き替えでさえ、機械のなかった昔には、地域の人が総出でやっていたものだ。つまり、遊びを中心として、地域が作られ、それが大きくなると社会が作られていた。そんなことを思ったのです。

ただ、残念なことに、今の地域は、そんな遊びを展開するだけの人数がいないのが現状。おそらく、それが問題なのだろう。人が集まり、遊びが許容できる(日本人は、どうしても遊びはさぼりにつながり、忌み嫌う傾向が強い。)地域であれば、その地域は、自ずと活性化していくのではないだろうか遊びが許容できれば、そこから映画が生まれる。そこから劇が生まれる。そこから音楽が生まれる。そこから小説が生まれる。そこから絵が生まれる。。。いろいろな芸術が生まれる可能性がある。そして、学問や科学においても、まったく違った形での系統が生まれてくるのではないだろうか実は、このまったく違った形において、現代の過疎と言われている地域は、ピッタリマッチするような気がしている。なにせ、その地域には、産業がない、農業がないなどの、ないないづくし。それは、裏を返せば、つまり、現代資本主義の日本社会に汚れていない真っ白なキャンバスのような状態なのである

私の地域活性化活動の柱は、そんなところにあるのかもしれない。つまり、真っ白なキャンバスから生まれてくる何かを、後押しするような形である。その中心には、余裕から生まれる遊びを科学する「遊び科学」なるものがあるのかもしれない、(ほかには、睡眠科学と、はたらく科学か)などと、ひそかに思うのでした。。。
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