未来リボン(Mirai Reborn)ー未来と結ぶ、幸せ愛をとどけたい。

日本文学科(中原中也研究)を卒業して、商社の営業、突然経済のど真ん中に。その後自分の夢に向け転職すること数回。会社を設立。経済学、情報学を勉強するために大学院へ。今は地球未来学者として研究と実践と。幸せ愛を見つけるために、日々放浪(^^)


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2015年7月21日(火)大安

最近気になる言葉で、レジリエンス、という言葉がある。どうやら日本語に訳すと、「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」「自発的治癒力」「折れない心」などとなるらしい。そして、このキーワードは、世界のエリートがIQや学歴よりも求められるものになっているらしい。さて、その中でもわかりやすいので、折れない心、ということについて、少し考えていみたいと思う

折れない心とはどんな心かそれはしつこいくらいに諦めない心になるような気がしている。(これは、方向性を間違えると、ストーカーになってしまうのでお気を付けを、、、あしからず。)諦めないことの方向性を定める時、おそらくそこには、漠然とした目標(例えば、人類の幸福など)があるのだろう。そして、評価基準としては、社会貢献や社会道徳、につながるような気がするのです

その評価基準として、自己VS利他があるような気がするが、自己に走った場合、目標達成は程遠く、利他に走った場合、目標が近付く構図になるのではないだろうかさて、最近話題になるものごとには、この自己都合が目立つことにより、目標が遠のいていく感覚が感じられる。安倍政権の安保法制可決議論、東芝の利益水増し事件、沖縄米軍基地移設問題、等々。これらの問題は、先の目標である人類の幸福からは、程遠くなっていくような問題であるような気がする。

これらの問題は、20世紀型の社会であれば成り立っていたのかもしれない。しかし、いつの間にか世界は21世紀に入り、分岐点を通り過ぎた状態になっている。人類全体の分岐点における方向性は、間違った方向には進んでいないのだと思う。というのは、そんな事件や出来事が増える一方で、ボランティアや奉仕活動が急激に増えている状態を感じられるからだ。つまり、未だに20世紀型社会を引きずっている世代に起こっていた膿のようなものが、急激な社会的変化の中で清算されているのかもしれないという感覚を覚えさせるからだ。

もともと、経済学というものは庶民の幸福のために生まれてきた学問である。しかし、それもいつの間にか金融のみがクローズアップされ、本来の意味は蔑ろになってきたような雰囲気がある。そして、その学問を探求している面々は、やはり自己都合の20世紀型から脱しきれない状態に陥っていることを感じる。そんな状態の高等教育機関やその環境は21世紀型に進化しなければいけないのではないだろうか

間違った方向性は、正しい方向からは程遠くなっていく。しかし、遠回りになるけれど、分岐を正せば、正しい方向に近づいていくことはできる。レジリエンスは、ぜひそんな分岐を正すときにしつこいくらいに諦めずに達してほしいと思うのです。レジリエンスが、今のエリートたちに求められている理由はそこにあるのではないだろうか間違った方向を正そうという、その風潮にこそ求められる人類の知恵のような気がします。今は、いくつかのところで間違った方向に向かおうとする力が働くことが起こる。しかし、その方向性を正そうとした時、レジリエンスを持ったリーダーが必要になる。そこには、利他の気持ちを理解した愛情深い人物像が浮かんでくるような気がするのです。。。
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2015年7月16日(木)赤口

昨日の国会特別委員会にて、集団的自衛権の行使などが可能となる安全保障関連法案10本が可決されたこの後、衆議院―参議院と流れ、法案審議がされるようだが、おそらく今の政治情勢から鑑みても、法案成立は必至だろう。これらの関連法案は自衛隊法や武力攻撃事態法や周辺事態法の改正が柱となっており、地理的制約を撤廃する「重要影響事態法案」もその中に含まれる。これらの関連法案が成立すれば、自衛隊の海外での活動は大きく拡大し、ドンパチの戦争に加担できる可能性は大きく高まるわけである

さて、そんなこれからの国の形を決めるような大切な議論について、当の首相が「国民の大半が理解していないことは理解している」と明言しながら、採決に走り、昨日のような採決風景になっている。その中継を見ていて思ったことは、いつの間に日本は、民主主義を放棄したのだろうということである。民主主義は、国民の意志を尊重し、それに従う形で国の形を作っていくことではないだろうかギリシアの首相はぎりぎりまで戦っていたが、国民投票の6割が反対と言っていたことに対して、EU各国にNOを突き付けていた。国民の意志に従った形だ。(結局、財政再建法案を可決したようだが、この話は、お金の借り手と貸し手の話で、貸した金返せよ、という至極当たり前の話。借りた金無駄遣いしていたんだから、無駄遣いやめろよ、という話。マイクロファイナンスの話に近い、制度改革の話のような気がする。)それが、国民の代弁者たる国会議員の仕事なのではないだろうかしかし、与党の圧倒多数という多数決の原理で採決を行った。そこには、国会議員ひとりひとりの意志はあったのだろうか疑問が残る。

そもそも、このような国の形を決めることに、時間的制約などあるのだろうかいずれ決めなければならない、ということは、予め決まっていることに対して使われること。そんな上意下達の形で、国の方針を決めること自体、国民を蔑ろにしていることではないだろうか例えばの話である。国をある一つの企業と捉え、首相が社長で、国会議員が取締役会と考えた場合、国民は一般社員と捉えることができるであろう。その時、会社の方針に対して、一般社員の8割が理解できず、上からの命令だ、となったら、その会社はどうなるであろうかおそらく、業務効率は低下し、業績は悪化し、やめていくものも出てくるであろう。そんな事態になったら、その会社の行く末は、どうなるかそれくらいは想像できるのではないだろうかよく、どこまで議論しても決まるわけない、などとマスコミは騒ぎ立てているようだが、そこに正義があり、それを納得させるだけの志があるならば、この国を支えていけるだけの国民の理解は得られるのではないだろうか最近の議論は、どうもおかしい。沖縄の件にしてもしかり。今回の件にしてもしかり。原発再稼働の議論も、311の教訓など忘れたかのような議論のされ方がされている。

先日、ある学生たちの会話を聞いた。「私たちも、戦争に駆り出されるのかなー、私やだなー。」「えっ、でも俺戦争行ってみたい。銃とか撃ってみたい。」だそうです。私は近くにいたので、思わず、「戦争に行くってことは、人を殺すことになるんだよ。ある兵隊さんが言っていたけど、銃を遊びで撃つのとはわけが違って、人に向けて撃つことは、非常に重いことなんだそうだよ。というのは、人に向けて撃ち、その人を殺した場合、その殺された人の人生も背負うことを感じるらしいからね。そして、毎晩夢にうなされる日々が続き、多くの人はノイローゼになり、自らの命を絶つ人もいるらしいよ。」ということを言ってみた。反応としては、「知らなかったー」みたいな感じ。それはそうだよね、人を殺すということ、人の死からほど遠い世界に生きている現代の若者にとって、人の死はあまりにも遠い。そんな人たちの理解を得るためには、戦争に関わることに対して、数年で決まるわけもなく。これが、すべての真実だとは言わないが、こう思っている人がいるということは、事実の一端。

人が人を殺してはいけない理由は、おそらく特にない。あるとすれば、人類の存続のため、という自己都合に基づく考えだけなのかもしれない。(そのために、自然との共生、などと言っても、自己都合という我儘な考えからは理解は難しいのかもしれない。)しかし、これは巡り巡れば、自分の首を真綿で締めるようなもの。それを先祖代々理解していたから、人を殺してはいけない、という道徳概念が生まれたような気がする。だいぶ昔になるが、「ひかりごけ」という小説を読んだ。船で遭難した人たちが、次々に亡くなっていく中、生き残るためにその人の肉を食べて生きながらえる。そして、救助された人は、人の肉を食べたとして裁判されるが、被告人は食べていない、と一貫して否定する。しかし、判決前、その生きながらえた場所に生えていたひかりごけが脳裏に浮かぶそうです。その光は、人が人の肉を食べることに対する、罪の重さを責め入るような淡い不気味な感じの光だった、みたいな話。(すみません、記憶があいまいなもので。おそらくそんな感じの小説だったような。)

平和な世界が、戦いのない世界だけとは思わない。が、少なくとも、戦うよりも笑っていられる世界の方が、私は平和だと思っている。なぜ、この時点で戦争への着火点が近付くような法案を決めようとするのか国の形を決めようとする議論にやはり時間的制約などないのではないかと思う。そして、続く限り、100年でも200年でも議論をすればいいのではないかと思う。個人的には、こんな法案を決めるのなら、スイスがやったように、永世中立の宣言でもした方がよっぽどいいような気がする。(但し、日本は海洋国の島国なので、この線引きが難しいのも問題のひとつであるような気もするが。)そもそも、今さら強行採決反対などとやっても、民主主義の原理から、国民が選んだ国会議員が多数決の理論で決めようとするのだから、それが嫌なら、そんな議員を選ばなければいいわけだし、強行採決するような国会議員の集まりなら、解散を迫るのが筋のような気もします。が、いずれ、日本という国が、世界における立場として、どのような形を作るのか大きな岐路に立たされているような気がします。。。
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2015年7月16日(木)赤口

昨日の国会特別委員会にて、集団的自衛権の行使などが可能となる安全保障関連法案10本が可決されたこの後、衆議院―参議院と流れ、法案審議がされるようだが、おそらく今の政治情勢から鑑みても、法案成立は必至だろう。これらの関連法案は自衛隊法や武力攻撃事態法や周辺事態法の改正が柱となっており、地理的制約を撤廃する「重要影響事態法案」もその中に含まれる。これらの関連法案が成立すれば、自衛隊の海外での活動は大きく拡大し、ドンパチの戦争に加担できる可能性は大きく高まるわけである

さて、そんなこれからの国の形を決めるような大切な議論について、当の首相が「国民の大半が理解していないことは理解している」と明言しながら、採決に走り、昨日のような採決風景になっている。その中継を見ていて思ったことは、いつの間に日本は、民主主義を放棄したのだろうということである。民主主義は、国民の意志を尊重し、それに従う形で国の形を作っていくことではないだろうかギリシアの首相はぎりぎりまで戦っていたが、国民投票の6割が反対と言っていたことに対して、EU各国にNOを突き付けていた。国民の意志に従った形だ。(結局、財政再建法案を可決したようだが、この話は、お金の借り手と貸し手の話で、貸した金返せよ、という至極当たり前の話。借りた金無駄遣いしていたんだから、無駄遣いやめろよ、という話。マイクロファイナンスの話に近い、制度改革の話のような気がする。)それが、国民の代弁者たる国会議員の仕事なのではないだろうかしかし、与党の圧倒多数という多数決の原理で採決を行った。そこには、国会議員ひとりひとりの意志はあったのだろうか疑問が残る。

そもそも、このような国の形を決めることに、時間的制約などあるのだろうかいずれ決めなければならない、ということは、予め決まっていることに対して使われること。そんな上意下達の形で、国の方針を決めること自体、国民を蔑ろにしていることではないだろうか例えばの話である。国をある一つの企業と捉え、首相が社長で、国会議員が取締役会と考えた場合、国民は一般社員と捉えることができるであろう。その時、会社の方針に対して、一般社員の8割が理解できず、上からの命令だ、となったら、その会社はどうなるであろうかおそらく、業務効率は低下し、業績は悪化し、やめていくものも出てくるであろう。そんな事態になったら、その会社の行く末は、どうなるかそれくらいは想像できるのではないだろうかよく、どこまで議論しても決まるわけない、などとマスコミは騒ぎ立てているようだが、そこに正義があり、それを納得させるだけの志があるならば、この国を支えていけるだけの国民の理解は得られるのではないだろうか最近の議論は、どうもおかしい。沖縄の件にしてもしかり。今回の件にしてもしかり。原発再稼働の議論も、311の教訓など忘れたかのような議論のされ方がされている。

先日、ある学生たちの会話を聞いた。「私たちも、戦争に駆り出されるのかなー、私やだなー。」「えっ、でも俺戦争行ってみたい。銃とか撃ってみたい。」だそうです。私は近くにいたので、思わず、「戦争に行くってことは、人を殺すことになるんだよ。ある兵隊さんが言っていたけど、銃を遊びで撃つのとはわけが違って、人に向けて撃つことは、非常に重いことなんだそうだよ。というのは、人に向けて撃ち、その人を殺した場合、その殺された人の人生も背負うことを感じるらしいからね。そして、毎晩夢にうなされる日々が続き、多くの人はノイローゼになり、自らの命を絶つ人もいるらしいよ。」ということを言ってみた。反応としては、「知らなかったー」みたいな感じ。それはそうだよね、人を殺すということ、人の死からほど遠い世界に生きている現代の若者にとって、人の死はあまりにも遠い。そんな人たちの理解を得るためには、戦争に関わることに対して、数年で決まるわけもなく。これが、すべての真実だとは言わないが、こう思っている人がいるということは、事実の一端。

人が人を殺してはいけない理由は、おそらく特にない。あるとすれば、人類の存続のため、という自己都合に基づく考えだけなのかもしれない。(そのために、自然との共生、などと言っても、自己都合という我儘な考えからは理解は難しいのかもしれない。)しかし、これは巡り巡れば、自分の首を真綿で締めるようなもの。それを先祖代々理解していたから、人を殺してはいけない、という道徳概念が生まれたような気がする。だいぶ昔になるが、「ひかりごけ」という小説を読んだ。船で遭難した人たちが、次々に亡くなっていく中、生き残るためにその人の肉を食べて生きながらえる。そして、救助された人は、人の肉を食べたとして裁判されるが、被告人は食べていない、と一貫して否定する。しかし、判決前、その生きながらえた場所に生えていたひかりごけが脳裏に浮かぶそうです。その光は、人が人の肉を食べることに対する、罪の重さを責め入るような淡い不気味な感じの光だった、みたいな話。(すみません、記憶があいまいなもので。おそらくそんな感じの小説だったような。)

平和な世界が、戦いのない世界だけとは思わない。が、少なくとも、戦うよりも笑っていられる世界の方が、私は平和だと思っている。なぜ、この時点で戦争への着火点が近付くような法案を決めようとするのか国の形を決めようとする議論にやはり時間的制約などないのではないかと思う。そして、続く限り、100年でも200年でも議論をすればいいのではないかと思う。個人的には、こんな法案を決めるのなら、スイスがやったように、永世中立の宣言でもした方がよっぽどいいような気がする。(但し、日本は海洋国の島国なので、この線引きが難しいのも問題のひとつであるような気もするが。)が、いずれ、日本という国が、世界における立場として、どのような形を作るのか大きな岐路に立たされているような気がします。。。
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