今回はフェデリコの晩年の傑作Ribotのお話です。

とはいえ、Ribotについて語られた素晴らしいサイトはたくさんあります。

16戦16勝、フェデリコの集大成。凱旋門賞二連覇。史上最強のサラブレッド。

 

 

じゃあさえこは何を書けるのか。

Ribot愛でも書きましょう(笑)

 

わたしももちろんリボーが好きです。最初に意識したのはダビスタで、やっぱり石川ワタルさんの「世界の名馬ファイル」でした。それからI理論でリボーが評価一位だったので、自分で九代血統表を書いて、ほほーなんて思ったりして。Youtubeができてからはリボーの動画を探したりしたものですから、ドルメレットでリボー通りを見つけたときは、そりゃ嬉しかったものです。

 

ではでは。最近、「馬の百科」を読んで見つけたMagistrisマジストリスについて書きましょう。馬の百科は、元々イタリア人のマウリツィオ・ボンジャンニさんの書いた「Guida al cavallo」を翻訳、加筆したものらしく、マウリツィオさんはフェデリコ・テシオについて何カ所か言及されてます。

 

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その本に、馬の知性という項目があります。

『馬は仲間の馬の好き嫌いをはっきり示す。リボー号は同じ厩舎のマジストリス号とは固い絆で結ばれていた。リボー号がフランスやイギリスに遠征するとき、常に彼に帯同して、リボーを落ち着かせて楽しい気持ちにさせていた』

 

BOYS LOVEですね(笑)このマジストリス号を検索していますと、結構でてきます。リボーと併せ馬している写真もでてきました。リボーの勝ったヴィットゥオーネ賞では二着に入線しているものの、競争成績はリボーと比較になりません。

 

Magistris 1952 仏産 父Goyama 母Macchietta 母の父Niccolo Dellarca

フェデリコがフランスにGoyamaを種付けにいかせて現地で産まれたか、

フランスのセリなどで購入したかですかね。

 

女傑Astolfinaの子、Audranも1952年の産まれです。

父はその母を凱旋門賞で下したMigoli。(しかし成績は凡庸。両巨頭のTrevisanaがティエポロを初めとする多くの名馬を生み出したのに、アストルフィーナの繁殖成績は良くなかった)

 

他に伊オークスに勝ったTheodoricaやDerainも同い年です。

リボー、マジストリス、オードラン、テオドリカ、デライン。

年に数十頭しか産まれないドルメロ牧場で、みんな仲良く遊んでいたのかもしれませんね。

 

リボーは晩年、とても神経質になって厩務員を困らせたと言います。もしかしたら、このマジストリスがいないことで、彼の不安や寂しさを紛らわせる事が出来なかったのかもしれません。

 

リボーのクラシック登録について、今更!?みたいな記事をみつけました。

http://www.storiedisport.it/?p=106

 

Purtroppo il cavallo non poté gareggiare nel Derby Italiano. Infatti, pur di discendenza, proprietà e allevamento italiani, Ribot era di nascita inglese. La madre Romanella, per giunta, durante la gravidanza non era stata iscritta all'importante corsa, cosa che avrebbe permesso un'eccezione al regolamento.

残念ながらリボーはイタリアダービーに出走することはできませんでした。

リボーの母はイタリア産でしたが、リボーは英国での誕生だったからです。

また、母のロマネラがリボーを妊娠中に何らの例外的措置を執らなかったのです。

 

 

これ本当?これがリボーがクラシック登録しなかった理由?フェデリコがリボーにあまり期待していなかったからだとか、違う挑戦をさせようと思っていたから、だとか。そういうのじゃなくて、日本で言うところのマル外になるから、ダービーに出れません(今はでれましたよね?)って理由で、リボーがダービーに出れてなかったのなら、なんといいいますか。なーんだって気持ちです。でも、例外的措置を執らなかったとも書いてますので、何らかの登録や措置をしていれば、英国生まれでも伊ダービーにでれていたのかもしれませんね。

 

この時代のルールブックや、事例が見つかればこの説を裏付けできるかもしれませんね。

しかしこんな単純な事がそれほど広まっていなかったとは、なんとも信じがたい。

 

 

最近の知名度について。

トリノにホームステイしているときに、大家さんたちと飲む機会がありまして、良い感じで酔っ払った時に、恋愛話になったんですね。そしたら、イタリア語で、

Gli umomini a che selvono?

男なんて、何の役に立つの?

って、話になったんですね。

で、私は酔っ払いながら辞書引いて、

Stallone!種馬!って言ったんですね。

そしたら、しばらくして笑われて、

リボー!って言われたんです。

私は、ん?!ってなりまして。

上手く聞き返せなかったのですが、大家さんはフェデリコテシオを全く知りませんでしたし、私からリボーの話なんてしてませんでしたので、どうして大家さんからリボーって言葉がでたのか、未だに不思議なんです。

 

で、私の推測ですが。

リボーが何者かよく分からない。もしくは、昔のイタリアの有名な馬だということくらいは知っている。種馬のスラングとしてリボーという言葉になっている?

 

うーん。トリノだけのスラングなのか、私の勘違いなのか、わかりません。どなたか真相をご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください。

 

 

 

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このブログ書いているときに、ふと石川ワタルさんを検索していると、昨年夏にお亡くなりになっていたことを知りました。私がドルメレットに行くきっかけになった人であり、イタリアへいき、トリノで掛け替えのない出会い、時間を過ごすことが出来たエネルギー源の本の著者です。

謹んでご冥福をお祈りします。もっと早くにファンレターをだしておくべきでした。

 

 

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今でこそイタリアモードといえば、ファッションの先進国ですが、19世紀後半フェデリコ・テシオの時代、ファッションの最先端といえばフランスであり、クラシックの本場はイギリスでした。
 
じゃあイタリアはというと、イギリスの亜流。イギリスの紳士服の工場であり、最先端のファッションを求める人たちはパリに出てあつらえるのが主流。ファッションブランドの歴史を見てみると、フェデリコの時代から現存するイタリアブランドは、ブルガリ(1884、ただし創業者はギリシャ人)、トラサルディ(1910)、プラダ(1913)、フェンディ(1925)、フィラ(1926)、フェラガモ(1935)、プッチ(1949)、マックスマーラ(1951)といったところでしょうか。でも、創業年というのは自称であって、実際名前が売れ出したのは後のことだったりしますよね。
 

サッカーのユニフォームだってひとつのブランド。kappaとかかっこいい。
 
しかし、お金をだしたら誰でも買えるのはNegozio(店)であって、フェデリコのような貴族階級はSartoria(仕立屋)で誂えるのが普通だったと思います。この辺は漫画「王様の仕立屋」を読むと楽しく理解できます。当時、イタリアでテーラードスーツを盛んに作っていたのは、ミラノ、フィレンツェ、ナポリ、そしてシチリアといったところで、特にミラノ仕立て、ナポリ仕立てという言葉どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。英国式の模倣から始まったイタリアのテーラードスーツはやがてイタリア独自の発展をみせてイタリアンクラシコという様式を生み出すわけです。けっこうオシャレさんだったフェデリコはおそらくはイタリア各地にいきつけのサルトリアを持っていて、季節や行事のたびに誂えていたと思います。
 

ノバラには聖職者のための服屋がありました。
 
英国式の教育と教養を身につけたフェデリコも基本的には英国式のスーツを纏い、ソフト帽をかぶり、ステッキを持ち、スラックスの裾はダブルに折り(この発祥の一説に、英国のルイスハムという馬主がぬかるんだ馬場を嫌って折り上げたという説がある)牧場や競馬場に現れたようです。残された写真のほとんどでステッキを手にして、帽子をかぶっているのがなんとも当時のイタリア人らしいです。
 
ファッションを語るとき、男服よりも女服で語る方が資料も多く、実に分かりやすいのは、それだけ女性服はバリエーションに富んでいて、何よりいつの時代も女性はオシャレだからだと思います。
 
フェデリコの妻、リディアには多くの楽しみが生まれた時代だったかもしれません。
リディアが生まれた時、女性はコルセットで縛り付け、日傘をさしバッスルスタイルの優雅なドレスで歩くのが主流だったところ、自転車や乗馬のためのドロワーズやブルマが登場。リディアもおっかなびっくり自転車に乗ったり、それまで淑やかだった騎乗スタイルも男性のように激しく乗ることも可能になったことでしょう。コルセットに変わり、登場したブラジャーも女性の活動を大きく補助したことでしょう。そして1910年代になるとシャネルが精力的に活動。また、その不倶戴天の好敵手イタリアのエルザ·スキャパレリらが、世の女性たちをより輝かせることに成功します。旧態然とした格式の中で育ったリディアがどこまで最先端のモードに憧れたのかは分かりませんが、フェデリコがテーラードスーツを着こなすのですから、その傍らでなんら遜色のない姿でいたことは想像に難くありません。
 

ミラノの高級ブランド街といえばモンテナポレオーネ。観光客もいっぱい。に止まっていた謎のスポーツカー。
 
フェデリコに何かと付きまとうムッソリーニも、イタリアンモードを発展させた影の存在といえるかもしれません。あらゆる文化でイタリアは世界最高であるべきだと考えるムッソリーニは、これまたフェデリコに縁深いトリノに国立モード協会を設立。翌年には人工繊維工場、また芸術家を服飾の世界に取り込み、国威掲揚を意図するデザインをさせる。(どうやらこの裏には、富裕層が服はフランス、パリへ買いに行って国内に金を落とさないこと、また戦争によりフランスとの貿易が制限されたことも事情にあるらしい)
 
しかし、皮肉にも敗戦後イタリアのファッション業界は世界に名だたる進歩を遂げるのだから、戦争というのは何を生み出すのか分からないものですね。
 
もっとイタリアンクラシコの知識、教養が入ればもっとこのあたり楽しめそうなので、これからも勉強したい分野です。
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フェデリコは1939年、イタリア国の上院議員に任命されます。
政治活動をするというのは、当時の貴族としての務めの一つであり、
ムッソリーニ独裁政権の議員になるということは自然、ファシスト党の議員になったようでした。
フェデリコがムッソリーニのファシズムに共感したとは思えないのですが、少なくともスターリンのボリシェヴィキに対抗する為にはムッソリーニを支援することがその時は最良であると、イタリア貴族、富裕層が思っていたフシがあります。
 
何せ社会主義国になってしまうと、土地は国家の帰属になってしまいうので、地代の上がりで生計を立てている地方領主たちはたまったもんじゃありません。ドルメレット他、牧場を展開するフェデリコも例外でなく、せっかく軌道に乗ってきたサラブレッド生産がご破算になるかもしれません。
 
このあたり、とても気楽に語れる話ではないと思います。ご自身で色々お調べになり、それぞれの考えを構築されるのが一番だと思います。
 
そうそう。有名な話がありますよね。
1938年、ネアルコを6万£で売り払った後、フェデリコは議会に呼び出され質問されます。
 
Perche' ti venduto Nearco?
なぜネアルコを売ったのだ?
Perche' adesso in Italy, non c'e le cose di valore settantamila£?
今のイタリアに6万£の価値のあるものが今のイタリアにありますか?
Il Mondo,L'Italia sarà sorpreso di avere il potere di creare il cavallo.
世界は、イタリアにはこんな馬を作り出せるんだと驚くでしょう。
 
かっこいいよフェデリコ!
(私の考えたイタリア語なのでアテにしないでね(^^;)
 
ローマの議事堂的なとこだったような、ような…。
 
フェデリコが、イギリス貴族風の教育を受けていたのならば、あまり熱心に議員活動はしていなかったのではないでしょうか。貴族議員というのは名誉職みたいなもので、国会に席はあるものの真面目に出席するものではなかったようです。強い理想を持ち、選挙で選ばれていない貴族議員にまっとうな政治活動ができるはずがなく、貴族議員が全員真面目に国会に登壇したら大変な混乱を招くといわれたようです。
 
イモラにあったWWIIの記念碑。日時的にイタリアの降伏寸前、ムッソリーニが捉えられる直前。
 
フェデリコは他にもドルメレット市長や、競馬関係の役員、農業委員会員、また1915年から第一次世界大戦にも出征しているようです。(当時既に46歳なので名誉軍人みたいなものだったとおもいます。階級は陸軍大尉だったようです)
 
よく語られる貴族としての務め、ノブレスオブリージュ。
このなんとも便利な言葉が、フェデリコの人生にすごく、良くも悪くも根深く関わっていたのはないかなぁと最近思うようになりました。
 
フェデリコもイタリア人、イタリア人って服を着て立っているだけでどこか格好いい。
次回はフェデリコとイタリアファッションみたいなお話をしたいと思います。
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