酒場人生覚え書き -202ページ目

こころ絵 『地蔵絵を』

春行士俳句の世界』( http://profile.ameba.jp/tak418/ )の中で

 

日本人にとって特別な感情を持つ月の一つですね。
俳句において、「八月」は秋の季語です。
さきほど読んだブログで、どうしてもご紹介したいものがありまし

てここにリンクを貼ります。 
   
http://ameblo.jp/lionman/entry-10118946762.html

僕が育った町、甲府のお話です。「しんちゃん」のドキュメント

です


春行士さんに紹介していただいたお陰で、ひとりでも多くの方に読

んでただきたいという願いが叶いました。


そして春行士さんが所属なさっている“五色会8月例会”でお読み

になった


天の川  今無き星も  光りつつ   春行士


の一句を“しんちゃんシリーズ”の最後のためにと描いた『しんちゃ

ん地蔵』に添えることができました。

http://ameblo.jp/lionman/entry-10132014467.html


さらに先月末


地蔵絵を 描くしづ心 八月尽    春行士

(じぞうえをかくしずごころはちがつじん)


の句を贈っていただいたのに、無為のなかに日々を過ごしていま

したが、いまやっと秋の訪れの中でこころ静かに『しんちゃん地蔵

の筆をとることが出来ました。


           


やっと私の中で八月が終わったような気がしています。

聖書と短刀 3/7

甲州屋一家”の大幹部の“小林”や“井波”は、無学のたたき上げというのコンプレッ

クスもあったのか、大学生の四郎をよく可愛がり、キャバレーなどにいくときは、良く連

れ回したし、行きつけの喫茶店などはフリーで入り浸ることが出来るように話をつけて

くれたりと、破格の扱いであった。


その事が四郎をとんでも無い抗争にきこむ結果となってしまったのである。


                                   

それは、“甲州屋一家”の新年宴会場が発端であった。


“新年会には必ず顔出せや”という小林幹部の言葉にもさからえず、学生服のまま軽

い気持ちで出掛けていった四郎だが、甲府市のはずれ湯村温泉郷のTホテル大宴会

場には県下の代貸や、幹部が続々と集まって来る。


その仰々しい盛大さに度胆を抜かれながらも、大広間に忍び込むように入って末席の

方に座って居たのだが、“小林”は四郎と眼が合うと、はるか上席の方から手招きをし

て「よぉ!お前の席はこっちだ」という。


これには、そこに居合わせた組員もそうだが、四郎にとっては消え入りたいほどの驚

きだった。


指された席は、横流れ上から数えて5席目で幹部と同格席なのである。


それで無くとも学生服等を着込んだ四郎など、とんでもなく場違いな感じであるものが、

この席順はいくらなんでも不釣り合いである。

その世界に詳しくないといっても、これには驚いたし困惑した。
新年会の席順一つあがる為に何年もの刑務所ぐらしをしてきたり、命を賭けた出入り

も平然とやったりするのである。


四郎がフトした切っ掛けで、大幹部連中の庇護を受けるようになるまでは、何かにつ

けて因縁をつけたり、大学の運動部から金をまきあげたりしていた連中の、はるか上

席なのである。


「とんでもないことです」と二度三度は辞退したものの、半強請にとうとうそこに座る事

になってしまった。新年会の席順はとりも直さず、その年の序列であり、兵隊の階級

にも似た厳しい掟である。


それまで高飛車で威勢のよかった組員の中でも、手の平をかえすように迎合してくる

のも居れば、どの世界にも古参兵的な男はいるもので下積み何十年で、なおうだつ

のあがらぬ若い衆などは、嫉妬と羨望と憎悪にみちた鋭い眼光を、刺すように投げて

来た。


これも当たり前の事で、命をまとに何年と励んできた者にしたら、昨日や今日顔を出

した一介の不良学生が幹部扱いであるとは、どうにも腹の虫が治まらないのは当た

り前であろう。 
                               


酒宴がすすみ、お銚子片手に酒を注ぎにきた若い衆が「手前ぇこんな上に座れたか

らといってでけえツラすると、足とっちまうぞ!」等とすごんだりする。


貧乏学生が食べたこともない膳の料理も、砂をかむような味気ないものとなり、こころ

穏やかでない殺伐とした年の始まりとなった。

            

                                              続

聖書と短刀 2/7

権威」という小冊子は520頁にわたって“教え”が掲っていた。

そのなかでも、当時の四郎のこころに残る二篇は次のようなものだった。

 
第1篇 力の泉 

第1章 雨後の月
  
我れ自らの過去に無く

我れ自らの現状に泣く 


誰よりも自分が悪い 

我が影の余りに醜きを悲む 


人を責めたことの多くは

自分が悪いからであった 


悔恨の涙を持って 

僅かに頭を挙ぐれば

 
雨後の月我が為に輝く。                                    


第3篇 権威 

第1章 ただ一人 
 
人生はただ一人行く旅ぞ 

最後は頼りは 淋しくとも自分だけである

 
ただ一人行くべき 自己と知ったとき 

どうして粗末にされようぞ 

どうして充さないでよかろうぞ 

どうして高めないでよかろうぞ 


確かにそれらは不合理のつまった聖書などよりも、納得のゆく教えだったし、なにより

も口うるさい母の為に時折開けて読み返してもいた。


しかし、煮えたぎるような若い血潮は、辛気臭い感じのするそれらに少なからず辟易

(へきえき)としていた。

そして、その小冊子も机の片隅に押しやられた。


                                                                    
   
持って生まれた気性はいかんともしがたく、負けず嫌いで、そのうえ安っぽいヒロイズ

ムにあこがれ、何かにつけて粗暴ではあった四郎だったが、弱い者いじめだけはやら

なかった。


その“正義漢”気どりだったのも高校入学の頃までで、大学に入って間もなく街のヤク

ザの庇護さえ受ける“不良学生”になっていた。



甲府市内から郡部に至るまで、勢力の拡大を企てる博徒“甲州屋一家”は、くそ度胸

を看板に下町をのし歩き、輩下に少なからぬチンピラのついている四郎に目をつけ、組

外の勢力として利用しようとしたとしても、当たり前の事だったかもしれない。


                                             続


聖書と短刀 1/7

生原四郎は太平洋戦争が勃発する一年前に、東京四谷に生まれたが、戦況にかげり

が見え始めた昭和18年ごろ甲府に疎開した。


やがて疎開先も戦火に失い、終戦の間際に親戚を頼って引っ越したのは、爆撃もされ

ないだろうという片田舎で、そこで終戦を迎えた。


四郎の母は敬虔なキリスト教信者だったから、家族全員が無事であったことも、母の

信仰心のお陰だという人もいた。

 
                                     


その母は教会も無い山村に越してからは、森羅万象がその信仰の対象であったようだ。


5人の育ち盛りの男の子を抱え、敗戦直後から窮乏生活との闘いの中で、わずかであ

っても“献金”をもって、バスに乗り隣町の教会に行く事など、想いもよらなかったに違い

ない。


四郎は日の出に向かって祈り、日没の西の山に向かって祈る母の姿を、幾度となく見た

し、食事の前に文字切り型の祈りこそさせられなかったが、神に感謝してから食べろと口

うるさく云わわれものだ。


終戦から五年ほど経った小学校三年の頃には、生原の家も経済的に少しばかり余裕

出てきたのか、四郎は弟ともども隣町にある“教会”の日曜学校に通わされた。


十字架に向かって祈りらしい祈りを捧げ、賛美歌を歌ったのはその頃が最後で、小学

も高学年になってくると神の存在など信じられなくなり、クリスマスに貰えるプレゼン

トだけが楽しみで通ったようなものだ。

全てを即物的に考えないと気が済まないという、妙にへんてこりんな子供になってしま

っていた。


中学時代になり、兄達の唯物論、唯心論、弁証法を知りたがり、生かじりの知識で

呑みにした唯物論に、理知的なオトナの世界に入り込んだような錯覚を覚え、キリスト

教ばかりか、全ての宗教そのものが全くナンセンスなものと決めつけてしまった。


そうなると何かにつけて信仰をもとにした母の説教は、納得いかないばかりか腹立たし

さまで感じてしまうようになった。


他の四人の息子達とちがい幼い頃から気性は激しく、粗暴さのめだつ四郎は母親に

とって心配の種だった。


やがて説教にも耳をかさなくなってしまった彼に、古ぼけた小冊子を与えた。


大正時代の中頃に発行された葉書より一回り小さな分厚い冊子は、表紙の「権威

とうい金文字はすり切れ、粗紙に印刷された文字はところどころかすれていた。


四郎の母が娘時代から幾度も幾度も読み返していたもので、嫁入りの時に持って来

たという。

 
                                       

いまになればその名も知りようもないが、牧師で詩人でもあった作者が、聖書の心を

もとに、人の生き方の教えや、人生の指針や、心構えを幾つかの章に分け、いまなら

いざ知らず、その時代の信心深い純朴な青少年達のこころを捉えそうな、美しい言葉

で書きつらねたものだった。


                                                続

こころ絵 『楽酒』


昔々はやった歌に「酒は涙かため息か/心の憂さの捨て所」なんて

のがりました。


美空ひばりさんの「悲しい酒」もありました。


なんで酒が登場する歌って悲しかったり、辛かったり、寂しかったりす

るんでしょうねぇ。


木枯らしがびゅーびゅーと吹く北国の居酒屋で暗い過去を背負って飲

む酒も、別れた女にすまぬすまぬと侘びながらあおる酒も、みんな辛

気くさいうえに貧乏の匂いがします・・・・酒は楽しくて幸せになる為に在

りますのに。


その昔々の大昔、“”は神々にお供えする神聖なものでした。

 
             


お酒をお供えするときは、両手にもった鈴を振り鳴らしてながら踊っ

て、神を楽しませるふりをして、自分たちも御神酒を飲んで楽しんじ

ゃった。


太古のお酒は“”でもなければ“ため息”でもありませんし、まして

や“心の憂さのて所”などではありません。


・・・・等と言いながら、届かぬ想いを酒に浮かべ、ため息といっしょ

に飲み干ししょうか。


焼鳥屋 『浜一』 3/3

オヤジさんが亡くなってから「まだオヤジにはかなわないよ・・・・」等と言いながらも、

刺しも、焼き具合も、決して負けない美味さで頑張っていたが、太鼓腹のオヤジさんが

そこにいないことの侘びしさみたいなものが胸に刺さってきた。


客もずいぶんと減ったようだ。


麦田町から本牧へ店が移った頃から、道交法もうるさくなってきたし、何よりも帰り道で
はなくなっていたから、すっかりと足が遠のいてしまっていた。


              


電話のあったその夜から数日後、本牧一丁目に移転した『浜一』を訪ねた。


少し遠回りになるが「どこか寄ってきましょうよ・・・・」という、関内『月』のベテランバ

ーテンダー中村さんに誘われてのことだった。小雨が降る夜更けだった。


薄暗い街路灯のほかは、店の看板もない路地に、雨に滲むような赤提灯があった。


麦田の頃の店構えと違い、風情はなんにも感じられないアルミサッシの引き戸だった

し、店の中はガタビシした椅子や、反り返ったカウンターや、煤けたダクトや、ちぎれ

そうなメニュー表や、油が滲みこんだ七色唐辛子のヒョウタンが一切合切なくなり、

新しいものと取り替えられていた。


麦田時代の『浜一』の人も道具もあらゆるものをぶちまけたような、雑然としたなかに

感じていた暖かみなどは、無くなっていた。


   

そこに見慣れた顔がなければ、まったく別の店だった・・・・とは言え、昔と変わらぬ声で

電話をしてきてくれたお母さんは、面影はとどめていても、カウンターの奥の椅子に、し

なびた風船のように座っているだけだったし、ヨッちゃんは自慢のリーゼントも整えられ

ないぐらい薄くなった髪を、 バンダナで隠しカウンターに立っていた。


あの“弟”は・・・・年老いた犬のようにトロンとした眼でオレの顔を見たが、もうあの人な

つっこい笑顔は忘れたかのようだ。


だれもいない店がこれほど寂寥感のあるものだとは思わなかった。


肩で押し合うかのように客がたむろした、オヤジさんがいた頃の古ぼけた『浜一』の情

景が、胸の中を通り過ぎた。


「お母さんゴメンね。車だから酒も飲めないんだよ・・・・」


「いいんだよ、イシハラさんが来てくれると、これも(ヨッちゃん)元気になるんだよお」


「ヨッちゃん、家に帰ってから一杯やるから、そこのある焼き鳥ぜんぶ焼いてよ」


「ぜんぶう~~」


「一本のこらずだよ・・・・出し惜しみするなよ」


今夜、なんにめの客だったんだろう、ヨッちゃんは少し嬉しそうな顔をして、勢いよく破

れ団扇で煙を追い上げた。



                 
機会があったら本牧一丁目の交差点から、少し奥まった『浜一』を訪ねてみてくださ

い・・・・そのむかし本牧少年だったプライドと面影を、リーゼントらしきヘアスタイルに

とどめ、年老いた母とすっかり元気のなくなった“”を労りながら、一本の焼き鳥に

オヤジの遺志を込めて焼く“ヨッちゃん”と、お嫁さんもいない息子二人を、抱きかか

えるように生きる小さな“お母さん”のいる『浜一』は、どこにも負けない美味い焼き

鳥に、人情のひとふりを添え、今どき珍しい純朴な笑顔の母と子が迎えてくれるは

ずです。


「中田市長さんが来てくれたんだよぉ~」


自慢げに何度も言ったお母さんの笑顔は、屋台時代から50年以上やってきた『浜一

のかすかな誇りを込めたものだったろうか。

それとも、まだそこにいるような気がしているオヤジさんへの報告だったのか・・・・。                                                              

                                               終               

焼鳥屋 『浜一』 2/3

浜一』では客の注文があってから、鶏やモツや豚を串刺して、備長炭で焼いてくれる

のだが、焼き上げた串を乗せた皿は、オヤジ殿が“ホラ、食ってみろ”と言うように黙

って突き出す。


古参の常連客でも、屋台時代から通っているというヤクザの親分でも、メロメロな酔客
でも、この皿を受け取るときは一様に嬉しそうな顔をする・・・・文句なしに美味いのだ。


大儲けに儲けた“パチンコ屋”をたたむハメになったのも、元はといえばこのオヤジの

道楽からで、群馬の家屋敷も人手に渡り、親子6人で夜逃げ同然に出奔し、流れ着い

たのが横浜だった。
                              

家族に飯を食わせるために、見よう見まねではじめたのが、借りた屋台ではじめた“
鳥屋
”で、その時代を含めると40年は経ったよ・・・・と、話してくれたのは通い始めて2
年も経った頃だろうか、深夜に寄った時に他に客がいなかったこともあってか、日ごろ
無愛想なオヤジが、なまりのある口調で講釈師のようによどみなく喋ってくれた。


「本当ねぇ、そりゃあ細い丸木橋をつま先で渡るように心細かったねぇ、あの頃は。夜
おそくにこれ(息子)の弟をオンブして、これの手を引いては家で刺した焼き鳥をお父
さんの屋台まで運ぶんだヨオ。冬の寒い夜とか雨の夜は辛かったけど、頑張ってるこ
の人を見ると、辛いなんて一言も言えなかったよ。だからねえこうして店が持てたとき
の嬉しさってのはなかったヨオ・・・・」


笑いながらそんな話をしてくれたお母さんの頬に涙が伝わり落ち、それに照れてはま
た笑う姿や、焼き台の炭をやたらとかき回していたオヤジの仏頂面を想い出す度に、
胸が熱くなる。


屋号の『浜一』は“横浜でいちばん美味い焼鳥屋”を目指して付けたのだと、すこし

意げに話してくれた時のオヤジさんもいい顔だった。                              


少しばかりご無沙汰をしている間に、オヤジさんが亡くなったと風の便りに聞いた。


半信半疑で寄ってみたが、青いトタン張りの雨戸が閉められ、そこに『とうぶん休みます

とぎこちない字の張り紙があるだけだった・・・・10年ほど前のことだ。


薄闇の中に灯の点った赤提灯がぶら下がったの見たとき、何故かドキッとした・・・気にな

り始めてから3週間ばかり後だった。



滑りの悪い引き戸を開けて店に入った。


「イシハラさん来てくれたの・・・・お父さんダメだったんだよオ」


お母さんが客のいないカウンターから立ち上がって迎えてくれた。自分の言葉に悲しみを

引き出されたのか、うっすらと涙が浮かんだ。


ヨッちゃんはオヤジさんが立っていた場所に立ち、“いらっしゃい”と照れくさいような笑顔

でいった。


「オヤジさん残念だったな・・・・これからはオマエが頑張らなくっちゃあダメだぞ!!」


「ああ」


「オヤジに負けるんじゃアねえぞ」


「・・・・・」


「おい、聞いてるのか」


「ああ」


「ああ・ああばっかりで張合いのねえヤツだな」


ヨッちゃんの顔がベソをかいたようにゆがんだ。


「イシハラさんが来てくれて元気が出たよぉ・・・・これからもよろしくお願いしますネ」


「今まで以上に来るからサ・・・・三人で力あわせて頑張ってよオ」


ずっと子供のままの弟だけが、いつもと変わらない笑顔で“うんうん”と話を聞いて

いた。


                                            続                                             
    

焼鳥屋 『浜一』 1/3

「マスター女性から電話よ」


「えっ?!じょ・せ・い~・・・・ダレだろオ~?」


「イヤねえ・・・・ニヤけちゃって」


「イシハラさん元気なの?」


「えっ!!この声は・・・・おかあさん?」


「そお、“浜一”よオ・・・・病気したって聞いたから心配になってねえ・・・・もう大丈夫なの?」


「元気だよ。おかあさんは元気?」


「元気でやってるよ」


「よかった。近々寄らせてもらうよ」


「無理しなくて良いからね」


「オレもねずっと気になってたから、本当に行くよ」


「そお、ありがと・・・・」


焼鳥屋『浜一』との付き合いは25年以上になるだろうか。


古くなった建物をビルにするからと立ち退きをせまられ、本牧一丁目の交差点近くに

越してから5年ほど経ち、ここ数年は顔も出していない。


それまでは元町から麦田のトンネルを通り過ぎた辺りにあった。


何の気なしに立ち寄ったその店は、年代物の赤提灯は破れ、ガタビシと締まりの悪

いガラス戸は油煙でくもり、8人も座れば一杯になってしまうデコラばりのカウンター

は、あちこち反っくり返り、なみなみと注いだコップ酒などが零れたりする。


壁際には申しわけ程度の客席がひとつと、奥には物置とも客席ともつかない小上(こ

あがり)がりがあり、カウンターの中には親子とおぼしき二人が気忙しく働いていた。


60歳はとうに越えただろうオヤジは、小太りで背が低く、どこを観ているか判らないほ

どまぶたが垂れ下がってはいるが、真冬でもTシャツ一枚で、幅広に鉢巻きにした手

拭がトレードマークなのだろう。



息子は理科の標本室にある骸骨の模型に、祭りのハンテンを着せたような感じだった

が、頭は前髪を押っ立てポマードで固めた“リーゼント”で、それがこの古ぼけた焼鳥

屋にはなによりも不似合いな感じがした。

その頃でもゴールデンカップスが好きだし、キャロルが好きだった。


夏には熱風が吹き込み、冬には北風が通り抜けていく、その焼鳥屋が何故か気に入

り足繁く通うようになった。


ひっきりなしの注文を二人して捌(さば)くせいもあるのだろう、客が来てもチロリと観る

だけで「いらっしゃい」も言わない。


その代わり無愛想な親父と息子に代わって、カウンターの隅に座ったおかあさんが、す

こし訛のある明るく温かい声色で「いらっしゃい」とか「今夜は寒いねえ」とか「暑いのに

良く来てくれたねぇ」などと声をかけてくれる。


何回か通った頃「イシハラさんいらっしゃい」と名指しで言われたときは、これで常連に

なれたぞと、嬉しかったものだ。


その頃は本牧に住んでいたから、毎夜『浜一』の前を通って帰る。


暇なときには息子の“ヨッちゃん”は、“”と二人でガードレールに腰掛けて、オレの

車を待ち伏せしし、手を振るものだから酔っていようと、眠かろうと必ず寄った。


                                    

30歳を越えたのに子供のままの“”は、コンビニのお菓子やアイスが大好きだから、

店に入る前にオレの手を引いて買いに行こうとせがむ・・・・両手一杯になるほど買うの

が好きだったが、オヤジさんやお母さんから叱られるものだから、あちこちのポケットに

詰め込んでから、 がに股になっても素知らぬ顔で自慢げにエスコートしてくれる。


お母さんもそんなことはお見通しで「イシハラさんいつもスイマセンねえ」と言うし、“ヨッ

ちゃん”は焼き鳥が焼き上がる前のつなぎに、何枚かの煎餅を黙って置いてくれたり

するのだ。

                                             続                    
                                 

こころ絵 『悲しみの数だけ』

「どお、少しは元気になった?」

「うーん・・・・」

「まだ辛いのか?」

「うん」

「そんなに好きだったんだねえ」

「うん」

「でもな、悲しいことはいくら考えても悲しいだけだよ」

「うん」
「早く忘れて、前のように元気になろうよ」

「うん」

「言っちゃあ悪いけど、いまのキミはブスだぞ」

「・・・・・・」

「ほらほら、そのやつれた顔、トロンとした光のない眼、声だって暗くて力がないじゃん。そんなんじゃあダレも寄ってこないし、新しい恋だって始まらないよ」

「新しい恋なんていらないもん・・・・もうイヤなんだもん」

 

『心を受け取ると書いて愛』・・・・フラれてボロボロにだった“あの子”に、もう少し時間がたって、こころの痛みが薄らいだ頃そんな話をしてあげようと思ってい


あの子”はいまでも掛け替えのない“恋”だったと思っているのだろうが、付き合って二ヶ月足らずで“好きな女が出来たから・・・・”と去っていった彼に“真の愛”があったとは、私はどうしても思えないでいる。

新緑が萌え生命感の躍動するなかで目の前の“あの子”は木枯らしに揺れる枯れ葉のように無惨にしおれたままだ。


                 

 

「しっかりしろよ!もっと自分を大切にしなけりゃ」

「自分のこと大っ嫌い!」

「でもね、自分のこと自分で好きにならなかったら、他の人もキミのこと好きになってくれないよ・・・・友達もいないのなんてイヤだろ」

「うん、イヤだ」

「だったらまず笑ってごらん。キミの笑顔はすごく良いんだよ・・・・笑ったらこころの中に明るさが入り込んでくるからサ・・・・その明るさで“辛さ”を薄めていくんだよ。わかった?」

「わかった」

「“つらい”ことはすべて未来の“いいこと”につながっているんだよ」

「本当に?」

「本当さ」

力のない眼に少し光が戻ったように感じたのは、気のせいでもあるまい。

二十歳をホンの少し過ぎただけの“あの子”の、こころに宿る純粋さが救いだった。


きっと『悲しみの数だけの幸せがきます』・・・・きっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

LAST SUMMER

晩秋を思わせるような日が続き、これで夏も終わりだなと、何となく寂し

がってたら、そんな未練たらしい男のために、すこしばかり夏を残してく

れた。


               


暑い盛りは首輪にリードを付けようとすると、腹を見せてひっくり返って

嫌がっていた我が家の“スモモ”も、涼しくなってからはイソイソと着いて

くるようになった・・・・矢張り秋なのである。


あれほど人に溢れていた由比ヶ浜も、人影もまばらすっかり淋しくなっ

た。


 


入道雲の立ちはだかっていた空には、秋の使いのような顔をしたちぎ

雲が、薄く浮かんでいた。


 


このまま淋しい秋に突入する前に、記録しておきたいのが、恒例になっ

誰が付けたのか定かではない『祝・誕生日BBQパーティ・江ノ島

である。

・・・・・言うよりはまだブログにアップしないのかと催促がしきりなのだ。


 







☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 


 

「もう今年が最後だぞオ!!」
と言い続けてきたのに、お祭り好きなお友達に押し切られ、今年もまた

8月の第一土曜日にやりましたよ。


   

A-MIE-BLOHH http://ameblo.jp/70rock   

 後援者としての意気込みヽ(;´ω`)ノ

祝って貰えるはずの自分が、朝の5時からシートを抱えて、江ノ島大橋

の下辺りをウロウロしながら、場所取りをしなければならないのだし、

々日あたりからの準備も大変なものだからつい

「もう今年が最後だぞオ!!」と吼えることになる。


  


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


  


でも人が集ってくれるのは最高の気分だし、好きなダッヂオーブン料理

を自慢したいものだから、寝不足だろうがなんだろうがついつい頑張っ

てしまう。


ようは、いちばんのお祭り男は、当の本人かも知れない。 

         


正確な人数は判らないが、60人ほどの老若男女が集まってくれたのだ

から、これはもう嬉しいの一言に尽きる。


  


そんなことを思い返せば、今年も良い夏だったような気がしている。


でも、今年もまた吼えたんだっけ「もう今年が最後だぞオ!!」


  


だけど来年の夏もまた朝早くからシートを抱えて、江ノ島大橋の下あたり

をウロウロしているのだろうな。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


戦い終えて独り帰った夕暮れの“江ノ島駅”では、無性に眠かったア・・・・

                               LAST SUMMER