はなそうよ ~ Let's Talk

はなそう基金 = Let's Talk Foundation  古森 剛 のブログです。
「Komo's英語音読会」@陸前高田、その他関連する活動などを綴ります。


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今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





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2013年の初回となる英語音読会、1月19日(土)~20日(日)の週末に開催しました。今回は、古森を入れて総勢7名のボランティア講師陣で行って参りました。
 
往路は、いつものように金曜日の早朝に出発。途中福島あたりで雪が降りましたが、通行止めになるほどではなく、車は順調に進行。14時頃に気仙沼に着きました。
 
雪の気仙沼・・・。三陸沿岸部へ初訪問となるメンバーもいましたので、鹿折と復興商店街周辺を案内しました。
 

 
復興商店街(南町紫市場)では、喫茶マンボでラーメンをいただき、揚げたてコロッケ屋でコロッケをつまみ、新潟屋刃物店やお隣の雑貨屋さんでお土産物を買ったりしました。 
  


 
その後、陸前高田に入り、被災した市の中心部を案内。震災遺構の取り壊しはさらに進んでおり、「何が起きたか」を伝えるにも色々と工夫が必要になりました。
 
「佐藤たね屋」 に寄り、佐藤貞一さんにご挨拶。震災2周年を控え、津波体験手記「The Seed of Hope in the Heart」の英語版第3版、および中国語版の準備が終盤に来ています。
  
夜は、小学生数名を訪ねた後、多くの人にとって「陸前高田の母」的存在であるOさんの仮設住宅で食事をご一緒させていただきました。
 


  
一行の宿泊先は、いつものように鈴木旅館!
 
土曜日の朝、雪が残る屋外はかなり冷え込みました。温度はマイナス3~4度でそれほどでもないのですが、しみるように寒い朝でした。
  
Oさんの仮設住宅で朝食をご一緒させていただいた後、今回はいつもより早めに教室の準備にとりかかりました。
 
なぜかというと、スペインのバルセロナから送られてきた180通にも及ぶクリスマスカード&年賀状を陳列する必要があったからです。
 


  
このブログにも時々登場しますが、バルセロナでは日本人有志と現地の人々が集まって、震災以来何かと東北被災地のことに思いを寄せて下さっています。
 
今回は、生け花を始め日本文化を現地に伝える活動をしておられる石松玲子さんが核となって、生徒さんや関係者の皆さまからカードをいただきました。
 
心のこもったカードの数々。メッセージ、詩、俳句などが、日本語、スペイン語、英語などで書かれていました。絵画の作品も多数ありました。スペイン語には、丁寧に日本語訳文がついていました。 
  
開封作業をしながら、メッセージの数々に目頭が熱くなりました。比喩ではなく、ほんとうに泣きそうでした。
 
以下の写真のメッセージは、  
"Life never seems to be the way we want it, but we live it in the best way we can. Keep smiling. Happy new year 2013" 
 


 
・・・と、あります。
 
「人生というものは、私たちが望む通りになんてなりはしません。でも、私たちはその人生を、できる限り最良に生きるのです。笑顔を絶やさないでね。」 
 
というような意味ですね。私はこのメッセージの受取人ではありませんが、それでもグッときました。このような本当に深いメッセージ、思いに溢れたメッセージが180通余り・・・。
  
海のはるか向こうに、日本のことをこんなに思って下さる方々が多数いらっしゃるということに、胸も目頭も熱くなりました。   

 
朝一番に教室に来られた佐藤貞一さんも、メッセージの数々を手に取って眺めておられました。カードをお送りいただいた方々の多くが、佐藤さんの津波体験手記のことを知っておられます。石松さんは、昨年陸前高田を訪問されて、佐藤さんにも会っておられます。
  


 
その後、午前中は一気に忙しくなりました。
  


  
雪の反射で明るい光が差し込む教室の中で、熱心な音読の声・・・。
  


 
発音にもこだわります。しかし、万遍なくこだわるのではなく、以下の写真にある3つの音に絞って練習頂いています。あまり細かく気にしなくても、この3つが正しく出来れば、かなりの度合いでネイティヴっぽく話せるようになるからです。 
 


  
その他の音は、まあ、よほどおかしくない限りは指摘しないようにしています。この3つだけでも、音読する文章の中にはたくさん出てきますから、意識して読むと顔が筋肉痛になります。
   
午後も、忙しくなりました。それぞれの持参した教材をもとに、それぞれの音読の声が教室中にこだまする午後・・・。うるさいくらいのほうが、恥ずかしがらずに音読できて良いのです。
 


   
教室に入室されたところで、あるいは音読を終えて退出される時に、参加者の皆さんがカードに目を留めて行かれました。
  
絵画などの作品になっているものは、皆さんにお持ち帰りいただきました。中には、メッセージを一つひとつ、丹念に読む姿も見受けられました。
  


 
夕方になって、昨秋まで高田病院に支援医師として勤務しておられた通山さんが、たまたまこちらに来たので・・・ということで、立ち寄られました。通山さんは、支援医師として陸前高田に滞在中、この英語音読会にも来ておられました。
 
今は、支援期間を終えて郷里の鹿児島に戻り、今春から始まる2年間の世界一周旅行に向けて準備を進めておられます。なんと、バイクで一人旅!
  
その際、これまで日本の新聞に掲載されたご自身の陸前高田での経験談などを、英語に訳して世界各地で伝えていくのだそうです。
  
その訳文を、一緒に添削・編集して、最後に音読していただきました。
  

 
夜は、Oさんの仮設住宅でご飯をご一緒させていただきました。
 
高田病院に支援で来て、今も地域医療に従事しておられる高橋さんも合流。先日、「復興対談シリーズ~Talk for Recovery」にご登場いただいた高橋さんです。
http://ameblo.jp/let-us-talk-foundation/entry-11440183061.html

震災後早い段階から支援で陸前高田に入り、その後、「とうごう薬局」の薬剤師として現地に住民票まで移して活躍されている名古屋さんも合流。
   
日曜日の朝。
 
9時から2名来られて、その後時間帯によっては講師がフル回転の状態になりました。英語のことだけでなく、色々な会話に花が咲くのもこの教室の良いところです。
  


  
あっという間に、終了時間になりました。
 
ふと春を感じさせる明るい陽射しの中、皆で記念撮影して、1月の会を無事終えました。講師一人ひとり、誠心誠意対応させていただきました。
 


 
複数回参加の講師も、今回が初めてだった講師も、それぞれに人との「縁」を感じながら帰路につきました。
 
また来月!See you soon, Rikuzentakata! See you soon, our loved ones!  
 


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会員等に関するアップデート(2012年12月末) 

はなそう基金の会員等の状況に関するアップデートをさせていただきます。
   
■□■□■□ 2012年12月31日現在の会員等概況 □■□■□
  
【活動会員】  合計48名
・英語音読会ボランティア講師  27名
・運営支援等 21名
   
【賛助会員】  
・個人:51名
・法人・団体等:5    
(個人内訳:活動会員兼員が29名、賛助会員のみの方が22名)

【コラボレーション・パートナー】 3
  
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


   
この場を借りまして、会員の皆さまのご支援、ご協力に心より御礼を申し上げます。本当にありがとうございます。
  
  
【活動会員】 (英名:Active Contributors)
        
はなそう基金の使命・設立目的にご賛同いただき、その活動の実行、実務面で力を貸していただける個人および団体で構成されます。2012年12月31日時点で活動会員としてご登録いただいているのは、以下の方々です。
(リスト上での敬称は略させていただきますので、何卒ご了承ください)

※なお、今後活動に参加いただける予定の方々も数名いらっしゃいます。次回のアップデート以降、順次お知らせして参ります。
  

1. 「Komo's英語音読会」のボランティア講師陣:
  
ボランティア講師の方々は、交通費や宿泊費も自己負担(含、割り勘)で来ていただいています。その分を賛助金とみなして、同時に賛助会員にも登録させていただきます。
  
[既登録の皆さま]   
■ 朝倉 志穂 (東京都) ■ 伊勢 修 (東京都) ■ 伊東 慎太郎 (スペイン・バルセロナ) ■ 奥田 裕子 (東京都) ■ 児玉 美奈子 (東京都) ■ 柴田 明恭 (大阪府) ■ 白木 俊之 (東京都) ■ 田中 絵理香 (オーストラリア) ■ 田中 大策 (東京都) ■ 谷口 佳久 (東京都) ■ 中野 将大 (東京都) ■ 中野 欣庭 (Hsin) (東京都) ■ 藤本 こみち (東京都) ■ Keiko Best (東京都) ■ 茂木 崇史 (東京都) ■ 門馬 真理子 (東京都) ■ 山崎 朗 (東京都) ■ 山崎 暢子 (東京都) ■ 横倉 正人 (神奈川県) ■ 吉沢 康弘 (神奈川県) ■ 李 潤天 (東京都) ■ 涌嶋 隆 (U.K. ロンドン) ■ Renata Piazza (スペイン・バルセロナ) 
  
[新規ボランティア講師の皆さま]
■ 秋山 優子(東京都) ■ Nui Marasari (東京都) ■ 小林 絢香(東京都) ■ 砂川 孔明(東京都) 
 
秋山さんは、米国留学経験を持ち、今はシンクタンク勤務でいらっしゃいます。10月の音読会でボランティア講師をしていただきました。初夏に一度視察に来られたので、陸前高田にはこれが2回目でした。
 
Nuiさんは、タイから日本に来て働き、今は某経営大学院でMBAを履修中。震災後に「元気キッズ」を立ち上げ、東北の小学校で子供たちに海外のことを伝える活動をしておられます。

小林さんは、グローバル展開している日系大手商社の経理部門にお勤めです。やさしく丁寧なスタイルで幅広くご対応頂けますが、特に子供たちへの対応に力を発揮しておられます。

砂川さんは、グローバル展開を進めている日系大手企業にお勤めです。米国や中国での在住経験もあり、英語と中国語が堪能な国際派。発音訓練に関しては一家言をお持ちです。
 
2. 各種運営面でご活躍いただいている皆さま:
  
[既登録の皆さま]
■ 石村 尚也 (東京都) ■ 大森 義輝 (神奈川県) ■ 神谷 佳典 (東京都) ■ 川原 亜希 (東京都) ■ 小谷 美佳 (東京都) ■ 佐藤 清子 (東京都) ■ 佐藤 徳之 (東京都) ■ 下野 友実 (インドネシア ジャカルタ) ■ 杉原 佳代子 (東京都) ■ 中尾 仁 (東京都) ■ 中川 有紀子 (東京都) ■ 永田 亜美 (フランス リヨン) ■ 服部 結花 (東京都) ■ 古川 明日香 (東京都) ■ 牧田 清隆 (東京都)  ■ 宮坂 雪里 (千葉県)  ■ 宮田 丈裕 (埼玉県) ■ 宮森 千嘉 (スペイン・バルセロナ)  ■ 森永 啓 (福岡県) ■ Malcolm Schreiber (東京都) 
    
[新規活動会員の皆さま]
■ 關口 洸介 (埼玉県)

關口さんには、多忙なお仕事の合間を縫って、12月末のご挨拶訪問に同行いただきました。交通費の割り勘負担もいただきましたので、賛助会員としても認識させていただきます。
 
  
【賛助会員】 (英名:Financial Contributors)
     
はなそう基金の使命・設立目的にご賛同いただき、その活動に関して金銭的ご支援を提供いただける個人および法人・団体等で構成されます(賛助会員としてのご支援は、3,000円からとさせていただいております。一口からでも結構です。ありがたく活用させていただきます)。
   
2012年12月31日時点で賛助会員として登録が完了しているのは、以下の方々です。既登録の方々の中にも、定期的に継続して賛助金をお送りいただいている方々がいらっしゃいます。本当にありがたいことです。なお、お申し出いただいて送金処理中の方々等は、次のアップデートで掲載させていただきます。
   
※活動会員としての活動に伴う交通費等の自己負担分を賛助とみなした方々の記載は、紙面の関係で省略させていただき、ここでは活動とは別途に賛助金を拠出いただいた場合についてのみ記載致しております。何卒ご了承下さいませ。
  
(リスト上での敬称は略させていただきますので、何卒ご了承ください)
    
1.個人
  
[既登録の皆さま]
■ 市川 薫 (東京都) ■ 入江 崇志 (福岡県) ■ 小笠原 尚史 (ンガポール) ■ 小木曽 研 (東京都) ■ 奥田 裕子 (東京都) ■ 嘉門 佳顕 (東京都) ■ 貴島 恭子 (東京都) ■ 北野 佳子 (京都府) ■ 肥塚 祐一 (東京都) ■ 児玉 崇 (福岡県) ■ 児玉 都 (福岡県) ■ 坂本 真由美 (アメリカ カリフォルニア) ■ 佐藤 清子 (東京都) ■ 佐藤 徳之 (東京都) ■ 澤原 健吾 (東京都) ■ 下野 航平 (インドネシア ジャカルタ) ■ 瀬上 真理 (愛知県) ■ 高橋 祥 (岩手県) ■ 谷本 憲彦 (大阪府) ■ 千葉 修司 (東京都) ■ 寺田 和紀 (大阪府) ■ 西田 政之 (神奈川県) ■ 野村 有司 (東京都) ■ 林田 明 (鹿児島県) ■ 室井 和磨 (東京都) ■ Scott Gilbert (U.S.A.) 
  
[新規賛助会員の皆さま]
(今回のアップデートはありません)
      
2.法人・団体等
  
[既登録の法人・団体さま]
■ 株式会社アセットケア (埼玉県)※活動会員である宮田丈裕さんの会社です
■ 関西ひだまりの会 (大阪府) 
■ シンガポール地域人事の会 参加者ご一同 </p>
■ S.K.Y. and Partners LLC(東京都) ※賛助会員の小木曽さん、嘉門さん、千葉さんの会社です

[新規会員の法人・団体さま]
■Whisky Concierge  http://www.whisky-concierge.com/

「Whisky Concierge」さんは、女性限定のウィスキーの会を開催しつつ、酒類業界著目人との対談企画を行うなど、様々な角度からウィスキー文化・BAR文化の伝播・情報発信に尽力しておられます。女性限定ウィスキーの会でイベントを開催する際に、主宰者のKaoriさんが時々義援金としてボトルを提供され、そのボトル代に見合う金額をイベント会費の一部からご寄付いただけることになりました。Kaoriさん始め、女性ウィスキーの会にご参加の皆さま方のご深慮、心より感謝申し上げます。
  
    
【コラボレーション・パートナー】
   
それぞれのお立場で被災地支援・貢献をされながら、はなそう基金の活動にご助力をいただいたり、協働させていただいているパートナーの個人・法人・団体の皆さまです。
(リスト上での敬称は略させていただきますので、何卒ご了承ください)   
      
[前回より変化ありません]
■ 内閣府認定特定非営利活動法人ロッツ(LOTS) http://lots-ss.jp/
■ フードニスタ 浜田 峰子 http://ameblo.jp/hamada-mineko/
■ スペイン・バルセロナのCasa Asia、IESE、ESADEを中心にした有志の皆さん 
   
以上です。
  
  
「はなそう基金」にとって設立初年度となった2012年。3月の設立から9ヶ月の間に、個人名寄せベースで69名、5つの法人・団体さま、そしてコラボレーション・パートナーの皆さまから様々な形でのご助力を得て、中身の濃い活動を展開することが出来ました。会員・パートナーのコミットメントには様々な形がありますが、皆で理想や思い、課題意識を共有して「進み始める」ことが出来ましたこと、心より感謝申し上げます。

今後とも、ご支援・ご助力のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。
  
   
一般社団法人はなそう基金
  
代表理事 古森 剛


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復興対談シリーズ ~ Talk for Recovery 
 
(第8回)
 
岩手県立高田病院 医師 髙橋 祥 さん
  
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


 
今回の対談は、震災後に北海道から陸前高田に来て、治療だけでなく予防の観点もふまえた地域医療活動に取り組んでおられる髙橋さんにお願いしました。髙橋さんと私は2012年2月からのお付き合いですが、縁が深まるきっかけになったのは、対談にも登場しますとおり、ある方の仮設住宅で一緒にご飯を食べた夜でした。今回の対談は、その同じ部屋で、あの日と同じように鍋を囲みながら行いました。  
  
 
1. 北海道での専門医の職を辞して陸前高田へ


  
古森: こんばんは。今日はお疲れのところ有難うございます。この対談シリーズでは、東北被災地の復興の現場で活動しておられる方々のお話を伺って、一人称の視点での情報発信を心がけています。髙橋さんが取り組んでおられる、広い意味での地域医療の一環としての「はまらっせん農園」のことなども含め、お話を伺えればと思います。ざっくばらんに鍋をつつきながら(笑)。どうぞよろしくお願いいたします。


 
髙橋: こちらこそ、よろしくお願いします。私の話がそんなに役に立つのかどうか分かりませんが、お話しできることは何なりと。食べながらで、失礼します。


  

 
古森: どうぞどうぞ、食べながらで。そもそも髙橋さんは、北海道のご出身で、震災前は小樽の病院で勤務しておられたのですよね。陸前高田とは、何かご縁があったのですか。


 
髙橋: いいえ、実は中学校3年生の修学旅行で平泉に来たくらいで、他には特に縁らしいものはありませんでした。自分の意思で岩手県に来たのは、2011年が事実上初めてだったということになります。


 
古森: 最初にこちらに来られたのは、いつでしたか?


 
髙橋: 震災後2ヵ月半くらい、5月末でした。医療支援でどこかの被災地に入るということは心に決めていたのですが、具体的な行き先の目処をつけるために山田、宮古、釜石などをまわりました。


 
古森: 最初は陸前高田ではなかったのですね。そこから、どのような経緯で陸前高田に?


  
髙橋: 山田の被災状況は目を覆うばかりでしたが、医療という点では、既にある程度医師が入る目処が立っていました。そして宮古と釜石は、病院自体が残っていましたので、最低限の機能は維持されていたのです。それで、他にもっと困っている場所があれば、そちらにまわったほうが良いのではないかと思いました。


古森: なるほど、そして陸前高田へ。
  


髙橋: はい。岩手県医療局の方々に連れて行っていただきました。津波の爪あとはどこも同じくらい悲惨でしたが、陸前高田では県立高田病院が壊滅的打撃を受け、被災を免れたコミュニティーセンターで運営されていました。また、私の専門分野は消化器の分野なのですが、おりしも高田病院で内視鏡を担当していた医師が復職できない状況にありました。


 
古森: 医療機能自体が打撃を受けていたうえに、髙橋さんの専門性を生かす形で貢献できる機会があったのですね。


 
髙橋: それに、支援で来ていた若手の医師が、「支援はしたいが、ここでは専門医になっていく上での経験を積むことが出来ない」と悩んでいました。医師としての専門性を高めていくためには、それぞれの専門分野でたくさんの患者さんと接する必要があります。私がこちらを担当することで、その若手医師がもとの病院に早く戻れるようにしてあげたいと思いました。それで、9月1日に正式に採用されまして、4日の月曜日から着任しました。


 
古森: 奇遇ですが、その同じ週に私も陸前高田に来たのでした。そのときの色々な出会いが、今の「Komo’s英語音読会」などの活動につながっています。なんだか、奇妙なめぐり合わせですね。ほとんど同じ時期に陸前高田に縁ができていたなんて(笑)。


 
髙橋: ほんとですね(笑)。


 

  
古森: それで、着任後の日々というのは、どんな感じだったのですか。


 
髙橋: 陸前高田では、地域医療のネットワークが十分に機能回復していない状況でしたし、医療ニーズを抱えた患者さんも数多くいらっしゃるので、自分も役に立っているという感じがありました。一方で、正直なところ、何かまだ不完全燃焼のような気もしていたのです。


 
古森: 不完全燃焼?


 
髙橋: はい。うまく言えませんが、忙しいといっても、四六時中走り回っていたわけではないのですよ。日本全国から短期のリリーフでたくさんの医師が交代で来ていましたので、病院のキャパシティという面では何とか確保できている状態でした。


 
古森: なるほど。9月時点では、高田病院としてもある程度円滑に機能できていたのですね。


 
髙橋: 災害後のストレス蓄積で、通常は胃潰瘍などの問題が出てきます。それで、診療のために内視鏡を使う必要性も増えるかなと思っていましたが、実際のところはそうでもありませんでした。7月末に仮設診療所が完成しましたが、11月までは内視鏡が整備されておらず、赴任当初は設備的にも高田病院では対応できないという面もありましたし・・・。もちろん、本当に疾患自体がないのであれば、それはそれで良いことなのですが。


   
古森: それで、とりあえずご自身の専門分野との関係はさておき、地域医療の中で多様な医療ニーズに対応する日々を送っておられたのですね。
   
髙橋: そうですね。訪問診療では、不便な山間部まで出かけて行く場面も多々ありましたから、役に立っているという感覚はありましたよ。やはり、患者さんの生活の実像まで理解してこそ出来る治療やアドバイスもありますから。ただ、これが「自分でなければ出来ない役立ち方なのか」と、自問自答する日もありました。


 
古森: 北海道での専門医の職を辞して飛んできたという文脈を考えると、そのお気持ちは分かります。でも、髙橋さんは、たぶん訪問診療というスタイルはフィットしていますよね(笑)。目に浮かびます。


  
髙橋: ははは。おじいちゃん、おばあちゃんと話をするのが昔から好きですからね(笑)。


 
 
2. 「仮設住宅×畑=心身の健康維持」という着想


 
古森: 私が初めて髙橋さんから連絡をいただいたのは、今年(2012年)の2月中ごろでしたかね。ちょうど、訪問診療を続けながら自問自答されていた頃なのですね。
 


髙橋: そうでした。訪問診療の合間に寄った「りくカフェ」で、たまたま「Komo’s英語音読会」の告知ビラを見たのです。当時は、仕事と平行して夜の時間などに医学研究論文を読んでいました。北海道で取り組んだ胃がん治療の効果判定に関する研究がありまして、それを医学雑誌に投稿するつもりだったのです。ところが、なかなか思うように進まず、英語そのものも、論文向けに書けるほど得意というわけではありませんでした。それで、ちょっと手伝ってもらえないかという「よこしまな気持ち」で(笑)、古森さんにメールを入れてみたのです。


 
古森: ははは、よこしまな気持ちだったのですね(笑)。でも、私は私で、縁を感じていたのですよ。以前は医薬品分野で経営コンサルティングをしていた頃もあったので、普通の人に比べれば医学分野の英語がわかります。「ああ、これは神様のはからいだ。何かお手伝いしないと」と思いました。結局、「はなそう基金」の会員の一人である宮田さんと私の協働で、翻訳をお手伝いしましたね。


 
髙橋: 3月から、「Komo’s英語音読会」にも参加するようになりました。論文翻訳のすりあわせを進めながら、毎月1回の音読会で英語力をブラッシュアップする形で。


 
古森: 翻訳作業の最終化でお会いしたのが、4月末でしたね。病院で論文の打ち合わせを終えてから、髙橋さんがふと、「被災した高田病院を見ますか」とおっしゃるので、是非にとお願いしました。既に旧高田病院は「病院関係者以外立ち入り禁止」になっていましたので、高田病院勤務の髙橋さんにご案内頂けるというのは貴重な機会でした。病院内部をくまなく歩いて、何が起きたかをあらためて痛感しました。


 
髙橋: 私自身も震災当時にここにいたわけではありませんから、聞いたことをお話しするしかないのですが・・・。でも、他の地域から支援で高田病院に来た方々には、出来るだけ「何が起きたか」を説明するようにしています。震災時に病院のスタッフが撮影した写真なども見せながら。


 
古森: その後、カフェに行きましたね。米崎のアップルロードに上がっていく道の途中にあった、喫茶クローバーに。


 
髙橋: そうそう、そうでした。クローバーは、今は移転して、アップルロードのほうにありますね。


 
古森: クローバーで話していたら、髙橋さんが、「今日はこれからどうするんですか」と聞くので、「親しくしているOさんという方の仮設住宅に言って、いつものように晩ご飯を一緒に食べますけど」と答えました。そしたら、「へぇ、僕も一緒に行ってもいいですか」と言うので、「もちろんどうぞ」と。


 
髙橋: 鍋を囲みながら色々と話し込んで、結局夜も11時半頃までいましたね。古森さんは途中から居眠りしていましたが(笑)。ある意味、衝撃でした。それまで、訪問医療を含め色々な方にお会いしていましたが、あのような近い距離感で地元の人とお話ししたのは、よく考えたら初めてだったのです。しかも、被災された方の仮設住宅でずうずうしく居眠りしている人が。ああ、こんな感じでいいのかなと思いました。
  


  
古森: その翌日、髙橋さんは再びOさんに会って、一緒に某仮設住宅の花見に参加されたのでしたね。「髙橋先生が花見で酔っ払って、人気者になってるよ!まあ、変わるもんだねぇ!」という知らせが、Oさんから来ました。今度はOさんが驚いているようでした。


 
髙橋: 自分の中で、何かが変わった瞬間でした。それまでは診療を通じて、医師と患者さんという関係で地域の人々と向き合う日々でした。医師という立場上、自分の心の中で一定の距離を置いていた面もあったと思います。しかし、あの日を境にして、もう一段深く、人間として地元の人々に溶け込むことが出来るようになりました。


 
古森: その花見のときに、仮設住宅の向かい側に設けられた畑を見たということでしたね。


 
髙橋: そうです。土地の所有者はOさんで、震災後に仮設住宅の方々に無償で畑として提供しておられました。聞けば、そこで畑仕事をしている人たちは、仮設住まいのストレスの中でも明るく楽しく、和気あいあいとしているということでした。震災後に仮設住宅にバラバラに入居せざるをえず、コミュニティの崩壊が各所で問題化していましたが、その仮設住宅は比較的早期に「人の和」が生まれたようでした。それにも、畑が一役買っているようでした。


 
古森: それで、「仮設住宅×畑=心身の健康維持」という図式を思いつかれたわけですか。


 
髙橋: いいえ、そのときはまだ、「なるほど、畑かぁ。皆さんたしかに、生き生きしてらっしゃるなぁ。」と感じただけでした。それで、まずは「自分もやってみようかな。」と思いました。


 
古森: なるほど。まずはご自身でやってみようと。


 
髙橋: それで、古森さんに連れて行ってもらった「佐藤たね屋」さんに再度立ち寄って、さっそく野菜の種を購入しました。「よかった菜」という名前のコマツナの種だったと思います。佐藤さんに色々とアドバイスいただいて、まずは宿舎のベランダのプランターに種をまいてみました。


 
古森: そのコマツナの「芽が出た!」という感動を、髙橋さんがfacebookに掲載されていたのを思い出します。


  
髙橋: 自分で実際に種を蒔いて芽を出して、その育ち行く様子を見ながら喜びを感じていたら、なぜあの仮設住宅の人々が生き生きしていたのかが腑に落ちました。「ああ、野菜を自分で育てるというのは、こういう喜びがあるのか。これを基点にして、あの人たちは生き生きとしていたのか。なるほどなぁ。」と思いました。


 
古森: 見えていた現象に、皮膚感覚が宿ったのですね。


 
髙橋: 時を同じくして、地元の方々が「震災前は畑をやっていたけど、今はできなくて残念だ」という話をしているのが耳に入ってきました。生活習慣病の診療をしている際に運動不足を指摘すると、「昔は畑が・・・」という言葉が出てきたりしまして。


 
古森: きっと、そういう言葉はずっと髙橋さんのまわりに漂っていたのでしょうね。ご自身で皮膚感覚を持ったことで、その言葉の意味がアンテナに引っかかるようになったのかもしれませんね。


 
髙橋: そこから自然に、農園プロジェクトのことが頭に浮かびました。仮設住宅にお住まいの方々が畑仕事を生活に組み入れることが出来るように、高田病院による地域健康増進プロジェクトとして取り組んで行きたいと考えて、5月24日に石木院長に提案書を出しました。それが、「はまらっせん農園」プロジェクトです。「はまらっせん」というのは、こちらの言葉で「どうぞ、入っていらっしゃいよ。」という意味です。楽しいよ、皆でやろうよ、というメッセージを込めた名前にしました。


 
古森: 石木院長さんの反応は、どうでしたか。


 
髙橋: 「ああ、いいんじゃない。」という、あっさりしたものでした。もともと、震災前から地域医療を点ではなく面でとらえて様々な活動を推進しておられた方ですから、すぐに趣旨をご理解いただけたのだと思います。高田病院の公式の健康増進プログラムとして進めて行けることになりました。


 
古森: 地域の中核病院の医師が主導する、地域健康増進プロジェクトとしての仮設住宅隣接菜園のプロデュース。被災地全体を見ても、大変ユニークな取り組みが誕生した瞬間ですね。


 
 
3. 農園を立ち上げるために歩き回る


 
古森: 髙橋さんが陸前高田の人々と人間として交流する中で見聞きしたもの、経験したものが融合して生まれた「はまらっせん農園」。しかし、まずは土地がないと話になりませんよね。土地を借りる交渉も、髙橋さんがご自分でされたのですよね。


 
髙橋: そうです。まずは、動いてみました。目に入った仮設住宅に飛び込みで訪問して、近隣地に畑を設けることへのニーズをヒアリングしました。仮設住宅のそばに空き地を見つけたら、その地主さんにも話をしてみました。


 
古森: 県立病院の医師が、飛び込みインタビューですか!


 
髙橋: 飛込みで話を伺っているうちに、「ああ、ニーズは確かにあるな。」という確信を得ました。それで、より体系的に情報を得るために、今度は陸前高田市内の全仮設住宅の自治会長さんにお電話して、ご意見を伺いました。


 
古森: 着想を得て企画を練り、まずは自分で動き始めてみて、そこから得たフィードバックをもとに、さらに体系的な情報収集へ・・・。起業家的な動きですね。


 
髙橋: 高田病院の公式プロジェクトという「信用」があったので、動きやすかった面もあります。いきなりドアをノックしたり、電話をかけたりした場合でも、「高田病院の健康増進プロジェクト」ということで、怪しまれずに話を聞いていただけました。中には、「珍しい医者だ、ご飯食べて行け。」だとか、「泊まっていけ。」というお声がけもいただきました。そういうお誘いにも、まずは乗ってみて、深く話を聴いてみるということを心がけていました。


 
古森: しかし、それにしても県立病院の医師が仮設住宅の菜園用地を借りて歩くとは・・・。色々ご苦労もあったことでしょうね。


 
髙橋: それは、一筋縄ではいかない面もありましたが、それはわずかで、ほとんどの地主さんは喜んで貸してくれました。お金のことなども何も言わずに。仮設住宅に入っておられる方々の笑顔が生まれるなら・・・と思って、楽しみつつ頑張りました。


 
古森: 「はまらっせん農園」の第一号が成立したのは、いつでしたか。


 
髙橋: あれは、6月末でしたね。横田地区の仮設住宅です。嬉しかったですね。それからも必死に歩き回って、「機会があるなら畑をやりたい。」という仮設住宅の方々のニーズと、「そういうことなら貸してもいいよ。」という近隣地主の方々のご意向とを丁寧にマッチングしていきました。
  


 (Photo: 第一号となった横田のはまらっせん農園)  
 
古森: 最終的には何カ所になりましたか。


 
髙橋: お盆の頃までに8カ所になりました。秋野菜の植え付けに間に合うタイミングまでに一通りの立ち上げをしておく必要がありましたので、お盆の時期をデッドラインにして動きました。


 
古森: 数ヶ月で一気に8カ所ですか。陸前高田の中を車で走っていると、時おり、「はまらっせん農園」の看板を目にします。しかし、5月の段階で初めて野菜を育てた髙橋さんが、「秋野菜の植え付けまでに・・・」なんて、急に詳しくなられましたね。


 
髙橋: 実は、その後も「佐藤たね屋」さんに月2回くらいのペースで通いまして、何をいつ頃植えるべきかなど、ご指導をいただいていたのです。


 
古森: なるほど!「佐藤たね屋」さんに通って、ひそかに勉強しておられたのですね。


 
髙橋: いざ農園を始めるとなると、他にも悩ましいことは色々と出てきました。例えば、農具や肥料をどうするか。私は差し上げてもいいと思っていましたが、そうなると、すべての方々にご提供しなければなりません。また、「道具や肥料をそろえていくところから畑仕事なんだ。そこから自分でやらなきゃだめなんだ。」「仮設では物をもらうことが当たり前になっている。これ以上、用立てするのは良くない。」というお声もいただきました。どこまでこちらでご用意して、どこから先を仮設住宅の方々にやっていただくのが良いのか、線引きには随分と悩みました。


 
古森: 「はまらっせん農園」の一つに蛇が出て、それがきっかけで畑をやらなくなる人が出てきたという話も、うかがった記憶があります。畑地ですから蛇が出るのは防げないでしょうが、そんなことまで気に病んでおられたのですよね。


 
髙橋: まあ、色々とありました。その農園はちょっと足が遠のいていたところでしたので、企画の言い出しっぺとしても反省しました。でも、その畑にもおばちゃんは戻りましたし、すべての畑でたくさんの野菜が収穫できるようになって、畑に来ている方々の笑顔を何度も見ることができました。それを見て、私も本当に嬉しかったですね。
  


 
 
4. 丸の内行幸マルシェへ


 
古森: その秋野菜の収穫の一部が、先日「丸の内行幸マルシェ」に出品されましたね。当日、「はまらっせん農園」の記事が読売新聞の全国版に大きく掲載されましたので、驚きました。あれは、どのようなルートでたどりついたのですか。


 
髙橋: ルートも何も、直接イベントの主催者に電話してみたのです。たまたま、テレビ東京の「アドマチック天国」という番組で丸の内行幸マルシェのことを見たのです。「ああ、こういうのに出せたら、みんな喜ぶんじゃないかな。」と思いつきまして。


 
古森: またしても、飛び込み型アプローチですか!恐れ入りました。


 
髙橋: 電話して、当方の趣旨などをご説明して、直接東京でお会いして、出店OKになりました。それが10月の終わりごろでした。


 
古森: マルシェの出店の日は、いつでしたかね。


 
髙橋: 11月22日 でした。決まってから当日まで、もう3週間しかないということで、大急ぎで色々な準備を始めました。農園の皆さんもやる気になって下さり、「あれを持って行け」「あれも出そう」と、盛り上がりましたね。


 
古森: 当日は、私も仕事を終えてから19時頃に駆けつけましたが、その時にはもう完売でした。そして、昼前の開店から夕方まで声をからして営業された髙橋さんにお会いしました。誰もこの人が医師とは思うまい、という風情でしたよ(笑)。結局、何をどれくらい持っていったのですか。


 
髙橋: そうですね、本当にたくさん運びました。ダイコン120本、ハクサイ30個、その他にニンジン、ネギ、ホウレン草、ツボミ菜、コマツナ、サツマイモ、ジャガイモ・・・など多数です。ほかにも地主さんがリンゴを提供してくれましたし、被災した餅屋さんが仮設住宅内で作った大福も持たせてくれました。運送はOさんの親族の方が東京に帰るワゴン車を提供してくれ、それに満載して運びました。
  


  
古森: 「はまらっせん農園」の方も、3名いらしたとか。


 
髙橋: そうです。自費で交通費を払って来てくれました。皆さん、儲けようというつもりは全くないのですね。農園のほとんどの方々が、そうだったと思います。自分たちの作ったものが、他の地域の人々の手に渡って、食べていただける。それだけでもう、みんな良かったのだと思います。「儲けるなら野菜は出さない」なんていう人もいたくらいです。


 
古森: 私も陸前高田に通うようになって気づきましたが、「人に何かをしてあげる」「人に何かを差しあげる」という、「面倒見の文化」のようなものが、ここにはありますね。自分の持っているものや自分に出来ることを他人に提供して、「ありがとう」と言われることを喜びと感じる人々の文化。そういうのが、あると感じます。


 
髙橋: 私も感じています。もしかしたら、農園というのは「自分で野菜を作る喜び」だけでなく、震災以前からあった、「他人に何かを差し上げる喜び」を取り戻すきっかけにもなっているかもしれません。


 
古森: きっと、そうだと思います。


  
  
5. 医学的にも効果を確認


 
古森: 心身ともに健康に・・・という「はまらっせん農園」ですが、医学的にも効果が確認されつつあるようですね。


 
髙橋: はい。高田病院のプロジェクトですから、一応データもとらせていただいています。まず、仮設住宅に入居されている方で「はまらっせん農園」の参加者にヒアリング調査をしたところ、農園以前と以後で、明らかに統計的に有意な「生きがい感」の改善が見られました。この調査結果は、11月10日に盛岡で開催された「岩手県地域医療研究会」で敢闘賞を受賞することになりました。


 
古森: 素晴らしいですね。折しもその週末は、私も英語音読会で陸前高田に来ていましたので、表彰状を拝見しました。感動しました。


 
髙橋: 表彰は大したことではないですよ。もうひとつ、仮設住宅に入居していて、日常から同程度の運動をしておられる方々の中で、「はまらっせん農園」の参加者とそうでない方々の骨密度を比較した調査も行いました。こちらも「はまらっせん農園」参加者の方々のほうが、統計的に有意な改善効果が見られました。骨が丈夫になっていたのです。


 
古森: 「生きがい感」と「骨密度」。精神的な面と、物理的な面のそれぞれ象徴になるような角度で見て、いずれも「はまらっせん農園」の効果が医学的に確認されたのですね。きっと、それらに限定されず、色々な場面で好影響が出ているのだろうと思います。


 
髙橋: 12月24日には、今年の活動の締めくくりとして「感謝祭」を開催しました。おばちゃんたちのお陰で広がったプロジェクトでしたので感謝のイベントとし、多くの方々に来ていただき、参加者に互いの農園の様子を紹介するなど、楽しい時間を過ごしました。また、大晦日には、紅白歌合戦の一こまで、この農園がちょっと映りました。皆さん、いろいろなことを企画してくれありがとうと喜んでくれています。
  

古森: 5月に一念発起して、最初は飛び込みインタビューから始めて、年末にはここまで・・・。地に足のついた、素晴らしい取り組みになりましたね。本質的には、被災地に限らず、予防的活動も含めたこれからの地域医療のあり方に示唆を与える事例ではないかと思います。


 
髙橋: やっていること自体は、たいしたことではないのですよ。ある意味、震災前に多くの人々がやっていたことを、徐々に取り戻しているだけなのかもしれません。ただ、結果として起きている変化には、非常に大きなものがあると思います。


 
古森: 被災地復興の全体を見渡すと、大仕掛けのものはなかなか前に進んでいません。進めたくても進められない様々な現実的課題があります。そんな中で、この「はまらっせん農園」の活動は、小さくても確実に起きている大事な変化だと思います。こういう有機的な活動が、もっともっと、広がっていくといいなと思います。


 
髙橋さん、ありがとうございました。
  


 
(End)

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12月25日(火)~27日(木)の2泊3日の旅程で、陸前高田を中心に気仙沼、南三陸などを訪問しました。年末のご挨拶です。

昨年も同じ時期に1泊2日で弾丸ツアーを敢行しましたが、今年はなんとか2泊の日程を確保しました。(大船渡にも色々とご縁がありますが、今回は日程の都合で行けませんでした)

初日は、震災被災地初訪問のSさんとご一緒しました。朝6時に新宿駅でピックアップ、まずは気仙沼へ向かいました。順調に流れ、昼ごろに一関に到着。

一関のイオン・スーパーセンターで鏡餅を購入。去年もここで買い込んだのを思い出します。去年はバルセロナ留学中のAさんと一緒でした。もう、あれから一年・・・。

気仙沼では、まず港周辺の被災エリアをSさんにご説明しました。

復興の足どりは重いとはいえ、少しずつ見た目上の整理は進んでいますので、以前よりも言葉による説明の重要度が増しています。


ランチは、いつものように復興商店街(南町紫市場)で・・・と、思いきや、なんと喫茶マンボが定休日でした。それで、ちょっと歩いて復興屋台村の「あたみ屋」さんへ。

ここの海鮮ラーメンはオススメです。塩スープであっさりしていて、海鮮の甘味がじんわり。薄味なのに存在感がすごいです。是非お試しを!


 
復興商店街(南町紫市場)に戻り、「揚げたてコロッケ屋」さんにご挨拶。コロッケをいただきながら、四方山話です。鏡餅を差し上げました。

ここの商店街がクリスマスイヴで一周年。昨年、私もその頃にはじめて訪問しました。それから毎月一回以上のペースで皆勤賞(?)です。

「新潟屋刃物店」にもご挨拶に伺いました。先日の訪問時に、木工に使う小刀や繰り出し刀を見繕っていただけるようにお願いしていましたが、早くも入荷していました!

素晴らしい、青紙一等の鋼材。刃の背を指で押した感じがぜんぜん違います。鏡餅をお渡しして、「また来年!」ということでお店を後にしました。
 

 
陸前高田に入り、まず月山神社に参拝。震災直後は、数百名の方々が身を寄せた場所。今はひっそりとしていて、雪をかぶった屋根が美しいたたずまいを見せていました。


被災エリアを半周ほどして色々とご説明。気仙沼よりもさらに、こちらでは「言葉による説明」がなければ何が起きたかを伝えにくくなっています。

片付いていくこと自体は地元にとって「前進」ですので、私としては出来るだけ工夫してお話しするように努めています。よそから来た語り部、のようなものです。

途中、消防署があった場所の少し先の水路で、サギでしょうか、大きな白い鳥達を見ました。ハクチョウ?と思いましたが、ちょっと違いました。


鉄くずの瓦礫を背景に、躍動する白い鳥。今の陸前高田を象徴しているような気もしました。

「佐藤たね屋」の佐藤貞一さんにご挨拶。津波体験手記、「The Seed of Hope in the Heart」のことが、先日Japan Timesにとりあげられた佐藤さん。

以来、日本在住の英語圏の方々を中心に色々と声がかかっているようです。「はなそう基金」の設立目的のひとつである「被災地からの情報発信」のロールモデルです。


初めて訪れたSさんに、「佐藤たね屋」の復活のストーリーをご説明。

写真右側、かの有名な「竹筒で5メートル手掘り」の井戸。今年ポンプがついて、今は屋根が出来始めていました!(この屋根は、どなたか腕に覚えのある方が作成中なのだそうです)

竹駒のほうにコメリ(農業系に強いホームセンター)の出店が決まったとのことで、そうなると野菜の苗の売り上げに響きそうだ・・・とつぶやいておられました。

震災前にも45号線沿いにコメリはあったのですが、やはり復興と共に戻ってくるのですね。それ自体は歓迎すべきこととして、佐藤さんの商売への影響は個人的に気になります。

ここは地盤かさ上げの対象区域でもあり、その時間軸によっては近い将来に移転も必要になるとか。

個人的には、この「佐藤たね屋」という存在は人類の世界遺産に匹敵する価値があるものだと思いますが、どうなっていくのでしょうか・・・。

足元の「少し前進」と、どんどん新たに生まれてくる不安とが交錯する中、鏡餅をお渡しして幸運を祈念しました。

夜は、いつものようにOさんの仮設住宅におじゃまして、ご飯をご一緒しました。震災後に北海道から高田病院に来て地域医療を支援している高橋ドクターも合流。

仮設住宅入居の方々の生活不活発病予防のために立ち上げた「はまらっせん農園」が医学的効果も確認され、学会でも表彰されました。

「復興対談シリーズ」にご登場いただくために、ちょっと異例ではありますが、食卓で対談!まあ、このほうが高橋さんのお人柄が出ていいかなと思います。



対談記事の仕上げを急ぎます。是非ご期待ください!

明けた26日(水)は、早朝4時に起床。同行していただいたSさん、9時に丸の内で仕事があるということで、一ノ関の新幹線始発に乗って帰京!

前夜からの雪で路面は完全凍結。雪道の運転には慣れていますが、やはり客人の送迎となると緊張します。慎重に運転して、無事一ノ関に到着。Sさん有難うございました!

その後、少し一関のローソンで休憩してきたら、空が白んできました。峠を越えて南三陸へ・・・。途中で夜明けになりました。雪の平原、美しい朝日。


「志津川自然の家」の敷地内にある仮設住宅で、毛糸などの手編み作品を作成している「SKC」(自然の家かあちゃんクラブ)にご挨拶。

しかし、早く到着してしまったので、しばらく「さんさん商店街」で時間をつぶしました。開店前の商店街を歩きましたが、寒い、風が強い!


9時の開店を待って、I Love MinamisanrikuのTシャツを追加購入しました。復興支援とかじゃなくて、単に色合いとデザインが好きなので愛用しています。


なんと、JRが鉄道のかわりに運行を始めたバスの駅が、さんさん商店街の真横に出来ていました。おお~、これはカッコイイ!


さて、10時になるのを見計らってSKCへ。もう年内は活動終了ということで、今回はいつもの編み物部屋ではなく、「○カフェ」(これで、「和カフェ」と読む)という集会スペースへ。

鏡餅をお渡しして、コーヒーをいただきながら四方山話。おばあちゃんが作った白菜漬も食べさせていただきました。おいしい!おばあちゃんの味!

皆で記念撮影。僕がかぶっている帽子は、もちろんSKC製です。来年が皆さんにとって少しずつでも良い年になりますように。


南三陸の被災エリアも、徐々に片付けは進行しています。この「有名な」建物の周辺も、重機が稼動中でした。



壊れた防潮堤を、あらためて近くで見てみました。中はゴロゴロした岩の塊を入れただけなのですね・・・。外側が破れたら、一気に壊れますね。



海には、養殖のブイや船が見られるようになっています。しかし、まだ個人の漁師さんが生計を立てることが出来るような状況には程遠いのだとか。



海を見ていて、思いました。

美しい海。豊穣の海。恐ろしい海。

でも、海に「意図」があるわけではありません。海はずっとそこにあって、風が吹けばさざ波になり、嵐が来れば大波になり、地震があれば津波になり、人が暮らせば漁場になります。

生き物はみんな、最初は海からきたのですね。津波のことをきっかけにして、海のことを、もっとよく考えないといけないなと思いました。

自然のほうに「意図」がなくても、人間のほうで「意味」を感じとる必要があると思います。今回の津波で、それを感じなければ。

海をしばし眺めた後、陸前高田へ。45号線は大渋滞。この渋滞で今地震が来たらどこに逃げるか。そんなことを随時考えながら走りました。

午後一番に高田病院に寄って、前夜対談した高橋ドクターの白衣姿での写真を撮影。その後、英語音読会の活動に興味をお持ちの方を、某仮設住宅にお訪ねしてもろもろご相談。

とりあえず、その方が使いたい英語会話の日本文を書いていただいて、それを当方で翻訳してオリジナル教材を増やしていく方式(英文添削コースと言います)で始めることに。

15時から18時の間は、毎月英語音読会でお借りしている竹駒の「とうごう薬局」「あらや訪問リハビリセンター」の事務室に居させていただきました。

陸前高田に来ていて不義理になってもいけませんので、音読会の参加者の方々に一応ご連絡。もしお近くを通る際にはお立ち寄りください、ということで。

何名か、実際にお立ち寄りいただけました。鏡餅をお渡しして、四方山話。最近のことから震災時の恐ろしいことまで、いろいろ、話しました。

僕はこの人たちが大好きです。この人たちが幸せになるなら、引き換えに自分の寿命が少し短くなってもいいと思ってます。神様。



夜は、英語音読会参加者のYちゃん(小6)の仮設住宅へ。Yちゃんは、某派遣プログラムで選抜され、先日ハワイで英語スピーチをしてきました。

"My dream is the Recovery of Rikuzentakata"というタイトルのスピーチ。2ヶ月くらい前に本人が日本文を書き、それを英語音読会講師陣で英訳しました。

その後、英語音読会講師や地元の英会話教室の先生などの助けを得て、Yちゃんは猛練習。メモを見ない暗記スピーチですから、たいへんです。

文法的に出来るだけやさしくしましたが、それでも、もとの日本文がしっかりしているがために、やはり中高生レベルの文法が入らざるを得ない部分もありました。

それを、とにかく音読を繰り返して習得。その過程で、単語も覚えたし、発音もどんどんよくなっていきました。何よりも、本人が目標に向かって努力を続けたのが素晴らしかったです。

当日のビデオを拝見しましたが、それはそれは立派なスピーチでした。ほんとうに良かった・・・。陸前高田の希望を感じました。



夜遅くなってから、再びOさんの仮設住宅へ。前夜対談した高橋ドクターもまた合流されて、しばし懇談・・・。いろいろ、お話しできました。

そのまま、Oさんの部屋で寝込んでしまい、泊まってしまいました・・・。まあ、いつものことです(笑) 

今朝は4時に起きて、一路東京へ。振り返れば、想像だにしえなかった色々なご縁に恵まれた一年でした。

震災復興は活動の目的ですが、その過程で、ほんとうに色々な人の縁がうまれて、つながって、広がって行った一年です。

すべての方々に、心から「有難うございました」と申し上げたいです。


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復興対談シリーズ ~Talk for Recovery~ (第7回)
 
マルトヨ食品株式会社 
取締役営業部長 清水 浩司 さん
 
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1. 社屋の窓から見た信じがたい光景


  
古森:こんにちは。今日はお忙しいところお時間をいただきまして、ありがとうございます。この復興対談シリーズは、東日本大震災からの復興の現場で活躍されている方々のお話しを伺い、震災の記憶を書き留めつつ、現在の課題や今後の方向性などについて発信をしていこうという取り組みです。よろしくお願いいたします。


  
清水:こちらこそ、よろしくお願いいたします。ようこそ気仙沼までお越し下さいました。毎月、気仙沼に来られているとか。
 


  
古森:はい。陸前高田で「Komo’s英語音読会」という英語の勉強会を毎月開催していまして、その往路に気仙沼で講師メンバーそろってお昼ごはんを食べるのが楽しみの一つになっています。個人的には、鹿折地区のほうに初めて来たのは2011年の9月でした。震災後半年を経てなお、痛々しい傷跡が残っていたのを覚えています。


  
清水:そうでしたか。もう震災から1年と9ヶ月になりますが、このあたりはまだ見ての通りです。瓦礫は片付きましたが、壊れた建物の基礎はまだかなり残っていますし、地盤沈下もあります。先は長いという感じです。


  
古森:地震・津波の発生時は、どちらにいらっしゃったのですか。


  
清水:ここ(社屋)の3階にいました。地震が大きかったので、津波は必ず来ると思いました。逃げるかここにとどまるか考えましたが、そばを流れる川を見たら、もう海水が逆流しているのが見えました。下手に動くよりはここにいたほうが良いと思い、とどまりました。そうしたら、どんどん波が押し寄せて来ました。


  
古森:町が津波に飲まれていくのを、ずっと社屋の窓から見ておられたのですね。


 
清水:はい。社屋自体も1階部分は津波に飲まれました。1階と2階の間の外壁に、今も津波の水位がわかる茶色い痕跡が残っています。すぐ目の前で起きていることを、窓から呆然と見ていました。自分の目の前で起きていることが、実感として受け止められなかったですね。もう、「怖い」というのを通り越していました。
 


   
古森:鹿折地区は、津波の後に大きな火事がありましたね。あの日の夜、私は東京のオフィスで帰宅難民になって、インターネットでテレビ中継を見ていました。鹿折地区の火事の様子を見て、地獄絵図だと思いました。あれは想像を絶する光景でした。今も目に焼きついて離れません。火事は、この社屋までは来なかったのですね。


  
清水:紙一重でした。この社屋の隣家まで燃えたのです。もうすぐそこまで火が来たのです。私たちは、津波の後に火の手があがってきたので、類焼の危険性を感じて社屋から他の場所に避難しました。本当に恐ろしい光景でした。そして翌日、恐る恐る様子を見に帰ってきました。


    

 
古森:被災直後の鹿折地区・・・。想像するに余りある感じがいたします。


 
清水:ひどいものでした。めちゃくちゃに壊れた建物や自動車の中に、あるいは折れた木に引っかかるなどして、亡くなられた方々のご遺体が数多くありました。人間の尊厳がことごとく失われた姿で。何体ものご遺体を運びました。ご遺体の重さが今も思い出されます。本当に信じがたい出来事でした。


  
古森:私にはもう本当に、言葉もないという心境です。ただただ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。


 
 
2. 薄れていく震災の記憶


 
古森:それから1年と9ヶ月ですね。鹿折地区の復興には時間がかかりそうな印象ですが、今現在の状況を清水さんはどう見ておられますか。


 
清水:そうですね・・・。「震災の記憶がどんどん薄れていく」というのが、最近の率直な心境です。今日のように尋ねられれば思い出すものもありますが、普段はもう、あまり震災のことを考えなくなってきました。日々を過ごしていくのが色々と大変ですし、壊れた建物などもなくなってしまいましたし。


 
古森:「思い出せない」という趣旨の言葉を、実は私、色々なところで耳にしています。遠くにいる人々はともかく、被災地に暮らしている方々でさえ、やはり目に見えるものが片付いていく中で記憶が薄れていくというのです。そもそも、思い出したくないという方もいらっしゃるでしょうし。


 
清水:「津波がここまで来た」という目印のようなものも、どんどんなくなっていきます。あの船(注:鹿折地区に乗り上げたままの第18共徳丸)が残っていれば、まだ伝わるものはありますが、最終的にどうなるか決まっていません。保存に反対する声も根強いものがあります。


 
古森:他の被災地でも、いわゆる「震災遺構」を撤去するか保存するかという問題は、非常にデリケートですね。結果的には、「思い出したくない」という声に配慮して、あるいは、保存のための経費負担や事故のリスクなども考えて、取り壊すケースのほうが圧倒的に多いようです。


 
清水:そうですね。でも、私はやはり何か残したほうが良いと思うのですよ。そうしないと、ここにいる私たちでさえ忘れてしまうのに、他の地域の人に津波の実像を伝えられるものがなくなってしまいます。それに、震災遺構が実際に外部から人が訪れるきっかけになっているという面もあります。
   


  
古森:震災遺構を見に来られる方々の心無い振る舞いなどで、心穏やかでない場面もあると聞いています。バスから降りてきて写真をとって、祈りもせずに立ち去るといった光景も見られます。その方々に悪気はないと思いますが、地元の方々からすると複雑な心境でしょうね。


 
清水:おっしゃるとおりです。しかしながら、やはり被災地の復興において「外から人が来てくれる」というのは大事な要素でもあります。来た人が、「何が起きたか」を直接感じ取るというのは、さらに大事なことです。配慮すべきことは配慮しつつ、何か象徴的なものを残すという判断をすべきでしょう。広島の原爆ドームだって、最初は反対の声が大きかったと聞きました。


 
古森:震災遺構の扱いについては、地元の総意を一つにまとめるのは難しいのでしょう。残すにせよ、なくすにせよ、誰かがリーダーシップをとって決断していくしかないですね。震災の物的痕跡を生かす形で復興を進めて行くのか、消し去ることで新たな価値創出に挑戦していくのか。大きな分かれ目の選択ですね。


 
 
3. 「普通の戦い」という厳しい現実


 
古森:話題を至近距離に移しますが、マルトヨ食品さんの事業の復興は、どのような感じでしょうか。加工業でいらっしゃるので、御社単体での復興というのはなかなか難しい面もあって、気仙沼全体の水産業の回復度合いに影響されるのだと思いますが。


 
清水:まだ、気仙沼の水産業全体が非常に厳しい状況にあります。水揚げ高などの面で復調を感じさせるニュースもありますが、港周辺の冷蔵・冷凍施設などを含め、本格的に震災前のレベルに戻るには相当な時間がかかります。そんな中で弊社も細々と事業を再開していますが、先の見えない状況です。


 
古森:気仙沼の水産業全体の問題が、マルトヨさんにとっても非常に大きな影響を与えているわけですね。


 
清水:さらに本質的に厳しいのは、市場競争のほうだと感じています。


 
古森:つまり、お客さんへの営業面でも大変苦しいものがあると。


 
清水:やはり、震災後の空白期間の影響は甚大です。弊社の事業は圧倒的に「B to B」(注:Business to Business:法人間商取引の略称)の卸売業ですが、震災後に私たちが動けなくなっている間に、小売さんのほうでは別の卸業者への切り替えが粛々と進んでいきました。これは、小売りという立場を考えたら当然のことですし、空白を埋めた業者も一生懸命仕事をしているわけですから、恨んでも仕方のないことです。しかし、結果としては、「B to B」の市場で私たちの入る場所はなくなってしまいました。


 
古森:厳しい現実ですね・・・。


 
清水:被災地の企業であろうとなかろうと、「普通に競争」していくしかないのが市場の原則だということです。「普通のところ」に出て行って、「普通に勝負」して、選ばれていかなければなりません。復興というのは、本質的にはそういうことなのです。それが、現実です。
  


   
古森:こちらが何を背負っていようとも、「普通の勝負」をしなければならない。しかも、過去に提供していた価値を再現するだけでは、もはや失地回復は容易ではない状況なのですね。私も業界は違いますが「B to B」の世界に生きる身ですので、おっしゃることの意味はよく分かります。行政の支援などは、ないのでしょうか。


 
清水:最終的には個々の事業者が勝負をしていかなければなりませんが、活用できるものは何とかうまく活用させていただきたいという思いは当然あります。しかし、用意された各種支援の枠組みが、実際に使いやすい形にはなっていない場合もあるのです。


 
古森:と、いいますと?


 
清水:例えば、いったん被災者が必要な資金を立て替えて支払い、その後に補助金と精算する方式になっている施策などもあります。現実的には、最初に立て替えるキャッシュを用立て出来ないケースが多々あるわけです。補助金の仕組みはあっても、実際に活用できる人は少ないというジレンマですね。そんな中で、背に腹は変えられませんし、補助自体は大変ありがたいことですので、一生懸命書類と格闘したり走り回ったりしていますが。


 
古森:行政としては、補助金を本来受け取る立場にない人が制度を悪用して受給することを防ぐために、厳格なプロセスを組まざるを得ない面もあるのでしょう。しかし、補助金は役に立ってこそ目的にかなうという原点から考えると、やはり問題がありますね。事業再建が一刻を争う中では、本当に切実な問題ですね。


 
清水:片方に動きが遅い被災地の環境があり、もう一方に「普通の戦い」を強いられる市場があるわけです。その両方の問題を背負いながら、それでも前を向いて、日々苦闘しています。文句を言っても何も始まりませんから、自分で動いていかなければ。


 
 
4. 起業家精神を持って「発信」していく


 
古森:そんな中で、時々東京の方でイベントを開催されていますよね。Facebookで何度かそのご様子をお見かけしています。


 
清水:はい。東京都内に出かけて行って販売会を開催するという試みを続けています。震災復興のことで色々とお世話になった神戸でも開催します。これまでにもう8回ほど開催しました。つい先日も東村山、その後目黒でも開催してきたところです。


 
古森:反響は、どうですか。


 
清水:おかげさまで、数多くの方々に足を運んでいただいています。大変ありがたいことです。弊社はあくまでも「B to B」の商売で成り立つ会社なのですが、直接小売りを行う「B to C」(注:Business to Consumerの略称)についても色々と手探りで試行錯誤を続けているところです。


 
古森:とてつもない逆境を背負いながら、起業家精神を発揮しておられますね。


 
清水:今のところ、東京に出向いていく「B to C」の形式では、まだ事業の柱になるような可能性は見えていません。しかし、少なくとも情報発信としては重要な活動になりつつあります。時とともに震災の記憶が薄れていく中で、「被災地のことを忘れないで」と願うばかりでは駄目です。こちらから出向いていって、被災地の現状を伝えつつ、仕事の種もきちんとまく必要があります。


 
古森:情報発信と試行錯誤を続けていく中で、何かを見出していこうと。


 
清水:FacebookなどのSNS(注:Social Networking Serviceの略称)を通じた情報発信も、重要性を増していると思います。Facebookでは、色々な方と縁が出来ること自体がまずもって嬉しいことですが、そこから縁が発展して、「気仙沼に行こう」「あの企業を見てみよう」「あの人に会ってみよう」ということになっていけば、色々な可能性が出てくるだろうと思います。


 
古森:何を隠そう、私が清水さんとつながったのもFacebookが先ですからね・・・。色々と清水さんの発信される情報を拝見して、時々コメントなどもさせていただくうちに、「ああ、一度しっかりお話を伺いに行きたい!」と思うようになりました。それで押しかけたのが先月で、今回もこうしてお会いすることになりました。私が来たからといって、すぐに商売にはならないというのが心苦しいところですが(笑)


 
清水:いえいえ、やはり興味を持って来ていただける方々がいらっしゃるというのが、私たちにとって非常に大事なことなのです。人間ですから、新しい出会いというものに勇気付けられることもあります。是非、多くの方々に来ていただきたいです。


 
古森:今後の展望は、何か見えてきていますか。


 
清水:正直言って、まだ暗中模索の状態です。Facebookその他での情報発信、そして東京など大消費地での販売会も続けていきます。しかし、それでどうなるという確証は何もありません。先が見えなくても、今日の努力を信じて、行動していくしかないのです。私たちは。行動していく中で、何かを見出していくしかありません。
 


  
古森:逆境を背負った「普通の戦い」の中で、新しい付加価値を見出していくために・・・。


 
清水:そうです。頑張らなければと思います。


 
古森:心から応援しています。私も自分に何が出来るのか、毎月こちらの方に通い続ける中で考えていきます。最低10年間は毎月通うことにしていますので、きっとなにか開いていく縁があるのではないかと思っております。


 
あっ、そろそろお時間ですね。忙しい午後に長居してもご迷惑でしょうから、本日はこのあたりで・・・。清水さん、率直なご意見や熱い思いを語っていただき、ありがとうございました。またお伺いします!


 
(End)

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「復興対談シリーズ」 
 
~ Talk for Recovery ~
  
第6回 
陸前高田市 海外広報ディレクター
アミア・ミラーさん (Ms. Amya L. Miller)
  
■□■□■□■□■□■□■□■□
 
 
1. 何がおきたかを五感で感じる
 
古森: アミアさん、今日はお越しいただきまして有難うございます。陸前高田市の海外広報ディレクターに就任されたという報道に接してから、是非お会いしたいと思っておりました。お会いできて光栄です。
  
アミア: こちらこそ、お声がけくださり有難うございます。お会いするのを楽しみにしておりました。実は、以前から久保田副市長さんが古森さんの活動のことを私に話して下さっていたので、Facebookでお名前を探していたのです。でも、なぜか見つけることができなくて・・・。
   

 
古森: そうしているうちに、偶然にも私からメッセージが来た・・・というわけですか。私は私で、久保田さんに「アミアさんにつないでいただけませんか」とお願いして、先日ご紹介いただいた次第です。アミアさんが海外広報として目指しておられることと、私が考えていることは、共通項があると一瞬にして直感していましたので。
  
アミア: 私もそう思います。毎月、英語のクラスを開催しに陸前高田を訪問していると聞きましたが。
 
古森: はい。2011年の11月から「Komo's英語音読会」というものを始めまして。私は震災後に物資の支援を行っていたのですが、あるときふと、実際現地に行こうと思い立ちました。それで、たまたま物資の主な行き先だった陸前高田に行ってみたのです。そこから音読会の活動が始まりました。アミアさんは、どのようにして陸前高田に出会われたのですか。アミアさんは、基本的には、日本ではなくてアメリカにお住まいなのですよね?
 
アミア: それはですね・・・。私、日本で育ったのです。今私の家族は皆アメリカに住んでいますけど、日本は私が育った場所なのですよ。ですから、日本に対しては個人的に強い結びつきがあるのです。ところが2011年の3月11日のあの出来事をテレビ番組や新聞で見て・・・。本当にショックでした。最初はもう、どうしたらいいか分からなくて。
 
古森: それで、被災地に行こうと決めたわけですか。
 
アミア: そうです。最初のうちはパニックになってしまって、毎日部屋の中をうろうろしていました。きっと、おかしな人に見えたことでしょうね。そうするうちに、私の夫が「行きたければ、行っていいんだよ」と言ってくれました。彼の言葉に背中を押されるようにして、日本に飛んできました。
 
古森: それは、いつ頃のことですか。
 
アミア: あれは・・・ 3月の下旬でしたね。
 
古森: ええっ、震災からほんの2週間くらいのタイミングで飛んで来られたのですか。
 
アミア: はい。
 
古森: 最初は、どこに向かわれたのですか。まっずぐ陸前高田へ?
 
アミア: いいえ、当初はそもそも被災地へのアクセスがほとんど不可能でした。被災地に行くことが出来るボランティア団体を探し出すのに苦労しましたが、ようやく「All Hands」 (http://hands.org/ )のほうで大船渡に行く機会を得ました。「All Hands」の拠点が大船渡と陸前高田にありましたので、陸前高田にたどり着くことが出来たのです。
 
古森: なるほど。大船渡方面から陸前高田に入られたのですね。
 
アミア: そうです。活動の初日に、陸前高田エリアに来る機会を得ました。そして、私たちの乗った車がアップルロードを通って、陸前高田に入った瞬間・・・。
 
古森: その瞬間・・・。
 
アミア: ただもう、圧倒的な光景に言葉を失いました。とにかく、圧倒的なほどの。そのとき私は、「いったい何なのよ、これ・・・」みたいなことを、つぶやいていたように思います。それはある意味、「静寂なる地獄」のような光景でした。
 
古森: 「静寂なる地獄・・・」
 
アミア: そうです。「静寂なる地獄」です。
 
古森: 私が初めて陸前高田に行ったのは、2011年の9月初旬でした。その時でさえ、被災の傷跡は想像を絶するほどで、早朝に一人で壊れた建物の前にたたずんでいたら、涙が出てきました・・・。狂ったかのように泣きました。そこで起きたであろうことが、3次元のイメージでわいてきたのです。あまりにもショックが大きくて、「ここに少なくとも10年は来よう」と心に決めました。人生が変わりました。
 
アミア: その「3次元のイメージ」というの、分かります。ほんとうに、違うんですよね・・・。テレビなどで見ているのと、実際に現地に行ってそこに立つのとでは、大きな違いがあります。実際に行かないと、本当に何が起きたのかは体感できません。
 
古森: いうなれば、「3次元」で、そして「五感」で感じるものがありますよね。直接どうなっているかを見て、においをかいで、触って、静寂の音を聞いて・・・。
 
アミア: 私、すべての日本人が一度は東北被災地を訪問すべきだと思うのです。日々忙しいかもしれません。急ぎの仕事があるかもしれません。家庭の事情があるかもしれません・・・。でも、一年のうちに一日さえ作れないなんてことがあるでしょうか。今回の震災は、日本にとって歴史的な出来事です。すべての日本人が、末代まで語り継いで、学びを残していかなければならないと思います。それが、日本人の社会的、倫理的責任だと思いますよ。
 
古森: その最初の衝撃的な訪問の後、どうされたのですか。
 
アミア: いったん、アメリカに帰国しました。そして、長期的な視点で何ができるか、家族と相談しました。そうこうしながらも、2011年の夏~秋には再度被災地を訪問しました。そして私が出した結論は、被災地復興のために日本にとどまるということでした。早速東京に拠点を設け、ビザなども手配しました。
 
古森: ご家族は、それを許してくれたのですね。
 
アミア: はい、私は幸運でした。ここに来て滞在するための要件が、満たされていたからです。それらの要件の最たるもののひとつが、家族の理解です。それなくしては、こんな風に腰をすえて活動することは出来なかったでしょう。
 
古森: そして、最終的には陸前高田市から海外への情報発信をサポートする役回りを得たのですね。日本語圏と英語圏の両方の言葉とカルチャーを理解できるアミアさんは、本当にはまり役ですね。
 
   
2. 「陸前高田市 海外広報ディレクター」という役割 
 
古森: 陸前高田には、どれくらいの頻度で通っておられるのですか。
  
アミア: そうですね、だいたい月の半分を陸前高田で、残りの半分を東京で過ごすようにしています。
  
古森: なるほど、50%ずつという感じですね。それぞれ、2週間ほどずっと滞在されるのですか。
  
アミア: いいえ。一週間の連続滞在を上限にしています。平均的には、東京と陸前高田を月に2往復する形になっています。
  
古森: そうですか、かなり忙しいスケジュールですね!まだ仕事の内容自体が出来上がっていくところだとは思いますが、「海外広報ディレクター」というお仕事は、どんなイメージなのでしょうか。日本の自治体としては珍しい役割ですよね。
  
アミア: 私の究極のミッションは、陸前高田と世界とをつないで、復興にプラスにはたらく要素を作っていくことです。その目的を念頭に置きつつ、私の現在の主な仕事は海外メディアからの問い合わせ対応ですね。実のところ、現在でも数多くの海外メディアが東北の津波被災地のことに関心があります。しかしながら、取材を続ける明確な事情がある福島を除けば、海外メディアとの関係構築に積極的な自治体は多くはありません。そうした状況で私の役割がアナウンスされましたので、ここのところ世界中のメディアから問い合わせがきています。

 
古森: 世界のメディアが潜在的にはまだ関心を持ってくれているというのは、良い知らせですね。でも、ある意味それは自然なことかもしれませんね・・・。なんといいましても、今回の大規模災害は日本人だけでなく世界中の人々にとって何かを学ぶ機会になっているわけですから。
 
アミア: それで、私は東京にいる間も非常に忙しいのです。海外向けの広報機能を持っている被災自治体は、現段階では陸前高田くらいですから、ほとんどの問い合わせが私のところに集中しています。通常、海外メディアの方々にとっては、まず東京で私に会ってあたりをつけてから、現地でしか得られない情報を得るために陸前高田に行く・・・という流れが好都合です。私の方としても、東京にいるときのほうが、当然より多くの海外メディアの方々にお会いすることができます。
  

   
古森: なるほど、東京と現地の2ヶ所にいるということが、まさにこのお役目にフィットしているわけなのですね。まあ、違う視点から見れば、どっちにいてもアミアさんは忙しいということになりますが!ところで、海外のメディアに会う際には、当然のことながら陸前高田についての詳細をお話しすることになりますね。以前どうだったか、何が起きたか、何が進行中か、何が課題か・・・などなど。海外メディアに向けて発信(アウトプット)するのと同じくらい、実は情報収集(インプット)もお忙しいのではないかと想像します。
 
アミア: そうなのです。インプットの作業はとてもチャレンジングなのですよ。この役割は、組織基盤の確立された大企業の広報とはわけが違いまして、被災自治体の、しかも過去に例がない役割なのです。広報に出す情報がいつでも準備OKという状態ではありませんし、自分から積極的に探し、集め、咀嚼し、編集しなければならない場合が多々あります。正直なところ大変な仕事ですが、より広く深く陸前高田を知る機会を持てるということはエキサイティングだと感じています。
 
古森: ところで、最近海外メディアが関心を寄せているのはどういうテーマでしょうか。例えば、「奇跡の一本松」など?
 
アミア: そうですね、それも関心事の一つですが、戸羽市長に対する関心も非常に根強いものがあります。
  
古森: ああ、戸羽市長についてですね・・・。昨年のWall Street Journalに戸羽市長に関する大きな記事が出ましたが、いまだに覚えています。戸羽市長のfacebookも都度拝読しています。直接お会いしたことはないのですが、とてもオープンでフランク、それでいて個性的なお人柄の持ち主のようですね。
 
アミア: その通りです。海外のメディアが戸羽市長に関心を持つのは自然なことだと思いますし、私に聞いてくださればもっと詳しくお話しすることができます。それから、市役所内部のマネジメントの観点では、戸羽市長はほんとうに一緒に働きやすい人です。私を含め、メンバーに大きく任せて下さいます。スタッフを本当に信頼している人ですね。 
 
古森: なるほど。それで、戸羽市長のチームに参画されて、ワクワクされているわけですね。
 
アミア: ええ、とっても!
  
 
3. 「内部にいる外部者」になる、というチャレンジ 

 
古森
: 話をちょっとパーソナルな側面に移させていただきます。経験のない場所で仕事をしていくうえで、一番大変だとお感じになっていることは何でしょうか。私、以前米国で経営コンサルタントとして勤務した経験がありますが、外国での仕事というのは、充実しつつも非常に苦しかったという記憶があります。もしかしたら、アミアさんも同じような苦労をされているのではないかと。
 
アミア: おっしゃる通りで、充実しつつも苦しい場面が多々ありますね。陸前高田の復興、そこにいる人々の幸せに貢献できるというのは、大変素晴らしいことです。一方、現地のコミュニティに入るときには、「ガイジン・カード」を切らないようにしているので、その点は難しい面もあります。
 
古森: 「ガイジン・カード」?
  
アミア: はい。もし私がコミュニティの外側にいる単なる外国人として自分を位置づけるのであれば、むしろ受け入れられるのは簡単でしょう。もし何か不適切なことをしでかしたとしても、人々は、「ああ、彼女は外国人だから仕方ないね。」と割り切って下さるでしょう。でも、その分人間関係は薄いものになってしまいます。私の場合、日本で育ったのでカルチャーのことも分かりますし、あくまでも「日本人」のモードでコミュニティに入っていくようにしています。日本の方々がなさるように、相手の気持ちを敏感に感じ取ろうとしますし、些細なことにも気を使います。
  

   
古森: つまり、日本人のことを良く分かった外国人として、日本人のコミュニティに入っていかれるのですね。となると、アミアさんに対する「期待値」は高くなりますね。「ガイジン」として振舞えば安全なところにいられるのに、あえて日本人のローカルで有機的な世界に溶け込もうとされているのですね。
 
アミア: 私は、地元のコミュニティの一部になりたいと思っています。そして、普通はそれでうまくいくのです。でも、時折、入って行けないこともあります。より具体的には、向き合う個人によっては、フィットしきれない場面がありますね。
 
古森: まあ、それは日本人同士でもそうでしょうけど・・・。
 
アミア: 例えば、あるとき私は被災地の人の話を伺っていて、そのあまりにも悲惨な内容に涙を流してしまったことがありました。起きたことの苦しさが想像できてしまったので、涙をこらえることができなかったのです。しかし、その方は私が泣くのを見て、突然お怒りになりました。「泣くなら、来るな!お前に起きたことじゃない。お前が泣くな!」と。すぐに私は、その方のお気持ちが分かりました。でも、そのときは涙を抑えることは出来なかったのです。
 
古森: う~ん・・・。とてもデリケートな話ですね。でも、ひとつだけ確かなことは、アミアさんが「ガイジン」として最初から振舞っていたのであれば、その人は怒りを表に出さずに言葉を飲み込んでいたでしょうね。心の中で、「このガイジンに、津波被災者の気持ちなんて分かるわけがねぇ。」と、つぶやいていたことでしょう。でも、アミアさんがある意味「内部にいる外部者」であったからこそ、その人は気持ちを表に出すことが出来たのだと思います。
 
アミア: こうした個々人のレベルでは、その都度向き合っている相手に応じて非常に繊細な対応が必要になると思っています。話を聞いて涙を流すことが、常にいけないということではありません。個々人ごとの文脈に応じて、泣いても良かったり、泣いてはいけなかったり、だと思います。
 
古森: 日本人でさえ、それは難しいですよ。例えば、ボランティアの方々による心無い言動にまつわる話は、いろいろと耳にしました。悪気がまったくない場合でも、結果として被災地の方々の感情を害する場目というのは多々あったわけですよね。日本人でさえ、そうなのですよ。
 
アミア: そうですね。でも、私が向き合っている方々というのは、想像を絶するような苦しみを経験して、今なお様々な形で苦しんでおられる方々なわけです。「ガイジン」という盾に隠れないと心に決めた以上、自らの言動の与える影響に関しては、日本の方々と同じレベルのチャレンジを受けたいと思っています。
 
古森: 素晴らしいですね・・・。コミュニケーションとは何か。それを体現しておられますね。いつの日か、陸前高田の人々もアミアさんのこうした努力を知り、そこから何かを感じとるのではないでしょうか。それはきっと、陸前高田の人々が海外の誰かにコミュニケーションをとる立場になった際に、留意すべきポイントとなることでしょう。
 
 
4. 子供たちのために種を蒔き、ドアをあけよう
 
古森: 陸前高田市の海外広報ディレクターという公務のほかに、被災地の人々のために何か個人的に取り組んで行かれることはありますか?
 
アミア: もちろんあります。今形を帯びつつありますのは、幼稚園・保育園の子供たちと一緒に過ごすという活動です。
  
古森: 幼稚園・保育園の子供たちと一緒に過ごす?
 
アミア: はい。いわゆる英語教室ではないですよ。いうなれば、コミュニケーションの場ですね。園児たちと一緒にいながら、私は日本語と英語の両方を使ってお話しをします。近くで一緒に過ごすことによって、園児たちが外国人に対して恐怖心を抱かないようになればいいなと思います。
 
古森: それ、大事な活動ですね!アミアさんは、その活動を通して園児たちに「オープンで世界に開かれた心」の種まきをしているわけですね。素晴らしいです。
  

  
アミア: 日本語で話しながら、私は時々「コーヒー」などの言葉を日本語の発音で口にします。英語圏由来の外来語で日本語に完全に溶け込んでいる言葉はたくさんあります。園児たちでも、「コーヒー」と普通に言えますね。そこで、私は言うのです。「それ、英語なのよ!今あなた、英語を話せたのよ!」と。園児たちでも、ケーキ、キャンディ、アイスクリーム、チョコレート、ボール、ハンバーガー、プール、トラック、ドレス、などなど、色々な単語を知っています。それらが実は英語だったと知ったとき、園児たちは満面の笑みを浮かべるのです。そんな表情を見るのが楽しくて・・・。
 
古森: 学ぶ喜びと自信を授ける、素晴らしい方法ですね・・・。子供たちは、アミアさんに会えて幸せですね。きっと、心の中にアミアさんが蒔いた種を、自分たちで育てていってくれることでしょう。
 
ああ、もうお時間になりましたね。光陰矢のごとし、ですね。アミアさん、本日は対談をお受けいただき、改めてありがとうございました。これをご縁に、色々と協働させていただければと思います。
ありがとうございました!



(終)

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12月8日(土)~9日(日)の週末、「Komo's英語音読会@陸前高田」を開催しました。2011年11月開講、その後毎月一回のペースですから、通算14回目。2012年最後の音読会となりました。


【12月7日(金):移動日】

移動は前日の金曜日。朝6時に新宿駅で講師メンバーをピックアップして東北道へ。途中、いつものように気仙沼に寄り、復興商店街(南町紫市場)でランチ。

喫茶マンボ ⇒ 新潟屋刃物店 ⇒ 揚げたてコロッケ屋 ⇒ さいとう菓子店 と、これもいつものコースで顔を出し、食べたりご挨拶したり。。。

その後、先月ご挨拶に寄らせていただいた「マルトヨ食品」の清水さんを再度訪ね、「復興対談シリーズ ~Talk for Recovery~」のインタビュー。
 


『被災地の企業は大きな負荷を背負っているが、市場での競争は震災とは関係なく「普通の」戦いが必要。その「普通の」戦いの中で、震災前に自分達が提供していた価値は、既に他のプレイヤーが提供する形で埋まってしまっている。ここから復興していくためには、新しい価値を見出していかなければならない。どうすればそれができるのか、まだ答はない。しかし、「被災地を忘れないで」とただ望むのではなく、こちらから情報を発信して、動いて、出向いて、その中から未来を見出していきたい。明日が見えなくても、今日の努力を信じる・・・』

そういう趣旨のメッセージを受け止めた対談となりました。ぐっときました。出来るだけ早めに記事を公開できるようにいたします。清水さん、ありがとうございました。

対談後、国道45号線で陸前高田へ。

初めて陸前高田を訪れる講師仲間もいたので、市内を周回しながら被災の経緯や現況を簡単に説明しました。その足で、「佐藤たね屋」の佐藤貞一さんにご挨拶。陸前高田に来たら、やっぱり佐藤さんにお会いしないと・・・。皆でストーブを囲みながら、しばし歓談。


さて、宿泊先の鈴木旅館へ。チェックインして、荷物を開こうかと思った瞬間、揺れを感じました。震度4くらいだなと思いましたが、揺れが長かったのが気持ち悪かったです。

携帯には緊急地震速報。その後、ほどなく気象庁からの津波警報メール。そして、現地である陸前高田市からは、岩手県に津波注意報が発令されたとのメールが入ってきました。



揺れの大きさや長さから考えて、震源地ではかなり大きな地震である可能性を想定。部屋に散った講師仲間を至急呼び集めて、車で避難しました。

もう少し遅れると車で移動すること自体がタブーですが、このタイミングではOKと判断しました。また、道路の渋滞有無などを見ながら、分岐点ごとに右折・左折の判断を迅速に行って、結果的には高台にあるOさんの仮設住宅に避難しました。

あとで聞いたら、もう数分遅かったら渋滞に巻き込まれていた可能性もあったようです。何十回も佐藤さんの震災手記、「The Seed of Hope in the Heart」を読んでいるので、津波リスク下でどの道がどのように混み、最悪の場合はどこまで逃げれば良いかなどが完全に頭に入っていたため、自分でも驚くほど冷静に正しい判断が出来ました。

結果的には地震も津波も大事に至りませんでしたが、サイレンと防災無線が鳴り響く中での「本番」であり、大変貴重な経験となりました。10年間毎月通えば、いずれまた類似の場面があるかもしれません。講師メンバーを預かる身であり、今後も適切な対応が出来るように日頃から緊張感の維持と情報収集を心がけようと思います。


【12月8日(土) 音読会1日目】

津波注意報から一夜明けた土曜日、目覚めると雪・・・。気温は0度。白くなった地面、小雪の降る中で音読会をオープンしました。


朝一番に、「佐藤たね屋」の佐藤さんが来られました。バルセロナから来日して被災地の中小企業の国際化支援のプロジェクトに取り組んでいるレナータさんがお相手。



9時過ぎから、だんだん参加者が増えてきました。



皆さんそれぞれに、一生懸命取り組んでおられます。


午後からも、ほぼフル稼働状態が続きました。



小中学生から大人まで・・・。



発音もしっかり。



小学4年生のAちゃん。毎月少しずつ単語を覚えています。前回は動物の名前シリーズでしたが、今回は図形シリーズ。"rectangle"など、結構難しい単語を良く覚えました!



今後の色々な工夫のヒントを得るために、今回始めてスカイプを使った東京⇔陸前高田でのセッションも試行しました。

 
今ある「良さ」を守り育てつつ、「もっと良く」していくために、仲間で考え行動していこうと思います。


【12月9日(日) 音読会2日目】

日曜日、目覚めると再び雪・・・。車も看板も凍り付いていて、冷たい空気の中での音読会スタートとなりました。



日曜日は午前中で終わりですが、9時頃から徐々に参加者があり・・・。


 
11時半の終了まで、忙しい朝となりました。

 
小学6年生のYちゃんは、某派遣プログラムに選抜されて、来週海外で1分間スピーチです。この週末は、その練習。復興に関する自分の夢や思いを綴った英文を、本番では暗記してスピーチすることになります。

Yちゃんは、先月からスピーチの練習を重ねてきました。日曜日の終了時点では、見事に、大きな声でスピーチを諳んじていました。発音も随分良くなりました。素晴らしいですね!最後には、講師陣からの拍手がわき起こりました。

あっという間に、12月の音読会は終了・・・。

今月もまた、短い限られた時間の中で、充実した音読会に出来たのではないかと思います。もちろん、常に改善余地がありますので、行動しながらレベルアップや次なるアイディアを考えていこうと思います。

12月講師チーム一同↓ 
(ボランティア講師の皆さん、本当にありがとうございます!)


帰路の雪が不安であったため、早めに陸前高田を後にしました。峠を越える道は、一面の銀世界。もう本当に、冬です!



東北道も、岩手 ⇒ 宮城 ⇒ 福島 ⇒ 栃木と、4県にわたり雪でした。先週末にスタッドレスタイヤに履き替えていたので、足元は大丈夫でした。

那須高原サービスエリアで休憩。車を前から見てみたら、こんな風になっていました。

 
NOAH君、寒そう・・・。しかし本当に良く走ってくれます。昨年10月に先代のNOAHから買い換えて、早くも4万キロを超えました。週末ユースだけで、毎月2,000キロくらい走ります。

今年の音読会は、これが最後でした。来年もまた、脈々と続けていきます!



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この11月で「Komo's英語音読会@陸前高田」は一周年となりました。多少の感慨にふけりつつ、2年目以降への燃える思いを胸に、11月9日(土)~10日(日)の週末に月例の音読会を開催して参りました。
  
移動日の金曜日、朝6時に仲間をピックアップして東北道へ。いつものように気仙沼に寄って復興商店街でランチです。
  
しかしその前に、今回は・・・。
  
「マルトヨ食品株式会社」(http://www.facebook.com/marutoyo.kesennuma)の取締役営業部長、清水浩司さんを訪ねました。清水さんとは以前から"Facebook Friend"なのですが、今回初めて直接お会いする機会を頂きました。
  
水産加工業のマルトヨ食品さんは、震災の夜に地獄絵図のような大火災に包まれた鹿折地区にあります。社屋も浸水しましたが、ギリギリ火災は免れ、今は復興に向けた努力を続けておられます。
  
社屋2階の屋外スペースから鹿折地区を見渡して、改めて、ほんとうに改めて、被災の大きさを実感しました。 
  

 
まだ基礎も破砕されずに残っています。ここから先、相当な年月がかかりそうな印象。個々人や個々企業レベルでの取り組みには、かなり苦しいものがあります・・・。
  
そんな中でも、前を向いて明るさを失わない清水さんでした。商品が市場に出てきたら、たくさん食べて応援します!
  

   
復興商店街では、これまた定番、「喫茶マンボ」でラーメン。その後、「新潟屋刃物店」のおじさんに挨拶して小間物を少々購入。「揚げたてコロッケ屋」に寄り、お姉さま方に挨拶してコロッケを賞味。お菓子の「さいとう」さんに寄り、手土産などを購入。
  

  

    
ここの商店街は、今年のクリスマスで設立一周年ですね。
  
その後、国道45号線で陸前高田へ。もう長い間、濱守栄子さんの「国道45号線」が頭の中でヘビーローテーションになっています。東京にいるときでもそうなのに、45号線を実際に走るとなればなおさらです・・・。
  
初めて当地を訪問する仲間もいましたし、ちょうど公共施設の震災遺構の解体が始まった週でしたので、陸前高田中心部をざっと車でまわりました。高田高校や市民体育館など、痛ましい傷跡を残す建物に最後の祈りをささげました。
  

  
いわゆる震災遺構は、私にとっては、生まれて初めて見た陸前高田の象徴です。現地の方々からすれば全く望ましくないその景色が、私にとっては陸前高田の原風景になってしまいました。そのあまりの酷さゆえに、「何かしなければ」と心に決めたのでした。
  
ですので、震災遺構がなくなってしまうことには、個人的には奇妙な喪失感があるのです。なんと皮肉な喪失感でしょうか。新たに陸前高田を訪れる人に、ここで起きたことを感じていただく機会も今後は減っていきますね。

でも、これは陸前高田の人々の立場では、被災というネガティブな特性で吸引力を維持するのではなく、「これから作る新しい価値で国内外に存在意義を訴求していこう」という決意の表れなのだと思います。
  
よそ者である私の個人的感傷などはどうでもよく、地元の方々の決めたチャレンジを応援するのみですね。更地になった被災エリアの上に、10年後には生まれ変わった活気のある陸前高田があることを祈ります。
 
そのために、微力を尽くし、一隅を照らし続けることを改めて心に誓いました。
  
さて、音読会。
  
金曜日の夜は、少し遠いところにある仮設住宅を訪問して、小中学生のために特別セッション。その後、Oさんの仮設住宅におじゃまして晩ご飯をご一緒させていただきました。
  
初めて当地を訪れる講師メンバーにとっては、Oさんから伺う震災当初~今日までの話は、貴重なラーニングであり、ある意味、イニシエーションでもあります。私たちがここに来ていることの背景にあるものを、講師仲間の間では共有し続けたいと思います。
  
土曜日。いつものように、朝一番の8時半から「佐藤たね屋」の佐藤貞一さんがいらっしゃいました。
 

  
佐藤さんの震災手記「The Seed of Hope in the Heart」(第2版)は、コンスタントに色々な方の手に渡っているようです。同冊子の第1版はスペイン語訳が先ごろ完了、バルセロナで配布が始まるところです(宮森さん他、バルセロナの方々のご尽力に感謝いたします)。
  
同時に、佐藤さんは英語の第3版、そして中国語版も執筆中。中国語も、ご自分でドラフトされたものを、はなそう基金会員で音読会ボランティア講師のHsinさんが添削しています。
  
この日も、いつものように冊子の一部を1時間ほど音読しました。佐藤さんは、おそらくもう百回以上ご自身の冊子を音読していらっしゃると思います。初めてお会いした昨年12月に比して、英語力は大幅に上達を遂げておられます。「継続は力なり」ですね。
  
午前中は、佐藤さんを含め合計6名の参加者がありました。英字新聞、小説、被災地についての説明文・・・などなど、皆さんそれぞれの教材を一生懸命に音読しておられました。
 

  
午後は、合計で12名。今回の講師陣は私を入れて5名でしたので、場面によっては非常にタイトな運営を迫られましたが、可能な限り"face to face"の個別性を維持するように努めました。
   

  
この子は、小学4年生。まずは楽しく、興味を持った分野の単語を少しずつ覚えていくようにしています。
 

  
終了時に、「よーし。じゃあ、今日覚えたことをテストしちゃうぞ!」ということで、いくつか単語をチェックします。「キリンは?」と聞いたら、スラスラと「giraffe」と書きました。すごいなぁ!自分が小4の頃は、そんな単語は知りませんでしたよ。
  
もし陸前高田の多くの人々が英語学習に本気になったら、数年で世界が変わるのではないかと思いました。子供の潜在力は、本当にすごいですね。
  
土曜日の夜は、再びOさんの仮設住宅に皆で集まって食事。音読会講師以外に、現地の友人も数名合流して、にぎやかな夕食になりました。一周年を祝して、サプライズで花束などもいただきました。感激です!
  

 
日曜日、8時半の開始前に皆でチューリップの球根を100個植えました。
 

  
この土地は、津波で数十体のご遺体が流れ着いた場所でもあります。冬を除き、この土地にはいつも花がいっぱい。花には、鎮魂の意味も込められているのです。来年4月後半~5月上旬に、青空の下で咲くチューリップが楽しみです。
 
日曜の音読会は、午前中のみ。合計7名の参加者がありました。
 
「明日が試験」という高校3年生も・・・。
 
試験前の付け焼刃ではなく、あくまでも日ごろからの音読の継続が大事です。が、ここに来ることで少しでも試験にプラスになって、英語学習への気持ちが前向きになってくれたらいいなぁと思います。
 
試験、どうだったかなぁ。
 

   
11時半に教室は終了。後片付けをして、お昼過ぎに近隣の細根沢仮設住宅を訪問しました。音読会参加者もたくさん住んでいらっしゃる仮設住宅です。
 
この日は、仮設住宅の文化祭!集会所の中に手作りで色々な工夫をこらし、たくさんの展示物が出品されていました。
 

  
あっ、あの人が作った野菜!
 

  
あっ、あの人の描いた油絵!
   

 
あっ、あの人がスペインの子供たちから受け取った寄せ書き!
  

 
なんだか、暖か~い気持ちになりました。そして、会場内で多くの方々と歓談・・・。
  
この一年、気づけば、なんと多くの新しい縁にめぐり合ったことでしょう。「また会いたい」と思い、「また来月ね!」と言ってお互いに手を振る人たちがここにいる限り、もうそれだけで往復1,100キロを走る理由は十分です。
 
「はなそう基金」にはミッションもビジョンもありますが、仮にそういうものがなかったとしても、やっぱり私はここに来ることでしょう。音読会の講師仲間もみんな、そんな風に思ってくれていると思います。
   
(今回の講師チームの皆さん↓)

  
それでは、また来月!
 

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■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
  
第5回 シンガーソングライター 濱守 栄子 さん



(対談実施:2012年10月上旬)
   
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
  
  
古森: こんにちは。日本各地を飛び回っておられる中で、今日はお時間をいただきありがとうございます。この後もまだお忙しいということで、ご無理を申し上げてディナータイムの設定にさせていただきました。

    
濱守: こちらこそ、よろしくお願いいたします。今、来週の復興支援チャリティーコンサートの準備が大詰めなのです・・・。今日この後は、都内某所からUStreamで中継があります。
  
古森: お疲れ様です。チャリティーコンサートの収益金は、すべて大船渡や陸前高田に寄付されるそうですね。私はちょうど明日から「Komo’s英語音読会」で陸前高田に行きます。昨年の秋から毎月一回訪問して音読会を開催していまして。私なりの活動をしていく中で、濱守さんのことは色々な場面で見聞きしております。
  
濱守: そうですか、ありがとうございます。私なりに出来ることをしたいと思いまして、駆け回っております。
  
  
■ 大船渡で生まれ、陸前高田で青春を過ごした
 
古森: 大船渡のお生まれだと伺いました。
  
濱守: はい、碁石のあたりの生まれです。小学校~中学校は大船渡でした。
  
古森: 碁石海岸、あれは本当にすごい景色ですね。あんなに足元からまっすぐに深い、吸い込まれるような海はなかなかないです。それで、高校から陸前高田へ?
  
濱守
: そうです。高田高校に行きました。
  
古森: 高田高校・・・。昨年の津波で、母校がひどく被災してしまいましたね。
  
濱守: ええ、本当につらいです。高校を出てからは、地元の金融機関に就職しました。大船渡の店舗でしばらく働いて、その後陸前高田の店舗で9年間過ごしました。
  
古森: まさに青春時代の多くを陸前高田で過ごされたのですね。思い出もたくさんあることでしょうね。
  
濱守: それはもう・・・。タピック45(注:道の駅 高田松原)のあたりなど、よく行きました。
 
古森: 国道45号線沿いですね。海に面したあのあたりは、津波でことごとく破壊されてしまいましたね・・・。私も最初訪問した際に、あまりのひどさに立ち尽くしてしまいました。歌は、いつ頃から始められたのですか。
  
濱守: 25歳の頃からです。金融機関に勤めながら、アマチュアバンドで歌い始めました。きっかけは、ちょっと個人的に喪失感を感じることがありまして・・・。
       



 
古森
: 何でしょうね(笑)
 
濱守: 内緒です(笑)。それで、実際自分で歌い始めてみて、「もっと早く始めれば良かった」と思いました。それまでの私の人生は、いうなれば親の言うことに従ってきた人生でした。自分が好きだと思うことをやり始めてみて、「ああ、自分で夢を持っていいんだ!」と気づいたのです。
 
古森: 文脈は違いますが、私も最初の転職をするときに似たような閃きがありました。お気持ち分かります。
 
濱守: 人間にとって、早い時期から可能性を広げていくことは、とても大事なことです。でも、今の被災地の子供たちを見ていると、ほんとうに選択肢が少なくなっているような気がします。そして、大人たちが苦労しているのを知っているから、「自分はこうしたい」ということが言えなくなっています。
  
古森
: 子供は子供なりに、震災とその後の現実を受け止めていますからね。
  
濱守: 今の被災地では、夢を持っていても、大人たちに気を使ってあきらめてしまう子供達がいるだろうと思います。私は、「自分の可能性を広げていいんだ」ということを、歌の活動を通して伝えていきたいのです。自分自身、それにもっと早く気づいていればという思いがあるからです。
  
古森: 濱守さんにとって陸前高田は青春の舞台であり、そして、人生を自分の意思で開いて行こうと心に決めた、出発の地なのですね。その後、プロデビューに至る経緯というのは?
 
濱守: 陸前高田でアマチュアとして活動していく中で、あるプロデューサーの方から声をかけていただきました。当時は金融機関での仕事が生活の糧でしたし、東京に行くとなると不安もありました。3年間ほど、どうするか悩んでいました。
  
古森: しかし、最終的には上京を決められたのですね。
  
濱守: はい。29歳のときに東京に出てきました。きっかけは、祖母が亡くなったことでした。「人って、いつ死ぬかわからないな」と、その時思ったのです。だったら、やりたいことをやってみようということで、親の反対も押し切って、出てきてしまいました。
  
古森: 安定した金融機関の仕事も辞めて。
  
濱守: そうです。でも、怖くはありませんでした。苦労を覚悟して自分で動いてみたら、道は開けて行くんだな、と実感しました。HAMAという名前でCDも出して、自分としてはそれなりに新しい人生に満足していました。
  
  
■ 震災を機に、活動の軸足が大きく変化
 
古森: ”3.11”の震災発生のときは、どうしておられましたか。
 
濱守: 私は東京にいました。テレビで映像を見て、愕然としました。あの見慣れた大船渡や陸前高田の町が、津波に飲み込まれていく光景を何度も目にしました。
 
古森: 青春時代の思い出が詰まった場所だけに、大変なショックだったことでしょうね・・・。よそ者の私には、本当に言葉がありません。
 
濱守: 最初は、ただもう涙がこぼれるばかりで。でも、やがて「ふるさとのために何かしなければ!」と思うようになりました。それまでの私は、CDデビューしただけで満足していたように思います。しかし震災を機に、私は使命感で動くようになりました。それが、「国道45号線」という歌になりました。
 
古森: 岩手県トラック協会のテーマソングになったという、あの曲ですね。
 
夜中に喧嘩して飛び出した45号線

友達と朝まで語り合った45号線
週末にあいつと待ち合わせた45号線
ふるさとの花火を横目にみた45号線
 
TVに映し出された

見慣れているはずの風景
あまりにも残酷で
思い出せないほど
ただ涙がこぼれた
 
いつかまたあの頃のように

あの場所で笑い合いたい
大好きなあの人が待っている海の町で
  
  
(MVを動画で見ることができます↓)  
http://youtu.be/sibpMtjKn34



  
   
古森: 濱守さんの青春の記憶、傷ついた故郷への思い、そして復興への希望が込められた歌だと思います。売り上げの半分は陸前高田市と大船渡市に義捐金として寄付しておられるのですよね。
  
濱守
: はい。
 
古森: 津波以前の陸前高田に行ったことがなく、傷ついた姿で始めてあの町と出会った私としては、この歌の最初の部分でぐっときてしまいます。当たり前なのかもしれませんが、あの場所に普通の日々があった。それを思うと切ないです。この歌は、実際はいつ頃作成されたのですか。
  
濱守: 最初に歌ったのは、震災後のゴールデンウィークでした。4月末に大船渡の実家に里帰りして、連休中に実家の居酒屋で「こんなのを作りました」ということで、歌ってみたのが最初です。
  
古森: そこから、だんだん広がって行った・・・。
  
濱守: そうですね。「歌いに来てほしい」というお声がけをいただいたので、避難所や学校などをまわって歌いました。皆さん、聴きながら涙を流しておられました。
  
古森: 涙、出ますよね。この歌だと。
 
濱守: そのうちに、縁者からの紹介などもあって、IBC(岩手放送)さんにも呼んでいただきました。そこから、ラジオやテレビにも出していただけるようになりました。トラック協会の会長さまからテーマソング化の話をいただいたのも、テレビ出演がきっかけでした。昨年の夏のことです。
 
古森: 陸前高田のキャラクターとして、今年3月に公募で誕生した「たかたのゆめちゃん」のテーマソングも歌っておられますよね。
  
濱守: はい。今年2月の「復興未来会議」が東京で開催されたときに、AidTAKATA(注:特定非営利活動法人陸前高田市支援連絡協議会)の村上代表にお会いして、その縁で歌の提供依頼を受けました。
 
古森: その後、「ゆめちゃん」とは色々な機会にコラボレーションしておられますね。
 
濱守: 「ゆめちゃん」とは、仲良しですよ(笑)。「国道45号線」は、どうしても暗くなってしまいます。でも、「ゆめちゃん」と一緒に歌ったり踊ったりすると、子供達も年配の方々も本当に明るくなります。何よりも、笑顔を忘れていた子供たちがに笑顔が戻るというのが、いいですね。

      

 
 
古森: 来週のチャリティーコンサートにも、「ゆめちゃん」が登場すると伺っています。楽しみですね。
 
濱守: 「ゆめちゃん」関連のグッズの収益は義捐金になりますし、日本全国の皆さんが「ゆめちゃん」のファンになって下されば、いずれ陸前高田や大船渡のファンにもなって下さると思います。
  
古森
: 「ゆめちゃん」と一緒に、全国の保育園、幼稚園、学校なども行脚できたら良いですね。きっと、陸前高田や大船渡に興味を持つ人が増えるだろうと思います。
 
濱守: そうですね。今はまだ「夢」ということの意味が分からないような子供でも、歌として覚えていれば、いつかハッと気づく日が来るでしょう。復興をテーマにしたイベントに限らず、あらゆる機会を大事にして「ゆめちゃん」を、そして故郷のことを、多くの人に伝えていきます。



  
  
■ 復興するまでは・・・。


    
古森: 今後の活動としては、どのようなことを考えていらっしゃいますか。
 
濱守: まずは、「国道45号線」と「ゆめちゃん」を、もっと多くの人に知っていただけるようにします。 「知ってほしい」という思いとともに、それは、「忘れないでほしい」ということでもあります。
  
古森: 震災の記憶は、どんどん風化していきますからね。実際は一年半以上経過しても、大きな問題がたくさん残っています。伝え続けることが大事だと思います。
  
濱守: なんというか、地元が復興しないと、自分も「幸せになってはいけない」ような気がしていまして・・・。
  
古森: なるほど、そういう思いもありますか。
  
濱守: 震災後しばらくの間は、東京にいても布団で寝たり、普通に食事したりすることに罪悪感を覚えました。一年半以上を経た今も、あの感覚がまだ続いているようです。
  
古森: 人それぞれの中で、まだ震災は現在進行形なのですね。
  
濱守: 私は、歌で一発当てて大もうけしようとか、そんなことは望んでいません。故郷が復興してくれれば、自分は別に質素な暮らしでもいいのです。ただただ、一日も早い復興を祈っています。
  
古森: その祈りを込めた歌が多くの人に伝わって、復興の礎になることを私も心からお祈りしております。
 
あっ。そろそろ次の場所に移動のお時間ですね・・・。濱守さん、今日は貴重なお話をお聞かせ下さり、本当にありがとうございました。
  


  
対談にご同席いただいたAidTAKATAの村上代表と3人で
  
(終)
  
  
~ 濱守栄子プロフィール ~ 

  

  
http://www.eikohamamori.com/
  
岩手県大船渡市出身のシンガーソングライター。
  
2009.1.28 「HAMA」名義で待望の全国デビューを果たす。
  
2011.8.3 本名「濱守栄子」名義でリリースしたチャリティプロジェクトCD「国道45号線」が岩手県トラック協会のCMソングとして話題となっている。
  
2007年まで岩手県を中心にライブ活動を行っていたが、本格的に音楽活動を行うため上京。現在関東・地元岩手県を中心にイベント・ライブ活動を展開し、テレビやラジオなど数々のメディアにも多数出演、保育所、病院、小中学校での講演会やミニライブ等、さまざまな場でその実力を発揮している。
  
地元大船渡市の「さんりく・大船渡ふるさと大使」に就任、2012年、陸前高田市に誕生したゆるきゃら「たかたのゆめちゃん」のテーマソングも手がけている。
  
岩手のアンテナショップ「銀河プラザ」応援女子会anecco.のメンバーでもあり、また「いわてまち焼きうどん」の公式ソングを手がけ、B-1グランプリ全国大会のステージへ出演するなど日々地元の宣伝活動にも力を入れ、岩手県の経済効果にも貢献している。
  
1st アルバム「Let's EAT!」
♯08「舞花-maika-」は、文芸社より全国発売中の恋愛小説「ラブ・エージェント」のイメージソング。 
  
1st 両A面シングル「夢色時間/キセキ」

♯02「キセキ」はつながれ!三陸鉄道キャンペーンソング
  
出身地:岩手県 

誕生日:3月17日 
血液型:O型 
趣味・特技:料理/ボウリング/裁縫/ドライブ/インターネット/作詞 
スポーツ:バレーボール/スノーボード 
好きなもの:猫/ピアノ/赤/メープルメロンパン/ヨーグルト/岩手/下町/夜/指輪/金曜日/バーゲン/スパイラルパーマ/ワンピース 

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はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





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「Komo's英語音読会@陸前高田」、開催12回目。私の陸前高田訪問は先月で2年目に入りましたが、音読会も来月から2年目です!

いつものように、金曜日の早朝に仲間をピックアップして東北道へ。今回はまず南三陸に行き、そこから45号線を気仙沼経由で北上するルートです。

南三陸・・・。

震災前は知名度の低かった町。今では、この建物のスケルトンを見ただけで、「南三陸?」と反応する人もけっこういるはずです。

その皮肉な知名度向上が、復興とともにプラスに転じたらいいな・・・と思います。



時々寄らせていただいている、「志津川自然の家」仮設住宅のSKC(自然の家かあちゃんクラブ)へ。編み物のサークル。

Mさんにはお会い出来ませんでしたが、Hさん他SKCの方々何名かとお話しすることができました。相変わらず素晴らしい作品ばかり!

最近は大学生のボランティア・サークルなどの活躍もあって、SKCの作品が日本全国で人気になってきているようです。実際、モノがいいですからね・・・。



その後、往路恒例の気仙沼復興商店街へ。

ちょっと時間が下がってしまったため、「喫茶マンボ」は準備中・・・。でも、「揚げたてコロッケ屋」はあいていたので、そこで軽く遅めのランチ。

初めて気仙沼に来るメンバーもいたので、鹿折のあたりなど視察。現地には賛否両論がありますが、外地から来る者にとっては、こうしたモニュメントは重要です。

 
その後陸前高田に向かい、鈴木旅館にチェックインして、夕食はOさんの仮設住宅でご一緒に。毎度恒例ですが、同じことが続くっていうのも大事なことなんです。

土曜日、終日音読会。


朝一番、いつものように「佐藤たね屋」の佐藤さんが来られ、ほどなく教室は混み合い始めました。



10時前後には、かなり忙しい状況に・・・。


 
11時過ぎに少し落ち着きましたが・・・。



午後は2時頃からまたフルキャパシティの状態に。



小中学生も頑張っています!



タイから来て日本でビジネススクールに通っておられるNuiさん。英語も堪能で、子供たちに楽しく教えるのが上手です。

この日テキスト音読の後にやっていたのは、ホワイトボードに日本語でしりとりをして、そこで出てきた言葉を英語にして遊ぶ・・・という試み。

盛り上がっていました!



台湾で生まれ、アメリカで青春を過ごしたHsinさん。小学生の参加者と2時間ほどしっかり英語の絵本を音読した後、休憩にアルファベット体操!

楽しそう!



夕方は、音読会参加者やその関係者、および近隣住民の方々にお声がけして、先月に引き続き懇親バーベキューを開催しました。



私達の懇親バーベキューは、大人@500円、高校生以下@300円の参加費で、足りない部分は「はなそう基金」で若干補充する仕組みです。

肉は、いつもOさんが熊谷精肉店で美味しい厚切りのものを仕入れて来て下さいます。参加者の方々手作りのオニギリなども配られました。

今回は、途中で踊りも出ました!6月以来です。「陸前高田音頭」、「チャオチャオ」、「寄さ来い、見さ来い、陸前高田」の3曲を、皆で輪になって踊りました。

三陸では、サンマが旬です!参加者Yちゃんのお母さんであるYさんが、大量に新鮮なサンマを持って来て下さいました。

それを炭火で焼くと、大好評!



日没後、早い段階で秋冷を感じる季節。あまり遅くならないうちに、三々五々の流れ解散となりました。講師との間だけではなく、地元の方々の間にも新しい輪が広がったようです。

日曜日。

今回は、「佐藤たね屋」の佐藤貞一さんが、2日連続来られました。なぜかというと、今佐藤さんは、震災手記「The Seed of Hope in the Heart」の中国語版を作成されているのです。

台湾出身のHsinさんとの間で、日頃はメールで添削のやりとりをしています。今回はHsinさんが陸前高田に来ているので、直接中国語の添削&音読を・・・というわけです。

(Hsinさん、いつもありがとうございます)


しかし佐藤さん、本当にすごいです・・・。

英語版で既に改訂2版、そして中国語版まで。英語も中国語も、初稿はご自身で勉強しながら作文されます。英語版の改訂3版も加筆が始動しています!

日本語で書いて翻訳に出すのではなくて、原語で書いてその添削を受ける形。震災の記憶とそこからのラーニングを、世界に向けて「はなそう!」というパッションを感じます。

その後何名か来られて、予定通り11時過ぎに教室を終えました。教室としてお借りしているプレハブに掲げられた看板の前で、恒例の講師陣集合写真。

今回は、多くのボランティアに「陸前高田の母」と慕われ、音読会の現地世話役的な役回りもして下さっているOさんもご一緒に!



スケジュールの都合で土曜日の夕方に帰られた秋山さんは、同じ写真に入っていただくことが出来ませんでしたが・・・。急がしい中に来て下さった秋山さんにも本当に感謝です。

帰路、「佐藤たね屋」さんに寄って、ほんの少しご挨拶。やはり、去り際に佐藤さんに一声かけないと、何か大切なものを忘れてしまうような気がします。



最後に、今泉の「にじのライブラリー」へ。友人の荒木そう子さんにご挨拶。この日は、ちょうどカラフルな手作り草履の教室が開かれていました。

 
首都圏から先生が来て、こうしてスキル伝承をしておられるのだそうです。そして、あのHONDAが企業としてこの活動をサポートしているようで、担当の方も来ておられました。



こういう活動は、三陸のお姉さま方の得意な手仕事の才能が生きるし、それが収入にもなって、本当に良いことだと思います。

「にじのライブラリー」の場所は、津波で流された今泉天満宮の跡。境内に立つ天神大杉・・・。塩害で枯れたという話も聞きますが、どうなるでしょうか。

復興は色々と現実的な問題もあり、大きな前進はなかなか感じられない状況が続いています。しかし、5年後、10年後にはきっと、新しい町の芽が出てきていることでしょう。
 
その流れの中で、「Komo's英語音読会」を始めとする「はなそう基金」の活動も、いずれ花を咲かせることができたらいいなと思います。


「英語学習といえば陸前高田」「陸前高田に行ってみたいな」・・・そういう声があがる場所にしていきます。

それでは、また来月!




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