檻の中のダンス | BuggyCrashNight!!

檻の中のダンス

「体の自由」   

その昔、浪人をしていた時の事を思い出して、その時身を持って知った事がある。それは「ジっとし てる事がムチャクチャ辛い」って事。どんな素晴らしい公式に出会えてもジッとしてるだけで辛い。逆に、踊ったり、身体を勝手に動かしていると、頭がいかに パーでも辛さが和らぐという事だった。

そしてこの「近代社会」には、この「檻」とまったく同じ体をジッとさせる仕掛けがあって同じような辛さを生んでいる。

そして世界中の近代社会で、リズムに合わせて体を好きなように動かす”ダンス”が大流行してる。

あまり報道されないけど、日本でもそうなのだ。

「檻の中のダンス」とはこの二つを意味していて、全体としてはその見えない仕掛けから「社会の生き苦しさ」の正体を明かし、「体の自由を取り戻す」というひとつの解決策を提示している。

 

「ドリル(反復練習)」   

全 体の趣旨を手短に説明しとく。まず頭で考える「よさ」と、身体で感じる「よさ」を別々に考えてみる。どちらも脳が感じてることだし(前者は「前頭連合 野」、後者は「体性間隔野」という部分)、重なる所も多いが厳密さにこだわるより、分かりやすい方が良いので「アタマ」「カラダ」と強引に区別してしま う。

例えば、二時間映画や芝居を見て劇場を出る時カラダがいつもフワッーと爽快にならないだろうか?映画なんてものは頭だけの楽しみであっ て、体からみればジッとしてるだけの二時間の拷問にすぎない。一日中読書に熱中しても、朝まで喫茶店で友達と楽しい会話しても、その後外にでると同じくフ ワッーと気持ちよくなるはずだ。

それも結局は同じ事で、それまでは辛かったのだ。

逆にカラダが楽しんでる時、例えば踊る・寝る・セックス・風呂などの時はアタマは完全に用ナシで実際何もしていない。

こうして見ると両者は結構対立していて、モノを投げたり蹴ったりしようとしりカラダをアタマが押さえつける事も多い。

ではどちらが偉いか?「読書」「映画鑑賞」VS「寝る」「風呂」........

勝敗は一目瞭然だ。

「オナニー大好き!」などとは口にすらできない。昔から「禁欲主義」のせいなんかもあって、アタマはカラダより偉かったが、「我思う故に我在り」だの「人間は考える葦」だのと「近代哲学」が言いだしてその傾向を強めた。

カラダは単にアタマを支えたり運んだりする為だけの下僕になった。

こうしてジッとする、ビシッとする、テキパキする、規則正しく反復する・・・・・・・・などの下僕的な作業と訓練が何の疑いも無く社会に組み込まれて行ったワケ。最大の「隠された仕掛け」はこれだ。

 

「優越感」   

つづいて「資本主義」がその傾向にダメ押しをする。

その至上命題「生産」と大原則「競争」で社会は一色染まり、誰もが他人より多くの価値を生み出そうと努力して計画を立てて、時間を切り詰め始めた。最高の喜びは他人に勝つ事。つまり「優越感」になってしまったのだ。

こうなってくると「生産」にも「優越感」にも程遠い、愛すべきカラダの快感は完全に立場を失う。

「寝る」「風呂」はアタマの休み時間とみなされ、「踊るのが好きな人」なんてのは単なるバカ扱いだ。

「かゆい所をかくのが好き」も相当マズイが「オナニー大好き」の一言は全人格を否定するし、「俺ってゴムフェチ」に至っては・・・・・・・。

本当にヤバい事態はここに、訪れたのだ。

 

「軽さ 一体感 現在性」   

「健康」について包括的に研究した精神科医・高橋克己氏は、「健康の状態」を表す最高のバロメーターは、アタマもカラダも含めた身体全体が感じる「心地よさ」だと言う。そして「心地よさ」の条件を「軽さ」「一体感」「現在性」とした。

「軽さ」は身体を軽く感じる事。

「一体感」は全身のどこにも違和感のない事(例えば腹が減ってるとか、足が冷たいとか)。

「現在性」は過去や未来ではなく、今の状態に目が向き、それに満足している事だ。

それらが健康の指標なら「我慢は健康の大敵」なのもよくわかる。

つまり「心地いい」時ほど、消化、睡眠、排泄、循環、代謝・・・・・・・・・・・と言った全身の機能が働いていて、身体が最も効率よく働いているのだ。

これはつまりこの時「生命の根本」が最もよく実現されているという事に等しい。

彼の結論はこうだ。「一日一日の生をを確実に楽しんでいく事が少なくとも死についての明らかな解決を持っていない現在の私達ができる最良の生き方である。」

と言う事は逆に「最悪の生き方」とは、将来や過去の事ばかり考え、今の欲求を我慢し、身体を重くする事・・・・・・つまり我々の誰もが幸せになれると信じている生き方なのだ。

 

「自意識過剰」   

また、アタマが全てという過度の偏重はアタマ自体の自己破壊も招き、精神障害を蔓延させてしまっている。

 

「貧乏ゆすり」   

こんな極端な状態でダンスムーヴメントが巻き起こったのは、その当然の帰結といえる。

死 ぬほど冴えないが、あまりにも的確な例えがある。ジッと座っている時に足が勝手にガタガタ動き出す「貧乏ゆすり」だ。あれはカラダを無理に押さえつけに耐 えられずに、「無意識」に足を動かしてストレスを発散させてるワケだ。(違うかもしれないけど、ここではそういうことにしておいて)

カラダは動きたくなったら、アタマに逆らって一斉に動き出す。ダンスムーヴメントはガマンの限界を超えたカラダが一斉にやりだした大々的な「貧乏ゆすり」なのだ。

この死ぬ程冴えない一言につきる。

 

「神」→「生産」→「何もない」

さて、いよいよ結論にいこう。この現象はもうひとつ重大な変化をはらんでいる。

数あるカラダの「よさ」のなかでも”ダンス”ほど「生産」や「発展」や「意味」に反し、カラダの快感に特化したものも珍しい。

つまり踊っている人は、もう「意味がない」なんて事は問題にしてないワケ。

なにしろ世の中にもう「意味」なんてないんだから。

国内では援助交際だのドラッグ汚染だのを引き合いにして、モラルや倫理観が特に若い人の間でなくなっていると騒がれてる。

“世 界”も明らかに目的を失ってる。世界地図ができて以来「世界の覇権」の奪い合いは絶えた事が無く、ポルトガル・スペイン・イギリス・米ソと「世界の覇権」 がめまぐるしく変わってきた。なのに今は、こんな絶好のチャンスに、誰も覇権なんて欲しがらない。つい最近まで、本気で「宇宙の覇権争い」までやっていた なんて、もう信じられない位である。

もうこれ以上は”世界”や”人類”が当分拡張も成長もしそうにない事がウスウスバレテきた。「生産」も時代遅れの言葉になってきた。今、一生懸命生産しているのは、みっともない、というかダサイ、イケてない。

以 前にもヨーロッパで自然科学の発達によって、「神」の存在がアヤしくなり、知識人「神は死んだ」「みんなの判断や行動の基準になる価値観が無くなってき た」とうろたえた事があった。しかし、結局は資本主義経済の至上命題「生産」があっさりと「神」にとって代わっただけだ。

こうして「神」が死に、そして今、「生産」も死んだ。

気がついたら、全体をまとめ上げ、全体を方向づける価値観なんてものはなくなった。

ただし、うろたえてるのは例にもよって知識人ばかりで、一般人は特に困ってる様子もない。むしろ前より楽しそうに見える。

 

「神」→「生産」→「何もない」  

「何もない」でもよかったらしい。そんなものはいらないし、欲しくも無い。自分はそのせいでとんだ目にあってしまたのだ。

いくらうろたえてみても「ないもんはない!」

残念ながら、歴史は後戻りできないし、先の見えない道を進みつづけるのが、近代社会の宿命なのだ。

それがイヤなら、神様でも1個つくりゃいいじゃん!

「人は死ぬ。人生に意味はない」

本 来生き方に決まりなんてほとんどない。あるのは、まず「人は遅かれ早かれ確実に死ぬ。」そして死んだらもう二度と「甦らない」つまりここで消滅する。さら に「一人で生まれて、一人で死ぬ」どんなカップルも最期には死に別れる。せいぜいこのぐらいだ。後はどう生きようと勝手なのだ。

つまり人生にはあらかじめ、理解や目的や意味などない。自分にも他人にも等しく何の価値もない。あるなら、他の動物や昆虫と同じ程度にあるだろう。

こ ういう主張は「虚無主義(ニヒリズム)」と呼ばれ、しばしば議論されてきた。ただ、「死をさけられない絶望がウンタラ・・・・」なんて事ばっかり言ってる ので、むしろ早めに死ぬ事、つまり自殺を念頭においたり、死にたいと思ってる人間にとっては、どうでもいい話しでしかないのだ。

「消滅」を怖がる事はない。もう一つの原則として「人は何も残さず死ぬ事も絶対できない。」のだ。

他人への影響は必ず残り、嫌でも受け継がれてしまうのだから。

 

「全否定=全肯定」   

「何 もない」のは空しいどころか最高なのだ。色んな事をどうでもいいと否定していって、肯定できるものが30%→10%→0.1%と減っていきついに0%と なった時、不思議な事が起きる。この「全否定」は突然、正反対の「全肯定」と同じ事になる。ヨーロッパで「神」の旗色が悪くなるにつれて「神は木にも花に もいたるところにいる」という「汎神論」が持ち上がったが、従来の立場からは「それじゃ神がいないのと同じ事じゃないか」と批判されてしまう。

「偏在する」と「いない」は同じ事なのだ。

もっともこんな事は古今東西を問わず、色んな宗教家や哲学家が言っている。そもそも我々は体験を通してそれに気付いている。

悩みに悩んだあげく何もかもがバカバカしくなってしまい、急に気が楽になったり、あるいは笑いだしたりする事はよくある。その時には「全て下らない」と「もうなんでもいい」という全否定=全肯定の気分になってるはずだ。

「何もない」世界はネガティブ/ポジティブなんていう二項対立を超えた例えば、砂漠のような所だ。そこはガラーンとしているが、すがすがしい。何も持っていない代わりに、失うものもないので気が楽だ。

教会やモスクに「神」は絶対にいないが、自然界にはそこら中にいる気がする。大事なのは今のこの一瞬で、未来や過去は二の次だ。

アタマもカラダも生産も破壊も東大合格も「かゆい所をかく」も、価値は同じだ。そういう地平にでてきたのかもしれない。

これは虚しい世界だろうか?自分は・・・・・・まぁいいでしょ。

 

「近代の終わり」   

これは「近代の終わり」なのかもしれない。ただし、そんな大げさな変化が世の中に起きてるハズがない。

始まりがそうだったように、近代の終わりも何世紀もかけて、ジワジワ進行するはずだ。

このダンスムーヴメントがやってる事も、新たな創造ではなく、歪みの是正にすぎない。

た だ、ダンスが特別に見えるのは、これらの事が全部踊ってるうちに気付いたからだ。寝たり、風呂に入っただけでは全然気付かなかった。大変化どころか社会は このへんで、いったん固定したように見える。産業革命による歴史的な高度成長が終息したという事は、「出来上がり」の合図とも見れる。改善できる部分は改 善しつくした と。

同じヨーロッパで歴史的な高度成長だった農業革命の後、産業革命まで、何百年も同じような生活が続いたのだ。

この近代社会が「檻」なのは確かだが、それはこれまでで、「最高の檻」だろう。

本文中でも散々悪く書いてるけど、この社会は最高だ。

理由なんか「夏にクーラーがある」で十分だ。テクノロジーの事を抜きにして、社会の善し悪しなんて語れるか!

現代最高!!!