2007年01月25日(木)

ケータイ対応の短文型新メディアのための小文練習

テーマ:作文力を鍛える

今、私は小さな文章を書く練習をしている。

短い文章、という表現が正しいのかもしれないが、こういうと、文自体が短い文章のように解釈する人がいるかもしれないので、あえて小文という言い方に近い表現に書いてみた。


要するに、200字程度でひとつのテーマの文章を書いてみよう、という試みである。


昨今は、SNSにしろブログにしろケータイでアクセスする人が増えているようだ。

そこで、そういう人にも読んでもらえるような舞台で情報を発信してみようと考えている。


私の場合は、主に左利きの情報である。

左利きの情報を従来とは異なるチャンネルで、モバイル対応というのだろうか、そういう形で発信してみようと考えている。

そのために、従来より短い文章で書いてゆこうと言うわけだ。


今ケータイで表示できるサイズは、だいたい240×320ドット、文字数は最低49文字から最大420文字ぐらいのようだ。

標準的なサイズの文字で表示できるのは、100文字前後。


で、200文字程度が、書き手としてもある程度のことが書けてるし、読み手の側も読むのにわずらわしくない分量、といえるだろう。


というわけで、今、私は200文字程度で1テーマ1文書の小文を書けるように工夫している


10本程度―できれば20本ぐらい―の左利きの小文が書ければ、これを元にケータイ対応の左利きの新しいブログなりメルマガなりを始めるつもりだ。


乞うご期待!

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2006年05月09日(火)

衰えた昨日―ある誤変換から―

テーマ:作文力を鍛える

「脳は、年を取っても衰えない!
私たちの体は、年齢を重ねるごとに昨日が衰えていきます。」


あるサイトの脳年齢診断に関する文章である。


一見、確かになあ、と感心した。

「年齢を重ねるごとに昨日が衰えていきます。」
そうなんだよなあ…。


年を取るにつれて、昔のことは覚えていても昨日何をしたか(例えば、夕飯に何を食べたか、など)思い出せないことがある。

昨日のことが衰えていくわけだ。


ところが、である。
内容をよく読むと、必ずしもそういう意味から書かれた言葉ではなさそう。
そういう穿った表現ではなく、単純な誤変換のようである。

昨日と機能の間違いだったよう。


でも、この昨日の衰え、って、年寄りには身につまされる言葉ではないだろうか。
老化の始まりつつある私には、笑い事ではない。

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2006年02月12日(日)

コメント力―続き

テーマ:作文力を鍛える

先の「コメント力」 に書いたように、コメントが苦手である。

なにが足りないのだろうか。

ひとつは読解力。何が書かれているかを読み取らねば。

次は理解力。それがどういうものであるか、位置付けねば。

そして、感受性。自分はそれをどのように受けとめるのか。

最後に表現力。いかに書き表すか。

それとは別に、反応をよくすることだろう。

スピードと気配り。

たあいないことばでも、すばやく反応すれば、それなりの応答になる。

コメントの要素のひとつは、そういうやり取りにある。

素早い返事がコミュニケーションにつながる。

それで内容があれば、なお良いということであろう。

やっぱり良いお手本を見て、実際に書いてみるという訓練の積み重ねだろうなあ。

平凡な答えになってしまったが、失敗を恐れず、書いてみるしかないのだろう…。

うん。

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2005年10月04日(火)

飛行機は、目的ではなく、手段だ。―サン=テクジュペリ

テーマ:作文力を鍛える

飛行機は、目的ではなく、手段だ。ひとが生命を賭けるのは飛行機のためではない。農夫が畑を耕すのもまた、鋤のためではない。

 ―サン=テクジュペリ『人間の大地』山崎庸一郎訳(みすず書房)より


同様に、文章を書くこともまた、目的ではなく、手段だ。

何かを伝えるための手段なのだ。

自分の心の中にある思いを他人に伝える、という目的を達成するための方法なのだ。


ところが、昨今では文章を書くことが目的になっているとしか思えないような例もある

もちろん、文章を書くことは大切なことだ。

書かれた文章にはそれぞれに価値がある。

たとえ日記のような個人的な手記であれ、私的心情を綴った詩歌であれ、作業日誌のような私情をはさまぬ極(ごく)客観的な記録であれ、その他もろもろのなんであれ。

しかし中(なか)には、なんだ、これは? というものがあるのも事実だ。


伝えるものを持たぬ、あるいはそれが希薄な文章を読まされるのは単なる時間つぶしで、むだだ。


内容を持って欲しい。確かな伝える内容を。

例え一言でも自分の言葉で、自分ならではの何かを訴える文章を書いて欲しい、と私は思う。


では、お前はそれを為(な)しているのか? と問われるだろう。


私は、はいと答えよう。

私はいつも伝えるものを内に持って文章を書いている、と。

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2005年08月16日(火)

私の漢字遣いの方針―高島俊男「漢字と日本人」から

テーマ:作文力を鍛える

最近漢字に興味を持って漢字について書いた本を図書館であれこれ探して読み始めている。
これもその一冊である。


『漢字と日本人』高島俊男・著 文藝春秋 文春新書198(平成13年10月刊)


* 漢字遣いのよりどころは * 
漢字に興味を持つようになったのは、文章を書く者としては当然かもしれないが、他にもいくつか理由がある。


一番直近の理由は、漢字は右手で書くものだといって、左利きでも右手で書くべきと考える人が少なくないこと。いや、それは違う。漢字はそもそもの始めから右手で書くように作られたものではないはずで、右手で書くように長い歴史の間に改良されたものだろう。その点を調べてみようというものであった。
もうひとつの理由は、『論語』を読むようになり、漢字には一字一字に意味があると知ったこと。さらにその漢字の成り立ちを知ると字の意味もわかりやすいと感じたことにある。


この本を手に取った理由は、日本語表現における漢字の役割をこの際じっくりと考えて見たいと思ったからである。
最近私は、先に言った理由から漢字をできるだけ活かした日本語表現をしてみたいと考えるようになった。


漢字は一字が一語、ひとつの言葉である。言葉を換えれば、ひとつの世界を持っているといえる。
表意文字(本書の著者高島氏によれば、より正確には表語文字)であり、すなわち、目で見てすぐに意味がわかる、象形文字のひとつである。
これは現在一般に使われている他の言語にはまず見られないもので、視覚的な表現である。
反面、英語のようにアルファベット26文字さえ覚えれば、一通りは読み書きが可能になるような言語ではなく、多くの漢字を覚えなければ簡単な文章も綴れない、不便な言語でもある。


ところが日本語の場合は、かなの発明により、漢字が書けなくてもある程度の読み書きが可能になる。
ただ、漢字が使えないとかなり幼稚な表現になったり、見た目にも読みづらいものになる。


では、その辺の事情がどうなっているのか、という興味があったのである。
また、漢字遣いのよりどころとなるものは、なんであろうか
それを求めて本書を読むに至ったのである。


* 高島俊男「漢字と日本人」 *
さて、この本である。
本来日本語は、漢字をつかう中国語(これも著者によれば、より正確に言って漢語)とはまったく異なる系列の言葉であった。ところが、文字を持たぬ日本語に記録用の文字として漢字が導入されたことで、色々な問題が起きてきたというのである。
なるほど、そういうものかもしれない。本来身に合わぬものをお仕着せとして着せられたのが、不幸の始まりとも言えるのである。


また、明治以降、西洋の文物思想を取り入れるべく、多くの和製漢語が作られたとき、耳で聞いただけではわかりにくい同音異義の言葉が増え、日本語を複雑にする原因になってしまった、と言えるそうである。


さらに具合が悪いことに、明治以降の漢字を捨てる思想が第二次大戦後の国語改革で第一歩を踏み出してしまい、現代かな遣いと当用漢字(現常用漢字)の施行によって、過去との通路を分断することになってしまったと言う。


この過去の文化との断絶は痛切に感じる。私自身古典の類を読まなかったのも、かな遣いの違いと字体の違いから来る、字および文章が読めないと言うことに尽きるのであった。


最終的に、この本で著者は、日本語はこれでやってきたのであるから、しっくりといかぬことがあってもこれからも漢字を使ってゆくしかないということ、もうひとつは、過去の日本との通路を絶つようなことはしてはいけない、というのである。

正論であろう。


で、著者の漢字遣いの方針は、和語(本来の日本語、やまとことば―漢字の訓読みがそれに当たる)はあて字を使わず、なるべくかなで書く、漢字は漢語(耳で聞いただけでは意味がわからない、漢字の意味に頼っている言葉、音読みの言葉)のために使い、使用の制限はしない、ということのようである。


* ひらがな書きはやさしいか *
ただ、この本はわかりやすく書かれているのだが、先の方針に従って書かれているため、ひらがなが多く読みづらい部分がある。
わかりやすい本が読みやすい本であるとは限らないと言う、ちょっと矛盾したものを感じるのである。


ウーン、やっぱり文章を綴るのは難しいと言うことか。


子供向けの本でもひらがなが多すぎて読みにくいものがある。どこに言葉の区切りがあるのかわからず、みな平板に見えて読む気がなくなるときもあるくらいである。
これはひらがな書き中心の文章のむずかしいところで、適当に漢字やカタカナを入れて、引き締めるほうが読みやすいものである。


* 私の漢字遣いの方針 *
私は、この本で著者が書いている、「かなの多い文章を書くと人にバカにされるんじゃなかろうかと不安を感ずる」、あるいは「漢字をいっぱいつかった文章を書くと人が一目おいてくれるんじゃないかというあさはかな虚栄」に満ちた「無知な、無教養」な書き手なの一人なのだが、もうひとつ納得の行かないところがある。


というのは、この人の漢字遣いなのだが、和語は基本的にかな書きと言いながら、けっこう漢字を使っていたりする。
「やめる」を「止める」と書くのは、「やめる」か「とめる」かどっちかわからないのでやめるのがよいという。これは理解できます。またやさしい漢字の場合や、意を頼っているものは漢字で書いてもよいとしている。これも理解できます。


で、そういうふうに言い始めると、私のような「無知無教養」なバカには線引きがいよいよ難しくなるのである。


そこで、私の方針としては、できる範囲で一目でわかるように漢字を活かした文章を書くただし過度な当て字はしない音読する際に判断に困るような和語の漢字はなるべく使わないやむを得ず使う場合は煩雑になっても振り仮名をつけるか読みがなをカッコで入れる、そのため、漢字辞典をそばに置いて一字一字手抜きしないで字の意味を確認して使うように心がける、というものである。


これで少しは読みやすく意味の明確な文章を書く、漢字遣いの方針が定まったようである。


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2005年01月24日(月)

文章を書くのが怖い

テーマ:作文力を鍛える
最近めっきり文章を書くのが怖くなって来ています。
「レフティやすおの本屋店長日記」でも先日書いたのですが、本の紹介文を書くのが怖くなっています。(※「紹介文を書くのが怖い」

紹介文を書くということは、紹介する対象についてどれだけ自分が理解しているか、が明らかになるということです。
自分の理解力が試されるのです。

もしとんでもなく的外れな紹介をしていたらどうしよう。大恥をかく。「舌かんで死んじゃいたい」(古いなあ、このフレーズ。ご存知でしょうか? 若い人はご存じないかもしれませんね。)気分になるでしょう。
いや、ホントのところ、もっともっと真っ暗、深刻です。
そこまでいかなくても、ずれた紹介をしていたら読む人に申し訳ないなと思うのです。

元々私は頭がいいわけでもないし、読書家というわけでもなく、単なる本好きにすぎないわけです。
その程度の人間の書く文章なのですから、気張らずに書いてゆけばいいと思うのです。しかし、そうは言ってもやっぱり人一倍負けん気は強い、見栄は張りたい、「大卒」には負けたくない、というわけです。
根が貧乏人というか小人なのですね。

でも、そういう反骨精神というか反抗心というか、そういうものが向上心にもつながってくるわけで、バカにはできません。
今の私は、一冊でも多くの本を読み、「読書力」をつけ文章力を高めたい、と日夜理想と現実のハザマで苦闘しているところです。
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