大人への階段「たけくらべ」樋口一葉
テーマ:メルマガ「楽しい読書」(画像)5000円札の人・樋口一葉
―第49号「古典から始める レフティやすおの楽しい読書」別冊編集後記
●古典から始める レフティやすおの楽しい読書●
2010(平成22)年12月31日号(No.49)-101231- 大人への階段「たけくらべ」樋口一葉
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一葉の小説の文体は、岩波新書『一葉の四季』(2001.2.20)の森まゆみさんによると、
《一葉の小説文体は雅俗折衷体といわれる。言文一致の口語体が現れる前の文語体の一種だが、森?外らの男性的で、すっきりと論理的な文語体と異なり、会話を取り込み、擬声語なども多用した、自在な文章だ。》
といいます。(同書「II明治の東京歳時記/菊の鉢」p.170)
雅俗折衷体とは、一葉研究家の関礼子の著書『樋口一葉』岩波ジュニア新書(2004.5) によりますと、
《雅俗折衷体というのは、明治のはじめに提唱された小説の文体で、会話を除いた叙述の部分である地の文は「~鐘の音かなし」「~夢ぞかし」などの雅文で、会話は「千代ちあんひどく不快(わるく)なつたのかい」などの俗文(口語)で書き、内容的にも雅と俗の混交が図られた小説のことをいいます(坪内逍遥『小説神髄』松月堂、明治十八年九月~十九年四月参照)。/「雅文」(あるいは和文ともいいます)とは、遠く王朝文学に通じる和歌・和分の伝統をもつ文体です。いっぽう「俗文」とは、直接的には明治のひとつ前の時代である江戸時代の草双紙や読本などで用いられ、いわば小説の最も大切な要素である「人情」を映し出すために必要とされた文体です。》
(同書「序の章」p.9より)
さらに、
《雅俗折衷体は、雅文と俗文、わかりやすくいうと、王朝文学と江戸文学の二つの伝統を引き継いだ文体として、当時の男性作家たちが試行錯誤して練り上げた文体です。...》
(同書「序の章」p.10より)
というものだそうです。
そしてそれは、「一葉の時代」を最もよく表現するものであり、
《「一葉の時代」にあって他の時代にないものは、明治の文語文、とくに当時の小説で盛んに行なわれていた「雅俗折衷体」という文章だと思います。》
(同書「あとがき」p.194より)
といいます。
また、『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』集英社新書(2004.7)の著者・田中優子さんによると、
《一葉の文章は古文である。正確には擬古文という。すでに口語体小説が書かれていた時代に(といっても生まれて間もないが)、一葉は当時話していた話し言葉ではなく、古文を駆使して近代小説を書いた。小説にはかなり話し言葉が入っているが、自分のために書いていた日記は、まったく古文である。一葉は古文でものを考えた人なのだ。》
といいます。
このような文章であり、それは、
『一葉の「たけくらべ」ビギナーズ・クラシックス近代文学編』角川書店/編 角川ソフィア文庫(2005.4.25)
「はじめに」の武田友宏さんも書いているように、
《... 『たけくらべ』は古語を交えた文語体で書かれているので、今の私たちにはとても読みにくく感じられます。朗読すれば、流れるようなリズムがありますが、内容を理解するにはたくさんの注が必要です。》
p.4より
確かに、その小説の文体は、現代感覚からいうと、非常に読みづらい。
特に句読点の少ない文章は、個々の言い回しや語句を知らないと、
どこで区切ってよいのかも、見当の付きがたいところがあります。
《一葉の文章には江戸時代の浮世草子などの感化があり、俳諧風の省力や軽妙な風刺の味を受け継いでいる。しかし、それ以上に一葉の王朝文学に対する教養は作品の隅々まで浸透している。『たけくらべ』という題名が『伊勢物語』に由来するばかりではない。...》
(同書「たけくらべ(一)」p.24より)
一葉は学歴はさほどではないものの、非常な読書家であり、古典の教養も豊かで、
歌塾<萩の舎>の門人であり、歌人で、和歌集を始め、
(「たけくらべ」の題名もここから採ったという)『伊勢物語』、
『源氏物語』や『枕草子』といった平安時代の王朝文学、『徒然草』など、
江戸時代の近松や西鶴、草双紙まで、実に多くのものに接していたといいます。
それらのものが基礎にあり、
かつその上に明治初期という時代の文学世界で通用していた文章というものが、
一葉の文体を生み出しています。
小説作品だけでなく、日記も一部を読んでみましたが、非常に苦労しました。
普段の1.5倍程度の集中力が必要ですし、
時に二度三度同じ箇所を読み直しますので、速度は3倍程度遅くなります。
「外国語を読むよう」という表現が使われますが、「外国語」というより「英語」ですね。
少しは知っている、集中力があればある程度は分かる、という感じです。
・・・
さて、「たけくらべ」を読む、理解するためだけでなく、
広く日本の古典から近代の作品までを読むときに、問題になるのが表記の違いです。
仮名遣いや漢字の新旧です。
前述の森まゆみさんは、「あとがき」の末尾に、
《旧仮名に馴れることで私自身、享受できる文学世界が格段に広がった経験を持つ。》
と書かれています。
誠にその通りで、近代までの古典に触れるためには、この旧仮名遣いに慣れることが肝心です。
戦後の国語改革による断絶は大きく、現代人を古典から引き離す要因になっています。
もう少し学校で旧仮名について教えても悪くないと思います。
さもないと、先人による膨大な知と情の文化の宝庫を眠らせることになってしまいます。
英語を小学校からやることも大事かもしれませんが、
古文を中学校で必修として、せめて戦前のものくらいは読めるようにしたいものです。
さもないと、せっかく英語が話せるようになっても、
話すべき内容のない人間になってしまいそうな気がします。
祖国日本の伝統ある文学についての理解もない人間が、世界に何を発信できるでしょうか。
また、そういう根なし草のような人間を世界の誰が相手にしてくれるでしょうか。
・・・
というところで、
2010年・平成22年の最後のメルマガの編集後記とします。






