
コンロイは、ワゴンのウォーター・タンクから水をくみ、馬と犬に水をあたえた。そして、えさを用意し、ワゴンのドアを開き、なかに入った。
やがて、タオルで顔や手をぬぐいながら、ドア口に顔を出した。
「コーヒーをわかしたよ」
と、スティーヴンに言った。
(中略)
コンロイがコーヒーをいれた。テーブルにカップをふたつ置き、椅子に積みあげてあった古新聞の山をフロアに降ろした。
(中略)
スティーヴンを椅子にかけさせ、自分はコーヒー・カップを持ち、ベッドに腰をおろした。
「そうだ。コーヒーには、蜂蜜を使うかい」
スティーヴンの返事を待たずにコンロイは立ちあがり、テーブルにコーヒー・カップを置いた。そして、背をかがめてワゴンの外へ出ていった。
すぐに、ワゴンのなかにひきかえしてきた。ブリキのふたのついた、大きなガラスの容器を持っていた。なかには、蜂蜜がほぼいっぱいだった。
「ワゴンのなかに置いておくと、いつのまにか、蟻がたかってくるから」
コーヒーに蜂蜜を入れようとしたスティーヴンは、カップもスプーンも、これまで見たこともないほどに汚れているのに、はじめて気づいた。
黒いカップだと思っていたのだが、じつは汚れの蓄積によって黒くなっているのであり、本来は白なのだった。取手の指の触れる部分と、唇のさわるとこ、そして底の二センチか三センチほどが、ほのかに白かった。指で触れてみると、汚れの厚みがはっきりとわかった。
スプーンもおなじだった。ぜんたいにまっ黒で、こびりついた固い汚れで形はいびつに見えた。
心のなかではひるみながら、スティーヴンはスプーンで蜂蜜をすくいとった。そして、コーヒーに入れた。あまりかきまわすと汚れがコーヒーのなかに溶けだすのではないかと思い、すぐにスプーンをひき出した。
コンロイは蜂蜜を使わなかった。
白い部分に狙いをつけて唇を寄せ、スティーヴンはコーヒーを飲んだ。そして、驚嘆した。コーヒーは、ものすごくおいしかった。熱い芳しい液体が口から喉へ落ちていくのを感じながら、これまでに飲んだ何千杯とも知れぬコーヒーのなかで、いま自分の手にあるこの一杯がいちばんおいしい、とスティーヴンは確信した。
自分をいまとりまいている自然のなかのあらゆるものが、一杯の熱いコーヒーに凝縮されていた。そのコーヒーが、自分の体の内部へ流れこんでいく。深いスリルに鳥肌の立つような、魔法の瞬間だった。
人里を遠く離れた丘のつらなり。澄みきった冷たい夜の空気。夕もやの、しっとりした香気。夜の匂い。草のうえにいる数百頭の羊たちの鳴き声の合掌。犬の声。そういったおだやかな物音が吸いこまれていく、自然の空間の広さ。もうはじまっている、高原のながい夜の静寂。
こういったものすべてが、一杯のコーヒーになって自分の体の内部に流れこんだ。と同時に、スティーヴンの感覚は、コーヒーが口のなかに入った一瞬、冷たい夕もやの立ちこめる夜の広さのなかへ、いっきに解き放たれた。
コンロイが、目の前でベッドに腰かけている。明らかに、老人だ。こてんぱんにはきこんだブーツ。おなじく、こてんぱんになったブルージーンズ。ウールのシャツ。裏地に厚いボアを張った作業用のジャケット。陽に焼けた顔をひげがおおい、くたくたのカウボーイ・ハットを目深にかむっている。そのコンロイが、スティーヴンには、魔法使いのように感じられた。
「彼はいま羊飼い」より
(
『いい旅を、と誰もが言った』片岡義男 著/角川書店/1980年)
『いい旅を、と誰もが言った』



(1981年発売の角川文庫版)

(1998年に双葉文庫から発売された全面改訂版)