薔薇十字制作室:Ameba出張所

薔薇十字の名のもとに、世界に愛と自由を!!


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『宙ブラ女モヤモヤ日記 ~ダンナに言えない秘密~』

(2016年/60分)

 イメージフォーラム・フェスティバル2016東京会場・京都会場観客賞W受賞。

 「アリスが落ちた穴の中」でみせた幻想的で耽美な作風とは一転して、なぜ現在、映像作品を撮り続けるのが困難かをドキュメンタリーと、漫画による自己戯画化で綴ったコミカルだが、シリアスな作品。

 

『つつがなき遊戯の秘蹟』

(2011年/26分)

 画廊・珈琲Zaroff 三周年記念映像作品。

 台詞がない分、観る者の想像力に働きかける作品と言える。冒頭、学校生活に打ちひしがれるスクールガールが出てくる。不安感と緊迫感。蟲とマメ山田の演ずる「??」は、少女の抱くアブジェクト(おぞましき)なものへのオブセッション。

 後半、魔女術の儀式光景が描かれる。ケネス・アンガーだとアレイスター・クロウリーだが、ここで魔女術が要請されるのは、フェミニズムとの関係だろう。五芒星と結界。聖別された領域での旋回する舞い。おぞましきもののサクリファイスが行われ、少女は再度、理科室に向かう。

 アブジェクシオンとは。http://1000ya.isis.ne.jp/1028.html

 理科室に向かうとしたのは、立ち向かうという意味である。受動態から能動態への変化。この意識革命は、魔女術による覚醒である。少女を苦しめた理科教師は、緊縛状態にされるだろう。

 

『アリスが落ちた穴の中~Dark Märchen Show!! 』

(2009年/58分)

https://www.youtube.com/watch?v=AlbTOJy3LtQ

https://www.youtube.com/watch?v=2ggyP6PqIf4

 愛知芸術文化センター・オリジナル映像作品。

 2011年4月20日、ちくさ正文館本店にて、寺嶋真里さんの『アリスが落ちた穴の中 ART ALBUM+DVD 』(STUDIO PARABOLICA)を入手。今、中身を開封。不思議なカードに捕らわれる。これは迷宮への扉なのだろうか。

 DVDで観た寺嶋真里監督作品「アリスが落ちた穴の中」は、”シュルレアリスムが戦争という大量死の時代に誕生した、状況に抗する純粋な思念の集結である”ということを想起させてくれる稀有な作品であると思った。

 「穴の中」とは何か。それは、地上との差異から意味を生じる。コリン・ウィルソンは『オカルト』の中で、人間の未知の潜在能力=X機能を「月の暗い側」にあると位置づけたが、それと同様に「アリスが落ちた穴の中」は、人間の純粋な思念もまた、地上ではなく「穴の中」にあると言っているのだ。

 「アリスが落ちた穴の中」に登場する、「穴の中」の王国。その中心に、ロウズ姫がいる。ロウズ姫は、不在の姫である。それは存在ではなく、当為である。私たちの純粋な思念、美しく無垢な思念が、不在の姫を存在せしめる。私たちが邪悪な心に囚われるとき、ロウズ姫は悲嘆あまり消失する。

 白ウサギを追って穴の中に堕ちたアリスが、ロウズ姫らと心通わせることができるのは、「アリスが落ちた穴の中」のアリスは、ある両義的な性質を持ち、地上では排除された者だからである。アリスが、ジョン・ディー博士の魔術と通じているのは興味深い。シュルレアリスムと魔術の類縁関係。

  「アリスが落ちた穴の中」が、シュヴァンクマイエルらと同様に、シュルレアリスム系の映像作品であることは、作中にエルンスト風のコラージュが応用されているからだけではない。排除と差別、戦争という暴力に満ちた地上世界に抗する精神の方向性によって、シュルレアリスム的なのである。

  ロウズ姫が、自分の眼をえぐったのは、戦争や暴虐に明け暮れる地上の人間たちの未来を見たくなかったからである。地上の人間であるアリスに心を許し、再度見ることを許したのは、アリスが無垢であるがゆえの地上の単独者であったためである。

  地底の王国は人間の純粋無垢の想念が紡ぎ出した王国である。従って彼らが地上に出てくると、冷酷非情な現実原則に遭う(戦争の銃弾が降り注ぐ)。最後、アリス役のマメ山田が白紙の本を広げていたのは示唆的で、地底世界が、想像上の世界だと示している。

 わたしたちは、各人が心のなかに、純粋無垢の想像上の世界をもって生きるべきである。そうすれば、戦争と暴虐の支配する世界への、微力ではあるが確実な抵抗の精神となるだろう。

『shanghai flowers』

(2008年/20分)

 タトゥー、ボディ・ピアッシング、スプリット・タンの世界を、嘗め回すように撮った作品。(ケネス・アンガーは「スコピオ・ライジング」で、バイクをこんな感じで撮っていた)

shanghai flowers ダイジェスト版 

https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=y8z91HDUkDU

https://www.youtube.com/watch?v=Ew7VYy1Tktw

 

『エリスの涙』

(2003年/15分)

 森鴎外『舞姫』とジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』の邂逅。

 寺嶋作品の多くは、こちらが没入して作品世界に入り込み、想像力を働かせて作品と観る者とが共同でストーリーをつくっていくタイプのようで、この作品もその範疇に入るようです。

 森鴎外の『舞姫』を基にしたロマンティシズム溢れる短編。日本から来た医学生、鴎外はエリスを棄て日本に帰国する。エリスの流す涙が黒いのは、一人残された者の絶望である。だが、黒い絶望と拮抗する形で、生は美しく輝く。美と絶望は、硬貨の表と裏のような関係なのだ。

 

『姫ころがし』

(1999年/35分)

 山形ドキュメンタリー映画祭出品作品。

 19世紀のフリークス趣味に関するナレーション(偏奇なものを見たがる人間の方こそ、異常なのでは)から、この映画の趣旨が判る。この映画に登場するのは、ドラァグクイーン(シモーヌ深雪)と軽度の知的障碍者の女性。差別に対する価値転倒の企てこそ映画の狙いである。

 この映画は、作り物の部分と、事実の部分が交互に現れる。映画の冒頭から、撮影対象の小夜美ちゃん自身にカメラを持たせるのも、価値転換を起こすためだ。事実の部分は、好きなものを撮らせたり、好きな音楽と映像を選ばせたり、小夜美ちゃんの好きに任せている。

 虚構の部分では、小夜美ちゃんに白いドレスを着せて、シモーヌ深雪と同席させたり(ジャム好きの小夜美ちゃんは口の周りを真っ赤にしてしまう)、雛壇の前で見合いをさせるが、最終的には言い寄ってきた男をお母さんが殺す等の、意図的にわざとらしい素人芝居が続く。

 この映画は文化人類学を連想させる。文化人類学者が未開民族のもとに行く。慣れてくると未開民族が文化人類学者のタームを使って、自身の習俗や神話を解説し始める。この映画も最終シーンで、小夜美ちゃんに「寺嶋さん、こんなん撮ってて愉しいの」と言われてしまう。

 

『夜の公園・白薔薇』

(1997年/11分)

 百合的めいた雰囲気の漂う女学生二人とその母親らしき女性が、青い布を裁断し裁縫をしている。この母親が鋏を掲げると、「気狂いピエロ」のアンナ・カリーナのようになる。

 気狂いピエロ https://www.youtube.com/watch?v=WLSqoC4iRWA

 三人の女性の裁縫のシーンの背景で、レオノーラ・キャリントンのシュルレアリスティックなテクストと尾崎翠の少女小説『第七官界彷徨』の朗読が行われている。朗読というのもゴダールがよく使う手法だが、この作品では二つの朗読が同時に行われ徹底されている。

 しかし、ハサミとか朗読よりも、最後の方に現れる無数の針を刺した手袋、裁縫の針が突き刺す生地が人の柄であることが重要で、女性だけの夢想で閉じられた世界に、無意識の不安感が露呈する、そこが重要なのだと思う。広義の超現実主義的な映像。

 もう少し探求してみよう。針が示しているものは何か。端的に、加虐と被虐であると思う。(女性だけの世界に加虐と被虐の関係性が入り込む文学作品としては、松浦理英子『セバスチャン』がある。)たぶん夢想の外部のリアルを求める願望が、そうさせるのだろう。

 

『女王陛下のポリエステル犬』

( 1994年/ 35分)

 オーバーハウゼン国際映画祭入選作品。

 非常にポップな作品。題名から『女王陛下のピチカート・ファイヴ』、作中の水玉から『スウィート・ピチカート・ファイヴ』のジャケットを連想してしまった。

 どの角度からでも映画的に見える主演の女性は誰か調べたら、美術作家のやなぎみわさんだった。音楽レイ・ハラカミ。

 

『夢のとりで』

(1991年/19分)

 教会の礼拝堂、但し椅子等はなく、廃墟でのシーンから始まる。主人公はメイド。鬱屈したものがあるのか、そこにあった宗教画を破壊する。メイドが仕える家族のシーンに切り替わる。動画ではなく、写真を連続させる形で進行するのが斬新。

 家族は、それぞれ高い棒の先に繋がれたロープをもって、円環を描くように回っている。予定調和の象徴的表現か。メイドの語りにより、坊ちゃまから求婚のメッセージを受け取ったとされる。秘密のやり取り。この語りが真実を言っているか、虚言なのか、判定ができない。

 再び、教会堂のシーン。メイドが幻視するのは、古代エジプトのような衣裳の坊ちゃまと、その家の子供。過去生において繋がりがあるということなのだろうか。シュルレアリスティックな表現。坊ちゃまとのやりとりが露呈し、混沌が生じる。予定調和の円環の崩壊。

 最終的に鮮烈で破壊的なシーンに向かう。最初の絵画を傷つけるシーンは、この事の象徴的表現だった。メイドを置くような名家の抑圧性は、作中、雛鳥を踏むシーンで表現されていたが、恋を禁じられたメイドは、この家族に叛逆を企てる。精神分析的な内的宇宙のドラマ。

 登場した家族の父親役は、どうやらこの人のようだ。

幸村真佐男総合研究  http://kohmura.org/

 

『緑虫』

( 1991年/41分)

 「幻花」に赤い部屋が出て来ましたが、今度は緑の部屋です。むぅ少年は、緑の部屋に引きこもり、呪術に近い奇怪な想念に耽っているようです。時折、女性が食べ物を持ってきます。むぅ少年は、窓に貼った紙を剥がしてみるのですが、外を恐れているようです。

 「緑虫」は、心理的ホラーというべき作品なのでしょう。見る人は、少年がなにゆえにこのような状態になったのか、少年の心に何が起きているかを考えるでしょうが、手掛かりはわずかです。どうやらピアニストの男性の恋人と母の不和が、次世代である少年の心を歪ませているようです。 

 とはいえ、通常のミステリとは違い、明確な像を描くことはありません。少年の歪んだ夢想のなかで推理しないといけませんから、最後までリアルな地点に着地することはありません。少年の父母?の生死すら分かりません。真夏の夜の寝汗のような作品。要するに心理的ホラーとしては最上質の作品だと思います。

 

『幻花』

(1990年/35分)

 赤い部屋で小人が踊るのは「ツインピークス」だが、あの赤い部屋は俗なる世界とは一線を画した超越性の次元を示していた。「幻花」でも赤い部屋が出てくるが、そこで展開されるのは禁断の見てはいけない世界。ピエール・クロソウスキーの「ロベルトは今夜」の如く倒錯の世界が……。

 赤い部屋には異装倒錯の老人(堀宗凡 http://2ndkyotoism.blog101.fc2.com/blog-category-106.html)がいて、その部屋には少女の肖像画が掲げられている。少女は既に故人である。手袋に対するフェティシズムなのか、白痴の下男が老人を手袋で撫ぜると、幻影の世界に入る。

 手袋に対するフェティシズムにより、幻惑の世界に没入した老人は、さらに紅を引き、少女の衣裳を身にまとい、死せる少女と自己同一視をする。だが、幻覚は永遠に続かない。忽然と少女の死に気づくと、老人は覚醒し眠りに就く。再び目覚めると、手袋と異装で再度狂気に陥る。 

 つまり、老人は、狂気と正気の間を何回もループしている。いわば『ドグラ・マグラ』の時計の音の代わりに、この「幻花」では少女の手袋で触覚を刺激するという行為があるといえる。「幻花」の世界は、この世界からは狂気だが、現実に穢されていない純粋な世界である。

 最終場面は、鳥の羽が無限に降り注ぐ恍惚の世界である。少女は甕から、老人に何やら白い液体をかけるが、おそらくは老人は、自身の自我の解体に対して快楽をかんじていると思われる。このような強度をもった幻影は、それまでの幻影の水準を超えており、老人の死の示唆だと思う。

 

『初恋』

(1989年/25分)

 「車椅子の男(木下長宏)と少女」と「タロット占いの女(山口通恵)と少年」の組み合わせがあり、少年が少女に恋をするという話だが、事は簡単ではない。実は、少年(亀川容子)は、少女(亀川容子)であり、これは人格形成の一過程でナルシシズムが忌避される話だから。

 この作品は、シュルレアリスティックで、幻想的に描かれている。妄想世界のなかで、少年は車椅子の男になり、鎖に繋がれている。或いは、少女は、少女の飼っている文鳥になり、籠の中に入れられる。このことは、少女も少年も、家族のなかで自由ではない事を示唆している。

 夢幻は、死への憧憬へと誘う。ある時、車椅子の男の前に、棺が置かれている。棺の中に少女が眠っているが、これはお芝居である。少女は車椅子の男(父親?)の手を取り、棺の中に引きずり込む。死との戯れと、禁忌としての近親愛。小さな死=オルガスム。

 欲望は、家族の外部への接続を希求する。少年が見ている時に、少女は車椅子の男を後ろから突き落とし、殺意を露わにする。これもまた、妄想であって、現実ではないが、家族の外に出て自由になりたいという希求を表している。

  タロット占いの女性(母親?)は、少年に死神のカードをみせる。この事は、この映画の最後を暗示している。家族の外に出たいという欲求が表面化するにつれて、自分が自分に恋する、少年が少女を恋するというナルシシズムの欲求は殺害されなくてはならない。

 ナルシシズムの欲求の殺害は、象徴的次元で行われる。仮面のダンサー(高安マリ子と仲間たち)の舞いは、自由になるための儀式を示唆し、炎の輪という聖別された空間での死は、過去の自分の死と新しい自分としての再生を意味している。

 出演者の木下長宏氏は、『思想史としてのゴッホ』を書いた美術史学者であり、山口通恵氏は、京都造形芸術大学教授だった染色作家だと思われる。

 

 

 

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