医師のサービス残業 | kyupinの日記 気が向けば更新

医師のサービス残業

今、思いついた短い記事。

もともと医師という職業は就労時間が守られておらず、研修医の時代から残業は当たり前だった。ちょうど研修医の頃、当時東京に住んでいた高校の友人の結婚式があり披露宴に招かれた。その少し前、何度か東京に行ったときにも会っており、彼の会社の休みの多さに驚愕した。彼は東大の理Ⅰに入学し、卒業後、誰もが知っているような民間企業に入社していた。

彼のスケジュール帳を見ると、1か月の半分強くらいしか出勤日がないのである。特に、ゴールデンウィークや年末年始はカレンダーの休日以上に長い休暇がとってあった。

それに対し、医師は悲惨の一言である。僕の外科系に行った友人はいったん大学病院に行くと、2泊3日くらいになってしまうと言う。また、寝床も潜水艦の寝床のようなダニが湧いているような環境である。(映画「Uボート」参照)

ダニと言うと大げさに思うかもしれないが、これは実話で、精神科でさえ布団にダニが湧いた。そのようなこともあり、当時まだ少なかった女性の医師(当時の助手)は、決して布団の中に入らず、ソファーや座椅子で寝ていた。

たまにはバルサンを炊かないと・・

といったところである。

一方、精神科はそこまでの悲惨さはなくさすがに定時には帰られないが、人目を気にしなければ定時に帰るのも不可能ではなかった。夕方5時を過ぎてから抄読会やら症例検討会があり、そうでない日も外国人が医局に来て英会話の勉強会などがあった。当時、まだ英会話は苦手で、それでもなお参加しないといけないのは苦痛だったが、同期の8人くらいのうち最も参加したのは僕である。それだけは先生は褒めてくれた。

アンタは毎回来ている・・みたいな。(アンタはconsistentだと言っていたので、このような意味なんでしょう。たぶん褒め言葉)

しかし、外科系との決定的な相違は、毎日家には帰られることである。(当直のバイトの日を除く)

研修医時代、脳神経外科の友人から、「どうみても精神科は毎日、遊んでいるようにしか見えない。」という冷やかしがあったが、そう見えた理由は、患者さんたちとよく運動場でスポーツをしていたためである。また、デイケアでエプロンをして、料理をしていたのも悪印象であった。

最も辛いのは土曜日の午後から抄読会があったことである。午前中ももちろん仕事がある。1週間、雑用に追われ、週末がこれである。高校時代と異なるのは、勉強しておかないと他の医師に迷惑をかけることだった。従って、これはツマランと思ってもしなくてはいけない。(オーベンは出なくて良いと言っていた)。自分の場合、時々だが、一番つらい深夜(午前2時から4時まで)に終夜脳波の担当だったので、当時体調も思わしくなかったこともあり、その週はヘトヘトである。

このように書いて行くと、仕事以外のことに追われているだけだと思うかもしれないが、拘束されている視点では同じである。頭が特殊構造の先輩医師などは、休みの日に大学のドイツ語教官の教室に出かけ個人レッスンを受けていた(←カルテ1行医師)。これは流石としか言いようがない。

当時の日々の生活は、いわゆるサービス残業とは異なるものの、若いからこそできる労働であった。もちろん無報酬である。給与は定額で、1か月税込13万円ほどでこれから社会保険や医局費などを引かれる。それでもなお、それ以外のアルバイトの収入がバカにならない額で、最初からお金には全然困らなかった。遣う時間もあまりないからである。

だから、大学の給与が安いのはかえって疑問がわかない環境だったと言える。

今は医師の過労死が話題になるが、きっとあの時代も過労死はあったんだと思う。しかし、時代もあり、あまり問題にはならなかった。

当時、まだそれまでの慣習に従うことに疑いを持たない時代だったのかもしれない。

今日は、ここで突然終わりオチはない。(今、思いついた短い記事なので)

参考
激しい幻聴のある強迫神経症
剖検 (朝まで病院におり、明け方、剖検に携わっても報酬はびた一文でない。)
大スランプ
自分は2度死んだので多分長生きしますよ