現代的双極2型と双極性障害の位相について | kyupinの日記 気が向けば更新

現代的双極2型と双極性障害の位相について

過去ログで、重いうつ状態では「自分は価値がない」などと言い自己評価が低下しているように見える一方、「自分が休むと会社が立ち行かなくなる」などと言い、「自分はかけがえのない人物」のように訴えるなど、微小妄想から考えるにバランスを欠いていると記載している。

これが、躁鬱混合状態なる病態になりうることを説明するものかどうかはわからない。

理論的には、躁鬱混合状態は極めて奇妙なものである。躁状態とうつ状態の中間が「穏やかで健康に近いもの」ではないからである。これはおそらく、何らかの神経伝達物質が過剰なのか欠乏なのか以外の要因が関与していることを示唆している。

実は、躁うつ混合状態について、過去にクレペリンが説明している。

クレペリンは、躁うつとその他の症状には「位相のズレ」が生じており、その結果、「双極性障害には混合状態が生じる」と言う。

つまり、躁からうつに入っているのに、活発な意欲などがまだ残遺していたりするのである。ここの症状のズレにより奇妙な病態を生じる。

この意見に沿えば、「位相の変化の時期に混合状態が生じることが多い」ということになる。残念ながら、これは現代社会の双極性障害の実態を十分に説明できていない。

躁うつ混合状態は双極2型でより多く観察されるが、クレペリンの時代は現代社会のラピッドサイクラーなどはあまり考慮していなかったと思われる。これが結構大きい。

このクレペリンの混合状態の見解と今の双極性障害の相違こそ、過去の双極性障害と現代社会の双極性障害の変質をよく表現しているような気がしている。

つまり今の双極性障害は、クレペリン時代の双極性障害と同じ病態ではないのである。

それでもなお、クレペリンはかなり鋭い。アキスカルなど問題にならない。

その大きな理由だが、双極性障害の個々の精神所見をクレペリンは別々のウェーブとして認識しているように思われるからである。

過去ログでは、うつ状態と希死念慮は必ずしも一連のものではなく、個々に出現しているように見えると言う記載がある。(希死念慮は「物質」という捉え方をしている。)

双極性障害の大浪費、暴言・暴力、誇大妄想、悲観、希死念慮、罪業妄想などは、個々のパラメータとして流れていると考えた方が実際の臨床で診られる精神所見をうまく説明できる。

ただ、典型的1型の双極性障害ではその「ブレのようなもの」が少ない。(それでも、躁うつ混合状態が生じうる)。

現代社会で大きな割合を占めるようになった双極2型では、個々の症状の連動性が少なくとも双極1型よりは乏しい。

そういう理由で、浪費という躁病的所見は、2型ではうつ状態でも生じうるのである。また、希死念慮の双極2型における出現率の高さなどを考えると、「双極2型は1型より軽いため」では説明が難しい。

そのようなことを考えていると、今の広がりつつある双極性障害の概念は果たして本当に過去の双極性障害と同じものか?という疑念が生じる。

個人的に言えば、現代社会の双極2型は、器質性所見が混入し過ぎていると思う。

参考
レビーを疑う前に薬剤性を疑う
希死念慮の謎

(この記事は元々、ボツ原稿でしたが、気が変わりアップしています)