本や新聞を読んだり
人と会って、話しをしたときに
少し後になってから
自分のアンテナに引っかかったキーワードやセンテンスを
メモやノートに書き記します。
これは習慣として身についています。
スマホなどのメモ機能も悪くないのですが
やっぱり手書きにこだわったりしています。
記された文字の様子で
そのときのシチュエーションが思い出されたりします。
即時ではないところに意味があって
記憶力がどうこうとか
ボケ防止とかに役立つかどうかってことはその手の専門家さんにお任せすることにして
「おやっ」とか
「お~」とか
「なんだそりゃ。」みたいな
自分のものさしに与える
インパクトの強さや
その文章や画像に反応したときの
自らの状態を
メモに書き落とすというアクションによって
再現できるかどうかという検証も兼ねていたりします。
そのメモの中には
自らのオリジナルも含まれていたりするので
前後関係や
流れなど
読み返すと
おもしろかったりもします。
メモをパラパラと読み返していると
そのページで目が留まります。
そこには
こんなことが書いてありました。
「はずかしくて。」の恥ずかしいというのは、実はなんとも無いこと。
そういう意味では、「こわくて。」の怖いも同じかもしれない。
今までの人生に中で、自分がやったことのないことをやるときにとか
何かにチャレンジしてみようとするときに湧き起ってくる
単なるシグナルだから。
「恥ずかい。」とか「怖い。」というのは、ただそれだけのことで
何の害もないことなのだ。
そうすると
「はずかしいからできない。」とか「こわいからできない。」というコトバがおかしな言い回しであることに気が付く。
「はずかしい。」「こわい」は、過去の経験から生み出される感じ方である。
「やるのか。」「やらないのか。」は、自分の意思で行動を選べるかどうかなのだ。
残念ながら、出典の記載がなかったりするので
引用なのか、自分が思いついたことなのかはわからないのですが
何度読み返しても
妙に納得してしまうのです。
もちろん
経験からくる、感覚というのは
学習機能や反省などの源ですから、これはこれで大事なことでしょう。
「恥ずかしい。」や「怖い。」も人それぞれで、ぼくも含めて、ほぼ、みんなが持っている感覚ですから否定することはありません。
ただし
「感覚」と「意思」を並べて使おうとすると
そのほとんどが
単なる
言い訳
になっちゃってたりするんです。
今日、このパターンが何度、口から発せられましたか。
このパターンで、文章を書いてしまいませんでしたか。
あ、そうそう
「めんどくさいからやらない。」ってのは
論外ですから。
意思表示
ちゃんとしてますか。
This is HASHIMOTO☆QUALITY











