私のブログを読んで頂いておられる方々に歴史の一部を紹介したいと思い下記記事を転載させて頂きます 歴史とは何時の時代も勝者に都合良く改ざんされ続けていますが今の日本が何故属国として命や財産を差し出し続けなければいけないのか もしかしたら

これらのことが原因になって闇の世界から指導者達が脅され続けていることが一因かもしれませんね実際に現代に至るまで多くの首相を含める指導者や日本の経済界、司法界、のトップに長州 田布施町出身者が占めているのも下記が本当なら充分にあり得る話です



日本史のタブーに挑んだ男 鹿島曻――その業績と生涯

松重揚

江・著 たま出版


●孝明天皇は、伊藤博文が剌殺したのか?

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幕末に、暗殺の実行部隊に忍者が選ぱれるのは自然なことであった 戦国時代は血統を重んじる源平武士団が敗北して、賎民が天下を奪った時代であっ た。秀吉は「はちや」部族の出身であったが、長じて「軒猿」といわれる下忍(下級忍 者で、実戦部隊)となった。秀吉は大返し(本能寺の変を知った秀吉が備中から姫路城 まで大急ぎで戻った一件)によって明智光秀を討ち、さらに引き上げると見せかけて、 柴田勝家を奇襲攻撃して破って、ついに天下をとるが、この二つの戦の兵法は、ともに 忍者戦法であった。


このような忍者によって、長州藩では邪魔になった者はたとえ権力のトップにあって も、毒殺できる技術が、江戸時代にはほぼ完成していた。1836年(天保7)、斉 煕、斉元、斉広と、3人の藩主が相継いで変死しているが、これらはおそらく毒殺で あったろう。 こういう藩の藩主になったならば、実力者に対して、うっかり逆らえば、すぐさま毒 殺されかねない。だから、長州藩主は「そうせい候」(何を言っても「そうせい」と返 事をするので、こう呼ばれた)という態度をとるようになったのである。 こうした忍者の伝統は幕末まで連綿として続いていた。


薩長の密約によって、将軍家 茂と孝明天皇を暗殺する際、実行部隊として長州の忍者部隊が選ばれたのは、むしろ自 然な流れというべきである。

■伊藤の刀剣趣味と忍者刀(『明治維新の生贄』より抜粋) 伊藤俊輔は、明治の世に伊藤博文と名乗るようになって、趣味としての書画骨董など には深入りしなかったが、刀剣類の鑑識眼は相当なものであったらしい。晩年には名刀 も数十本所有し、そのなかには国宝級のものもあって暇なときには夜半電灯に照らし、 刀剣のにゅう匂(こう)などを点検するのが道楽であったという。 梅子夫人は維新のころ、萩城下に同伴したとき、俊輔が夜間外出する際には曲がり角 などでいつ刺客に襲われるかもしれないと、用心のため抜き身の刀を後手に持って同行 したという。そのため、夜中の室内で電灯の光に反射する抜き身の刀を見るたびにその ことを思い出して、「嫌でたまらなかった」と娘の生子に語っている。 そのためかどうか、維新のころ愛用していたという「忍者刀」が俊輔夫妻の手許を離 れ、本家の林家の係累に預けられたまま伝承されているのをこのたび確認した。 平成9年(1997)9月2日、博文の遺品や直筆の手紙などを集めた「伊藤公資料 館」が、山口県熊毛郡大和町束荷の伊藤公記念公園内にオープンした。同町が公の生誕 150年記念事業の一つとして新築整備したものであるが、あらかじめ公の遺族、親族 のほか一般へも広く呼びかけて資料の収集に努めた。 林家の妻ヤスの孫娘・静子(祐美子)の夫・村上靖男君も、それを機会に義父の遺品 を調べることにして、蔵の中の遺物箱を開けてみると、その底に一本の刀があった。こ の刀は未登録であったので、早速平生警察署を通じて県に連絡したところ、文化庁の係 官が来て鑑定してくれることになった。 平成7年(1995)2月、県庁の一室に持参して、まず刀の銘を見ようとして柄を 抜いてみると、普通の刀の根元を切って短くつくり直しているために銘の部分が消えて いた。刀身の長さは普通の刀と脇差の中間ぐらいになっており、室内や樹林の中などで も自由に使えるように工夫されていた。 そのとき、刀身をじっと見ていた文化庁所属の鑑定人が、「この刀は人を斬った刀 で、刀全体に脂がべっとりとついていますね」という。脂には塩気があるから、人を 斬ったあと拭わずに鞘に納めると中が汚れる。そのまま10日も放っておくと刀に錆が 出て、次の斬り合いのとき折れることもあるという。 だから、人を斬ったあとには必ず鹿のなめし革で刀を磨くようにして拭わねばならな い。鹿革は5回も使うと汚れてしまうので、心得のある武士は常に3枚の鹿革を懐中に していたといわれている。俊輔もそのことは十分に知っていて、この刀も鹿革でよく 拭ったのち鞘に収めていたようで、鞘から出すときはすんなり抜けた。 しかし、長年の間にジワリと脂が浮き出して刀身全体がどす黒くなり、所々に泡のよ うな錆状のものが付着している。この刀はそれほど多くの人の血を吸っているもので、 やはり維新動乱の時代に幾度となく使いこなされた「忍者刀」に違いない。調べてみれ ば孝明天皇の血痕も出てくるかもしれないのである。 昔から人を斬ったあとには、無性に女性を抱きたくなるものだというから、博文が無 類の女性好きになったのは暗殺専門の志士として麻薬患者のような殺人常習者と化して いたからであろう


●宮崎鉄雄氏による決定的な証言 こうして鹿島は、伊藤博文による孝明天皇刺殺の可能性を唱えたのだが、それを裏付 ける証言をする人物が鹿島の前に現れた。作曲家の宮崎鉄雄氏である。 宮崎氏によると、平左衛門は、徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べてい たが、それが岩倉具視と伊藤博文であったことをつきとめた。しかし、そのために伊藤 博文から命を狙われる羽目になり、実際、長州人の刺客に稲佐橋の付近で襲われて重傷 を負った。


その平左衛門の遺言として、宮崎氏は鹿島に次のように語った。 「父が語ったところでは、伊藤博文が堀河邸の中二階の厠に忍び込み、手洗いに立っ た孝明天皇を床下から刀で刺したそうです。そして、そのあと邸前の小川の水で血刀と 血みどろの腕をていねいに洗って去ったということでした」 さらに、宮崎氏の話では、伊藤博文が忍び込むに際しては、あらかじめ岩倉具視が厠 の番人を買収しておいたという。だとすれば、岩倉具視が伊藤博文を手引きしたことに なる。 たしかに、暗殺がプロの伊藤博文といえども、天皇の厠に忍び込むのは危険このうえ なかっただろうから、だれかの手引きがあったにちがいない。そうした手引きができる のは、孝明天皇に近い人物にちがいなく、その意味で、岩倉具視が手引きしたという話 は説得力がある。 宮崎鉄雄氏がこの話を鹿島にしたとき(1997年7月)、すでに宮崎氏は97歳に なっており、それまでずっとこの証言を世に出すかどうか迷っていたそうだが、鹿島舞 の著書を読んで公表する決心をしたとのことであった。 「日本の歴史家に鹿島氏のような勇気があれば、日本史がウソ八百で固められること もなかったろう」と、宮崎氏はその著書の中で語っている。


★ひとくちコメント ―― この本にもありますように、伊藤博文が孝明天皇刺殺の実行 犯だったのは間違いないようです。『明治維新の生贄』(鹿島曻ほか・著/新国民社) にはその手口がリアルに描かれています。まさに戦慄するような内容です。孝明天皇の 子供にあたる明治天皇も、同じく伊藤博文と岩倉具視の謀略によって葬られ、大室寅之 祐という長州出身の人物にすげ替えられたのです。そのいきさつは『幕末維新の暗号』 (加治将一・著/祥伝社)が鋭く分析しています。 天皇を暗殺した下手人の一人が、つい最近までわが国でもっともポピュラーな千円札 の絵柄になっていたのです(岩倉具視もかつては五百円札の絵柄になっていました)。 このような現実こそ、この国がいまもなお維新を陰から操作してきた黒幕たちによって 支配されているという厳然たる証拠と見ることができます。 そして、その大本にいるのはフリーメーソンを隠れ蓑とする外国の勢力、すなわち (決して表に出ることはありませんが)世界中の中央銀行(日銀もしかり)のオーナー であるロスチャイルド一族なのです。たとえ日本の政治家たちが束になってかかっても 全く歯が立たない相手です。世界支配層の奥の院にいる一族とみてよいでしょう。

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