こんな相撲協会でも必要か?

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こんな相撲協会でも必要か ?

 

 

 

 

そう言いたいほど腹が立っている。

実は大晦日なので、一年間の感謝や抱負についてちょっと書こうとおもっていたのに、それよりも好きな相撲界の、あのばかばかしいへんな動きにやたらと腹が立つ。

 

理由はこうだ。

1、元々、どう表現しようとこれは「横綱の傷害事件」だった。叩いた叩かれた、被害者加害者の刑事事件である。

 

ところが、反省すべき加害者は、被害者に対しキチンと非を詫びてもいない。むしろ当然のしつけだったなどの言い逃れは横綱の道に外れると思う。寧ろ横綱でも、傷害事件を起こした加害者なんだから、いち早く協会へ自己申告すべきは被害者の親方でなく横綱日馬富士本人と横にいた白鳳らだったはずなのである。

 

テレビの写真を観ると、頭がアレだけ割れていたのだから単にゴメンナサイでは済まない。しつけとはいえない。この結果責任は相撲上の事故ではなく人為的な事件であるから、刑事問題と民事問題が両方が避けられないだろう。

 

それにしても、あの横綱白鳳の一連の態度は、国技としての相撲の精神をトコトン落としてしまった。いわば頭から突っ込んでいく相撲にとって大イチョウの上からモノで殴られて、あれほどの切傷になるのだから、どう考えてもかなりひどくやっているはずである。これだけの有望力士をこんな目に合わせた将来のダメージの罪は、協会も含めた大きなものになって当然である。

 

被害者である弟子のいろんなことを、その親方である貴の花親方が真剣にいろいろなことを考えるのは当たり前の道理であり、弱い被害者のことを考えて護ってやるのは親方の使命。何が悪いのだろうか。 どうもおかしい。加害者側に申告義務があるというのなら交通事件の例をみるまでもなく至極当然の道理だが、反対に被害者側の若乃花親方の方を処罰した。

 

刑法犯の加害者側に対し、その事実認定が概ね確定するまでは、示談は市内というのは、世間に良くある至極普通の話である。被害者プライバシーもあり、何も礼を失したとまでいうのは、とても具体的妥当性があるとはいえない。まだ分からないがもし貴乃岩の相撲生命にも関わる場合などの損害を日真富士や協会は何も公表してはいない。愛弟子の傷害事件に協会は何を如何する気なのか??

 

 

 

 

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 これでも横綱の所作か!

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これでも横綱の所作か!

 

 

 

日本人には、横綱というと昔から「横綱相撲」という言葉のほうが先行して頭に入っている。勝負の世界から見ると勝ち負けはあるが、

一般の感覚はそれよりも先に、品位品格を問い、これがあってこその「横綱」と観てきた。だから、横綱が同郷の後輩をビンで何回も何回も殴り頭をナン針も縫う大怪我をさせたとなれば、もう何の言い訳も存在しない、というのが日本のまた世界の常識ではないか。

 

サテここからが問題である。

更に人間らしくないことがある。加害者がそれを隠し、言を左右にもっともらしいことを言って誤魔化そうとした点だ。この場に及んで潔(いさぎよし)とせず、まだ何とか相撲だけは取りたい取らせたいと、一役買ったとんでもない横綱さえも居たことになる。今回もまた、かなり深刻な問題を提起したと思う。

 

この両横綱は、不規則発言で「膿を出し切る」と言ってみたり、加害者も被害者も土俵に出したい等と、意味不明ながら重要なことを口走っていた。こんな時に「万歳万歳」と言ってみたり支離滅裂である。それこそキチンとけじめをつけないと、真の相撲人気は、内から崩れても不思議はないと思う。何事も、その辺の「けじめ」の重要性を気づかずに失敗したのではなかったのか。

 

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法律は一つ。 常識も1つ。

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法律は一つ。 常識も1つ。

 

 

 

 

 

 

相撲、柔道は特に日本のお家芸で、日本の伝統文化だと思ってきた。近年力士に外国人が多くなったが

日本のそれをキチンと理解するのならそれもよかろうと思って来た。相撲の国際化、グローバル化と思えば

必ずしも悪いことではないと思ってきたのだ。

 

 

ところが今回の心技体最高位の横綱の暴力事件に、余分な理屈が多すぎる。事実関係を総合すると

横綱という神様が他の力士の頭を①ビンで殴った②手で殴った等、事実が多少人により違うにせよ、事案は明らかな刑事事件である。

 

警察より先に協会へ言うのが筋というのはこの際はありえない。民事ではなく、筋は筋、刑事事件なのである.何かの間違いなら、、、と思いたいが、若乃花親方のほうが精神がシッカリしている。

相撲の世界が上下社会の典型であるとしても、事実に2つはなく、ある訳がない。刑事問題より先に協会が来る訳がない。

真実より「裏社会」のようなものがことを左右しようとしていないことを示すことが何より先ではないか?

 

 

 

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本来の「政務調査費」とか「政務活動費」が、何故そんなにも不自由でなければならないのか?

 

 

 

 

 メデイア(某TV)の取り上げ方はまことに品が悪い。小田君ぐらいまじめな真摯な議員に対して!!

 訳がわからない。直接お金が政治をするか?人ではないのか?政治人政治家が知識能力をスキルアップをするのは結局誰がするのか?自分が自分を磨くしかない。こうすりゃああなる位のことは大体誰にも分かっている。それなのに、それにこびない男に惚れ直したくらいである。 

 

一体全体あのメデアは、大勢イエスマンを並べて悪を前提に批判したように見えた。あの程度の意見に社会正義でもあると思っているのだろうか。思想統制でもしたいのか? 行き着く先が本好きや本趣味になるのは自然なことで、彼の人と成、広くは政治家小田春人を作ってきたではないか。アレでは、テレビの値打ちはないと思った。

 

 

小田春人氏のような、人品倫理道徳執権知恵能力信念の、どれも人並みをはるか越える人間(男)に対してまで、アレコレとネガテイブに言われ出したか。こりゃ、放っておけんぞという気になった。

 

この1件は政治とは何か? 本とは何か?本気で物事を考えるとはどうゆうことか、これを考えるテーマでもある。〔願わくば、味噌くそ一緒にして水を倍加えた様なチャランポランにはしないでほしい。政治家の質の向上になる方向を期待してやまない。

 

 

これは冷静に考えると末恐ろしい重大な問題を含んでいる。日本は、政治の世界でも少なくとも先進国のはずだが、何分空気に弱くすぐ情緒的になって多数工作で騙されてしまうことが少なくない。日本の政治そのものの悲劇かとも、と思えてしかたがない。

 

これほどの人物に対してまで一般的に政治家批判が出始めたか? しかし、少なくとも批判している人よりも、はるかに程度は高い人物であるとおもう。批判してよいこといけないことことの座標軸くらいもっとシッカリ、ドッシリしてほしい。昔から記者にはいろんな人がいることはしられている。

 

近頃、一部にはオソマツなことがあるから、政治家批判が多いし、それは当然だ。しかしそれとこれは本質がまるきし違うということを知ってほしい。政治が「性事」になり、政治家イコール悪者とされてしまう中での、言ってみれば一種「あてこすり」であり、政治家の「特有のジェラシイ」みたいなものが見え隠れする。メヂアのほうまで目が見えなくなったのかとあきれた。メデイアがネガテブに取り上げるのは人物の実相をあまりにも誤解しているからだと思う。

 

 わたしも本が大好きで、頭の中は政治への関心は強い。だが、本自体はいろいろ買う。つまり本は題名ではなくその本に自分が何を発見するか、何を見い出していくか、参考になりそうかであるはずだ。無理に興味趣味を区別する必要もない。まじめか不まじめかだけでいいのではないか。

 

その本は政治活動に関係があるの無いのといくらいっても何も生まれない。本を読むこと買うことがそんなにも不自由で意味のないものならば、いっそのこと、本は、ハナから購入はダメだとしておくべきが筋ではないか。(岡山県が笑われたいのなら、また実証的にやりたいならそういえばよいではないか。)

 

マア、もう50年したら、昔々政務調査費で「買うべきでない本」と「買ってよい本」があるといって、テレビで丸ぺけをつけた人が居たぞ、といってソノ不見識が笑われる日が来るのではないか、ちょっとアレはオソマツな論議だったなあ,、、、、ソウイウヒガハヤクキテホシイ。

 

以上

 「歴史に学ぶ」ということ

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「歴史に学ぶ」ということ

 

 

 

 

 

歴史に学ぶ、という言葉があって、いつも、そうだそうだと実はさほど歴史そのものさえ知らないでも(知ろうともしないでも)、先に感心してしまうような処はないか?、、、と自問自答した。

自分の短慮過激を気にしたり、時に自信を持ったり、また時に恥じるときがある。

 

漠然と、「昔は遅れていて今は「すべて」進歩している。」という風な、一種の信仰みたいにいう人もいる。それを「すべて」と勘違いする御仁もいるようで、ときには、この阿呆違うだろ!!?と、それこそ叫びたくもなる。

 

自分ではそう思いたくはないのだけれど、 どうやらものごとは何であれ二律背反があるからややこしい。特に政治方面は良い意味で歴史に学ぶべきだと思うのに、基本政策さえバラバラの人が同じ政党にいたりして、今回のようなことがあるとXXXお池ならぬそれこそ 「小池に はまってさあ大変」 ということになる。

 

も一つややこしいのは、政治を文学と同視する人がいることだ。物事の真実を突き詰める科学的方法論に、社会科学、人文科学、自然科学、の3方面があるといわれるのですが、「政治は現実、小説はフィクション」なんだから、某党のようなことでは政権はまだ無理無理無理。

 

歴史に気づきを見つけることが大事だ。政治は現実に対応するものだ。この視点を忘れられ政策もプロセスもないモノに騙されるからが何もかもおかしくなる。ややこしい政治を整理して、政治は何のために大事なのか。その最初の出発点を考えるのが、近頃の選挙の意義だではないのかと気づいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 土地について

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土地について

 

 

 

 

 

(はじめに)

近頃 [土地」について、アレコレ特に話題が多い。.「人口減少社会と土地の関係」とか、「相続登記せず数代経ったら、所有者がわからなくなってしまった」とか、土地と言うものが如何にこの世で重要なものかと言うことが、逆にジワリじわりと知らされている.。皮肉な現象だ。

 

 

そこで、自分に一番縁の深い「土地」を考えてみたい。まず極めて奥が深い。そこで、、(なんとなく支離滅裂な思い付き?を書くことになりますが) ここにあれこれとメモしてみる。 また、一応専門の土地登記などについても、勿論「無料相談」受けをさせて頂いたら幸いである。

、、、と、殊勝気に言ったものの、そういいきると実は気持ち嘘を言ったような気分になる。

 

それはこうです(すこし横道へ)。

(参考)

実はご相談に対しての口頭説明は丁寧に分かりやすく行いますが、しかし、登記処理〔登記簿への記載判断)自体ではないため、電話相談の場合には、単に、いわば「理論理屈の説明」にしかなりません。具体個別の答えは即出せない仕組みになっているのです。

 

なぜなら、登記には、人、物、意思3点の確認が必要で、プロの司法書士は自らないし信頼できる登録補助者を通じた「調査確認」が求められているからです。いわば、プロとしてのコンプライアンスです。

 

ところが、事はそう簡単にないのです。実際には一筆ごとの国税〔印紙税等)が必要になるのは止むを得ないとしても、重要な登記情報は全て、いわば国の機関である法務局が握っています。(法務局の資料(登記簿など)調査を見ること自体、すべて有料だからです。)

 

しかし、元々登記の基本的な情報自体は、官民協力の元、いわば、民間人である司法書士が国家資格を元に生み出したものであり、且つその司法書士への依頼者国民は報酬を支払っているのだから、いわば国民も情報提供者として協力しているのに只じゃないわけです。その上推定力はあっても公信力はないなどといわれる。

 

こう考えていくと、この情報はかなりややこしい情報処理になり、単純な悪意やミスからでない所有の起源まで遡るきわめてややこしい問題さえ含んでいることが否定できない(ありうる。)

 

たとえば、①大阪の「道頓堀裁判」は、維新前にさかのぼる土地所有権についての訴訟としてあまりにも有名です。②成文法がないなら,公序良俗に反しない限り慣習法が優先する〔法律〔法令第2条)。③古い所有権の境界争いなどは、国土調査図面よりも古老の話しとか以前の土地台帳時代の古図など、もともとの所有権決定時の資料が判定の有力資料になります。

 

 

1、実は、あなたの登記相談に司法書士の私がキチンと具体的にお答えするためには、、いわゆる公的な登記情報 (土地建物の所在、地番、面積、と登記簿上の所有者の氏名、住所など)についての登記簿台帳の記載情報をまず調べること、知ること、が前提となるのです。〔方法は通例2つ。

以下のとおりです。〕

 

2、むかしは法務局で閲覧申請して1物件100円の国税印紙をはり、情報を得ていた。証明書がいるものは登記簿謄本を請求していました。

 

3、今は、すべての登記情報は、オンライン化され大概の司法書士事務所は、自分の事務所からすべてがペーパーで貰える事になりました。ただ、従来の閲覧に代わるものは1筆337円ですが、法務局の証明印あるものは法務局へ出向いて謄本として紙10枚まで600円(コンピュータ申し込みは10枚まで480円)の印紙代が要る。コンピュタ化は入りと出の装置が必要で、必ずしもすべてタダを意味しないという訳です。

 

4、以下思いつくままに、、自分の興味関心上、少しかじったことの、まとめのメモをしてみます。(この部分は主に自分自身のためです)。

         

                           記

 

1、制度としての土地所有権は、明治維新で生まれたものです。M6年 地租改訂。民主主義とその運営には金の問題があることに気づき、大きな問題に直面した。公の物を私に売り、3%課税で恒久財源を考えた。神田孝平、伊藤博文。

 

2、古代律令制の土地制度としては 「荘園」があり 土地私有の芽生え発生はあった。

 

3、土地所有権。 ローマ法型(エゴ、都市型)日本民法。 ゲルマン法型(エゴでない農村型)

 

4、S40年(1980年代)の好況バブル(地価上昇)から、1990年代バブル崩壊へ(地価下落)

 

5、土地所有権は絶対か?努力で生んでいない土地に絶対はなかろう。世界と日本の傾向。

 

6、土地バブルで何かを学んだのではなかったのか?使い方の問題大事。純資材の疑問。

 

7、神様が生んだものなら神様のものではないのか。ただ、人の努力と相続も安定には必要。

 

8、土地が公共財なら100分の1の建設単価で済む。(土地から無駄な欲を捨てられるか)。

 

9、日本は、明治維新まで土地は「本来公のもの」と認識されていた。M23,29 民法まで。

  武士は土地をほしがることは恥ずかしいことと考えていたらしい。

 

10、自分は政治の道、約40年の間  「道と水と土、街づくりとと教育」 を理念キーワードとし、一途にそれを行動化しようとした。行政で一番ほしいゴミ処理場用地だが、一番入手できないNIMBY問題がある。しかし、不信をはらい、情報をすべて公開すれば道は開ける。理論は後からついてくるみたいな気持ちだった。美作地域からの公募立候補制を堂々公開募集したら、「うちに来てくれ」と、なんと広域9箇所の公式の応募があり、専門家に点数をつけてもらって久米領家に決定した。30年揉めた用地確定が約1年で公式に決まった。地方にとって利権がらみくらい難しいめんどうな仕事はない。共産党と利権屋グループらに屁理屈の訴訟をおこされ、4年間も引っ張られましたが、ものの見事に彼らの屁理屈を一つ一つ論破して「原告の主張はいずれも理由がないので破棄する、」 と判決主文の中で当然ながら完全な桑山勝訴判決を勝ち取ることが出来た。

それにしても、あんな無茶な共産党と組む市なが、が広域の一部事務組合で決定した案件を市政とチャンポンにして肝心の重要事業を遅らせておきながら平気だと言うのはその神経が解らない。この事務懈怠は市政のレベルが問われていることに気づくべきだ。

 

私は、ゴミ処理場立地の合意形成論の理論と実践に異常なファイトが出て、岡大院の公共政策科学研究科博士前期課程へ通い、少しばかり考えてみた。不出来ながら論文にまとめることができたことが人生最大の快感である。、

 

11、権利と勝手放題は、別物のはずだ。ここが民法の所有権法の欠点ではないか

 

12、

 

 

 

 

 政治における「合併」

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政治における「合併」

 

 

 

 

政策理論による進歩か、、惰性による後退か?

 

1、「政治は、公的な自由な政策選択だから、その差自体が私的な排除の論理ではない。」

合併というと、会社の合併,市町村の合併、これらは皆それぞれ予め決められたルール、手順と言うものが厳然と存在する。ところが、知恵者小池氏はおもしろい知恵条件を出した。

①、国の安全保障、②、憲法改正。この2つの基本政策が合流条件。落ち目の三度傘民主へ王手をかけたり、また、救ったり排除したりする、ダイナミックなうまい政治手法である。

 

 

「政策なき多数工作は 野合である。しかし基本政策の合致は、政治の見識である。」

ムードは柔らかいが、抑えるところはキチンとおさえているから野合批判は当たらない。こりゃなかなかの政治家だ。良い球を投げた。この分だと、将来「保守二大政党の立役者」と評価されるかもしれないし、、、、、などと思う。日本料理で言う「うまみ」、人で言えば「人間味」とでもいう要素が加われば、よい責任政党やグループの結集になると考え、それを期待したい。

 

 

3、「小池氏の政治選択の話を、民主とメデイアが個人の差別話へすり替えている。」

普通どんな合併も、何の制約もルールもへったくれも存在しない。しかし、政治は政党政治なので、政党法 選挙法はある。また、政治は主義主張政策だから。ただ受ける方もあまり品の悪いのと一緒にやりたくないだろう。それは当たり前だ。民主の中から小池横暴を叫んでくれれば、そうなっているようだから氏の値打ちはますます上がるだろう。理100%、情80%か。

 

 

4、「政治の基準を、しがらみに寄りかからず、政策中心に発想することには反対はない。」

この度の小池劇場は通常の見方からすれば,小池ワンマン社長の一存だろう。しかし、「公党」とか、「民主」政治とかいいながら、政治における筋の通ったダイナミズムはなかなか出せないものだ。ややもすれば、単なる多数派工作の政治になるのに、「あるべき政策」を打ちだせた事は快挙だ。政策の政治選択とその方向性を決断する政治は田中角栄氏以来だ。

 

 

5、「政治は選挙時に動く。原因結果が、単なるポストや多数工作でなかった証明を!」

今回こそと期待し、未来が愉しみになる。民主と違い、自民人材の大半はまだ使えるから民主のなんともならない分とはシッカリ分別し差別化し排除しておかないといけない。市民の側から言えばあまいことばにだまされないこと。でないと、市民国民が困ることになる。何処かの首長など、座標軸を隠し、左右ダブルスタンダードで上手く誤魔化している。もう騙されるな、

 

 

 

 

 

 

 

 一院制あれこれ

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一院制あれこれ

 

 

 

 

 

東京のほうで、何だかふざけた論議を巻き起こそうとしている.ようだ。いい気分がしない。

「東京」と言う地方が、少し大きいからと言って、都知事選という地方選挙にポピュリズムがうまくいったからといって、大きな国民大衆の方を、すこしこれはなめているんじゃないか。

 

小池さんが地方選挙に勝ったからといって、勘違いしてはいけない。其の勝ち方たるや政策でもなんでもないシロモノである。その論法はこうだった。  まず、「 こういうことが起きた。」「それはこれが原因です。」 「これにはこの人が絡んでいます。」(マスコミの一部が書きたてた。)

 

策士は、先に相手に悪のレッテルをはる。次にそのレッテルをトコトンたたく。次にはあの人間がこれに関係しています、といって攻撃する。ことの真実の解明の前段階でイメージ、印象で悪人に仕立て上げるのである。

 

後になって、真相道理が判明した時には、問題はすり替えられているか、または熱が冷めて、他の問題をまた同じ論法でとりあげている。際限などない。そのときには、元の問題の趣旨目的も手段方法も訳が訳がわからなくなり、悪しきイメージを残してしまうのが作戦らしいのである。 )

 

自分が勝手に言い出した「悪」の「1点集中の水平展開」を取り上げて、それをたたく。しかし、自分だけは仮面ライダーになる。しかし都政と国政とでも話がすこし違うが、先ず面白くレッテルを貼る!次にそれを叩くだけ。政策なし。

 

こんな感情、論理を繰り返すのはまずいが、さりとて一回戦で、すべて永遠に結着つけようというのも軽い民主主義のようにも見える。結局、国民の側からは冷静に実証的に考えたほうが良いのではないか。日本中が振り回されてはいけない。

 

もうそろそろ、自分の頭で考える政治にしたい。振り回されたくないと思うのである。

 

しつこいが、一院制論議は政策をまじめに考える政党、グループで発想してもらいたい。熱し易くさめやすい国民性といわれる日本人には、民主主義を単に効率だけでない「大きい民主主義」がほしい。ポピリズム的発想がこの際は一番まずく、不適当と思う。

 

その意味で、単なる国会の2院制の不要論。単なる参議院の不要論は危険だ。いわゆる民主的理性的合理的なまじめな改革論をやる気なら、俄仕立ての新米発想はまずい。今のご時勢のように、衆参いずれも数だけで判断するのなら一院制になってしまう。もう騙されないようにしよう。ここでも民主主義と民主主義らしさはまるで違う。

 

小池さんはうまいセンスもお持ちであるが、その手法はあまりにも見えすいた、結局は大衆騙しとしかいえない。反論があるなら必要な仕事をまず速くやって見せることだ。あんなことを言ってとめてしまった「あの市場の整備」は、単に整備を遅らせ混乱させ、何百億以上も損害が生じることになっただけなのか。こんなことでは、東京オリンピックまでが心配になってくる。

 

政治が結果主義なら一体誰がこの責任を負うのか?政治責任を果たさない人が、また国政で「騙し政治」をやろうと言うのか!!包装紙に騙されないようにしたいものだ。このタイミングで、「1院制」論議は多分深い論議になりにくいだろう 。

 

参議院は衆議院が議決した案件の後追い追認のイメージがあることはあるが、さりとてかっての参議院らしい緑風会が存在したこともあるし、参議院をなくしたら良くなると言うような、そんな単純な問題では断固ない.。

 

選ぶ人やシステムが同じでない「よい仕組み」は考えられるのだろうか。参議院を考えることはそこまで考える事になるのだからとても難問だ。入りやすいが出口がどこか?多分今言い始めている御仁ではちょっと、、、、、?(失礼)

 

政治専門家や歴史家や広い知識人などの広範な意見をまず聞いてはどうか。最後には理論と具体個別の判断になるからそう生易しくはないはずだ。今その問題を短絡的に出すと、衆参おなじ基準で選ばれ判断も同じなら参議院不要論にならざるを得ないからまずいはずである。もっと「大きな政治」から発想すべきだ。

 

今の選挙制度で、地域に分けて(地盤)、利益団体(プレシャーグループ)が存在し、後はマスコミと口コミがなんとなく流れを作る。好きづきもある。最後は、大衆がエイヤーで決める。大衆はジックリとは考えてはくれない。大衆は責任を負わない。

 

だから、参議院の是非論になりそうなテーマが選挙時のテーマには、そぐわない。今はどう考えても適切なテーマとは言い難いと思う。小さな政治発想から大きな政治が生まれるとは思えないからだ。

 

 

 時代分析と、その予測

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時代分析と、その予測

 

 

 

 

 

これについて、堺屋太一氏くらい確かな人はいない、ずっとそう思っている。S50年に、あの有名{な「油断」という時代の「予測小説」を書かれた。氏はそのとき現職の通産官僚だったのだからすごい。(その次が、流行語になっ「団塊の世代」{地価革命」等々を発表して、次代の変化を予言した。)

 

 [オイルショック]・・・、石油資源小国の日本は、たいした政策も無く、無頓着でいた。案の定、石油製品は生活領域のありとあらゆるところへ関係するから、遠い中東の戦争が日本に一番こたえて、諸物価は2-30%高騰したことがあった。

 

余談

(日本は、少し前.社会党の中に原子力エネルギーで家庭電気の30%を占めている現実さえ全く知らないで、平気で国会議員をしていた人がいて笑われて辞めた人がいた。その程度の人がいるのだから[政策で政治をやるべきだと言ってもドダイ無理だ] という人のほうが正解らしい。)

 

堺屋氏へ戻る。

またその前は、大阪万博のコーデイネイトをされた。こういう[キチンとした実力人] が国づくりに関わるようにしてほしいものである。 (地方ならなおさらである。)

 

昔、「津山に過ぎたるもの3つあり」と言われていた。いまや作陽音大が倉敷へ、そして

残るは、森本博物館と洋学資料館が光る。

 

 

 

 

終り

 時代分析と、その予測

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時代分析と、その予測

 

 

 

 

 

これについて、堺屋太一氏くらい確かな人はいない。S50年あの有名「油断」という予測小説をだされた。第2次石油ショックが現実に起こってはじめて我々凡人は眼が覚めた。、なるほどそういうことかと関心もし驚いたことがある。理論的預言者だ。

 

氏は、現職の通産官僚だったから、そういうドキュメンタリーな作品がすらすらとできたのだろう。すぐこういうかたちに成るのだからすごい。それ以後、私は未来予測は堺屋氏」と信じた。すこし読んで、世の中どう変わるのだろうなど、興味を持ち始めた。

 

そうこうしているうちに,私自身S51年知らない間に当時の保守系グループから推されて、市議補欠選挙へ出させてもらった。それ以後議会質問調査、答弁の際の参考判断第4次市総合計画の総まとめなどの際にも自分では参考ににさせてもらっている。

 

「地価革命」での未来予想では、①、これからの社会は「知識の値打ち」が問われる社会になる。②「、規格大量生産の時代から、多品種少量生産の時代になる。としておられた。そうなった。

 

かって、わたしの企業後援会で「一番講演に来てほしい人は誰か、」と話題になった。一番が堺屋太一氏だった。津山国際ホテル会場は超満員で聞いた話は確かな時代分析だった。