審議より闘争の場だった、あのとき・・・






(はじめに)

政治か何か知らないが、ザット40年間、自分なりにはこれぞ政治と思い一生懸命に、この世界にからんできたと思っていた。 いつも考えたのは絶対に人まねだけはしないぞ、と思ってやって来た。難しい事がいっぱいあったが、案外自分には、なせばなる、みたいな楽観主義的なところもあったようにおもう。


一見、ありふれたことのようでも、全ていろいろ調べて考えて、かなり慎重に、そして自分流にやってきたように思う。自分では当たり前のことを当り前にやったに過ぎないが、発想を転換し、初めてのこととして、初心として取り組むことは、なかなかシンドイことだったと振り返る。


〈自分がまたそういうことに遭遇したとしても、以前ほど苦しまないかも知れないが、しかし、矢張り信念としては同じ選択をし、また未来志向でそれを断行したような気がしている。)



(そのときのあの市政の「現象としての闘争」は、一体政治のどこがどう間違ったから起こったことなのか。具体的には、なにがどうなったのか?

あの、市政始まって以来の大混乱のあのときを考えることは重要である。)


以下思い出すまま、アトランダムに、また多少時系列にもすこしメモっておきたい。政治には政策や考え方で、目的や手段において対立がある世界である。後に生かさないともったいない。このときの歴史的な大事件が、後に津山のために真に活きることを願う。


( 一般論でもそうだが)

自民党のような、かなり緩やかな常識的な政党でも、精密機械ほど寸分許されないという主張が出ると、もめることもある。少しの誤差で、時に対立することもあった。


〈告ぐ!!「良い仕事」はそれぞれ良いが、「悪いこと」は同じように悪い。)

単に 恥だなんだとおもわずに、過ぎたことは過ぎたこととして、後に生かしてほしい。そういう意味で緩やかに事実を書き留めておく。


①、私は、長く地方政治にいて、当時は県議会議長を経て、中央与党の県レベル政党の政調会長と言うポジションで、好きな仕事をさせていただいていた。岡山県議会初の政策条例を制定したりなど、けっこう遣り甲斐があった。


ところが、足元の津山市政がすこしおかしいことになっているなあと思っていたら、再開発アルネ問題とゴミ処理場立地(綾部)問題の2大問題が、 ついに俄かに火を噴いた。政治上歴史的な大事件になり、大荒れになってしまった。


事業主体たる再開発組合はまじめだが船頭が多く、肝心の統治能力が弱く、またそこから当てにされ、頼られる市の執行部もどこまでが自分の責任の範囲なのか、補助採択要件もあって、思うようにならず一時解らなくなった風だ。


都市再開発事業と言う巨大な長期事業なのに、1年1年の単年予算審議で当年度だけのばらばらの予算審議をするが、他方議会は その間には、議員の役員人事や、ポストの駆け引き争いで思いもよらない結果になることがある。


審議能力や市民の風評次第で賛否にすぐブレが出るのが地方議会の特徴である。何分共産党が主導権を握るのだから、いいことにはならない。かくして我が市議会も、機能を失ってしまい、市長リコール丸1年間3連続の大?記録を作ってしまった。〈裏に何があったか?何がそうさせたのか?が問題だ。)


事業計画の詰めが悪くて事業用地自体に先ずつまずいた。(安易な詰めで)補助金が下りないなど普通考えられないことが起こった。 当初、組合が十分な理解合意なしに事業を出発させたこと、、経済動向や事業売り上げ額に大きな勘違いがあったこと、など一口で言えば土台と基礎づくりにこそ問題があった。



最初の行政手続きから看ると、大型街づくり用の大型補助金は,、先ず都市計画決定で再開発事業の実施区域を決めて申請するのだが、もうその辺からして最初の区域設定自体が、当初構想と比べると大きく後退していたのに、、、、


「もしも」と言うことが許されるなら、法的にはともかく、こういうこともあった。県の都市計画審議会〔会長 梶谷忠ニ)へ異例の津山市長本人が出席した。是非認可してほしいと、熱弁をふるい、特別誓約と嘆願との確約書を提出したことがあった。私は事業区域は確実に取得することが条件だと、「にが愚痴」をたたき嫌われたが、イマになって複雑な気持ちである。先輩委員にも指摘してもらったことがある。〈議事録は大事だと思う。後に行政古文書館構想へ。)


その後どんなことになったか、あらためては言いたくはない。 あちこちにあたりすぎる。ただ、あんな市政混乱だけは、金輪際みたくない。





つづく

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私の憲法記念日

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私の憲法記念日 ( 公布: S21年11月3日。 施行: S22年5月3日 )








5月3日は、第69回目の憲法記念日である。日本国憲法はS20年日本が戦争に負けた結果生まれた。その時私は親父が京城(けいじょう)=今のソウル、で警察官をしていたが、そこは東京に次ぐ大都市、だったらしい印象は残っている。 オンドル、電車、リス、お宮、交番、自転車、屋根の上の樽、など飛び飛びだが覚えていてなつかしい。自分と憲法、戦争,引き揚げの事実は一種のトラウマにもなっているが、今なお特別の因縁を感じている。



引き上げ当時、私は5歳前、妹は3歳、弟は母のお腹の中で妊娠4ヶ月余だったことになる。後に知ったことだが、何とわたしたち一家はそれでも敗戦を外地、京城〈今のソウル〉で迎えられたからまだよかった(引き揚げて帰れた)。もし中国や北朝鮮なんかだったら、との思いは今も強い。大変な混乱と異常事態の中、母は子供を一生懸命育てたのに、病弱で67才の若さでなくなってしまった。 (連休に弟妹を寄せて、先祖供養と感謝の会を打てあわせた。これも加齢だろう。)




これが私の憲法記念日である。




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人口変化〈特に人口減)からの見当








「見当」 と言う日本語は、面白くて実に興味深い。国立人口問題研究所は、いっペンんにああなる、こうなっると、結構情報をくれるからありがたい。その解析結果を発表されるとこんどは自分で更に敷衍してみて、想像をたくましゅうしてみる。〈ほとんど学者の理論解析に[なるほど]と思うが、極くたまには子を生む生まないは統計学だけではあるまいと、しかしそれでいて勝手な理屈をつけてみる。物事は其の先がおもしろい。理論的に考えると右脳のためにも良い。〉


とはいえコッチが考えそうなことは、ほとんど新聞が書いてくれており、確認しておく意味が大いにある。社会の変化の大半は人口統計をベースにして読み取れるような気がする。其の確信がもうすぐいわゆる「労働者が1千万人減る」という見当予測ではないだろうかと思うのだ。


経済学的には裕福になれば、ドンドン子供を生んでもよさそうだが、今はそうではない。藩政時代徳川時代は、大奥の制度もアリ,30人40人はざらだったというが、今は、生む生まないは個人の自由の領域にある。少子化と言う変な日本語がはやっているが適切ではない。


大体、余談だが 『少子高齢化』と言う言葉くらいいやらしい言葉はない。単に言葉だけの、週刊誌的珍しさだけのことである。「少子化」と「高齢化」は単に統計数字上のことで、本質は何の関係も無いだけでなく、(何の理論も無いばかりか)、一般には大変悪い誤解をさせているかもしれない。


良い悪いの二分論なら、少子化は子供が少なくなる現象だから、良いとは思わないが、他方、高齢化は良いことであるから、古来長寿化社会は理想社会ではないか。少子化と高齢化と言うように、この二つはキチンと全く本質が違うということを、声を大にしていいたい。(問題は社会的影響だ。)


『 ころばぬさきの杖 』

そこで、影響が一番ありそうなことは、「少子高齢者」と言われるもので、働き手の大幅減、ザット言えばもう影響は次第に出ているが、後もう5ー6年もすればザット、これが約、1千万人も減ってしまう。こうなると、もう企業は日本ではやれない。また海外加速になる。生産性が下がれば、国民所得もへってくる.。


そうならないために!!




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またか?

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またか?







(先ず、政党らしい政党になってほしい。現実に対応してこそ政治だ。)


選挙が近くなると、またまた狂ってくる。何処かの党が今も共産党と切れない。確かに地方の田舎の市では、保守自民党が強いと看ると自分は自民党ですと看板は上げるのだが、言うことなすことはあっちにふらり、こっちにふらりで、座標軸自体が動く,というのか、ドダイ、座標軸がどこにあるのかさえわからん。



もっといえばはじめから根無し草であって、座標軸そのものが自分自身に無いことを証明している。民主、民新、民進党と変わることは止むを得ないにせよ、遂に共産党と組んだりするのは近親相姦というか野合というか。もうドダイ政党要件自体に疑義がある。 ここまで来ると最早政党とは言いがたい。



昔、共産党は、今は平和憲法だのと言っているが、[「武力を捨てて、どうして国の独立が保てるのか。 ]と、当時はイマとは真反対のことを言っていた・・・。それならイマの北朝鮮や中国がいるかぎり,一緒にやることは解るが、、日本ではむしろ自民党と部分協定を組むべきが筋となるはずである。 国政の党が其の基本である安全保障について、其の根っこからまるで違うというのならこんな無茶はない。そうでしょうがな??



地方政治だって同じことがいえる。津山がおかしくなったのは、考えてみれば、その辺に原因の一端があるのではないか。今の市政はそのへんの影響を多く受けていると思う。共産党社会党くらい無茶代わりした党、おかしな党はないのではないか。それにしても社会党は自衛隊を認めたのに、共産党はかつては武力を捨てるような国は独立国とは言えないと現行憲法に反対したのだから、今は真反対を言っている。以前言ったことのほうが正論だった。。



日本人もしっかりしないと、共和党のトランプのような男が大統領にでもなろうものなら、そのときは目がさめようが、そのときはもう遅い。防衛力、抑止力、自由連合などというものの値打ちがわかる気がする。アメリカだけの勝手から言えば日本の一部のようなものがいるとこれに対しては、そんな勝手なことを言うのなら自分の国なら自分で守ってはどうか、とならざるを得ないだろう。これからは、グローバルな防衛システムを矢張りアメリカを中心に考えるしかない。


(私は、戦争引揚者である。南だから帰れた。北ではまず帰れてはいない。単に諸国民の公正と信義に信頼するだけでは、国民の安全と生存は確保できない事くらい誰でも知っているはずである。アメリカは戦争に勝ったものの日本とだけはけんかをしてはならないと思い、とにかく暴れない仕組みとしてあのアメリカ製の憲法を作った。しかしアメリカもたしかにせかいのけいさつも日本もそう思う、それでよい。そこを共通認識にしないといけないとおもう。)



山本五十六 の名言

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山本五十六





流石と思われる一流人は、易しい言葉でありながら やはりいろんな深いよい言葉を遺しておられるが、別けてもきちんとした軍人の言葉くらい心に迫るものはない それは、軍人とは国の安泰のため多くの人の生命名誉財産を守るため、一身を賭して働いた人だからこそ だと思う。

それはもう、単なる言葉以上の教えである。これがどんなとき発せられたのかどんな思いであったのかと、考えさせられる。 よくわかる。


1 、男の修行 山本五十六


苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう

腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっと こらえてゆくのが


男の修行である。







2 、人を 誉め、感謝し、信頼すること。 山本五十六



やってみせ、言って聞かせて、やらせてみせ、ほめてやらねば人は動かじ。


話し合い、耳を傾け、承認 し、任せてやらねば、人は育たず。


やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。




以上





心配なこと、ジッとしておれないこと、など。

(自分で思う自分というものについて)







自分は今どんな生き方、ないし生かされ方をしているのか。ふと思った。津山のことにせよ。個人のことにせよ、大きく日本のことにせよ、何の心配も係りも持たず、持とうともしない、全て、ひたすら個人中心の生き方をしているという人間など、いないかもしれない。そういう人間はそうざらにはいないだろう。


そこで、周囲をながめ考えてみた。自分と家庭以外、他に何も興味関心が無いという人はそんなにはいない。自分は今、特に気の赴くまま、好き勝手をさせてもらっているが{自分ではそう思っているが}実際には物事に関心がうせたわけではなくその材料対象が少し変わっただけという気がする。


実は、それどころではない。一部に看られる、自分は何となくぼんやりしていたい、という類の人間とはまったく正反対、とにかく何かに一生懸命になっていないとダメな人種、ジッとしておれない人種、そういう側に属していることが改めてわかった。学会発表の目標があるが新規事業があと少し気が抜けない。



視点を変える。


①、津山市議会は、私、自分の地方政治スタートの場、長い愛着がある。

ところが、近頃は二元代表といわれる執行機関も議決機関も政策調査やその論議よりも、次の選挙段取りばかり気にして、政策論議どころではないそうな。


そうなると、市長のおもう壷で、逆に弱い議員はうまく脅されすかされ、おだてられて、すっかりすり寄る。そうなるとこんどは、市長のコントロールする政策なき市政が一番穏やかでいい市政ということになってしまう。今、ザットそういう市政なんですよ。・・・こう聞くのはつらい。


②、アルネの最終結着は、理想、理論より現実的でべターな方法で議決した。

元々理想ではないから100点満点でないことはだれ氏もわかる。しかし、曲がりなりにも、仕上がりが悪いから お金をつけないとすれば、じゃあ後をどうしていくのですか、ということになると法的には備前のようにいつまでも、もめるだけになっただろう。


津山は共産党主導でこれに保守が乗るパターンなので「賢い反対者」がいない。 たして2で÷式の『合意』自体は、何んにも済んでいるのに、ただ反対。

そこから新しい発想も無く、時間だけかける。其の繰り返しだ。

〈当時反対派の声が大きく言いやすかったので、正論派は苦労させられた。論理の道筋をもうきちんと整理したいものだが、まだ本当の整理は出来てはいない。)


*かつて、あれだけ騒ぎ立てた駐車場問題はどうする積りなのか。?

(50年代市議会の論議はこうだった。)


『再開発ビルに駐車場がなくてどうなる、、、しかし高くつくぞ、、、、しかし、これからは駐車場だ、、、いや、まだ津山人は駐車場に金を払う習慣がないぞ、、、、』、、、 などなどという、大問題があった。


駐車場まちづくり必要論が優勢で一時は旧赤堀病院〈津山保育園)横の道路鶴山道路下に地下駐車場を作らせるといきまく市議会議員氏がいたし、当時は駐車場なき町は衰退しかないというのが正統派の考え方であった。


市議会には、そのための特別委員会が出来ていた。S50年代以降の市議会議事録が通常の2倍以上の大部のものになったのは、アルネ問題と駐車場問題の2つのケースしかない。それほど市議会は其のことを重大視したのに今は政策から落ちている。駐車場はどこかに行ってしまった。あれは何だったのだろうか?



更にも一つ、不思議なことに、新聞を伏せたのかほとんど知られないことがあります。選挙前私が市長・管理者としてゴミ処理場立地問題の責任者でしたから反対派共産党グループ3者らから、でたらめのいわゆる住民訴訟を提起されました。素人の人は、住民訴訟というと共産党流に、権力者が悪いことをするので弱い住民が寄って裁判所に訴えて其の是非を問う、、、みたいな情緒的で感情的な構図にさせられ、アレコレとチラシや子供を使った街宣車など小細工をしました。


こうなったら絶対後に引かない私の性格も逆読みされていたのですが、もうとことんやるしかありません。こっちには町内会住民団体などの合意と同意がある、民主主義的な公募立候補制により圏域全体から選んだ立地だった。訴えられる理由など、どう考えてもないし、こっちは事実をいいさえすればよかった。


ただ、ひとつ大変な心配は、イマからだからいえるが、この訴訟は事のよし悪しの形こそ取っているものの、従前からのゴミ処理場立地場所が桑山市政によって変わる可能性があったから、とにかく従前からのしがらみ利権を変えたくない関係者が存在するというのもその情としては無いといえば嘘になる。しかし新しい決断くらい勇気がいるものはない。自分の決断に2つはない。



なお、つやまゴミ処理場立地の決定過程等については、また大事なことがごまかされたのではないか。

僭越で未熟な論文ですが、公共政策研究論文概要集・第5号(岡大大学院社会文化科学研究科博士前期課程公共政策科学専攻)など、ぜひ参照いただければ幸いです


、立地論決定についての致命的欠点について


2、新ゴミ処理場の完成稼動にいたる一連のプロセスについて


3、反対論の中身のいろいろ


4、立地論なき、しがらみ政争


私の全面勝訴判決書は、桑山事務所、津山圏域資源循環施設組合などにあります。(現実の住民訴訟にはこんな問題、つまり訴訟を起こす方が悪巧みしているということがあるのですね。はじめから新聞など資料を整理したら地方政治の学校の教本になると思う。政治はそこのところがわからないと、面白くも何にも無いのではないか。単に誰かに踊らされているだけのことなら、かえって市政のためには有害です。誰とは言いませんがそういう有害者には、経済合理主義から言うと,早く市から1億円差上げて止めていただくほうが市の損害は多分100分の1で澄む理屈になると真剣に思っている。これも民主主義の炭化だと思うがさんどうしゃはいないか?

是非其のストーリーを考えて見てください。)


ヒント:①、まず不可能なしごとに、見込み違いで、組織と職員を多数長年投入

した事例。

参考ー早く完成していたら職員何人の減員が可能だったか?

その間何人を配置投入したか?

混乱と二重行政と結果的無駄と

「失われた30年」?のロスは、市政最大問題ではないか?



②、 勘違いさせられて、事実上も不可能を強行させようとした過ち。


③、












つづく



「 平気の平左 」

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「 平気の平左 」






地方政治を市議・県議・市長と都合35年ほどやって看て、つくづく思うことがある。感慨は、モノの長短ではなかった。今は自分が係ってきた諸々のこと、理想を持って一目散にやろうとしたこと,職員が一部議員の抵抗をおそれても、正論ならあえてやるべきだと豪腕をふるったことなどが案外多かったようにも思う。今それらのことを、じっくり振り返って考える余裕が出来た。

この意味で、モノを見るのは、少し離れてみるほうがよく解るのかもしれない。


生意気にも「後輩」を看ていろんなタイプ?の人がいるなあと、余り目立たないがまじめな見識はまああるなあと、また、イヤこれは情け無いなあなどと、いろいろなにんげんがいるなあと思うことが、正直あった。一番悪いのは筋目のない座標軸がない人間のことである。


客観的に看て、これほど重要な地方政治を堕落させ、馬鹿に看られてしまっている理由原因は、白黒善悪右左の区別がないこと、ついてないことであろうと思う。一般政治には多分難しい判断もあるが、大概のことなら良識で判断がつく。当り前のことを当り前にやるのが政治のはずだ。


違いがない政治はそれこそ独裁理論ですから、邪まな心、邪心さえなければ、政治そのものには最後の最後には妥協が必要だが、其のプロセスに偽り邪心があるようなことでは政治ではない。

わが街には政治に筋が無く、赤と白が一諸になってグレーになったり、赤になったりしているようなところが少し目立つのである。


昔もそんなことが無かったとまではいえないが,イマとの違いは、今はそれでいて「平気の平左だ」ということです。しかし考えてみたら、この差はとても大い。どこでどうなったのだろうか。政治学もいいがこういう大事な点、研究、が抜けていないか。 政治というものを、下手な商売取引にだけはしてはならないと思うのだ。





つづく

人口・就業・納税

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「人口」・「就業」・「納税」の関係について。


起・承・転・結






(社会問題の関連性と因果関係)
①、普通は、人口問題だとか、労働問題だとか、財政問題だとかという風に、個々がばらばらに論議される。しかし、それらはみな、個々も問題だけど、世の中のことは皆影響しあって動いているはずである。 世の中には、アメーバみたいな単細胞原因で動いているものは、そうあるものではない。

これは、直感による凡人の経験則だが、 この直感というやつは、科学ではなくて経験だからか、人様へ説明することが 意外に難しい。(100年後は直感も科学へ?とも考えなくはないが)



(何人で何人を支えている、という言い方と実態について)

②、さて、今から20数年前か、新聞に人口問題や少子高齢化社会について、こんな記事が出ていた。 日本の人口は、いま何人である、そのうち何人が就業して納税している、だから、今は6人で1人を養っているのだそうである。が、少子高齢化がもうすこし進むと、「3人で1人を養う」ようになる。だから福祉、社会保障費などの増大で、日本社会はいよいよ大変なことになるぞ、という ざっとそういう話であった。理は、実によく通っている?。しかし、この数字はおかしくないか?



(事実は、 感情抜きに言えば、今でも1人が3人を養っているのではないか)

③ そこで、自己流で調べてみた。県議時代のことだが、議会政務調査室の気の利いた職員の手助けを得て、ほぼ自己流主導で考えてみたのが、次のような大雑把な試算であった。

例。国 の人口=約12、500万人余(H7年国勢調査参考)。就労者=約6、400万人(51%)。推定納税免除者=約1,900万人(15%)だ。

(桑山・「美作夢の創造」(中) H14年刊 P150 ここに算式をかいている。 参照。 )



(人口減、労働力不足の時代とはいえ、15歳から労働者として計算? )
④.この数字は、、平たく言えば、1億2千万人の国民がいて、 6千万人が働いている。ここまではいい。しかし、働いてはいるが、日本は免税減税をアレコレよくやる国である。事実上無差別課税しているのではなくて、人数から診るとざっと2千万人が免税や非課税やなんかの恩恵を受けている。だから、今でもざっと一人が3人を養っている国である、ということです。しかも、これで終わりじゃなく、まだまだその意味で少子化高齢化は進む。だから、苦しい時代になる。、、、というのが本当なのだ。問題はここからである。さりとて、、、、



(何にせよ15歳で、一家や国家を支えられるほど易しくない。)

国の統計は、とにかく15歳以上は労働人口(労働法の適用がある)という統計数字を、いまもそのまま「支える側」として使い、新聞までが右に倣えしている。なんだか論拠がおかしい、と言いたい。統計の便宜で15歳以上を労働者としたこと自体はとやかく言わないが、事実は大違いである。日本は高学校歴社会で、高卒18歳、大卒22歳では、まだ消費者であって労働者でも納税者でもないというべきだろう。
( 30年以上新聞切抜きしているのに、いま其の事例になる切抜きが見つからないのが残念。 ただ、日本人の基本的な考え自体は変わらないにせよ、理論的にはH元年消費税採用により、その辺はすこしかわったことは事実だ)



温故知新?

以下この際、完成でほっとした『ゴミ処理場立地建設問題』を緊急取り上げる。

約3年遅れで完成したとはいえそれ自体は祝いごとである。『公募立候補制』による『市民参画の全面公開方式による成功は、わが国初』とのことである。*この事実について、ここに、あらためて、そのプロセスを振り返ってみたい。


(地方政治家の最高の栄誉としての、広域ごみ処理責任者、管理者に就任)

⑤今現在も、生涯の関心、テーマは①ごみ処理②就労③人口の3つである。
まあ、「純米酒」は別格だが、、、、、これらキーワードを考えはじめて長いが、、今後も一生涯考えることにしたい。、何事も切り口と気づきが大事ではないか。


マア、最初は、言ってみれば単に趣味くらいに思っていたのだが、①、について自分が行政責任者になるに及んで最早趣味どころか、30年来の巨大緊急 テーマに挑む気になった。土地バブルを経験した司法書士行政書士だし、30年苦労した地方政治家の自負心もあった。そしてゴミ処理場問題が『ゴミこそ命』になった。


(まず、混迷の元は何か?迷惑施設を、どのようにクリアーするか考えた。)

ついに、立地についての『公募立候補制』の全公開での進行手続きを考えた。、広域立候補地内9箇所の公募立候補地の適地選定委員会による全公開審議の結論は、採点評価の根拠理由まできちんと示した。土地工事費が経済的な、言わば全て「早く安く良いものであること」を評価点にして、法律的観点経済的観点、安全環境熟度理解など総合的にバランスのよい要素で基準を定めて、その選定結果を専門知識人らの判断に任せた。管理者会で決めた。


(ゴミ処理場用地は綾部に始まり5転、10年後、また元に逆戻りしていた。)

従来から、いわく因縁のある綾部地区の7つの部落有土地の取得は、①その所有者の一つ草加部町内会の反対が一貫していること、部落有は元々総有の性格があること、②処理場予定の隣接地に民有の産廃用地があり、天下一品?完全取得が困難な用地であること。③水道浄水場上流に予定され迷惑施設として一旦は断念されていた土地であったこと。他に行き場が無くなりまた戻っていた。つまり、通常なら考えられないことが、起こっていたのである。


こっちは、ただただ公平公正に、そのため何を為すべきか、新民主主義的な合理主義とでも言うべきか、ひたすら信念を貫き通す事を考えた。反対派は特定政党の反対請負人のようだったが、元々領家には、いったん合意された時点では反対はなかった。領家の訴訟者は元推進者だったし、公募立候補制で、後、町内の賛成議事録もある。


法的に全く反対理由も無い。、途中から反対派に転向した数人が、共産グループと綾部グループ3派で訴訟などを次々に起こした。責任者としての私は、結果「住民訴訟」と称する人に4年も訴訟のつきあいをさせられた。これは民主主義の予想しないことである。国民経済的にも問題がある。最初関係者全ての用地了解で、1期で、やりたいことが全部やれる気がしたし筋から言えば発注まではすんでいた。あわてたのは利権、反対者だったようだ。この意味で津山の場合は、いわゆる革新屋が一部利権屋と組む構図であることを忘れないでほしい。


あれだけ朝昼晩の街宣車、大量チラシ、議会でのあらぬ悪口雑言により、後に引けなくなったというのが本当のことである。与えられたゴミ組合の津山市分の一部事務組合の自らの議員選任を共産党革命で長く放棄したのである。管理者としての私は、約1年で町内会、地権者、周辺地区全て、の文書同意を得ていた。〈勿論当時の職員は大分脅されたようだが。)共産暴力議員一人に振り回されてたまるかと思った。

ともかく、かくして最難関の用地全てを購入し,完成スケジュールを確定公開し、設計費用も造成費用もほぼすべて議決。90%以上済んだ状態から、こんなにも延伸しているのである。完成を喜ぶとともに其の裏にこんなことがあったことを決して忘れてはならない。


さて、その結果こうなった。
.①当然ながら、4年かかった訴訟結果は、私の全面勝訴判決で終わった。

(多くの判例の中で,事案としては画期的な成功事例で、相手の主張は何一つ認められてはいない。 、、、是非一読ください。)


② 相手方反対3派は、いずれも高裁へ控訴できず、全面勝訴判決は確定した。(再開発アルネのときは最高裁判決までいった。それでもアルネ開店オープンはしていた。本来ならゴミ処理場はH25年度全てオープンしていただろう。実は少し余裕を看ていたくらいだったのだ。事実3年近く遅れてしまった。完成が遅れない努力を怠っていないかどうか。この面からも大変な問題である。


京大・廃棄物学会の会長、行政法に詳しい弁護士などなどの其の道の大家、最高スタッフに誤りなき判定をして頂いたのに、若い学者に再判定させたと聞き,これには驚いた。( 議会はこんなときこそ執行部の無礼と不見識と無能力を正すべきではなかったか。)


③も少し詳しく知りたい人は、参考に岡山大学大学院博士前期課程社会文化科学研究科公共政策科学専攻、 『研究論文概要集(第5号)』をお読みいただければ幸いです。〈市県図書館にもあります〉。なお、判決書(長文ですから、判決主文と終わりの結論だけは、かならずお読みください。 現物は、市役所担当課か桑山事務所へ御連絡ください。



ここまで仕事の段取りが出来た以上、 後は誰にでも出来るのだから任期がきたら、(その議決後は職員だけで立派にやれるのだから、)さっさっと、其の時点で引退すべきだった。



つづく

小都市「新見」の味。

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小都市「新見」の味。







私の場合、県内の都市を、歴史観光一つだけにしぼって、民間ガイドさんにお願いして現地を訪ねることは、案外少ないことである。初めてかもしれないが、今日一日歴史好きの人と新見で過ごしてみて、小都市の良さをしみじみ感じて、これは本当に良かった、と心から思った。


しかし、自分の町の「街づくり」として、その思いをパソコンに向かって書こうとすると、アレコレの矛盾がでて簡単にまとまらない。津山との対比や、わが町の、いろんな現実の条件や情熱や能力を、考えざるを得ないからだろう。ここではばらばらに思いつくままをメモるしかない。


①.新見は、今は津山と同じ『県北』だけれど、713年和銅6年、津山が備前の国から美作の国へ位置づけられるよりも前から、新見は元から「備中の国」に位置づけられていたこと。


②.しかし、新見藩,初代藩主{元禄10年就任)の関長治は、津山藩 森長継の5男(藩史事典は6男とする)だから、親戚であること。


③.荘園自体は、古代から乱立したが、新見の荘園は、中世、鎌倉室町時代

京都東寺の荘園、「新見の庄」を含む「東寺百合文書」がユネスコの世界記憶遺産に登録決定されたこと〈 貴重ないわゆるたまがき書状があること)。

参考*〈ここに、「百合」(ひゃくごう)とは、整理したときの箱の数だと謂うんだから驚いた。中世のこの類の資料はそう多くないなかにあって、貴重な文書だそうだということの特別な命名らしい。津山で言えば、松平日記、のようなものか。)


つづく

おめでとう。 津山広域ゴミ処理場完成、そして稼動近し!!





(はじめに)

新広域ゴミ処理場が遅ればせながら、やっと稼動出来ることになった。

このあたりで、そろそろ、すこしくらい本当の事を言っても、かまうまい。

処理場完成には、もう支障はないだろうから。
もう、ここまでくれば、このややこしい問題も「キチンと,反省することのほうが

津山の将来にとっては、もっと大事なことなのではないか」、と思う。



①、「ごみ処理場行政」は、おそらく津山市政の中で一番長く掛かった困難な仕事だった。市の文書によると、今から28年前の「S63年に綾部地区で施設建設について説明した」、と記録されている。いわゆる迷惑施設とみなされるこの立地選定と用地取得がいかに困難であったか、それを物語るものである。


〈本当は、その前S51年、私が市議になったときには既に大問題だった。当時の津山市総合計画を参照してほしい。( 資料は、市立図書館にあります。生末敏夫市長時代の,あの小桁のごみ焼却場は当時はかなり優秀な焼却施設でした。)


小桁の施設は、今日まで立派に稼動し、ゆうに40年の長い歴史を刻みました。それ以来、つぎにダイオキシン対策など総合型のゴミ処理場を造るのが目的となりました。以下それにかわる新しいゴミ処理場をつくろう、というのが県北の広域行政の大目的の一つだった

(其の経過は直近から遡って思い起こして考えてみると、解り易いと思う。)



②、私、管理者を被告とする最後の訴訟は、改選直前のH21年2月から起こされ、4年後のH26 年12月24日岡山地方裁判所で私の全面勝訴判決が下されました。これで、反対派の言い分には全く法的根拠がないことがハッキリしました。、地権者同意と町内会の立地賛成議事録とその後の用地取得まであり、正当な手続きを踏んだ至極当然のことでも、4年も引き伸ばされたのです。



③、なお、この訴訟を起した人(原告)は、反対3派イコール〈共産党グループ14人)、領家グループ〈甲本有道、甲本立巳、小山等)3人、 綾部グループ〈杉山義和、高山あき浩)2人、の いわゆる「反対3派による住民訴訟」でした。訴えられた被告は、発案推進の当時の広域ごみ処理センター管理者(津山市長)の私だったのですが、「某氏」は反対派と一緒につるんでいましたね。


④.全ての情報を公開し、広報 しました。、町内会を中心に、用地の公募・立候補制により、廃棄物学会会長や大学教授、行政関係者などなど最高知能と地元広域代表の直接関与の適地選定委員会、、などほぼ全ての情報を公開公報し有益にかかわっていただきました。その結果あれほどの反対運動にもかかわらず、結果の全面勝訴でした。本事業推進に当り、委員などでお世話になった各界の諸先生方にはこころからお礼申し上げます。



⑤、私の後任は、最後のこの訴訟だけでも4年も引き伸ばし、ごみ処理は広域事務なのに市議会をだまし?一部津山市の予算を二重投資したといわれているなど、非民主的な怖いことが行われたようですね。市の 先導者は誰だったのだろう??
ベテラン学者の判定を、後から若い学者に再判定させるなど、このような礼を失する所作は、全国の笑いものになりました。、多分他都市に例がないのではないか。しかもケチだけつけておいて、これを認めるなどは筋も姿勢も一貫しないばかりか、政策の信念そのものが、どだい存在しないようにみえる。あああ、つやまは大丈夫か、、、、この1っ点はこの町の将来にとって歴史的な大汚点となるだろう。


(メモ)
ただ、私にとってこの迷惑施設の立地にかかる困難な取り組み経験は、ついに終生の研究テーマとなって、勇気と元気をもらったことも事実だ。其の一部は岡大大学院で公共政策科学専攻のテーマとして、研究論文概要集第5号に簡略(15ページに)まとめて掲載されている。

もとより、論文としては、まことにつたないものですが引き続き命のある限り研究する覚悟です。某先生のお勧めもあるので、数年後には全国的な学会で発表出来るよう努力したいと思っています。



つづく