真実は人を幸福にするか?

桑田義雄が、うかんだり、もぐったりするブログ


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仏教では「無我」というものを説く。
「無我」は、主に「無執着」を示す語彙だと思われる。
「無執着」とは、「これは私のものではない」ということだ。

よく、我が子を虐待する親がいる。
それが、我が子を「私のもの」と考えているからだ。
ところが、仏教では、「私のもの」など、何ひとつ無い、と説く。
それが無執着、つまり「無我」だ。

自分の自由になるものなど、何ひとつない。
子供は親の所有物ではない。
社員は社長の所有物ではない。
自分の命さえ、自分の自由にはならない。

もう一つ。
字句通り、「実体的な自我は無い」と解釈する立場だ。
「実体的な自我」とは、「アートマン」のことではないと、俺は解釈している。
なぜならば、バラモンで説くアートマンとは、必ずしも「実体的な自我」では無いからだ。

「実体的な自我」とは、「これは私である」と思い込んでいる「私」のことである。
つまり、それは「私の性格」のことだ。

仏教学な話になってしまったが、そろそろ、一般的な方向に切り替える。


「私の性格」なんてものは無い、と釈迦は言っている。

「私って、けっこう、せっかちな性格なんだよね」
(せっかちな性格などない by釈迦)

「私って、おこりっぽい性格なんだよね」
(おこりっぽい性格などない by釈迦)

「私って、ネガティブな性格なんだよね」
(ネガティブな性格などない by釈迦)

キリが無いのでやめておく。
固定、固着された性格など存在しない。
に関わらず人は、自分を「○○な性格」と定義付ける。
よく、履歴書に長所、短所を書かせるが、ナンセンスだ。
そんなもの、アテにならない。

「○○な性格」というのは、自分でそう思い込んでいるだけ。
それを自分のアイデンティティー、存在理由にしているだけだ。
本当は、「○○な性格」の自分など存在しない。
アリと同じように、他の人と同じ顔をした自分が存在しているだけだ。
それが「空」(くう)ということだ。

「空」とは、なにか空(むな)しい感じがする。
他人も自分も同じと言われると、ちょっと、さみしい。
しかし、そうではない。
何でもない自分。
他の人と何も変わらない自分。
ただ、いつの間にか白髪が生えて、シワが増えて、老いて行く。

若い人から見れば、老人はみな「同じ」に見えるだろう。
老人にとっては、そう見られることは、堪え難い苦しみらしい。
だから「おじいちゃん」「おばあちゃん」と、他人から、ひとくくりの呼び方をされたくない。

しかし、事実は事実だ。
単なる老人だ。
老人になれば、みな同じだ。

なのにその事実に目をそむける。
「自分の性格」なるものを後生大事に抱えている。
「自分の性格」にこだわると、我が強くなる。
なんと老人の我の強いことよ。

無我とは、その我を無くすという意味である。


禅宗では、その、他と何も変わらざる自分を誇りにせよ、と説く。
そして、その誇りに目覚めた者を「無位の真人」(むいのしんじん)と言う。
これが禅の悟りだ。

名誉とか、財産とか、そんなもので区別されない、単なるおじいちゃん、おばあちゃんであることに喜びを感じる。
そうなったら「無位の真人」だ。


この「無位の真人」になりきれないから、人は「私って、○○な人間なんだよね」とラベリングしようとする。
日本人とか、アメリカ人というのはあるが、「私って、さっぱりした人間なんだよね」のような存在など無い。
そんなものは、そう思い込んでいるだけだ。

強面(コワモテ)で通している男は、「俺って度胸のある男だ」と態度で主張しているが、本物のヤクザが目の前にいれば、たちまち小さくなってしまう。
性格なんて、そんなもの。
性格ほど、アテにならないものはない。
それを釈迦は「無我」と言ったわけだ。

じゃあ、どうすりゃ「無位の真人」になれるのか?
「無我」になれるのか?
仏教の各宗派は、それぞれ、その手段として、座禅や念仏というものをすすめる。
それはそれで構わない。
手がかりにはなるだろう。
ただ、座禅や念仏などの手法の源流、そして「無我」という考え方は、仏教以前にインドに存在した、ウパニシャッド哲学に説かれているということは付言しておきたい。
(空の原義はブラフマンと同じく「膨らむ」。つまり宇宙だ。小さな自己を去って宇宙と一つになる。その方法を「ヨーガ」と呼ぶ)

俺の考え方としては、とにかく、固定した性格なんて無いんだという意識を持つこと。
そういう意識のもとで、日々の生活をすること。

自分は親にこういう育てられ方をしたから、こういう性格になったと、老人になってまで口にする人がいる。
老人になり、はるか前に両親を亡くしていながら、未だに両親を背負っている。

トラウマなど、馬鹿らしい。
性格など、思い込みなのだ。
反論したいところだろうが、一度でも、試みて欲しい。


人は、しばしば、自分の思い込んでいる「性格」に依存している。
それを「行動規範」にしていることが多い。
たとえば、自分を「大胆不敵な性格」と仮定することで、大胆不敵な行動をしようとしている。
そこでもし、無我になってしまったら、どうやって、そのあと、行動すれば良いのだろうか?

それは、水のように、雲のように、その場、その場に応じて、適切に変化すれば良いのだ。
自分の性格を決め付けるのではなく、適切な行動をする。適切な言動をするのだ。

「君子は豹変す」という言葉がある。
君子、つまり、人格者というものは、固定した態度を持たない。
必要とあらば、変わり身するという意味だ。
ある時はトラのように、ある時はウサギのようになれば良い。
いかにも頼りなく感じるだろうが、そのうち、その流れる感じが心地良くなるはずだ。
俺もまだ、修行の入り口なので何とも言えないが、たぶん、そうなのだ。

訂正する。「修行の入り口」などと、つまらぬ謙遜をしてしまった。
すでに悟りを開いている俺は、修行の入り口などではない。
もう、何度も、何度も、悟り開いちゃったもんね。
パチンコ屋のオープンじゃねーかってくらいね。

すぐに謙遜するのは俺の実に悪い癖である。
しょうがない。
そういう性格だから・・・
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