真実は人を幸福にするか?

桑田義雄が、うかんだり、もぐったりするブログ


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久しぶりにこのブログを更新します。

今回は、憎しみの感情をテーマにします。
憎しみは悪い事でしょうか?
私はそうは思いません。
許しがたいヒドイ事をされたら、憎むのが当然です。
自然の心理です。
この心理を否定し、抑圧してしまう事は、自分の精神に悪影響をもたらすものと考えます。

キリスト教では、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」と言いますが、現在のクリスチャンで、これを文字通りに解釈する人はいないでしょう。

原始仏教では、憎しみは煩悩ですから、これから解放されるべく修行します。
ある意味、抑圧的な宗教とも言えます。
これについては、原始仏教なりの特殊な修行方法があり、上手にやれば実現できるのかも知れません。
しかし、現在の我々に、このような修行方法を教えてくれる人はいません。

私は凡人です。
極めて凡人です。
仏教的修行は試みますが、なかなか上手には行きません。

ですから、許し難い人物に関しては憎みます。
それ以外の方法が見つからないからです。

戦争で銃弾が女房子供に当たって死んでしまった。
この時、その銃弾を放った者を憎まない夫はいないでしょう。
また、人として、憎むべきでしょう。

私は毎日、以下のような祈りをします。

「善人は幸福であれ。悪人は不幸であれ」

これを自宅の祭壇に向かって毎日、祈るのです。
この悪人の中に、自分も含まれるかも知れません。
ですが、それで構いません。
私が悪を成したならば、不幸になるべきなのです。

悪人であっても幸福になるような祈りは、間違いであろうと思います。
悪人はきちんと不幸になってこそ、天の正常な法則であろうと思うのです。


では、憎むべき人物が現れた時にどう対処するか?
これはおよそ、私刑と公的刑罰の二つに分けられます。
私刑は個人的復讐です。
これについては、法律では禁止になっています。
下手をすれば、自分が捕まります。

公的刑罰には民事罰と刑事罰があります。
いずれも裁判所によって、刑の内容が決定されます。
残念ながら、日本の公的刑罰は、被害者の思いを、あまり、くんでおりません。
被害者が歯がゆい思いをする事が多いのです。
日本の司法制度は、まだまだ未熟です。
長く長く裁判を継続して行けば、被害者は精神的にも時間的にも、場合によっては金銭的にも失われて行きます。
それでいて、満足する裁判結果が出るとは限らないのです。


ならばどのように対処すれば良いのでしょうか?
以下に言う私の結論には、不服な人も多いと思います。
ですが、現状で私が考えられる結論は、これしかありません。

中国の老子という古典に「天網(てんもう)恢恢(かいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず」という言葉があります。
これは、天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば、天罰をこうむるという意味です。

また、観音経というお経があります。
その中に、「呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人」(しゅそしょどくやく しょよくがいしんじゃ ねんぴかんのんりき げんちゃくおほんにん)という文句があります。
これは、「呪詛(じゅそ)諸の毒薬、身を害せんと欲する所の者、彼の観音の力を念ずれば、還って本人に著かん」という意味です。
もっと平たい言い回しをしますと、呪いや毒薬をもって、迫害して来た者がある場合、あの観音様の力を念ずるならば、その害はかえって本人につく。という意味になります。
私は、日頃、何か憎しみの心にかられた場合、「念彼観音力 還著於本人」(ねんぴかんのんりき げんちゃくおほんにん)という部分だけを、繰り返し唱えます。
悪い事をした者は、当人に報いがありますように、という祈りです。

実際は、「憎まれっ子世にはばかる」とも言いますし、悪い人物こそ、社会的に出世していたりします。
ですが、私は信じます。
悪人が最後、笑って死ねる事など、決して無いと。


公的刑罰には限界があります。
私刑は自分へのリスクが高過ぎます。

また、いつまでも憎悪にとらわれてしまいますと、自分の人生の足かせになるという事も起るのです。
ですから、私はいつも、「天網(てんもう)恢恢(かいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず」「念彼観音力 還著於本人」と念じ、悪人には天罰が下るように祈ります。
現状では、それ以外に方法などありません。

ですが、上手な方法を考えれば、私刑も可能です。
たとえば、自分をいじめ抜いた者を復讐する際、彼が就職試験を受けるたびに、彼がどんなに卑劣ないじめを行っていたかを、手紙に書いて就職先に送る、などです。
これで彼は永遠に就職が不可能になるでしょう。
また、奴が結婚しそうになったら、結婚相手に手紙を送る、等です。
手紙の力を使えば、社会的抹殺は簡単です。
ただし、やり過ぎれば報いは自分にも来ます。


仏教は善悪を二分して考えません。
「善の中に悪があり、悪の中に善がある」という考え方をします。
一方、古代ペルシャのゾロアスター教では、明確な善悪二元論を説きます。
私は以前は、この善悪二元論を、極端だと思い、共感できませんでした。
しかし、だんだんと、この善悪二元論が理解できるようになったのです。
それは、世の中には、明確に、悪人が存在するという事です。
一方的な被害者が存在するという事です。

例えば、秋葉原の無差別殺人事件を思い出して欲しいです。
犯人は車で、秋葉原の歩行者天国に突っ込み、ナイフを持って、通行人を無差別に刺して歩きました。
これは同情の余地の無い、一方的な悪です。
そして、被害者はそれに対すれば善です。
被害者には、何の過失も存在しないのです。

世の中には、何の過失もないのに、被害に遭うという事が横行しています。
いじめなどが、その代表です。
なんの過失もないのに、いじめられるのです。
ですが、いじめられたほうは「私に何か問題があるのかも知れない」と思い込んでしまうのです。
そして、その人は病んで行きます。
問題など存在しないのです。
いじめを受けている自分に、微塵も非はないのです。
連中は、ただ気に入らなくて、また、ただ面白くていじめているだけなのです。
なのに、いじめられている側は、自分の中に原因を探す。
無いはずの原因を探す。
これで病んで行ってしまうのです。

明確な善悪二元論は、世の中に存在します。
この事は、世間の人々はハッキリと理解すべきでしょう。

そして、悪人は裁かれるべきです。
法が満足に裁けないならば、天によって裁かれるべきなのです。

悪人を許す必要など無いのです。
それほどまでにひどい仕打ちをされたのであれば、一生、憎めば良いのです。
ですが、自分には自分の人生があります。
いつまでも、そんな悪人に、付き合ってなどやれません。
ですから、司法に任せ、それで不十分ならば天に任す。
これしかなかろうと思うのです。


そして肝心な事は、この世から悪を廃する事です。
多くの人は、自分の事ばかり考えて生きています。
ですが、それでは世の中は良くなりません。
善人が報われ、悪人がキチンと裁かれるような、そんな社会になるように、自分の出来る範囲で良いので、努力して行くべきではなかろうかと思うのです。


現在の日本では、なぜか被害者が多く苦しみ、絶望し、死にたいほどの苦悩にさいなまれる。
一方、加害者はのうのうと生きて、それなりに楽しい一生を送ってしまう。
こんな事は絶対に許してはなりません。

何度もいいます。
悪人こそ苦しむべきであります。
善人は救われるべきなのです。

私も、本当に微力ながら、そういう社会になるように活動して行きたいと思います。

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