真実は人を幸福にするか?

桑田義雄が、うかんだり、もぐったりするブログ


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ビールのCMが「年増のブリッコ」の印象で、俺の中では、あまりイメージが高くなかった壇れいさんですが、ミッチーと交際するまで、男性との交際経験が無かったとの話を聞き、彼女が女神に見えました。

最近の女子中高生は初体験の早さを競っている観がありますが、壇れいさんのように、本当に好きな人が現れるまで操(みさお)を守るという女性は、本当に女神に見えます。
男の大半は、俺の意見に同感だろうと思います。
変態だと思われるから、男は言わないだけです。

ちなみに、壇れいさん出演の「武士の一分」という映画は、操について描いた映画です。実に素晴らしいです。


さて、最近では、若い女性も神社仏閣に詣出たりする人が増えましたが、総体的には、仏教について、関心のある若者のほうが少ないだろうと思います。
俺も、あまり突っ込んだ、ややこしい話はここでするつもりはありませんが、それでも、信じる信じないは別にして、「こういう考え方もあるんだな」という認識だけは持っていて欲しい一点があります。
その一点について、音声収録しました。
ぜひ、聴いていただきたいと思います。

もちろん、無料です。
こんな話、金、取ったら終わりですよ。

(※時々、声が上ずりますが、ジャパネットタカタの社長ではありません)

音声ダウンロード↓
http://xfs.jp/Cooeb


以下、音声の中で出て来る単語です。
耳で聴くだけだと、わかりにくいでしょうから、列記します。

教えが断絶 瀬戸内寂聴 団体の職員 教義に波及 教義構築 宗門という呪縛 空海 最澄 道元 宗祖 宣教する機会 天台宗 比叡山 密教 四大不順(四大不調) 地水火風 木火土金水 業(カルマ) 輪廻転生 業病 善を積む 善い行い 過去世 法門を伝える 弘教 教団寄りの話 選別の仕方 共感できる部分だけを共有 善業 仏法 鬼(き) 邪念 五寸釘 死霊 ソーシャル 左派 一般論 受動喫煙 ガードをかける 信仰にすがる 神仏の加護 人生は夢幻 般若心経 陀羅尼 原語 霊界 観音経(観世音菩薩普門品) 念彼観音力 「念彼観音力。還著於本人。呪詛退散。」 言霊 日蓮 災いは口より出でて身を破る 人間不信 つむぎ合わせる 天変地異 先住民認定 道議会 助成金 死滅 和人 札幌オリンピック 悪業 アイヌ織 佐藤愛子「私の遺言」 眉唾 一神教 飛び地 樺太 北方四島 ソ連(ロシア) 土地神 「ブッダ最後の旅」 (岩波文庫) 廃れている テーラーワーダ仏教(小乗仏教、上座仏教) 菅原道真「心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や護らん」 灯篭流し 水の精霊 教理 北海道神宮 蒙古 金(満州族) 天照大神 大国主命 過去帳 御厨子 安置 十二支 仏師 神宮大麻 モニュメント 自由の女神 イシス神 自由主義 カルバン主義(プロテスタント) 古刹(こさつ) 名刹 浅草寺 朝座 ギアが噛み合わない 子孫が暴走 マホメット キリスト教原理主義 ジョージ・ブッシュ 源流 修正派 気質 無常観 「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」(立正安国論) 


浅草寺朝座    
http://youtu.be/C5L6-uNL0cg
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真実は人を幸福にするか?
真実は人を幸福にするか?


原始仏典を素直に読む限り、釈迦の教法は、輪廻転生を前提としている。

輪廻転生とは、何度も、何度も、人は生まれ変わりを繰り返すというものだ。
「人は」と書いたが、獣や植物になって生まれ変わる事もある。
他の惑星に生まれ変わることもある。

どのような姿で生まれ変わるのか。
また、どのような生涯を送るのか、という事は、それまでの行為の結果による。

肉体は、遺伝子という情報によって形成される。
心にも、遺伝子のようなものがある。
それを「業」(カルマ)と呼ぶ。

良い行いをすれば、良い業(善業)となって記録される。
悪い行いをすれば、悪い業(悪業)となって記録される。

「行い」と言ったが、この「行い」の中には、言動や意思も含まれる。
「このやろう、あいつ、ぶっ殺してやる!」と心の中で思うだけでも、悪業を積むと、仏教では言われている。

なぜならば、心にもエネルギーがあるからだ。
「このやろう、あいつ、ぶっ殺してやる!」と思うと、それが悪しきエネルギーとなり、相手のもとまで飛んで行って、働きかける。
すると、相手は体調が悪くなったり、精神が不安定になる。

格差社会の問題点は、憎悪を生む、という点にある。
貧困層は富裕層に憎悪の感情を持つ。
富裕層は貧困層に侮蔑の感情を持つ。
この憎悪と侮蔑の感情が世の中に遍満し、人々は、ただこの社会でふつうに暮らしているだけで、体調が悪くなったり、精神が不安定になる。

だから、心で思う、という事は、とても重大な事である。
誰かの事を思えば、その念が相手のもとに飛んで行くのだから。

逆に、その人の幸福を願えば、その念も相手に届く。
その念が相手を邪悪なものから守ったり、精神を落ち着かせる。
これは善業として、自分自身の福徳の原因ともなる。


世の中に、新しい宗教が生まれた時、その宗教は「祓い」の意味を持つ。

聖徳太子の時代、仏教が日本に持ち込まれた時は、国家は混乱期にあった。
最澄が日本天台宗、空海が日本真言宗を開いた時も、国家は混乱していた。
それ以後、百年程は国は安定するが、またもや混乱期に入り、その時、安倍晴明で有名な陰陽道(日本版の道教)が発生した。
鎌倉時代は、朝廷から幕府に支配権が移った時代であり、この不安定な時期に誕生したのが、鎌倉仏教である。
戦国時代は、浄土真宗が興隆し、キリスト教が到来した。
幕末から明治期は、天理教などの教派神道が勃興した。
戦後は創価学会や立正佼成会が隆盛を極めた。

これら宗教はみな、一つの大きな役目を持っていた。
それは「祓い」である。

政権は必ず腐敗する。
すると、格差が生じ、憎悪が満ち溢れる。
この憎悪の念が悪さをする。
これを宗教的行為によって祓う。

キリスト教でさえ、「エクソシスト」という映画を観るとわかるように、悪魔祓いの役割を持っている。
新約聖書は、まさに、イエス・キリストによる悪魔祓いの様子が描かれている。


今後に関しては、「団体」としての宗教から、「個人」としての宗教に期待したい。
江原啓之によって広まったスピリチュアルブームも、その流れの一環だろうと思う。

ただ、いくら素晴らしい宗教が広まったからと言って、やはり社会のシステム自体に欠陥があれば、焼け石に水である。
最澄や空海の高度な仏教も、百年しか国家平定のために機能しなかったのだ。


仏教では「成住壊空」を説く。
これは天文学も何も無かった、古代インド人の宇宙観である。

成:成立(宇宙が生まれる)
住:存続(宇宙が存続する)
壊:破壊(宇宙が破壊される)
空:空漠(何も無い状態が継続する)

そして「空」から再び「成」につながり、無限に繰り返す。
この銀河系も、いつか失われ、空漠と化すのだ。

これは国家であれ、社会であれ、同様である。
必ず、行き詰まりがある。

この行き詰まりは、百年置き、千年置き、万年置きに生じる。

宗教にも、百年置きに生まれる小さな宗教と、千年置きに生じる大きな宗教と、万年置きに生じる宗教がある。
百年置きに生まれるのは宗派だろう。
千年置きに生じるのは仏教、キリスト教、イスラム教、道教、儒教。
万年置きに生じるのは、あらゆる宗教の基となっている、名も残っていないような神さまだろう。
これは、昔の「グノーシス主義」の宗教学者が研究して来たものだが、その重要文献はキリスト教国教下におけるローマの聖職者によって燃やされてしまった。

俺達は、色々な名前をつけて神さまに祈るが、結局、同じ存在を別々の名前で呼んでいるのかも知れないのだ。
一万年も前に生まれた神さまを。


社会においては、万年は民族の寿命。
千年は国家の寿命。
百年は政権の寿命だ。

倭国の誕生は紀元後2~3世紀くらいだろう。
そこから千年後は十二~十三世紀。
この時代に、朝廷は力を完全に失い、鎌倉幕府が誕生している。
これはまさに、天皇が統治権を失った歴史的な時期だ。
同時期に勃興したのが鎌倉仏教である。

そして、今日、日本という国は、再び「壊」の時代に入っている。
人間で言えば老年期だ。
経済的に力を失い、四方の国に敵対されている。
少子高齢化で、所得格差が拡大。
モラル崩壊。
犯罪の増加。
そして、天災。

「近い正嘉元年(1257)のころから今年文応元年(1260)にいたる四箇年の間に、大地震や大風などの天変地異が続き、飢饉が起こり、疫病が流行して、災難が天下に満ち、広く地上にはびこっています。そのために牛や馬はいたるところで死んでおり、骸骨は路上に散乱して目もあてられず、すでに大半の人びとが死に絶えて、この悲惨な状態を悲しまない者は一人もおりません。」

これは日蓮の「立正安国論」の冒頭文だが、この時代にまさに、日本は蒙古(モンゴル)の襲来を受けている。

蒙古来襲の危機は北条時宗の寿命を削るほどの執念で、何とか乗り越える事が出来たが、結局、北条は国内を治めきれず、新田、足利、楠木によって滅ぼされた。
室町時代になり、ようやく国家は平定した。
この時代、各宗派より中興の祖と言われる高徳な僧が続出した。
新しい千年は、ここから始まった。

今、日本は国家存亡の危機にあり、知識の無い者も、その危機を肌で感じている。
鳥や獣は、天災の前に、危機を察知し、群れで移動する。
そういうアンテナを脳の中枢に持っている。
人も同じであり、誰もが脳の中枢で危機を感じている。
だから、得体の知れぬ不安感があるのだ。
知識のある人ならば、なおさらである。

平安後期より鎌倉時代にかけて、庶民が必死に信仰したのは念仏や法華であった。
難しい教義を排除し、仏と自分とを一本の線で結ぶという作業の中で、必死に自己を支え続けた。

この方程式は現在にも通ずる。
今、必要なのは、仏と自分とを一本の線で結ぶという作業である。
そのために、どこぞの宗教団体に参加したり、檀家になり莫大な布施を吐き出す必要はない。
心に神仏を思い描いて、日々、合掌礼拝を続ける事だ。

今の国家体制は間違いなく崩壊する。
おそらく、国と国とが競争する国際的な市場競争経済は、あと一~二世紀の間に終了するだろう。

TPPという関税自由化で今、もめている。
どうも、アメリカによる日本対策のように思えるが、関税自由化自体は、必然的な方向だろう。
ただし、自由競争のための関税自由化ではなく、逆に、自由競争から脱却するための関税自由化である。
日本の県と県との間に関税など存在しない。
(実は、北海道と他県との間には規制があるのだが)

日本国内に関税が無いのは、それぞれの県が、それぞれ持ち味を生かした産業を行えば良いからだ。
県と県が、ケンカをする必要は無いのだ。

同様に、国と国との間も、ケンカをする必要など無い。
昔は、「信濃の国」「甲斐の国」「尾張の国」のように小国家に分裂してケンカし合ったが、やがて国家統一した。
世界もそのうち、一つの国家になるだろう。
関税自由化は、そのための第一歩になる。
ただ、TPPへの参加自体は、「急いては事を仕損ずる」という言葉を念頭に置いて判断すべきだ。


今日も、時間が無いので、短文になってしまい、申し訳ない。

最後に、意思による業について、追記したい。
悪い事を考えれば悪い業を積む。

だが、ネガティブな心境下においては、必ず、悪い事を考えるものだ。
自然に、誰かを恨み、憎むものだ。

大切な人に嫌な態度をとられる。
自分の気持ちを考えてくれない。
すると、大切な人にも関わらず、その人の事を憎む。
憎めば、そのマイナスの波動が、相手に届き、相手を苦しめる。
またそれが己の悪しきカルマとなる。

相手を思えば思うほど、相手を傷つけ、己の不幸の原因を作る。
だから、「考えない」。

「考えない練習」(小池龍之介)
http://www.amazon.co.jp/dp/4093881065

考えなければ、業を積まない。
これを仏教では「無記」という。

札幌市のある牧師は、「原因探しをするな」と言っていた。
原因探しをすると、必ず、相手の嫌な面に目が向いてしまうからだそうだ。
だから、原因探しをしないで、ただひたすらに、神に一切をゆだねなさい、との事。
これは、大乗仏教(密教)の理念と同じである。

ネガティブな時は、「無記」を心がけ、力が沸いて来たら、今度は相手の幸せを祈ってみる。
すると、必ず、相手の心が変わる。
暖かい心のつながりが生まれ、いつか、それは形を結ぶ。

簡単に言うが、実に難しいと思う。
耐え忍び、継続することほど、難しいことはない。
俺自身、毎日、折れそうなのだ。

だから、今日も北海道神宮に行って来た。
信仰をたもつのには、時折、神社仏閣に行くのが良いと思う。
パワースポットというだけあって、見えざる力が吹きだまっているのだ。
そこにいるだけで、祓われるものがある。


※画像は、北海道神宮境内のエゾリス。
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$真実は人を幸福にするか?


「ポジティブ病の国、アメリカ」(バーバラ・エーレンライク著)という本があります。
http://www.amazon.co.jp/dp/4309245153
(アマゾンのブックレビューだけでも読んでください)

アメリカはポジティブシンキングが滅ぼしたのだ、という主張の本です。
アメリカはニューソートという新しいキリスト教を生み出しました。
願っている事は、必ず叶う、という思想です。
反面、もし、心の中で「叶わないかも知れない」などと微塵も思っていたら、そっちのほうが実現すると。
これは、願いが叶わない時の、宗教家側の言い訳ですよね。
「あなた心の中でマイナス思考してたでしょ?」と。

バーバラは、ポジティブシンキングに走る人の特徴として、現実無視がある。
例えば、アメリカが経済的に疲弊しているという現実を無視している間に、サブプライム問題が起こった。
これでアメリカ人の目が覚めるかと思ったら、それでも、彼らは奇跡を信じているそうです。
それはもはや、「ポジティブ病」という病気だと、彼女は語っているのです。

俺は、現実離れしたポジティブシンキングなんて存在しないと思ってます。
そういう思考は心に負担を伴いますから、かえって疲れて、マイナス思考になる。

かと言って、最初からマイナス思考をしろ、などと言ってるわけじゃないです。
ポジティブであれ、ネガティブであれ、思考するな、と主張しているわけです。
将来の事なんて、考えてもわからないし、考えれば考えるほど、結果的には悲観論になるのです。

俺は、しばしばポジティブ主義者に攻撃されます。
ポジティブ主義者が俺を攻撃する理由は、俺の言動は現実的だから、ポジティブ思考にかげりが射してしまう。
だから、「現実を見せないでくれ」という悲鳴なのだと思います。
「どうか、鏡を俺の前に置かないでくれ。俺の醜い姿を見たくないのだ。俺は自分を美男子だと思っているのだから。」という事なのでしょう。
あるいは、単なる上から目線かも知れません。

釈迦はポジティブになれ、なんて言いませんでした。
ただ、無常を悟れ、無我を悟れ、としか言いませんでした。
無常、無我という現実を受け容れた上で、今、自分のなすべき行為を、しっかりと行って行けと主張したのです。

だから俺は、とにかく思考というものを放棄し、自分に出来る努力を積み重ねて行く。
結果は天にゆだねる、という生き方を語って来たわけです。

ふつうの思考だと思うのですが、それでも、ポジティブ病の人にとっては、自我崩壊の危機を感じる発言なのでしょう。
しかし、最近は、ポジティブ系の本も、あまり書店で見かけなくなりました。
多くの人は、気づいていると思います。
特に、震災後、無常という現実に、ほとんどの人は気づいたと思うのです。

それでも、相変わらず、努力すれば、すべて何とかなると考えている人がいる。
貧困者は、努力が足りないだけだと考える人がいる。

確かに、一理あります。
俺だって、努力が足りないですから。

でも、障害者もおりますし、容姿が極めて美形に遠い人もおります。
そういう人は、普通の人と同じ努力をしても、同じ結果にはなりません。

女性が一度、結婚退職したら復職しづらかったり、新卒と既卒では待遇が異なったり、同一労働不同一賃金だったり、世代によりもらえる年金の額が違ったり、孤児だったり、そうした社会的不均衡が存在する事に、なぜ、思いが行かないのでしょうか?
自分が事故に遭い、障害者になるまで気づかないのでしょうか?

成功した人も、自分の努力だけで成功したわけではありません。
さまざまな人の援助、環境の手伝いがあって成功したのです。
もし、北朝鮮に生まれていたら、現在のような成功が出来たか、考えるべきです。
人は多くの人や環境の支えによって生きて行くことが出来る。
これを釈迦は「縁起」と言いました。

社会主義的な思想を叩く事により、努力のモティベーションUPをしようとしているのでしょうが、それにより、弱者への想像力を欠落させてしまえば、人として未熟になると思います。

資本主義が好きなら好きで構いませんが、自己肯定のために社会主義を否定してしまえば、社会主義という思想の中にある、大切なものまで、否定する事になるでしょう。
対立する思想の中にも、宝があるのです。
だから、いかなる思想も全否定してはならないと思うのです。

俺はイスラム教など邪教だと思いますが、それでも全否定しません。
やり方によっては、イスラム教の良い部分を生かす事が出来ると考えるからです。
全否定も全肯定もしない。
常に「中」を取るのが仏教思想です。

ちなみに、俺だって、ポジティブシンキングするのです。
ただし、自分で無理にポジティブになろうと思考をこらすのではなく、祈るのです。
祈ることで、自然にポジティブになることがあるのです。
要は、無理にポジティブになろうと頭を疲れさせるのではなく、仏さまがポジティブな心境にさせてくれるのを待つのです。
煩悩即菩提ってやつです。

画像の阿修羅像は、煩悩即菩提を象徴する仏さまの一人です。
(左面:煩悩に支配されている表情。右面:悔い改めている表情。正面:悟りの表情。)


◇◇◇◇

タエコさん。ぜひ、ご連絡ください。仲間と思っている人がいなくなるのはさみしいです。
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先日、

これを読んだ人は、もう、釈迦の教えはマスターした。
教えは実に単純なのだ。
だが、実践が難しい。
だから、大乗仏教や密教が、その後、生み出されるのだが、その話は、今はしない。

と書いた。
じゃあ、大乗仏教や密教って何?と思っている人が0.5人くらいはいるかも知れないので、一往、簡単に書いておきます。


釈迦の教えは、欲望と感情のコントロールです。
欲望や感情が苦しみや災いの根源だからです。

性欲が強すぎる人は、性犯罪に走る。
怒りの感情が高まると、暴力や殺人に向かう。

だから、これらをコントロールせよ。
というのが釈迦の教えのすべて、と言って良いです。

とは言うものの、釈迦の説法は何度も繰り返し読んだほうが良いです。
単純なことでも、繰り返さないと、身につかないからです。
社訓と一緒です。


ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) [文庫]
http://www.amazon.co.jp/dp/4003330110


ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫) [文庫]
http://www.amazon.co.jp/dp/4003330218


ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫) [文庫]
http://www.amazon.co.jp/dp/4003332512


お金に余裕のある人は、これを機に、買うだけ、買っておいてください。
いつか、役に立ちますから。


とにかく、釈迦の教えは、欲望と感情のコントロール。
そのために、戒律を守って生活したり、瞑想したり、ものの観方を工夫したり、という努力をします。

でも、出来ないのですよ。
世を捨てて出家すりゃ可能かもよ。
しかし、我々は在家ですからね。
欲望を刺激するものが溢れている中に生きてるんですから。

じゃあ、どうすりゃいいのか?

大乗仏教や密教っていうのは、もはや、欲望や感情のコントロールは、理性では不可能っていう前提で生まれています。

大乗仏教と密教の違いは、実は、ありません。
違いはぜんぜん、無いんですよ。
大乗仏教は、初期の初期の密教と思えば、間違いないです。
これ、簡単には説明しづらいのですけど、実はそうなんですよ。
仏教入門書とかじゃ、分けて説明するんですけど、一緒なですよ。
空海も、一緒だと言ってます。
俺も、その立場です。

法華経にも、ダラニ品というのがあって、ひたすら、ダラニを唱えるわけだけど、これが密教なんですよ。

般若心経の「ギャーテイ・ギャーテイ」というのもダラニです。

ダラニってのは呪文です。
呪文の短いのは、マントラと呼びます。

南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経は漢字ですけど、結局は呪文です。
呪文を唱えるのは密教なんですよ。

大乗仏教以前の仏教、いわゆる小乗仏教は、呪文を唱えないのです。
せいぜい三帰依文くらいです。


で、大乗や密教では、どうやって感情や欲望をセーブするかというと、もちろん、戒律や瞑想もやるんですけど、核となるのは祈りなんです。
祈りによって、神仏の力で、感情や欲望をセーブしてもらうという他力本願的な手法です。
その時に、呪文を唱えるのです。

俺も、大乗仏教派っちゅうか、密教派っちゅうか、まあ、宗派ならば天台宗に近い立場ですけど、やっぱり、祈るわけですわ。

感情や欲望がセーブし切れない状態になったら、祈る。

効果は、ある程度は、あると思います。
完全にコントロールは出来ません。
ですが、ある程度、可能です。

やってみてくれ、としか、言いようがありません。

このブログで具体論に突っ込みたくないんですけど、画竜点睛になりたくないので一往、書きます。
観音経を読んで「ネンピーカンノンリキ」と繰り返し唱えるパターンが、俺は好きです。

なんか知らんけど、今、ちょっと検索したら、こんな観音経の音声が聴けるサイトがありました。
ドコモ携帯でも聴けるみたい。
http://www.ichigenkuyou.jp/kan%20non.htm

もっと、詳しい話を聴きたい人は、個別にメッセージ送ってください。
別に金は取りませんから。
人にはワラにもすがりたいような時があるでしょう?
俺はワラのような男ですから。
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自己責任論とは、職を得られないのは自分の努力不足である。
収入が低いのも自分の努力不足である。
社会の責任にするな。
誰かの助けを待つな。
などと言う思想である。

右派的思想で、自民党や共和党。産経新聞や読売新聞の主張である。

彼らの目の敵にしているのは、俺のような社会主義者だ。

だから、俺としても当然、反論すべきだと思うかも知れないが、今は、それをする気にならない。

第一の理由は、彼らの主張にも一理あるから。
努力を放棄している人も、実際、少なくない。

第二の理由は、思想とは、考えるのではなく、感じるものだから。
世の中には、想像力や愛情が欠如している人がいる。
彼らが成長するまで、説いても無駄だ。

反論するよりも仲間を増やしたほうが効率的だ。
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境界性人格障害という病気がある。
果たして、「病気」という言葉がふさわしいかどうかは、わからない。
ただ、医学的にこのように呼ばれているので、俺もそう呼ぶ。

境界性人格障害の特徴は、いくつかある。


■境界性人格障害(ボーダー)の診断基準(DSM-IVより引用)。

1.愛情要求が強いため、愛情対象が自分から離れようとすることを嫌う。離れないように異常なほどの努力や怒りを見せる。

2.他人を理想化したり、こき下ろしてしまうというように、人に対する評価が極端に揺れ動く。そのため、対人関係が不安定。

3.アイデンティティ(自我同一性)が混乱していて、自分というものがはっきりしない(同一性障害)。

4.非常に衝動的で、喧嘩、発作的な過食、リストカットなどの自傷行為、衝動買いなどの浪費、覚せい剤などの薬物乱用、衝動的な性行為などがみられる。

5.自殺しようとしたり、自傷行為をするそぶりや脅しを何度も繰り返す。

6.感情が極めて不安定。

7.絶えず空虚感にかられている。

8.不適切で激しい怒りをもち、コントロールできなくなって、物を壊したり、人を殴ったりといった激しい行動をおこす。

9.ストレスによって妄想や解離症状が生じることがある。


以上のうち、5つ以上当てはまると、境界性人格障害の可能性が高いというが、俺が思うのは、すべてのことを、ほとんどの人は経験するのではなかろうか?

つまり、大なり、小なり、みな境界性人格障害じゃないのか?
もちろん、手のつけられない状態の人こそ、治療の必要があるわけだが。

じゃあ、どうやって治療するかと言えば、文字通り、これは「人格」の問題だから、薬は対処療法にしかならない。
抜本的には、人格を直すしかない。
人格を直すというのは、教育のし直しであり、これは容易ではない。

病院でやってくれるのは、上記の行為が、「本人の利益にならないことを理解させる」ということに留まる。
上にある9つの項目、すべて、当人の利益にはならないのはわかるはずだ。
客観的にはわかる。
冷静になれば誰にでもわかる。
でも、行為の当事者にはわからない。

街の中で、怒鳴り声をあげている人がいる。
本人は、ただ怒っているだけだ。
でも、周囲の人には奇異に見えるし、そこまでするのは自分をおとしめる行為で、本人の利益にならない。
だから、それを注意してやる。

「今、君はまずい状態だよ」と。

ただやはり、抜本的には、人生観の是正なのだろう。
これは本当に容易ではない。


「17歳のカルテ」という映画がある。

17歳のカルテ - 予告編動画

17歳のカルテ - goo 映画


境界性人格障害の少女が入院するという物語だ。

印象に残ったのは、顔面全体を火傷している心優しい少女が、同じ病院に入院している。
その少女が、ある日、パニックを起し、止まらなくなる。
このまま放っておけば自殺してしまう。

その時、境界性人格障害の仲間の少女たちが部屋の前に集まり、ペトゥーラ・クラークの『ダウンタウン』という歌をうたう。

「○○障害」と安易に名前をつけることで、人は安心し、かえってそこから物事が打開できなくなることが良くある。
だから、俺はこの「○○障害」という病名は、人を幸福にもし、不幸にもする、実にやっかいなものであると考えている。
しかしながら、多くの人が心を病んでいることは間違いない。
それは「病気」では無いかも知れないが、確かに病んでいるのだ。

そこで俺が一つ言いたいのは、病んでいる人は、そのつらさを知っている。
悲しさ、孤独を知っている。
だからこそ、人にやさしくなれる。

病んでいるからこそ優しい人。
そういう人を、俺はこれまでも幾人も見てきた。
そして、俺を支えてくれたのは、健康で元気な人よりも、実はそうした人だった。

せつなさ、悲しさを抱えながら生きて行くのはとてもつらい。
けれども、幸せなゆえに、明るく元気に人を傷つける人間になるよりは、せつなさ、悲しさを抱えたまま、優しい人間として生きて行ったほうがいい。

俺はそう思っている。
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なぜ、仏教がここまで嫌われるのか?
それは、まず第一に、これまで仏教を伝えて来た、寺とか、宗教団体が原因である。
人が死んだら、戒名をつけて、代わりに膨大なお布施を要求する坊さん。
献金と布教活動で縛り付ける宗教団体。
そして、宗派がたくさんあって、みんなバラバラの事を説き、あげくの果てに、「うちが正しい」「うちが正しい」と、争い合ってたりするのである。
そして、その議論のレベルが、あまりにも高度であるため、とても理解に及ばない。

そもそも、「俺、仏教でこんなにハッピーになっちゃった!」という人を、あまり見かけない。
だったら、やっても、やらなくても、同じじゃん、ってのが、多くの日本国民の見解である。


これらの事に対し、俺は反論しないし、かえって、ごもっともなことであるとしか言いようが無い。

それでも、あえて仏教を論ずる俺は何なのだろう。

それは、俺は個人の問題の解決も、社会の問題の解決も、やはり、宗教によるしかないと考えているからだ。
仏教に、特に限定しているわけじゃない。
「宗教」である。

もちろん、どんな宗教でも良いというわけではなく、やはり、ある一定の型を持った、宗教でなければならないと思う。
それについては、今はここで述べない。


仏教は素晴らしいと思うのは、個人的幸福の実現と、社会的幸福の実現が、同一のラインに置かれ、語られているというところである。
個人と社会の二つが、切り離されていない。
個人の幸福が社会の幸福につながり、社会の幸福が個人の幸福につながる、という立場だ。

まず、仏教の理想とする社会は、どのような社会かと言えば、それは平等社会であると思う。
なぜならば、釈迦はカースト制度を否定したのだ。
カースト制度とは、インドにおける身分差別だ。
こいつと戦った。
これが、それまでのバラモン教(ヒンドゥー教)と一線を隔するところである。

教理そのものは、釈迦の教えはバラモン教からの抽出であり、特にオリジナル性があるわけではない。
カースト制度の否定こそ、仏教の眼目だ。
仏教の旗印だ。
ということは、仏教は宗教という反面、社会運動という事が言える。

釈迦はもともと、釈迦族の王子様である。
とは言え、その頃は小国の乱立であり、釈迦の国も小さな国家である。
いつ、他国に占領され、潰されるかわからないのだ。
実際に潰された。

釈迦は出家したし、釈迦の兄弟も出家してしまったので、その王位はいとこが継承した。
そのいとこの時代に、他国に占領された。
占領したほうの国は、もともと住んでいた領民を根絶やしにしようとした。
釈迦族の王であったいとこは、占領国の王に、領民を救うように懇願した。
だが、受け容れられなかった。
そこでいとこは、占領国の王に提案した。

「私が池に潜っている間だけ、領民を国外に逃げさせてください」と。

占領国の王は、水中に留まっていられる時間など、大した無いだろうと思い、それを許可した。

池にもぐった釈迦族の王は、いつまでも、浮上して来る事が無かった。
水中で、樹木に髪を巻き付け、死んでしまったからだ。
そのために、領民はみな、逃げ出す事が出来た。


この事件を聞いたお釈迦さまの心痛は、いかばかりであったろうか?
王族の釈迦が、非差別の運動を起したのは、王族でさえ、奴隷の身分となるからである。
ゆえに、全人類はみな、平等の立場にならねばならない。
それゆえに、教え(法)のもとには、すべての人は平等であると主張したのだ。

仏教は社会主義なのだ。
ソーシャルな宗教なのだ。

日本の仏教は、資本主義に取り込まれてしまった。
だが、そもそも仏教と資本主義は、相容れないのである。

ちなみに資本主義とは、「すべてのものは金で買える」という思想である。

観光寺院に行くと、よくわかる。
拝観料まで有料だし、お札が高額で売っている。
板に文字を書いただけなのに。

宗教団体も、言葉を上手に並べ、教義に結び付けて、献金を集める。

仏教団体そのものが資本主義と成り下がっている。

まだ、教えの中に社会主義の理念を残しているチベット仏教でさえ、その仏教自体が、チベット唯一の外貨獲得のための資源と化し、さまざまなものを売りつけている。


仏教が社会主義という政治理念として機能すると、国家は安定する。
ブータンはチベット仏教だが、そのチベット仏教の良い面が発揮され、幸福度指数第一位の国家となった。
それは、格差の無い社会だからである。

日本の給食がおいしい理由は、みんなで同じものを食べるからだ。
東日本大震災後、学校給食では白米しか出なかった。
それでも、みんな、喜んで、おいしい、おいしいと食べたのである。
もし、その中で、もし、一人だけビーフステーキを食っている者がいたら、とたんに、みんな、給食がまずく感じるだろう。


実は今、ブータンはそんな状況であり、資本主義の波が来ている。
資本主義により、一部の人は、物質的には満たされるようになったが、格差が生まれ、失業率が高まった。
やがて、ブータンは幸福度指数第一位の国家から転落するだろう。


仏教は社会主義として機能すると、国家は安定する。
資本主義とは共存し得ない。

キリスト教も実は同じだ。
新約聖書を読むとわかるが、イエス・キリストは、病んでいる人、飢えている人、差別されている人にこそ、手を差し伸べた。
そして、食べ物を平等に分配した。
わずかな食料を、奇跡の力で、多くの人に分配してみせたりした。
分配しても、まだ食料は余ったという。

そんな事、もちろん、現実の話では無い。
だが、ここで言おうとしているのは、

「奪い合えば足りぬ」
「分かち合えば余る」

という事である。

新約聖書に書いてある通りのイエスが実在したかどうかは俺は懐疑的な立場であるが、キリスト教を宣教したパウロという人物は、実在したように思う。
パウロの手紙も、新約聖書に載っているので、ぜひ、読んで欲しい。

パウロはイエスに出会った経験が無い。
当時としても、イエスは、「口避け女」や「トイレの花子さん」的、「噂の人物」だったからだ。
本当にそんな人物がいたかどうか、わからなかったのだ。
だから、最初はパウロもキリスト教を邪教として迫害したのだが、ある時、突然、イエスの声を聞いたと言う。
よほど、精神的にキビシイ状況にあったのだろうと思う。

それはともかく、パウロはキリスト教の伝道を行い、各地に教会を作った(パウロの布教の地はイスラエル以外)。
教会には、まずしい人、差別した人が集まった。
彼らは、収入のすべてを教会に渡した。
教会は、平等に、それを分配した。
教会が政府の役割を果たしたのだ。
そういうコミュニティーをパウロは作った。

一種の独立国家をパウロは作ったのである。
キリスト教による共産主義国家だ。
ちなみにパウロはローマ政府により、処刑されている。

以下、パウロの言葉。

  愛は忍耐強い。
  愛は情け深い。
  ねたまない。
  愛は自慢せず、高ぶらない。
  礼を失せず、自分の利益を求めず、
  いらだたず、恨みを抱かない。
  不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
  すべてを忍び、すべてを信じ、
  すべてを望み、すべてに耐える。
  愛は決して滅びない。


パウロは確かに、信者の稼ぎを、すべて教会に集めさせた。
しかし、それを平等に分配した。
ある者は無職で一円も献金できない者もいただろう。
ある者は多額の献金が可能だった者もいただろう。
だが、教会は全員に、同額の生活費を分配した。
これが共産主義だ。

今のプロテスタント教会は、什一献金と言って、毎月、収入(手取りではなく額面)の10%を教会に寄付しなさいと言っている。
だいたい、毎月、同じ金額を納めさせるので「月定献金」とも言う。
その他に、教会の維持、建築費用を収めさせる。

10%なんて言うと、どれだけのものかわかるか?
年収200万円ならば、20万円である。
その他に、さらに出て行くので、実質、30万円だ。
月収200万円の人がプロテスタント教会で洗礼を受けると、その時点から年に30万円支払うという生活が始まる。

その30万円はペイバックされないのだ。
全部、教会の運営費、牧師の生活費、上部団体への上納金となる。

月収200万円はいわゆるワアープアであり、生きるのが精一杯。男性ならば結婚相手とも見なされない収入である。
ところが、牧師は自家用車を乗り回し、自分の子どもを大学に通わせる。

現代のキリスト教が、いかに腐っているかが、よくわかるだろう。
カトリックだって胡散臭いのは、感じる人は感じていると思う。
だいたい、カトリックの歴史を見て欲しい。
彼らは自分達の立場を守るために、どれほどの人を殺害して来たのか?
血塗られた宗教だと感じないか?


俺は旧約聖書は好きになれないが、新約聖書は大好きだ。
キリスト教万歳である。
だが、キリスト教会なるものが好きになれない。
クリスチャンは、すべからく無教会主義になって欲しいし、ついでに、偏狭な一神教の立場から解放されていただきたいと念願する。


ともかく、仏教もキリスト教も、ソーシャルなのだ。
社会主義という理念を内に秘めている。

社会主義の反対概念は、正確には資本主義ではない。
社会主義の反対概念は、差別主義である。
今の新自由主義という市場競争原理主義。
これがまさに、差別主義であり、社会主義者の忌み嫌うものだ。

資本主義が問題なのは、資本主義は差別主義と裏表の関係にあるからだ。
従業員は経営者に従属せねばならない。
合法的な奴隷制度なのだ。

ちなみに、民主主義は社会主義の対立概念ではない。
民主主義とは、国民が多数決で物事を決定することだ。
民主的に社会主義を実現すれば良いのだ。
これを「社会民主主義」という。
非暴力による社会主義の実現だ。

俺は思想の自由も、信教の自由も、言論の自由も、報道の自由も守られるべきだと思うし、社会主義下においても、これは実現可能だ。
ただし、もちろん、現在よりは自由の幅が少なくなる部分もある。
私有財産や職業選択、起業などだ。
だが、それも、民主的な合意によって徐々に進めて行けば良い。


社会主義は、ある程度、個人が自分の欲望を抑えなければ実現しない。
「億万長者になりたい」などという願望を、国民が捨てなければ、社会主義は実現しない。
まず、国民が、「無欲の幸福」を知らねばならないのだ。

「無欲の幸福」という事を国民が知らぬままに社会主義制度に移行してしまえば、旧ソ連や、北朝鮮のようになってしまう。

唯物論は宗教の否定であり、これまでの社会主義は、この唯物論の上に成り立ったから、失敗したのだと言えよう。
それよりも、まずは宗教で民衆の魂を磨き、その上で社会主義は実現されねばならぬと俺は思っている。

昔、片山哲首相がキリスト教社会主義を実現させようとした。
少しでも実現したかどうかは、わからないが。

これに触発された創価学会は、「仏教社会主義」を掲げて政界に出馬した。
今日の公明党である。

ところが、創価学会初代会長の牧口常三郎は「金銭的価値」を重視する人だったし、第二代会長の戸田城聖は、実業家だった。
そういう教団そのものの性格もあり、社会主義的な方向にはあまり進んで行かなかった。
彼らのやったのは、せいぜい、福祉の強化である。
財源に関してはアイディアが無く、自民党任せだ。

それどころか、小泉政権とくっついて、新自由主義のアクセルを踏んでしまった。
それが格差拡大の一因となっていることを考えるならば、仏教系政党としては、実に無念であると言わざるを得ない。

創価学会はもともと社会主義的な性格を帯びていない。
どちらか言えば、つーか、バリバリ資本主義である。
それは、彼らの信じる日蓮の思想そのものが、他宗と比較すると現世利益的宗教であり、それゆえに、信者を獲得し、教団を隆盛させて来たからである。
「お金が無くて、何が出来る?」というのが彼らの主張だ。

その反面、創価学会員には貧困者が多く、生活保護受給者で溢れている。
創価学会の人は、一度、冷静に自身の信仰について省みていただきたいと念願する。

チベットも昔、仏教が堕落しかけた時に、ツォンカパという坊さんが、仏教の基本に立ち返るべしと主張した。
これによりチベットに、仏教もともとの、「欲望をセーブする」という思想が定着したのだ。

釈迦の教えは単純であり、欲望と感情をセーブせよ、というものである。
なぜならば、欲望や感情は火のようなものであり、放置すれば、とどまるところなく、燃え上がる。
だから、欲望や感情は、できるだけ、慎む。

卑猥な話で恐縮だが、精子は放出すればするほど、大脳は、これを量産させようと努力するらしい。
だから、禁欲により精子の放出をやめると、やがて、性欲が極めて弱くなる。
という事、らしいぞ。
たぶん、女性も同様だと思う。

怒りも同様であり、その事を考えていると、怒りは増大して行く。
犯罪を犯す人は、怒りを心の中で反復するうちに増大し、おさえ切れなくなって、犯罪を決行する。

だから釈迦は、それらをセーブせよ、と説いた。

これを読んだ人は、もう、釈迦の教えはマスターした。
教えは実に単純なのだ。
だが、実践が難しい。
だから、大乗仏教や密教が、その後、生み出されるのだが、その話は、今はしない。

創価学会の池田大作も、以前、アメリカで「釈迦に帰れ」という説法を行った事がある。
「釈迦の教えは昔の歴(こよみ)」と主張している本来の創価教学とは、かなり矛盾であるが、「釈迦に帰れ」というのは正しい。
創価学会の人はぜひとも、釈迦に帰り、感情と欲望をセーブしていただきたい。
掛け軸曼荼羅の南無妙法蓮華経の横にある「南無釈迦牟尼仏‎」の文字に、時折、視線を合わせていただきたい。
そうすれば、お釈迦さまが穏やかな心へと導いてくださる。

何も「おまえら死ね」と言ってるわけじゃない。
日蓮、池田大作の弟子以前に、お釈迦さまの弟子になっていただきたいのだ。
仏教徒になっていただきたいのだ。

釈迦の教えがわかればこそ、日蓮が寒風吹き込むあばら家に幸福を見出した心境もわかる。
「蔵のたからより身のたから。身のたからより心のたから」という言葉の意味もわかる。

「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を語って、その斧によって自分を断つのである。」(岩波文庫「ブッダのことば―スッタニパータ」)

こうした仏典を、何度も、何度も繰り返し読むと、感覚的に受容し難くても、やがて、不思議と身について来る。
それが「経文の功徳」というものである。

欲と感情を暴走させれば、悪鬼は其の身に入る。
釈迦の霊力はそれをさえぎる。
日蓮の曼荼羅を生かすには、それしかない。

こういう話を、俺は十数年前から、繰り返し、繰り返し、ネットでやって来た。
もちろん、その間、数え切れぬほど、本論とは無関係の人格攻撃を受けて来たが、それでも学会批判をやめることが出来ない。
それは、俺自身が創価学会の内部に居た者であり、そして、未だに創価学会は巨大勢力を持つ宗教団体だからである。


俺が仏教を会得しているわけでも何でもない。
ただ、学生の頃から、幅広く勉強し、色んな宗派も体験するようにして来た。
その結果、わずかに理解するところがあっただけである。

仏教を知らぬ人を軽蔑するつもりもない。
俺だって、知らないことは何も知らないのだ。
日本の学校には宗教教育というものが無いので、仏教について深く学んだ人のほうが少ない。
だから、仏教なんて、知らなくて当然なのだ。

「私、仏教でモリモリ幸福、ぶっきゅっきゅ!」

と言いながら歩いている人にもめったにお目にかからない以上、仏教を信じようという気持ちになれないのも当然だ。

だが、人生に行き詰まり、どうしようもないという人は、仏教を勉強してみて欲しい。
どこかの宗派に所属しない限り、リスクは無い。
ノーリスク万歳!

俺が仏教を語る時に、いささか狂気じみているのは、それほど、これを語る人がいない、という事だ。
少なくとも、俺と同一の角度で語る者は、ほぼ皆無なのでは無いだろうか?

孤立無援だからこそ、俺は狂気な発言をせざるを得ない。

それはカマキリが、必死に人間に立ち向かうのと同様だと受け止めていただきたい。
群れを持たぬ生物は、滑稽な姿で、必死に戦うしかないのだ。



本日、東京で格差反対デモ
http://occupytokyo.org/ja/


札幌精神世界懇談会(俺の宗教観)
http://moon.ap.teacup.com/sapporo/
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俺は鷹派の左派なのだが、鷹派の左派って何か?
「鷹派」と「鳩派」というものがあり、一般に、鷹派が戦争好きで、鳩派が平和主義者との認識があるようだ。

正確な定義はわからない、というよりも不定なのだろうが、俺の場合は、鷹派は憲法九条改正派であり、鳩派は護憲派という意味で、使用している。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


「日本国民は」以降は第一項であり、“2”というのが第二項。

第一項は、要するに戦争の放棄だ。
だが、まぎらわしいのは「国際紛争を解決する手段としては」という条件がついている。
国際紛争を解決する手段として用いるのが戦争なのだから、この条件を付する意味が無い。
そもそも、文章がおかしいというわけだ。

第二項は、武力の放棄だ。でも、自衛隊あるよね?あれ、武力だよね?え?武力じゃない?おかしいよね。武力は武力だと認めないと。
そして「国の交戦権は、これを認めない。」という一文。
じゃあ、他国に攻められた時に、防衛するのは交戦権じゃないの?
他国に攻められた時に、防衛するのが交戦権でしょ?
だから、交戦権を認めないってのは、無抵抗主義になれっていう意味。
無茶だよね?

このように、憲法第9条は、文章もすっきりしないし、内容も現実にそぐわない。
だから、改正しよう、というのが俺の立場。
だいたい、占領国アメリカによって、付け焼刃で作らせたのがこの日本国憲法であり、そのまま、未だに改正せずに使い続けているという事自体、当のアメリカ人もビックリ!なのである。

「おまえら、まだあれ、使ってんのか!」と。

要するに今の日本国憲法は米進駐軍によって作られた仮設住宅なのだ。
仮設住宅に永住したい、というのが護憲派の連中なのだ。


ラーマクリシュナ(1836年 - 1886年)というヒンドゥー教の坊さんが、次のような例え話をした。

あるところにコブラ(毒蛇)がいた。
前を通りかかった修行僧に、コブラは噛み付こうとした。
そこで修行僧はコブラに教えを説いた。

「神の名を唱え、身をつつましくしていれば、人を害しようという気持ちにもならず、安らかになり、神の姿を見て死ねるであろう」と。

コブラはその日から、肉食を避け、草食になり、人に襲い掛かるのをやめた。
ある日、子ども達はコブラの前にやって来た。
コブラがまったく大人しいのを見て、子ども達がコブラをいじめた。
コブラはボロボロになり、巣に逃げ帰った。

コブラの様子を見に行った修行僧は、その姿がボロボロなのを見て聞くと、その一件をコブラは語った。
修行僧は言った。

「なぜ、子どもたちを威嚇しなかったのか?シューシューと音を立てなかったのか?噛み付く必要はない。だが、そういう時は、鎌首を立てて、シューシューと音を立てれば良い。戦う準備があることを知らせれば良いのだ。」と。


俺は子どもの頃にいじめられた。
大人しかったからだ。
「こいつは反撃しない」と踏んだ連中は、俺をいじめた。
人をいじめるヤツというのは邪悪なのだ。
邪悪だから、人をいじめるのだ。

ウンザリした俺は武道を学んだ。
そうすると、自然にいじめる者がいなくなった。

先日、いじめれた少年が、川に突き落とされて溺死した事件があった。
いじめた少年は、ぜひとも、実名公表し、ネットで永遠に閲覧できるようにし、社会的に抹殺していただきたい。

いじめられっ子に対しては、常々、俺は、反撃宣言するようにアドバイスしてる。
「俺を殺すならば殺せ。だが、その前に、俺は意地でもオマエの目玉をくり貫いてから死んでやる。さもなくば、オマエの腹にデカイ穴を一つ、作って死んでやる。」と言えば良い。
大人しく殺されるな。

俺達は生物だ。
生物は、どんな生物でも、大人しく殺されたりはしない。
最後まで、抵抗して死んで行くものだ。


国家にも、邪悪な国家というものがある。
日本が無抵抗である事を知れば、日本に襲い掛かって来るだろう。
今、日本が攻め込まれないのは、日米安保条約があるからだ。
いわゆる、「日米同盟」というやつだ。
「日米同盟=日米安保条約」であり、それ以外の日米同盟など存在しない。
小泉元首相は、政治も経済も何もかも、アメリカと同盟するかのような「日米同盟」を唱えだしたが、そんなものは存在しない。
そんな条約があるならば、見せてみろ。

俺はこの誤解を与える「日米同盟」という言葉が嫌いで、きちんと「日米安保条約」と言うべきであると考えている。


ともかく、日本はアメリカ軍を未だに駐屯させ、護られている(支配されている?)から、ロシアも中国も北朝鮮も襲い掛かって来ない。
憲法では武力の放棄を歌っている。
だが、アメリカの武力に依存しているということは、これはアメリカの武力を金で買っているわけでだ。
いわば、外国に軍事力を委託しているわけで、これは武力の放棄と矛盾しないのか?


俺は、安保条約がある限り、日本は、アメリカ合衆国の51番目の州だと思っている。
だって、アメリカの軍隊が、日本にあるんだぜ?
ふつうに、おかしいでしょ?

だから、安保条約を廃止し、国家として独立しなければならない。
その前に、日本の軍事改革、国連改革を成し遂げなければならないが。


憲法第九条には、このように書け。
以下は俺の改正案だ。

「我が国を占領、支配しようという気配を微塵でも感じたならば、我が国は、あらゆる手段を用い、その行動を阻止できる」


鷹派的気分を満喫していただけただろう。
次に「左派」という部分だ。
「左派」とは「社会主義者」という意味である。
「差別なき社会」を実現する事が「社会主義」だ。

所得格差もそうだが、男女とか、出身とか、あらゆる差別の廃止を目指すのが社会主義。
一方、特に、経済における平等を目指すのが「共産主義」だ。
社会主義には、自ずと共産主義を含んでいる。


この「鷹派の左派」は、現在、グループを持っていない。
俺のように、単独の人が多い。
だが、数は決して、少なくないと思う。
俺と同意見の人は、ぜひとも、コンタクトを取って来ていただきたいと思う。
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究極的な事を言えば、いずれ、世界政府なるものが必要になるだろう。
世界的な計画経済の実現だ。

工業に向いた国には工業をやらせ、農業に向いた国には農業をやらせる。


江戸時代、日本は鎖国をしていた。
国内の自給自足で国を維持していた。

それを、世界全体としてやる。

世界を一つの国とみなし、この「地球国」の中における自給自足経済を行う。

たぶん、宇宙には銀河連合とか、銀河政府、みたいのもあるのかも知れない。
あまりにも文明レベルが低いので、地球が加えられていないのだろう。

光よりも早く動く物質がある、という研究発表が先日、あったが、それならば、惑星間の移動も容易だ。


話は飛んでしまったが、「市場競争」というものは、実は物凄くレベルの低い経済システムなのだろうと思う。

国と国が経済競争をやるなど、人類の共食い状態なのだ。


日本は自動車を作りますよ。
それじゃあ、韓国は家電を作ります。
ならば、中国は農業をやります。

こんな感じで、協力し合えば良い。
そして、どの国も、格差のないようにしたら良い。

年金問題だって、自分の国だけで何とかしようとするから無理が来る。
どんな国だって、高齢化の波は、やがてやって来るのだから。

世界政府のもとで年金制度を作れば、きっとやって行けるに違いないのだ。

何百年先かわからないが、俺は着地点をそこに見ている。
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年金支給開始年齢を68~70歳に引き上げることが厚労省で議論されている。

子どもの頃、親父は「60歳になったら、働かなくていいんだ」と言った。
俺が「なぜ?」というと、
親父は、「60歳になったら、今までよく働いたね、ごくろうさまと言って、それからは、国が生活費をくれるんだよ」と話していた。
その親父も、60歳で死んでしまったわけだが。

支給開始年齢、68~70歳というが、男は70歳を超えたら、いつ死んでもおかしくない。
つまり、これって、「年金を払わないよ」と言っているに等しい。

日本経済自体が今、危機的な状況であり、さらに世界経済も瀬戸際に来ている。
この年金制度は、もはや、破綻しているのだ。

「100年安心」と言っていたのは何だったのか?


今の20代までの若い子は、いったい、未来にどういうビジョンを描いているのだろうか?
憂いを持っているのだろうか?
老後について考えているのだろうか?


今の年金制度は、下の世代が上の世代を支える仕組みだ。
だが、人口が逆ピラミッド型になって来ている以上、この仕組みでは年金を維持できない。

やがて、老人しかいない国家になるという想定もしなければならない。

この国は、すべてを白紙にして、設計図を作り直さねばならないのだ。
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