人を殺すのには、理由が必要。
ようやく勤務を終えたので、映画記事再開です。
伊藤計劃アニメ三部作の、一番メインな作品。(これがデビュー作だそうな)
はっきり言って、すごいです。今までの中で最高の出来でした。
人が人を殺すのは、古来からよくあることでした。
人は、いつか必ず死にます。
死ぬ人は死ぬし、生き残る人は生き残る。
ただ、それだけのこと。
映画の内容は、いたってシンプル。
ただ、テーマが深いので、台詞がやたら多いです。
会話の内容についていけない人は、眠くなっちゃうかもしれませんが、
俺は、常に考えていることの領域なので、楽しく見ることができました。
誰でも、殺したい相手の1人や2人は、いるでしょう。(いないか)
俺は、いっぱいいます。10人以上くらい、いますね。
筆頭は父親なので、もう会わないことにしました。
たぶん、今度顔を合わせたら、確実に血の雨が降るでしょう。
生物は、他者の命を奪って生きる。
奪わなければ、すぐに死んでしまうから。
食物を断てば、生きられない。
襲い掛かって来る者を倒さなければ、生きていけない。
殺すことは、実に、自然なことなのだ。
例えば、熊の親子が撃ち殺されたとしましょう。
ある人が言います。
『…かわいそうに。もっと他に方法はなかったのでしょうか?』
でも、その熊が、自分の子供を殺そうとしたら?
熊のために、子供の命を喜んで捧げますか?
代わりに、自分が進んで殺されますか?
逃げるでしょう?
逃げても逃げても追って来たら、誰かに助けを求めるでしょう?
そんな時に、熊を傷つけないで、自分を助けて欲しいって言う?
自分の大切な人が、殺人鬼に襲われたら、戦うでしょう?
力があろうがなかろうが、必死になって立ち向かうものだと思う。
病原体と戦うための免疫力だって、生命を守るための戦闘システムなんだから。
「殺す」という行為自体は、実に自然なこと。
肉を買う時の値段は、「殺し代」が含まれている。
野菜だって、果物だって、魚だって、みんな同じ。
命をもらうから、いただきます、って言うのです。
その命が、自分の生命力というエネルギーに変換されて、生き続けるのだから。
何故、殺すのか。
生きていくため。
家族を、養うため。
この映画の中で、印象的な台詞があります。
『…仕事だから、仕方がない。』
これは、便利な言葉だと思う。
約束を破った時とか、良心が痛む時とか、理不尽な結果になる時とか、
自分に対する言い訳として、実に万能な、魔法の言葉。
先日紹介した本「恋する寄生虫」では、
人に寄生する虫が、行動を左右させているという理屈でした。
それは、発想としては面白いけど、個人的には、どうも好きじゃない。
何もかも、虫のせいにしてしまうのではなく、
虫の影響を受けて、そうなってしまうというだけ。
そうなってしまう要素が、自分の中にあるから。
だから、「蟲師」の物語は好きなんですね。
俺は、殺したい願望というのは、誰にでもあると思う。
殺人犯が、「誰でもいいから殺したかった」というのは、正直な言葉だけど、
そういう理由で殺される側は、たまったもんじゃない。
人間を襲う熊だって、襲う相手は、誰でもいい。いちいち、選んでなんかいない。
ただ、目の前に現れた人間が、不運だったということになる。
殺される時は、誰でも殺されてしまうし、
殺す時は、誰でも殺してしまうのだ。
運よく、生き残る者。
運悪く、殺されてしまう者。
「もっと生きたい」と願う者と、「早く死にたい」と願う者でも、答えは違う。
映画は、殺す「機能」を持つ「器官」が、もともと人間に備わっているという。
それを刺激する「ある方法」を用いて、世界をコントロールできるという。
俺は、自分自身が、殺人を犯す可能性がある人間であることを、知っている。
いつ、どのような状況で、「その機能」が発動するのかは、わからない。
安全な場所で、安心して暮らせて、健康で長生きできる保証なんて、どこにもない。
逃げ場などないし、安住の地もないし、100%信頼できる人間も、皆無。
自分ですら、信用できないのだから。
この物語は、人類に対する「挑戦状」のように感じます。
そこが、面白い。
普段、こういう領域で思考を巡らせている人には、刺激的な教材となるでしょう。
答えは、ありませんから。
実際に人を殺しても、きっとわからない。
実際に殺される状況になっても、わからない。
ただ、答えに「近づく」ことは、できると思う。
生死の現場で働く人には、ぜひ見て欲しい作品です。
「殺したい」という願望は、
「助けたい」という願望と、紙一重。
殺したいから、殺す。
殺したいから、殺してもいい理由を探す。
殺したくないから、殺さなくてもすむ方法を考える。
殺しちゃいけないから、ひたすら我慢して、
心が崩壊して、いいように振り回されて、潰される。
黙って、やられっぱなしになるか。
勇気を出して、立ち向かうか。
生きるか、死ぬか。
殺すか、殺されるか。
それは、生き物としての、本能の領域であり、生命の根幹。
「理由」は、他者に説明するために、必要なだけ。
自分が納得したいから、何かのせいにしたいだけ。
仕方がなくて殺した、と言わないと、心が崩壊してしまうから。
野生動物は、腹が減ったら、獲物を襲って、貪る。
奴らには、それが自然なこと。
人間だけが、面倒くさい。
よほどの理由があって、人を殺す。
正当防衛で、人を殺す。
恨みをはらすために、人を殺す。
ただ、殺したくなったから、人を殺す。
本能だろうか。
能力なんだろうか。
反射的な行動プログラムなんだろうか。
何かで封印されていたものが、突然、動き出すことがある。
俺は、自分の中で、そういうことが起きることの怖さを知っている。
俺が自殺を考えるのは、
殺人をしてしまう自分にブレーキをかけるための、最後の手段だと思うから。
(そこの領域は、前作「ハーモニー」で語られています)
人間の能力は、未知数。
この映画が切り込んだテーマは、相当奥が深い。
だから、永遠に、答えは出ない。
これを見て、何も感じない人は、幸せなんだろうと思う。
でも俺は、この作品に出会えてよかったと思う。
得体の知れない、正体不明のモヤモヤが、少し解消された気分だから。
他人事だと思えば、思考は停止。
自分のことだと思えば、過剰に反応。
人間ってやつは、何て難しい生き物なんだろう。
殺したかったから、殺した。
生きたかったから、生きた。
…さあ、自分なりの「理由」を考えましょう。