U-NOTE Ⅱ 「気分の上がり下がり」
この時期は、精神病者にとって、とても不安定です。
心配事があればあったで、なければ新たに作り出し、
常に、何かに恐怖して怯えてしまっている毎日なんです。
ああ、我ながら、情けない~
孔子は、「四十にして惑わず」と言ったそうですが、
俺は四十八にもなって、惑ってばかりです。
(まあ、昔と今では、環境も寿命も違うんでしょうが)
健常者なら、理屈や精神力でどうにかなるんでしょうが、
思い込みが強ければ強いほど、抑え込むのにも強い力が要るんです。
頭でわかっているのに、どうにもならないのって、つらい…
これはもう、「自分はそういう生き物」だと割り切って、付き合っていくしかない。
自分と他者を比べてばかりいると、どうしても悪いところに目が行ってしまう。
ないものを数えるよりも、あるものを数えた方が、楽しいんだけどね。
ここ最近は、読書が進まなくなりました。
集中力が長くもたなくなってきたのかもしれませんね。
映画は、映画館に行けば見られるけど、家でDVDを見ると、しんどい。
アメーバにもログインはするけど、記事を更新できないことが多い。
何かを書きかけて、途中で嫌になって、下書き保存もせずに消しちゃったり。
何だか、自分の発する言葉全てが、無意味になってしまう気がするんですね…
そんな文章では、読まされる方もたまったもんじゃないでしょう。
せっかく書くんだったら、少しでも面白い文章にしたいと思うのが人情。
だけど、パワーがない時は、しょうがないもんね。
それでも、文章を書くという出力ができるのは、幸せなことなんだと思う。
自分のいい部分も悪い部分も吐き出すことができたから、今の自分があるんだろうな。
今思うと、発症したばかりの頃の文章は、地獄の苦痛の中からの叫びだった。
思い出す度に、激しい動悸に襲われます。
現在は、社会復帰して、新たな職場も得て、何とか仕事をしていますが、
次の瞬間には、何もかも崩れて全て失ってしまうんじゃないか、
という「恐怖」と闘いながら、毎日を必死に生きています。
この病気を患ってから4年半が経ちますが、俺の経験上言えることは、
「少し元気がないくらいがちょうどいい」ということ。
元気がなさ過ぎれば、それはそれで問題だけど、
元気があり過ぎる時も、それはそれで厄介なんです。
双極性障害(躁鬱病)の人の場合は、上がり過ぎると、急激にダウンするのがヤバい。
俺の場合は、ポピュラーな鬱病なので、普通か、下がるかのどちらか。
その上限と下限の振幅が大きければ大きいほど、精神が受けるダメージも大きい。
だから俺は、興奮し過ぎないように、自分でブレーキをかけてます。
若い頃は、限りなく暴走して楽しんだ瞬間もありましたが、
今は、そこまでの体力も気力も乏しくなってきました。
しかしながら、「楽しむ能力」「喜ぶ能力」「感謝する能力」は健在です。
決して大回りせず、小さく立ち回って、コンパクトに楽しむ。
何もかも大げさに笑い飛ばすことができるのは、若者の特権。
俺くらいなおっさんには、小出しにしてもらって、シンプルに楽しむのがいい。
身の丈に合った「心地よさ」を追求するのが、今の俺にはちょうどいい。
人と同じことを真似ても、同じ喜びは得られない。
その人からヒントを学び、それを自分なりにアレンジしていくのが、
大人の男としてのたしなみのようにも感じるんですね。
世の中、心が不安定な人は、たくさんいます。
健常者の中にも、落ち着きのない人は、よく見ます。
でも、次の瞬間にすぐ立ち直れる気力を持っているから、大丈夫なんです。
俺は、自分が何に対して弱くて、何に対して強いのか、わかっているつもりです。
元気な時は、それなりに好きなことをやればいい。
気持ちが沈んでいる時は、できるだけダメージを受けないように、じっとしていればいい。
今日は、天気もよくて、ふらっと散歩でもして、カフェに顔出したい気分ですが、
たぶん、こういう時は、それもまた、疲れてしまうことになっちゃう。
今日みたいな日は、できるだけ人と会わず、家で静かな音楽を聴いて過ごします。
うつの時によく聴くCDを、以前に何枚か紹介しましたが、
やっぱりこういう時のベストは、ジョージ・ウィンストンの「ディセンバー」ですね。
これを、音量を少し下げ気味にして、ずっと聴いていると、落ち着くんです。
頓服薬を飲んで、座椅子に深く沈んで、時たま、思い出したようにパソコンに向かう。
コーヒーを飲んだり、ハーブティーを飲んだり、
お気に入りのビスケットをかじったり。
自分が、無理をせずに、ありのままの自分でいられる「時間」と「空間」。
これらを、静かに感じられるひとときが、大事なんですね。
うつ病の人は、休息を取ることが苦手。
本来休むべき時なのに、神経が高ぶって、休めない。
本来眠る時間なのに、緊張状態が続いて、眠れない。
これは、とてもとても、苦しく、つらいことなんです。
このブログは、映画が好きな人も、映画が好きじゃない人も、
心を病んでいる人も、心が健在な人も、読んでくれています。
俺の発する言葉は、誰かには響かなくても、他の誰かの心には、きっと届いている。
そう思って、あらゆる題材を、自分なりにアレンジして、書き綴っています。
人が、孤独から逃れるためには、誰かと話すのが、一番いい。
しかし、孤独な自分の心をしっかりと見つめるのもまた、大切なこと。
今日は、自分の心と、向き合ってみたい。
静かに、ゆっくりと、自分の弱い心に付き合ってみたい。
浮かぼうともがくから、余計に沈んでしまう。
沈むのを覚悟で、力を抜けば、時間とともに、また浮かび上がってくる。
そういうものなんですね。
体にも、心にも、自然治癒力というものがある。
本来の力に身を委ねることで、何か「新しい力」が生まれることもある。
今はダメかもしれないけど、ずっとダメな状態が続くわけじゃない。
そういう自分を上手に受け入れて、そう感じた自分の心を大切にしたいんです。
そこから、何かが見えてくるはずだから。
ホーキング博士は、「ブラックホールは、さほど暗くない」と言いました。
俺は、「孤独という世界は、さほど暗くない」と言いましょう。
真っ暗であるということは、ささいな光がすごく新鮮に感じられる状態なのだから。
心配事があればあったで、なければ新たに作り出し、
常に、何かに恐怖して怯えてしまっている毎日なんです。
ああ、我ながら、情けない~
孔子は、「四十にして惑わず」と言ったそうですが、
俺は四十八にもなって、惑ってばかりです。
(まあ、昔と今では、環境も寿命も違うんでしょうが)
健常者なら、理屈や精神力でどうにかなるんでしょうが、
思い込みが強ければ強いほど、抑え込むのにも強い力が要るんです。
頭でわかっているのに、どうにもならないのって、つらい…
これはもう、「自分はそういう生き物」だと割り切って、付き合っていくしかない。
自分と他者を比べてばかりいると、どうしても悪いところに目が行ってしまう。
ないものを数えるよりも、あるものを数えた方が、楽しいんだけどね。
ここ最近は、読書が進まなくなりました。
集中力が長くもたなくなってきたのかもしれませんね。
映画は、映画館に行けば見られるけど、家でDVDを見ると、しんどい。
アメーバにもログインはするけど、記事を更新できないことが多い。
何かを書きかけて、途中で嫌になって、下書き保存もせずに消しちゃったり。
何だか、自分の発する言葉全てが、無意味になってしまう気がするんですね…
そんな文章では、読まされる方もたまったもんじゃないでしょう。
せっかく書くんだったら、少しでも面白い文章にしたいと思うのが人情。
だけど、パワーがない時は、しょうがないもんね。
それでも、文章を書くという出力ができるのは、幸せなことなんだと思う。
自分のいい部分も悪い部分も吐き出すことができたから、今の自分があるんだろうな。
今思うと、発症したばかりの頃の文章は、地獄の苦痛の中からの叫びだった。
思い出す度に、激しい動悸に襲われます。
現在は、社会復帰して、新たな職場も得て、何とか仕事をしていますが、
次の瞬間には、何もかも崩れて全て失ってしまうんじゃないか、
という「恐怖」と闘いながら、毎日を必死に生きています。
この病気を患ってから4年半が経ちますが、俺の経験上言えることは、
「少し元気がないくらいがちょうどいい」ということ。
元気がなさ過ぎれば、それはそれで問題だけど、
元気があり過ぎる時も、それはそれで厄介なんです。
双極性障害(躁鬱病)の人の場合は、上がり過ぎると、急激にダウンするのがヤバい。
俺の場合は、ポピュラーな鬱病なので、普通か、下がるかのどちらか。
その上限と下限の振幅が大きければ大きいほど、精神が受けるダメージも大きい。
だから俺は、興奮し過ぎないように、自分でブレーキをかけてます。
若い頃は、限りなく暴走して楽しんだ瞬間もありましたが、
今は、そこまでの体力も気力も乏しくなってきました。
しかしながら、「楽しむ能力」「喜ぶ能力」「感謝する能力」は健在です。
決して大回りせず、小さく立ち回って、コンパクトに楽しむ。
何もかも大げさに笑い飛ばすことができるのは、若者の特権。
俺くらいなおっさんには、小出しにしてもらって、シンプルに楽しむのがいい。
身の丈に合った「心地よさ」を追求するのが、今の俺にはちょうどいい。
人と同じことを真似ても、同じ喜びは得られない。
その人からヒントを学び、それを自分なりにアレンジしていくのが、
大人の男としてのたしなみのようにも感じるんですね。
世の中、心が不安定な人は、たくさんいます。
健常者の中にも、落ち着きのない人は、よく見ます。
でも、次の瞬間にすぐ立ち直れる気力を持っているから、大丈夫なんです。
俺は、自分が何に対して弱くて、何に対して強いのか、わかっているつもりです。
元気な時は、それなりに好きなことをやればいい。
気持ちが沈んでいる時は、できるだけダメージを受けないように、じっとしていればいい。
今日は、天気もよくて、ふらっと散歩でもして、カフェに顔出したい気分ですが、
たぶん、こういう時は、それもまた、疲れてしまうことになっちゃう。
今日みたいな日は、できるだけ人と会わず、家で静かな音楽を聴いて過ごします。
うつの時によく聴くCDを、以前に何枚か紹介しましたが、
やっぱりこういう時のベストは、ジョージ・ウィンストンの「ディセンバー」ですね。
これを、音量を少し下げ気味にして、ずっと聴いていると、落ち着くんです。
頓服薬を飲んで、座椅子に深く沈んで、時たま、思い出したようにパソコンに向かう。
コーヒーを飲んだり、ハーブティーを飲んだり、
お気に入りのビスケットをかじったり。
自分が、無理をせずに、ありのままの自分でいられる「時間」と「空間」。
これらを、静かに感じられるひとときが、大事なんですね。
うつ病の人は、休息を取ることが苦手。
本来休むべき時なのに、神経が高ぶって、休めない。
本来眠る時間なのに、緊張状態が続いて、眠れない。
これは、とてもとても、苦しく、つらいことなんです。
このブログは、映画が好きな人も、映画が好きじゃない人も、
心を病んでいる人も、心が健在な人も、読んでくれています。
俺の発する言葉は、誰かには響かなくても、他の誰かの心には、きっと届いている。
そう思って、あらゆる題材を、自分なりにアレンジして、書き綴っています。
人が、孤独から逃れるためには、誰かと話すのが、一番いい。
しかし、孤独な自分の心をしっかりと見つめるのもまた、大切なこと。
今日は、自分の心と、向き合ってみたい。
静かに、ゆっくりと、自分の弱い心に付き合ってみたい。
浮かぼうともがくから、余計に沈んでしまう。
沈むのを覚悟で、力を抜けば、時間とともに、また浮かび上がってくる。
そういうものなんですね。
体にも、心にも、自然治癒力というものがある。
本来の力に身を委ねることで、何か「新しい力」が生まれることもある。
今はダメかもしれないけど、ずっとダメな状態が続くわけじゃない。
そういう自分を上手に受け入れて、そう感じた自分の心を大切にしたいんです。
そこから、何かが見えてくるはずだから。
ホーキング博士は、「ブラックホールは、さほど暗くない」と言いました。
俺は、「孤独という世界は、さほど暗くない」と言いましょう。
真っ暗であるということは、ささいな光がすごく新鮮に感じられる状態なのだから。