「苦しんでいる子たちには『逃げて』と言いたい。布団の中に潜って一日中いたっていい。死ぬくらいならうずくまっていればいい」
という あさのあつこさんのコメントに共感した(山陽新聞11/15付け)。
「生きていると、自分を囲っていた壁がいつの間にか扉になっていて向こう側に開くんだ、出口があるんだと分かる経験がきっとある。
わたしの場合は『書く』ということだった。高校に入って国語の宿題で五十枚の短編を書いた。先生が熱心に朱を入れてくれて『雰囲気のある作品』と言ってくれた。大人からみたら笑っちゃうようなささいなことだったけど、そのときの快感は生きるに値するものだった」
「生きるに値する快感」を覚えたのは、いつのことだったろう。
なにかのワークショップで、自分の生き苦しさを表現したときだったと思う。
つねに緊張していること、ストレスを感じていることを話し
怒りを人やモノにぶつけた。
おおっぴらに感情をあらわにしたのは成人して初めてのことだった。
その快感を覚えてから、感情の発散の次にはなにがあるのだろうと好奇心がわいてきた。
癒されたあとには探究心が待っていた。
自分への興味と関係性への関心。
あるとき「kusukusuさんは自分への興味が強いから」と言う友人に
「あなたの方がよっぽど自分への関心が強いでしょ。さっきからすっと自分の話をしているんだから」と言うと
「私は表現することに関心があるけど、kusukusuさんは変わっていくことに関心があるでしょ」と言われた。
当たっていると思った。
変わることへの関心、臆病な私が変わることに関心が向かったのは癒されたという心地良さを味わってからだ。
もちろん今も臆病さをかかえながらだけれど。
そして、瞑想や自己編集など私とその先(その奥?)にあるものに関心が向かっている。
癒されながら新しいテーマにとり組む日々だ。
そして、今も迷い、恐れることの多い私だけれど
それでも あさのあつこさんの言葉に共感する。
出口はきっとある。
だから逃げられるだけ逃げればいい。
逃げるたって、あることから逃げているだけで、あることには向かっているかもしれない。
たとえば、だれかの目や言葉から逃げているけど、本や自分の内側に近づいていることだってあるだろう。
でも、出口はゴールじゃない。
書くことや瞑想やなにかに出会ったって
そこが終着駅じゃない。
山あり谷ありの人生が続いていく。
それでも
人生はどんどんよくなる。
今のところ、そう信じている。