グローバリズムに適応するための教育とは?
テーマ:グローバリズムグローバリズムは思想ではなく世界的な潮流,経済的・社会的な実態(実体)であり,ここで語るのにはふさわしくなさそうな言葉ですが,たとえば外国語学習がどのような根拠で学校教育のカリキュラムに入れられているのか,などというテーマとからめて考えることはできます。
それでも,「英語を苦労して学んだが,全く活用する場面がない
」という大人が少なくない(私自身も今のところ,全くその通り)ことも事実。
どのような説明が成り立つのでしょうか。
小学校の英語学習は必要なのか,というテーマにもかかわります。
私の個人的な解釈は,外国語=「コミュニケーション練習のためのツール」であり,「コミュニケーション能力を高めること」が,その学習のねらいである,ということです。
なぜ日本語ではだめなのか?・・・という当然の疑問がわいてきます。
その答えは,「グローバリズムという流れに乗るため」・・・ではありません。
村上龍の「無趣味のすすめ」(幻冬舎)に,こんな一節があります。
不可視の流れであるグローバリズムのうねりに単に「乗ろう」としても,地図も海図もないのでやがては振り落とされて沈んでしまうだろう。
グローバリズムに適応するときにもっとも重要なのは,言うまでもなくコミュニケーションだと思う。
(中略)<友人とは密に,敵とはもっと密にち,彼(父親)に教わった>
映画『ゴッドファーザーPARTⅡ』におけるマイケル・コルレオーネの台詞だが,シシリーから新大陸にやってきた「ビジネスマン」の言葉として受け取ると,示唆に富んでいる。
自分の本当の言いたいこと,伝えたいことを表現するときには,やはり母語に頼るしかありません。
しかし,日本の文化には,以心伝心という「美徳」があり,わざわざ「言わなくても伝わることは言う必要がない」ことを認めてしまう一面があります。
問題は,これがグローバリズムの潮流からは振り落とされる可能性のある「ウィークポイント」になっており,「簡単に誤解する(される)」「真意をはかれずだまされる」結果を招く原因になっているということです。
相手が自分の期待通りのことを考えてくれているというのは世界の常識ではなく,むしろ非常識な行動であると考えてよいでしょう。「何も考えていない」というのが「美徳」と勘違いされる珍しい国でもあります。
教育の世界にも,これに似た「ご都合主義」が蔓延しており,「説明不足」「閉鎖的」という癖がどうにも抜けません。
子どもたちには,「日本語で(表現するの)は恥ずかしい」ことも「外国語では恥ずかしがる必要がない」という意識を徹底的に植え付けてもらいたいのが小学校英語であり,それを受けての中学校英語も,「当たり前のこともあえて言葉で表現する」ことが苦にならないように工夫してほしい教科になります。
担任教師による道徳や特別活動等による「学級経営」だけでなく,教科担任の教科指導による「学級集団経営」も,「よい学級集団づくり」には欠かせない営みであると私は確信しており,その筆頭として中学校では音楽と保健体育を重視していましたが,ここにはっきりと英語も加えることを宣言しなければなりません。
なお,新しい学習指導要領では「言語活動の充実」を重視していますが,単に論理的思考だけでなく,コミュニケーションや感性・情緒の基盤になるものとして,「言語に関する能力を高めていくことが求められている」としています。






