許すということ、許されるということ(その9) 9.許されるには(その3) | 懐疑的だけど信じてます

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※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)(その7)(その8)からの続き


9.許されるには(その3)

(5).「E.許し」

②.「許し」と「プラスの感情移入」

 (その4)で述べた通り、「許し」の判断は「主観」であり、「罪」の認定と同様に、そこには「感情移入」が大きく係って来ることになる。

 当然、「謝罪」の際、相手の「感情移入」
プラスであれば、「許し」はより容易なものとなり、マイナスであれば、その逆になる。

プラスの感情移入 → 「許し」が近づく
マイナスの感情移入 → 「許し」が遠のく

 そして、(その9)の〈(5).「E.許し」 ①.「許し」を得る為の基本〉で述べたような、「謝罪」において基本に忠実な行為をすることは「プラスの感情移入」を得る為だと言うことも出来るだろう。

 誠意を見せ、誠実な印象を与えることは、「プラスの感情移入」をしてもらうことであるからである。一方、その逆に、基本に反してなおざりな対応を行えば、「マイナスの感情移入」をされることになる。

 また、過剰気味な「謝罪」をして、
「なにもそこまでしてもらわなくても・・・」と思ってもらうことも同様である。

 同じ「罪」でも、その対象となった相手の重要度によって、自分が感じる「罪」の重さは変わって来るものである。
「自分より下」と思っている相手に対しては、「罪」の重さは軽くなり、「自分より上」と思っている相手に対しては重くなる。
 例えば、同じ
「10分の遅刻」でも、相手が「自分より下」の場合は、「まあ、10分くらい構わないだろう」となってしまうし、一方、「自分より上」の場合は、「本来は10分前には到着すべきなのに、とんでもない失礼をしてしまった!」となる。

 つまり、
過剰気味な「謝罪」というものは、相手をそれだけ重んじていることを意味し、相手は「なにもそこまでしてもらわなくても・・・」と恐縮しながらも、重く扱ってもらって嬉しいもので、「プラスの感情移入」となるのである。


 さらに、「謝罪」時に相手に「プラスの感情移入」をしてもらう為のツールとして良く見られるものに、例えば次のものがある。

○泣く
○やつれた顔をする
○苦しんでいる顔をする

 これらは全て、「可哀そう」等と思ってもらって同情を得ることで「許し」を近づけようとする手段である。

 相手が自分に同情したということは、相手が自分の身になって感じたことを意味し、それだけ「プラスの感情移入」をしてもらったことになる。

 ただし、上手く行けはいいのだが、特に社会人の場合はそうならない場合が多い。逆に、「いい年した人間が泣くなよ・・・」「わざとらしい!」などと思われてしまって「マイナスの感情移入」となってしまうことが多いからだ。

 このような態度は、実は、
「これだけ苦しんでいるんだから、もうこれ以上苦しませないで」という、「怒り」を回避する為の防御手段でもあり、子供がするならともかく、社会人なら、大人になりきれていない印象を与えてしまいかねない。仮に、その場はそれでやり過ごせても、一方で信用を落すことになってしまうのである。

 よって、せいぜい、
「神妙な顔をする」という程度で留めておくのがベターであると言えよう。



 以上、他人から「許し」を得ようとするならば、相手に如何に「プラスの感情移入」をしてもらうかが鍵となってくる。
 その点からも、相手を重んじ、誠実な対応を取ることが基本的な対応法となるのである。

 なお、人は過ちを犯すものであり、いつ、誰に対して「許し」を得ようとすることになるかは分からない。よって、普段から「プラスの感情移入」をしてもらうよう心がけておくことが大切だと言えよう。

 特に、他人が自分に対して「罪」を犯した時に寛容な態度を取っておけば、その分、「プラスの感情移入」をしてもらえることになる。そうすれば、後日、逆の立場になった時、同様に寛容な態度を取ってもらえる可能性が高い。一方、過剰な責め立てをしたり、過剰な謝罪を求めたりした場合は、逆の立場になった時には逆襲を受けることになるだろう。

 基本的に他人との関係は
「持ちつ持たれつ」であり、他人に多少の「罪」を犯されたからと言って、目くじらを立てて怒り狂ったり、その優越的立場を乱用したりすることは控えた方が良いのである。



 ※(その10)に続く