懐疑的だけど信じてます

神社とか神様とか、霊とか宗教とか、思うがままに綴っていくブログです。


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※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)(その7)(その8)(その9)(その10)(その11)(その12)(その13)(その14)からの続き


10.許すということ

 

 当記事では、「自分に揺るぎない価値を感じている人」、つまりは、「究極に自分を許せている人」というのを見てみよう。

 

(3).究極に自分を許せている人

 (その14)では、「自分が感じる自分自身の価値とは相対的なもの」
「結局、自分が認識する『自分の価値』とは他人からの評価」と記載した。
 しかし、実は、他から否定されても揺るぎない価値、つまり、相対的ではない
「絶対的な価値」を自分に感じているケースというものもある。

 例えば、イエス・キリストだ。

 イエス・キリストは磔刑に処される際、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去り、唯一、遠くから見守っていたペトロも三度イエスのことを知らないと言った。さらに、人々には侮辱され、嘲笑され、唾を吐きかけられ、殴られる。
 しかし、十字架に架けられ、まさに刑に処されている最中にイエスは次のように語り、自分を嘲り、殺そうとしている人たちの許しを神に請う。

『ルカによる福音書』 23章34節
父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

 普通の人なら、自分の運命を呪い、人々を憎み、また、自分が助かる為に祈るような状況であるが、むしろ、自分のことは捨て置き、自分と敵対する者たちの為に祈る。

 当然、イエス自身は人々のそのような行為を許せていたのであろう。そして、それは、
「究極」と言って良いほど、自分をも許せているからだ。
 このレベルまで行けば、自分自身に感じている価値は、他人からの評価を気にするような相対的なものではない。揺るぎない絶対的なものである。


 また、例えば、イエスのように他から否定されたワケではないが、釈迦などもそうだったであろう。

 年老いた釈迦は、最後の旅路で立ち寄ったバーヴァー村で、鍛冶工の子チュンダが用意したキノコ料理を食べて食中毒になり、それが原因で死亡することになる。
 食べて即座に死亡したわけでないが、釈迦には
「死に至らんとする激しい苦痛」が生じ、その苦痛に耐えながらクシナーラーに向かい、そこで入滅する。

 普通の人なら、そのようなものを食事として出したチュンダに恨み事の一つでも言いたくなるものだが、釈迦はむしろチュンダのことを気遣う。
 チュンダが後悔の念で苦しんだり、他から責められたりしないよう、次のような言葉を残すのである。

『マハーパリニッパーナ・スッタンタ』
友よ(※チュンダのこと)。修行完成者は最後のお供養の食物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益があり、大いに功徳がある。 ~(中略)~ ――この二つの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさにひとしい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳がある。その二つとは何であるか?修行完成者が供養の食物を食べて無上の完全なさとりを達成したのと、および、〔このたびの〕供養の食物を食べて、煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られたことである。

 むしろ、チュンダの食物を食べて、「無上の完全なさとりを達成し」「ニルヴァーナの境地に入」ったのだから、大いに利益と功徳があると言うわけである。


 さて、2つの例をあげたが、私自身がそのレベルにまで達していないので、そのような心境を詳しく説明することはできない。

 しかし、推測して言えるのは、自分が行っていることに
強い確信を持っていて、その確信には一切の誤魔化しがないことだ。
 誤魔化しがないとは、都合の悪いことから目を背けたり、無理やり正当化して自己欺瞞していないと言うことである。

 
誠実に、真摯に自分自身や他人、社会と向き合い、妥協せずに考え抜き、積み上げて来たモノがそこにはあるのだろう

 また、そのようなレベルに近いものとしては、次のような状況がある。

 「自分のすべきこと、したいことはこれだ!」という行為を深い確信と共に見つけ、その行為にまい進している。

 「自分のすべきこと、したいことはこれだ!」という行為とは、「自分の人生の目的」と言えるものであり、「生まれて来た意味」と同義と感じ取れるものである。

 そのような行為を見つけ、かつ、まい進しているような状況では、その行為に従事すること自体に自分の存在意義を感じ取っているので、自分が認識する自身の価値は高いものとなっている。
 よって、基本的には他人の評価は気にならなくなる状態である。(もちろん、他人から評価された方が嬉しいだろうが)

 そして、そのような状況になれる行為というのは人それぞれで、イエスや釈迦のように、その後の世界に多大な影響を及ぼし続ける行為もあれば、そうでないものもある。
 また、そのような行為とは、大なり小なり、何かしら社会に良い影響を与えるものであろう。

 そのような、「自分のすべきこと、したいことはこれだ!」を見つけること、それは自分自身に確固たる価値を感じることの出来るようになる状況であり、そうなれば、自分を、そして、他人を許せるようになるのではないかと思う。

 

 ※(その16)へ続く

 

 

 

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10.許すということ

 

(2).自分自身を許す為には

 

③.自分の価値を上げる為にすべきこと

A.価値とは相対的なもの

 そもそも論として、
自分が感じる自分自身の価値とは相対的なものである。

 例えば、職場内で自分が一番パソコンが詳しく、パソコンで困ったことがあったら皆、自分に聞いて来るとしよう。
 その場合、他から頼られることで、自分の価値を実感しているはずである。

 しかし、自分より、はるかにパソコンに詳しい人が転勤して来て、皆、その人を頼るようになったらどうなるか。
 その場合、もはや頼られなくなった自分は、その職場内にて存在価値が下がったように感じるだろう。

 実際は、自分自身の技能が減じたわけではない。しかし、同種でもっと優れた技能を持った人が現れれば、その職場内で、以前よりは自分が価値ある人として扱われなくなってしまう。

 それは、
価値が相対的なものであり、他との比較によって判断されるものだからである。

 また、例えば、小説を書こうと思い立ち、書いてみたら自分では素晴らしいものが出来たと思ったとしよう。
 しかし、書いた小説を誰にも見せずにそう思っているだけならば、それは単なる自己満足にしか過ぎない。その小説を自己の価値を支えるものとして捉えるには、あまりに不安定である。

 一方、他人に見せて称賛され、さらには、賞に応募したら大賞を取った、出版したらベストセラーになった。
 そのような実績を上げた場合は、自分が感じる、小説という技能における価値の安定さは、はるかに上になるはずである。

 それは、
価値が相対的で、他から評価されて初めて実感できるものだからである。

 
結局、自分が認識する「自分の価値」とは他人からの評価なのだ。

 他人から評価されて、初めて認めてもらえるし、注目してもらえる、重く扱ってもらえる。
 そうして、そうなることによって、初めて自分自身を価値あるものとして感じることが出来るのである。


B.自分の価値とは、他人からプラスの評価をされること

 このように、自分の価値とは、結局は、他人から評価である。

 ならば、自分の価値を上げることにすべきこと、それは、

他人からプラスの評価をされるようにし、マイナスの評価をされないようにすること

になる。

 言い換えれば、
「他人から認められること、尊敬されること、一目おかれること」が、自分の価値を上げることになるのだ。

 では、具体的に
「他人からプラスの評価される」ようになる為には何が必要だろうか。


C.自分の価値を上げる為の三要素・・・人格・知性、善行

 自分の価値を上げる為に必要な要素は、次のものである。

人格・知性、善行

 この三つの内で必要最小限なのは人格と知性善行人格知性が備わっていれば自然と現れるものである。ただ、自分の価値を上げる為には重要なものなのであえて、要素の一つとして加えた。

<人格・知性>

 人格が高い方が自分の価値が高くなることについては説明は不要であろう。人格が低い人間は軽蔑の対象でしかない。

 そして、人格のみが高くても、知性が低ければお話にならない。
 知性がないと善悪の判断が出来ないし、問題に対する最善策も考えることが出来ないからだ。

 例えば、インチキ宗教に簡単に騙されて、
「この宗教を広めることが世の為、人の為になる!」と思い込んで行動している人など、社会にとって害悪でしかない。
 人格が高く、志は良くとも、判断力・考える力、つまり知性が無ければ、それは軽蔑・嘲笑の対象になるのである。

 
「知性が無ければ、志と行動を噛み合わせることができない」と言っていいだろう。


 なお、
「自分の言動の一部のみ、人格者のように振る舞い、一方でそれ以外では独善的に振る舞う」という偽善者がいる。

 そのような人間は右手で善行を行い、左手で悪行を行う。そして、右手の行いだけを見て、
「ああ、自分は人格者だ」と思い自己満足する。

 自分を誤魔化さず、首尾一貫した態度。

 自己欺瞞に陥らずに自己の人格を高める為には、そのような態度が基本となる。そして、それが出来なければ、ただの偽善者である。

 


<善行>

 先述の通り、人格知性が揃えば、自然と出て来るのが善行である。

 善行は、
「自分の価値を高める」という観点から言えば、多くの人がしている善行より、誰もしていない善行の方がベターである。

 例えば、
「被災地でのボランティア」というのは、多くの人がやっているので、自分が同じことをしても、その多くの一人にしか過ぎない。

 一方、例えば、
「社会が抱えている様々な問題の一つについて、根本的な解決法を考え出した」「社会が気づいていない問題点に気づき、その対策を示した」という場合は、それまでは誰も解決法を示せなかったわけだから、その分、高評価となる。

 
価値は相対的なものだから、既にある善行をするより、誰もしたことのない善行をした方が自分の価値も高くなるのである。

 当然、
「誰もしたことのない善行」を思い付く為には、相応の知性が必要となる。
 


 以上、漠然とした内容ではあるが、詳細に書き出すと終わらなくなるので、「自分の価値を上げる為にすべきこと」の解説はこれまでとしたい。

 なお、人格知性も高め続けて行くものであり、これで
「極めた!」という到達点はない。一生をかけて磨き続けて行くものである。


 また、先に上げた
「やってはいけないこと」をしても一部の人からは「認められ、尊敬されること」はある。

 例えば、詐欺行為でお金を稼いだ人を
「すっげぇス。尊敬するっスわ」と評価する人もいる。

 そのような人は、
「お金を手に入れる=自分の価値を上げること」だと勘違いしている人である。
 つまりは、同類同士で褒め合っているだけであり、結局は、大多数の人からは認められることもなく、尊敬されることもない。

 そして、そのような一部からの評価を受けても、やはり、偽りの価値で誤魔化しているだけなので、自分を許せることもなく、他人も許せることもない。


 ※(その15)に続く。

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10.許すということ

 

(2).自分自身を許す為には

 

②.自分自身の価値を上げる為にやってはいけないこと

Ⅳ.他人を騙す

 (その12)で述べた虚言癖と似ているものが、他人を騙すことで自分の価値を補おうとするケースだ。

 例えば、大災害が起きた時にツイッター等で意図的にデマを流す人がいるが、それもこのケースである。

 自分のウソに他人が騙され、そのウソが広まるのを見て、優越感に浸る。
 
他人を騙せたことで自分が一枚上手のように感じるババ抜きでウソのリアクションをしたりして、自分が思うカードを相手に引かせた時と同じである。
 そして、騙される人が多ければ多いほど、自分の価値がそれだけ上がったような錯覚を得ることが出来る。

 もちろんこれも、自分の価値が上がったと思うのは虚構に過ぎず、実際には価値を下げている行為である。


 

Ⅵ.他を否定する

 「劣等感」を解消しようと、他を否定する。これも、世間で良く見られる光景である。

 具体的には、例えば、次のような行為である。

○他人が作ったものを否定する
映画、ドラマ、漫画等 ← 「演技がヘタ」、「すっげぇ、つまんねえ」、「絵がヘタ、古い」
○他人が良いとするものを否定する
人気ラーメン店 ← 「無茶苦茶マズい」
人気アニメ ← 「超つまんない」、「ニワカが好きになるアニメ」

 もちろん、否定・批判してはいけないワケではない。
 しかし、こ
の手の人は「否定」自体が目的化しているので、とにかく何でも否定したがり、かつ、否定の表現が過剰で全否定することが多い

 また、その全否定も語彙が貧困で、よく使われる短いフレーズを多用する。
 本当に作品等の善し悪しを吟味して批判しているのではないし、そうする実力もないからである。

 当然ながら、自分は、自分が否定しているモノ以上のモノは決して作れない。というか、それに近いものすら作れない。
 しかし、否定
することによって、それらを作った人よりも上にいるような気になれる。また、他人が称賛しているモノを否定することによって、その他人よりも上の審美眼等を持っているような気になれる。

 
他を下げること、貶めるによって、相対的に自分の価値が上がったような気になれると言う、後ろ向きで安易な「劣等感」の解消法、それが「他を否定する」なのである。

 

Ⅶ.インチキ宗教の信者になる

 「Ⅲ.ウソで価値を補う」にてインチキ霊能者・チャネラーの例を上げたが、それは教祖のケースで、こちらは信者のケースである。

 信者が味わう優越感には、例えば次のようなものがある。

○自分たちはホンモノの霊能者・救世主を見つけることが出来た。
○自分たちは、高度な教え・真理を教わっている。
○教祖様から予言が提示されて、未来に何が起こるかを事前に知ることが出来る。
○自分たちは神の側の人間。
○教祖様の言う通りに行っていれば、天国行きが約束されている。
○自分たちは救われている。
       ・
       ・
       ・

 当然、このような優越感はマヤカシに過ぎず、信じていた教祖がニセモノだと分かった時には全ての価値は逆転し、その優越感劣等感へと変わることになる。

 


 以上、自分の価値を上げる為にしてはいけないことの例を記載して来た。どれも世間で良く見られるものである。

 そして、そのようなことをして、表面上は自分の価値が上がったような気になって自分を誤魔化しても、心の奥底では自分の価値が上がっていないことは分かっている。
 だから、
そのようなことをしている人たちは、ささいなことで怒るのだ。自分に価値が無い事が本当は分かっていて、自分を許せていないからである。(※インチキ宗教の信者の場合、怒らないケースがあるがその件については別途解説する)

 さらに言えば、自分の価値を上げようとして、これまで見て来たような行為を行うと
無限ループに陥ることが多い。
 例えば「Ⅲ.ウソで価値を補う」の場合だと次の通りである。

①劣等感 → ②ウソをつく → ③騙される他人を見て優越感を感じる → ③他から軽蔑される → ①に戻る。

 劣等感を解消しようとしてウソをつくと一時的に劣等感から逃れることができるが、結局はウソがバレて軽蔑される。さらに劣等感が増して、またウソをつく。

 ただの無限ループではない。
自分の価値を下げ続ける無限ループなのであり、本来の自分の目的とは真逆の行為をしているのである。

 また、例えば、「Ⅶ.インチキ宗教の信者になる」の場合だと次の通りである。

①劣等感 → ②宗教にハマる → ③一時的な優越感 → ④その宗教がニセモノだと分かる → ①に戻る

 一度、宗教にハマって、その時に得た優越感が忘れられず、今度は別の宗教を探して来てハマり、再び騙されて、また劣等感を味わう、という繰り返しである。
 そして、そのような行為を重ねれば重ねる程、身近な人からの軽蔑の度合いが高まって行くことになる。懲りることなく、愚かな行為を繰り返しているからだ。


 2例だけ見たが、基本的に他のケースでも同様である。
 また、同じ行為で
無限ループに陥らなくても、「今度は、この虚構的行為で」「次はそっちの虚構的行為で」劣等感の一時的な解消を繰り返している場合もある。

 劣等感を解消するには、自分自身の価値を上げるしかない。自分自身の中身を価値あるものにするしかない。

 それに気づかずに、劣等感を一時的、表面的に忘れさせてくれるだけの代替的手段を追い求めている限り、永遠に劣等感に追い回される輪廻は続くのである。

 では、自分の価値を上げる為には、どうすれば良いのだろうか。

 続いて、(その14)では、簡単にではあるが、その点について触れて置きたい。

 

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10.許すということ

 

(2).自分自身を許す為には

 

②.自分自身の価値を上げる為にやってはいけないこと

Ⅱ.他人の注目を手に入れようとする

  ・・・犯罪、虚言など。

 他の人から一切注目されないこと、それは悲しいことだ。

 例えば、両親が成績の良い弟ばかりの世話を焼き、話しかけ、自分の存在は無いも同然に扱われる。
 また、例えば、同窓会に行って、最初、形ばかりの挨拶をしたっきり、誰も話しかけて来ない。こちらから話しかけても、すぐに別の人との会話に夢中になって忘れ去られる。

 
注目されないこと、それは、興味を持たれないことを意味する。
 そして、興味を持たれないのは、価値を見出してもらえないからであり、つまりは、
「注目されない=自分自身の価値の否定」なのである。

 よって、時に、その
「自分自身の価値の否定」を否定しようとして、注目されること自体が目的化してしまうことがある。
 そして、
注目されること自体が目的化してしまうと、注目を手に入れる為には善悪を問わないという状況になってしまう。

 例えば、2008年の秋葉原通り魔事件もその例だ。
 この事件では、交差点にトラックで突っ込んで歩行者をはねた後、トラックを降りて通行人をナイフで殺傷した。17名が被害を受け、内7名が死亡である。

 そして、犯人はわざわざネットで犯行を予告し、犯行現場までメッセージを書き込みながら移動していた。そこまでして注目を集めたかった、
自分を見て欲しかったのだ。

 なお、そこには、「注目」以外にも、
「大きな事件を起こすこと→自分が大きな人間→自分に大きな価値がある」という勘違いもあったであろう。

<参考>
○Wikipedia「秋葉原通り魔事件


 「注目」は(その11)で見た、お金、権力、地位等と同様で、それを手に入れること自体は、自分の価値を上げることにはならない

 悪い事をしても注目されるし、良い事をしても注目される。
 それを
手に入れる手段・過程次第で自分の価値が下がることにもなり、上がることにもなるのである。


 また、注目を集める手段としては犯罪以外にも例えば、虚言、つまり、
「ウソをつく」というケースもあるが、次の項目で説明する。
 

Ⅲ.ウソで価値を補う

  ・・・ 虚言癖、誇大妄想、インチキ霊能者、チャネラーなど。

 虚言癖と言うものがあるが、それは、自分の価値の無さを言葉上で補うものである。
 当然、言葉だけなので中身は伴わない。

 そして、(その11)で見たようなお金・権力・地位等を実際に手に入れるより、よっぽど簡単、手軽であり、自分が価値ある存在であると言えば良いだけである。

「ベンチャー企業の社長」、「医者」、「国際線のパイロット」、「年収数千万」、「東大出身」、「歴史的有名人の子孫」・・・

 そのようなウソをつくことで他人の注目を集め、かつ、相手が信じ、自分をそのような者として扱ってくれるという行為で、自分の価値の無さを補えている気になる。
 もちろん、これも、
自分の価値を上げるどころか、下げているだけの行為である。

 そして、虚言癖の人は、
自分の価値を偽って大きく見せる為だけでなく、自分の価値が否定されようとした場合もウソをつく

・ウソを言った → そんなこと言っていない
・失敗をした → そんなことしていない
・約束を破った → そんな約束などしていない
・誤った指示をした → そんな指示はしていない

 自分がした、マイナスの評価を下される行為を指摘されると、それを否定する為にウソをつくのである。

 
ウソをつくことが、自分の価値を高める手段であると同時に、自分の価値を守る手段でもあるからだ。


 また、この虚言癖と似ているのが、インチキ霊能者、チャネラーなどだ。

 自分が特別な能力を持っていないことなど、自分自身が一番分かっているはずなのだが、
「自分は、特別な能力を持った特別な存在だ」と思い込むことで自分を価値あるものと考えようとする。
 
「妄想で自分の価値を補っている」と言っていいだろう。

 さらに、インチキ霊能者チャネラーなどは、頭の中での妄想だけでは満足できずに、他人を自分の妄想の中に取り込もうとする。
 自分の脳内だけでは、他人は自分を価値あるものとして扱ってはくれない。よって、自分の妄想を信じてくれる人を探し、共有してもらうことで自分の妄想をより確固たるものにしようとするのである。

 


 ※(その13)に続く

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※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)(その7)(その8)(その9)(その10)からの続き


10.許すということ

 

(2).自分自身を許す為には

 (その10)で述べたように、他人を許せないのは、自分自身を許せていないからである。

自分自身を許せていない人間は、他人も許せない

 では、自分自身を許せないとは、一体、自分自身の何を許せないと言うのであろうか。

 それは、
「自分自身の価値が低いこと」である。


①.「自分自身を許せない」=「自分自身の価値が低いと認識している」


 (その10)で2つの真逆の例をあげたが、その例で言えば、それぞれ、

○ずっと片思いだった相手が、実は相手も自分のことが好きだったことが分かり、付き合い始めた。

 → 自分自身の価値を最高に感じる状況

     → 自分自身を許せる

 
○そろそろ結婚を申し込もうと思っていた相手から、突然、「他に好きな人ができた」と別れを告げられた。

 → 自分自身の価値が無い、もしくは最低に感じる状況

    → 自分自身を許せない

 

となる。

 前者は、自分自身の価値を一番認めて欲しい人から認められた場合、後者は、自分自身の価値を一番認めてくれていると思っている人から全否定された場合である。
 そして、後者の状況では、自分自身の価値が無い、もしくは、最低に感じ、そんな状況を受け入れられずに自分自身が許せない。それが、他人を許せないことに繋がって行くことになる。


 このような「自分自身の価値が低い」との認識、それは「劣等感」と言われるものである。

 「劣等感」を持った人間は、時に、「劣等感」から目を逸らす為に自分を不当に大きく見せて虚勢を張る。

 そして、一方で、「劣等感」を思い出させるモノに脅えている。
 脅えているから、少しでもその匂いを感じ取ったなら過剰に反応し、怒りでもって威嚇して遠ざけようとする。

   馬鹿にされる
   自分の意見を否定される
   マナー違反の行為をされる
       ・
       ・
       ・

 このような「罪」は、自分の虚勢を否定し、せっかく目を逸らしている「劣等感」を思い出させるものであるから、許せないのだ。


 以上、他人を許せないのは、自分が許せないから。そして、自分が許せないのは、自分自身に価値がないと認識しているからなのだ。

 よって、

他人を許せるようになる為には、自分自身の価値を上げる必要がある

と言えよう。


②.自分自身の価値を上げる為にやってはいけないこと

 誰でも、大なり小なり「劣等感」を感じ、自分の価値の低さを認識しているものである。
『劣等感』を持っていない人などいない」と言ってもいいだろう。

 そして人は、その「劣等感」を解消しようと、つまりは、自分自身の価値を高めようとするものだが、
「誤った手段を選択し、自分自身の価値を上げるという結果を出せない」という場合が往々にしてある。

 まずは、世間でありがちな、「自分自身の価値を上げる為にやってはいけないこと」を見てみよう。

I.世間で価値があるとされているものを手に入れようとする。

  ・・・ お金、権力、地位など。

 例えば、お金を手に入れて金持ちになれば、貧乏という「劣等感」からは解放されるだろう。

 しかし、それは、
貧乏という点だけであるし、上には上がいるもので、お金の点において「劣等感」から完全に解放されることはない。

 そして、何らかの理由でお金がなくなれば、その点においても「劣等感」は再発することになる。

 
価値があるとされるのはお金であって、それを手に入れても、自分自身の価値が上がるわけではない。

 輝いているのはお金であって、その輝きに照らされて他からは明るく見えているだけ。
 お金を手に入れた人を他人が丁重に扱ってくれるのは、その人自身ではなく、その人が持っているお金の方に価値を見出しているからなのだ。

 そして、お金を失えば、その人が照らされることはなくなり、お金を得る前と同じになってしまう。
 
「お金を持っていること=自分自身の価値が上がること」ではないからだ。

 なお、お金を得る過程において、尊敬されるに値する努力や発想等があったのなら、その分、その人の価値は上がったことになり、それはお金を失った後も持続する。
 一方、その過程において、軽蔑に値する行為、例えば、詐欺などの犯罪行為をしたのなら、その分、その人の価値は下がったことになる。

 
お金はそれを持っている人自身の価値を上げもしないし、下げもしないので、それを得る手段によっては真逆の結果となるのである。

 ただ、世間では、「お金を持っていること=自分自身の価値が上がること」と勘違いしている人が多い。
 その為に、「劣等感」を解消しようと、他人を追い落とし、裏切り、必死になってお金を手に入れようとする人が少なくないのだ。

 実際は、そのような手段を使ってお金を手に入れても、自分の価値を下げる結果にしかならない。
 それは、自分自身を誤魔化す手段が増えたに過ぎず、当然、「劣等感」から解放されることもないのだが、愚かなことである。


 また、お金の他にも、「劣等感」を解消しようと人々が手に入れようとするものに、
権力地位、そして、「高級品で身を飾り立てる」などがあるが、全く同様である。

 その他、似たようなケースとしては、
「レアなグッズを手に入れる」というのも同様である。
 レアなグッズをゲットして、一時的な「優越感」を手に入れる。そして、それを他に自慢し、うらやましがられている時は「劣等感」を忘れることが出来る。
 しかし、自分自身の価値は何ら変わることはない。


 


 ※(その12)に続く

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