懐疑的だけど信じてます

神社とか神様とか、霊とか宗教とか、思うがままに綴っていくブログです。


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※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)(その7)(その8)(その9)(その10)(その11)(その12)(その13)(その14)(その15)(その16)(その17)からの続き


12.オススメ本

 これまで「許し」と自分の「怒り」の関係を述べて来たが、その、自分の「怒り」が子供の頃の経験に根ざしている場合がある。
 より具体的には、
「ずっと、親に自分の価値を否定されてきた」というケースだ。例えば、次のようにである。

○親に自己の延長として扱われていた。全て親の望み通り行動することを強いられ、一個の人格ある人間として扱われなかった。

○気分屋でヒステリックな親に振り回され、絶えず緊張状態にさらされて心が休まることが無かった。

○親に依存され、それに応えることを強いられて、子供として望むこと、したいこと、そして、感情の発露を抑えつけなければならなかった。

○親に言葉の暴力、物理的暴力を振るわれて育った。

 

 このような、「親に自分の価値を否定され続ける」という環境で育った場合、「自分の価値の無さ」が無意識下に刷り込まれることになる。
 そして、そうなると、大人になって、いくら素晴らしい結果や地位、名誉や称賛等を手に入れても、
「どこか満たされない」「自分に対する不足感」等が拭えないままでいることになってしまう。

 当然、そのような状況では、自分の価値を自分自身で認めることが出来ないのだから、他人はもちろん自分を許せることもなく、絶えずイライラしていることになる。


 上述のような、子供の人格や人生に悪影響を与える親は、ネットでは「毒親」と呼ばれている(※参考:Wkipedia「毒親」)。

 この「毒親」の言葉のもととなったのはスーザン・フォワードの『毒になる親』という書籍であり、その書籍では、そのような親について次のように述べられている。

『毒になる親』 (スーザン・フォワード/講談社α文庫/2001.10) P.9
子供に対するネガティブな行動パターンが執拗に継続し、それが子供の人生を支配するようになってしまう親

 そして、何故、「毒」という表現としたかについては以下の通りである。

『毒になる親』 (スーザン・フォワード/講談社α文庫/2001.10) P.10
ちょうど公害を引き起こす有毒物質が人体に害を与えるのと同じように、こういう親によって子供の心に加えられる傷はしだいにその子供の全存在にわたって広がり、心を蝕んでいくからである。

 該当書籍では、この「毒親」にどのような種類のものがあるのか、そして、そのそれぞれについて子供がどのような悪影響を受けるかについて、豊富な事例と共に紹介され、かつ、その悪影響を解消する手立てまで解説されている。

 あなた自身が、この書籍で紹介されているような「毒親」に育てられ、毒のまわった人生を生き、苦しんでいて、かつ、それに気づいていないのかも知れない。
 また、「毒親」に育てられたわけではなくとも誰にでも多少の歪みがあるもので、親の歪みがあなたの現在に多少なりとも悪影響を及ぼしているかも知れない。
 そして、歪みを抱えた他人に出会うことは良くあることであり、その歪みは「毒親」に育てられたからかも知れない。

 上記書籍は、自分を知り、歪みを認識して修正する上で、また、他人を知り、歪みを抱えた人に対して簡単なアドバイスができるようになる為に、かなり有用である。


 また、同様の書籍として、キャリル・マクブライドの『毒になる母』も合わせて推薦したい。
 基本的には書いている内容は同じなのだが、こちらは母親限定であり、また、
「あくまで比較すれば」の話であるが、こちらの方が読み易いものとなっている。

 両書籍は、先述の通り、ネットで「毒親」という言葉が広まっているくらいであるから、既に読んだことのある人も多いであろう。
 未読の方はぜひ一度、読んでみて欲しい。

 

 

 

 なお、両書籍とも、もともとアメリカで発売されたものであり、『毒になる親』の方は1989年発売とかなり前のものであるのでその点は留意して欲しい(『毒になる母』の方は2008年発売)。

 

 

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11.ささいなことで怒らない方法

(3).プラスワード法(プラスの言葉による怒りの抑制)

 こちらも、言わば自己暗示なのだが、(2)が「怒り」が生じた後に実行するものであるのに対し、こちらは「怒り」
を生じなくする為のものである。

 なお、この手法は、(その16)でも記載した以下の記事作成後に私が開発したものであるが、
正直、これが一番効果的であった(「開発した」と言っても、誰でも思い付きそうなものであり、似たようなものは既に存在するかも知れない)。特に、下記記事の「調心法」と合わせて行うのが理想である。

 また、「プラスワード法」は、名称がなければ説明しにくいので便宜的に名付けた。

○記事「調心法(仮バージョン)(その1) 1.「調心法」概略 」 ~(その2)

 では、「プラスワード法」の説明である。この手法は、

 「怒り」が生じる場面で出て来るマイナスの言葉をプラスの言葉に置き換えてしまう。
 そして、そのことによって
「怒り」の感情を生じなくする。

というものである。

 通常、我々は、「怒り」が生じる際、次のようなマイナスの言葉を共に発する(実際に口にするしないに係らず)。

・うざい
・きもい
・うっとおしい
・むかつく
   ・
   ・
   ・

 そして、このような言葉を繰り返すことにより、、発生した「怒り」を助長することになってしまう。

 ならば、そのような
マイナスの言葉をプラスのものに置き換えてしまえば、「怒り」が生じることはないだろう。
 そのような発想で開発したのが、この「プラスワード法」である。

 ただし、「怒り」が生じる場面になって、突然、プラスの言葉で置き換えようとしても、反射的にマイナスの言葉が出てしまうので無理である。
 よって、「怒り」
が生じる場面に遭遇する以前から、プラスの言葉で慣らしておく必要がある。

 より具体例をあげて、この手法を解説しよう。
 
 例えば、
「外出時に生じる『怒り』の発生を抑える」というケースだと以下のようになる。
 なお、このケースでは、プラスの言葉として
「カワユス」を使用する(※言葉自体はプラスのものであれば何でも良い)。

①.<家を出た時点から> プラスの言葉で慣らす

 プラス要素のもの、また、プラスでもマイナス要素でもないものに対して、
「カワユス」と思う。
<例>
○天気が良くて「カワユス」
○花が咲いていて「カワユス」
○前に人が歩いていて「カワユス」
○電柱が立っていて「カワユス」
○道がまっすぐで「カワユス」
 こうやって、心を「カワユス」状態にしておく。

②.<マイナス要素のものに遭遇した時>プラスの言葉で受け流す

 ①と同じように
「カワユス」と思う。
<例>
○喫煙禁止なのに歩きタバコしてて「カワユス」
○道路にツバをはいてて「カワユス」
○混雑している道で、前を歩いている人が突然立ち止まって180度ターンをし、ぶつかりそうになって「カワユス」
○電車でこちらが降りる前に乗り込んで来て「カワユス」
 通常、「怒り」を生じるケースも含め、単に不快に感じるケースに対してもプラスの言葉で受け、さらりと流してしまう。
 

 これが意外と上手くいく。

 言葉というものは、思っている以上に我々の精神に作用するもので、
「最悪だ」「ホント、ついてない」「イヤだイヤだ」「死にたい」などのマイナスの言葉を言い続けていれば暗い気持ちなるし、その逆だと全く同じ状況でも明るい気持ちでいられる。
 また、①を実行することによって心をプラスの状態にし、ベクトルを「怒り」とは逆の方へ向けているのもポイントであろう。


 ただし、私が常々否定している「極端なポジティブ状態」に陥らないよう気を付けて欲しい。
 あくまで、
「ささいなことで怒らない」ことが目的であり、「怒り」という感情そのものを無くすことが目的ではない。

 「怒り」に振り回されていれば、ただの独善、「怒り」がなければ、ただの軟弱。

 
怒るべき時に怒り、不要な時には怒らない。コントロールすることが究極の目標である。

 また、この手法は他にも、例えば、以下のようなケースにも応用可能ではないかと想定するが未実証である。

○自分の子供がどうしても愛せない。

 → 子供に対してはもちろん、それ以外に対しても
「カワユス」を繰り返し、自分の、子供に対する気持ちを「カワユス」状態にする。

○明日のイベント(プレゼン等)で緊張

  → 明日のイベント関連に対してはもちろん、それ以外に対しても
「オラ、ワクククすっぞ」を繰り返し、心を「ワクワク」状態にする。

○休みが終わり、明日からまた仕事が始まるので憂鬱

  → 上記と同様。
「オラ、ワクワクすっぞ」
 


 以上、このプラスワード法「イライラがどうしても治まらない」「普段からイライラして、いつ爆発するか自分でも怖い」等という方はぜひ一度、試して欲しい。

 また、この
「許すということ、許されるということ」シリーズは基本的には当記事で終了であるが、最後に(その18)では、本件に関連して読んで欲しい本を紹介して終わりにしたい。

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11.ささいなことで怒らない方法

 「10.許すということ」では、他人を許せるようになる手段として、自分の価値を上げることを記載した。
 しかし、これは一朝一夕に達成できるものではなく、
長期的な努力が必要となる。

 本章では、もっと
即効性のある手段、特に、「ささいなことで怒らないこと」を目的とした手段について記載し、当シリーズの締めくくりとしたい。

(1).調心法

 基本的には、普段から心を調えて心を落ち着けておき、「怒り」等のマイナス感情が生じないようにするのがベストである。
 そして、その上で「怒り」等が生じてしまった時は、その都度、解消するよう努める。

 その手法である「調心法」については、以下の記事に記載したので、詳細はそちらを参照して欲しい。

○記事「調心法(仮バージョン)(その1) 1.「調心法」概略 」 ~(その2)

 本章では、上記記事で記載していない事項について記述して行く。


(2).自己暗示

 誰でもやったことがあると思うが、自らの「怒り」を静めるのには自己暗示という方法があり、具体的には次のパターンのものがある。

①.怒ることの無益さ・無意味さを自分に言い聞かせる

 基本的には、怒っても何も解決しないどころか相手の反発を招き、さらに事態を悪化させることが多い。
 よって、次のように考え(※実際に言葉に出しても良い)、自分に言い聞かせる。

・怒っても何も解決しない
・怒れば、冷静さを欠く分、問題解決から遠のく
・イライラするだけ、エネルギーの無駄
・怒るのは、自分をコントールできていない証拠
・こんな程度で起こるのは人間が小さい

 また、上記は「怒る」こと自体の無益さ・無意味さであるが、次のように、怒っている相手を下げる方法もある。

・相手は怒る価値もない人間だ
・あんなヤツに怒りの感情を向けてイライラしているなんて、時間の無駄
・あんなことを平気でできるあの人は、むしろ、かわいそう

②.相手にプラスの感情移入をする

 「(その4) 4.許しの感情移入」で記載したように、対象に
プラスの「感情移入」をすれば、その分、対象に感じる「罪の重さ」も小さくなる。
 つまり、
プラスの「感情移入」をするよう努めれば、その分、「怒り」も小さくすることが可能である。

 具体的には、次のように考え、自分も相手と大して変わらない、もしくは、相手以上に罪深い人間であることを認識するよう努めることになる。

・自分も同じ過ち、もしくは同じような過ちをを犯したことがある
・自分はもっと大きな過ちを犯したことがある
・これぐらいの誤りは、誰にでもある

 「結局、自分も相手と同じ」ということで、対象にプラスの「感情移入」をするわけである。

 また、他人に怒っている場合は、相手の悪い部分のみを見ようとするので、逆に
「相手の良い点を思い浮かべる」というのも一つの手である。

 さらに、
「相手をよく知る」というのも、プラスの「感情移入」をする上で有効である場合がある。
 もし、相手が不幸な生い立ちや身の上であるなら、同情(
プラスの感情移入)して多少のことは許せるようになるだろう。

 なお、当シリーズでは一番最初に、聖書の次の言葉を引用した。

互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。 (『エフェソの使徒への手紙』 4章32節)
 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい (『コロサイの使徒への手紙』 3章12-13節)

 簡単に言えば、「あなたも主に許してもらったんだから、それを見習い、他人に怒ったり、責めたりしないで許しなさい」という意味である。

 そして、この意味をさらに分析すれば、次の三つになるであろう。

①.主の行いを見習い、同じようにしなさい。
②.あなたが受けた施しを、他にも分け与えなさい
③.あなただって過ちや罪を犯してる。よって、相手と同じ

 ①、②は、キリスト教信者、もしくは、「信者ではなくても、教えには共感している者」でなければ、意味のないものである。
 そもそも、
「イエスが磔にされて死刑にされたからって、他の人全ての罪が許されるワケねーじゃん」などと思っていれば、全く心には響かないからである。

 ただ、全くキリスト教を信じていないのではなく、多少なりとも教えには共感しているのなら、上記の聖書の言葉を使って「怒り」を小さくすることは可能であろう。

 そして、③は、
プラスの「感情移入」を促すものであると言っていいだろう。


 以上、自己暗示の言葉を記載して来たが、おそらくはそれで、すんなり「怒り」が治まることはないだろう。
 ただ、何度もこれらの言葉を繰り返すことにより、解消の助けとなるはずである。


(その17)へ続く。

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10.許すということ

 

 当記事では、「自分に揺るぎない価値を感じている人」、つまりは、「究極に自分を許せている人」というのを見てみよう。

 

(3).究極に自分を許せている人

 (その14)では、「自分が感じる自分自身の価値とは相対的なもの」
「結局、自分が認識する『自分の価値』とは他人からの評価」と記載した。
 しかし、実は、他から否定されても揺るぎない価値、つまり、相対的ではない
「絶対的な価値」を自分に感じているケースというものもある。

 例えば、イエス・キリストだ。

 イエス・キリストは磔刑に処される際、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去り、唯一、遠くから見守っていたペトロも三度イエスのことを知らないと言った。さらに、人々には侮辱され、嘲笑され、唾を吐きかけられ、殴られる。
 しかし、十字架に架けられ、まさに刑に処されている最中にイエスは次のように語り、自分を嘲り、殺そうとしている人たちの許しを神に請う。

『ルカによる福音書』 23章34節
父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

 普通の人なら、自分の運命を呪い、人々を憎み、また、自分が助かる為に祈るような状況であるが、むしろ、自分のことは捨て置き、自分と敵対する者たちの為に祈る。

 当然、イエス自身は人々のそのような行為を許せていたのであろう。そして、それは、
「究極」と言って良いほど、自分をも許せているからだ。
 このレベルまで行けば、自分自身に感じている価値は、他人からの評価を気にするような相対的なものではない。揺るぎない絶対的なものである。


 また、例えば、イエスのように他から否定されたワケではないが、釈迦などもそうだったであろう。

 年老いた釈迦は、最後の旅路で立ち寄ったバーヴァー村で、鍛冶工の子チュンダが用意したキノコ料理を食べて食中毒になり、それが原因で死亡することになる。
 食べて即座に死亡したわけでないが、釈迦には
「死に至らんとする激しい苦痛」が生じ、その苦痛に耐えながらクシナーラーに向かい、そこで入滅する。

 普通の人なら、そのようなものを食事として出したチュンダに恨み事の一つでも言いたくなるものだが、釈迦はむしろチュンダのことを気遣う。
 チュンダが後悔の念で苦しんだり、他から責められたりしないよう、次のような言葉を残すのである。

『マハーパリニッパーナ・スッタンタ』
友よ(※チュンダのこと)。修行完成者は最後のお供養の食物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益があり、大いに功徳がある。 ~(中略)~ ――この二つの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさにひとしい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳がある。その二つとは何であるか?修行完成者が供養の食物を食べて無上の完全なさとりを達成したのと、および、〔このたびの〕供養の食物を食べて、煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られたことである。

 むしろ、チュンダの食物を食べて、「無上の完全なさとりを達成し」「ニルヴァーナの境地に入」ったのだから、大いに利益と功徳があると言うわけである。


 さて、2つの例をあげたが、私自身がそのレベルにまで達していないので、そのような心境を詳しく説明することはできない。

 しかし、推測して言えるのは、自分が行っていることに
強い確信を持っていて、その確信には一切の誤魔化しがないことだ。
 誤魔化しがないとは、都合の悪いことから目を背けたり、無理やり正当化して自己欺瞞していないと言うことである。

 
誠実に、真摯に自分自身や他人、社会と向き合い、妥協せずに考え抜き、積み上げて来たモノがそこにはあるのだろう

 また、そのようなレベルに近いものとしては、次のような状況がある。

 「自分のすべきこと、したいことはこれだ!」という行為を深い確信と共に見つけ、その行為にまい進している。

 「自分のすべきこと、したいことはこれだ!」という行為とは、「自分の人生の目的」と言えるものであり、「生まれて来た意味」と同義と感じ取れるものである。

 そのような行為を見つけ、かつ、まい進しているような状況では、その行為に従事すること自体に自分の存在意義を感じ取っているので、自分が認識する自身の価値は高いものとなっている。
 よって、基本的には他人の評価は気にならなくなる状態である。(もちろん、他人から評価された方が嬉しいだろうが)

 そして、そのような状況になれる行為というのは人それぞれで、イエスや釈迦のように、その後の世界に多大な影響を及ぼし続ける行為もあれば、そうでないものもある。
 また、そのような行為とは、大なり小なり、何かしら社会に良い影響を与えるものであろう。

 そのような、「自分のすべきこと、したいことはこれだ!」を見つけること、それは自分自身に確固たる価値を感じることの出来るようになる状況であり、そうなれば、自分を、そして、他人を許せるようになるのではないかと思う。

 

 ※(その16)へ続く

 

 

 

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10.許すということ

 

(2).自分自身を許す為には

 

③.自分の価値を上げる為にすべきこと

A.価値とは相対的なもの

 そもそも論として、
自分が感じる自分自身の価値とは相対的なものである。

 例えば、職場内で自分が一番パソコンが詳しく、パソコンで困ったことがあったら皆、自分に聞いて来るとしよう。
 その場合、他から頼られることで、自分の価値を実感しているはずである。

 しかし、自分より、はるかにパソコンに詳しい人が転勤して来て、皆、その人を頼るようになったらどうなるか。
 その場合、もはや頼られなくなった自分は、その職場内にて存在価値が下がったように感じるだろう。

 実際は、自分自身の技能が減じたわけではない。しかし、同種でもっと優れた技能を持った人が現れれば、その職場内で、以前よりは自分が価値ある人として扱われなくなってしまう。

 それは、
価値が相対的なものであり、他との比較によって判断されるものだからである。

 また、例えば、小説を書こうと思い立ち、書いてみたら自分では素晴らしいものが出来たと思ったとしよう。
 しかし、書いた小説を誰にも見せずにそう思っているだけならば、それは単なる自己満足にしか過ぎない。その小説を自己の価値を支えるものとして捉えるには、あまりに不安定である。

 一方、他人に見せて称賛され、さらには、賞に応募したら大賞を取った、出版したらベストセラーになった。
 そのような実績を上げた場合は、自分が感じる、小説という技能における価値の安定さは、はるかに上になるはずである。

 それは、
価値が相対的で、他から評価されて初めて実感できるものだからである。

 
結局、自分が認識する「自分の価値」とは他人からの評価なのだ。

 他人から評価されて、初めて認めてもらえるし、注目してもらえる、重く扱ってもらえる。
 そうして、そうなることによって、初めて自分自身を価値あるものとして感じることが出来るのである。


B.自分の価値とは、他人からプラスの評価をされること

 このように、自分の価値とは、結局は、他人から評価である。

 ならば、自分の価値を上げることにすべきこと、それは、

他人からプラスの評価をされるようにし、マイナスの評価をされないようにすること

になる。

 言い換えれば、
「他人から認められること、尊敬されること、一目おかれること」が、自分の価値を上げることになるのだ。

 では、具体的に
「他人からプラスの評価される」ようになる為には何が必要だろうか。


C.自分の価値を上げる為の三要素・・・人格・知性、善行

 自分の価値を上げる為に必要な要素は、次のものである。

人格・知性、善行

 この三つの内で必要最小限なのは人格と知性善行人格知性が備わっていれば自然と現れるものである。ただ、自分の価値を上げる為には重要なものなのであえて、要素の一つとして加えた。

<人格・知性>

 人格が高い方が自分の価値が高くなることについては説明は不要であろう。人格が低い人間は軽蔑の対象でしかない。

 そして、人格のみが高くても、知性が低ければお話にならない。
 知性がないと善悪の判断が出来ないし、問題に対する最善策も考えることが出来ないからだ。

 例えば、インチキ宗教に簡単に騙されて、
「この宗教を広めることが世の為、人の為になる!」と思い込んで行動している人など、社会にとって害悪でしかない。
 人格が高く、志は良くとも、判断力・考える力、つまり知性が無ければ、それは軽蔑・嘲笑の対象になるのである。

 
「知性が無ければ、志と行動を噛み合わせることができない」と言っていいだろう。


 なお、
「自分の言動の一部のみ、人格者のように振る舞い、一方でそれ以外では独善的に振る舞う」という偽善者がいる。

 そのような人間は右手で善行を行い、左手で悪行を行う。そして、右手の行いだけを見て、
「ああ、自分は人格者だ」と思い自己満足する。

 自分を誤魔化さず、首尾一貫した態度。

 自己欺瞞に陥らずに自己の人格を高める為には、そのような態度が基本となる。そして、それが出来なければ、ただの偽善者である。

 


<善行>

 先述の通り、人格知性が揃えば、自然と出て来るのが善行である。

 善行は、
「自分の価値を高める」という観点から言えば、多くの人がしている善行より、誰もしていない善行の方がベターである。

 例えば、
「被災地でのボランティア」というのは、多くの人がやっているので、自分が同じことをしても、その多くの一人にしか過ぎない。

 一方、例えば、
「社会が抱えている様々な問題の一つについて、根本的な解決法を考え出した」「社会が気づいていない問題点に気づき、その対策を示した」という場合は、それまでは誰も解決法を示せなかったわけだから、その分、高評価となる。

 
価値は相対的なものだから、既にある善行をするより、誰もしたことのない善行をした方が自分の価値も高くなるのである。

 当然、
「誰もしたことのない善行」を思い付く為には、相応の知性が必要となる。
 


 以上、漠然とした内容ではあるが、詳細に書き出すと終わらなくなるので、「自分の価値を上げる為にすべきこと」の解説はこれまでとしたい。

 なお、人格知性も高め続けて行くものであり、これで
「極めた!」という到達点はない。一生をかけて磨き続けて行くものである。


 また、先に上げた
「やってはいけないこと」をしても一部の人からは「認められ、尊敬されること」はある。

 例えば、詐欺行為でお金を稼いだ人を
「すっげぇス。尊敬するっスわ」と評価する人もいる。

 そのような人は、
「お金を手に入れる=自分の価値を上げること」だと勘違いしている人である。
 つまりは、同類同士で褒め合っているだけであり、結局は、大多数の人からは認められることもなく、尊敬されることもない。

 そして、そのような一部からの評価を受けても、やはり、偽りの価値で誤魔化しているだけなので、自分を許せることもなく、他人も許せることもない。


 ※(その15)に続く。

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