懐疑的だけど信じてます

神社とか神様とか、霊とか宗教とか、思うがままに綴っていくブログです。


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※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)からの続き。


3.記憶の改竄

 

 「記憶の改竄」で採られる手段は、隠蔽、歪曲、捏造の三つであり(つまり、「情報の改竄」と同じ)、それぞれ次の通りである。

隠蔽 ・・・ 自分に都合の悪い記憶は、無かったことにする。

歪曲 ・・・ 自分に都合の良い記憶は過大に、都合の悪い記憶は過小に変更する等、実際にあった事柄を都合良く歪める。

捏造 ・・・ 存在しない事柄を記憶に追加する。

 この三つの手段につき、(その6)で記載したA、Bそれぞれの「記憶の改竄」に当てはめれば以下の通りとなる。

<A> 

○実際は車がバックする直前にドアが開けられたのだが、
「バックされている最中」にドアが開けられたことにし、Bの行為のありえなさをさらに高める(歪曲)。

 もともと、微妙なスレスレのタイミングだったのだが、自分の都合の良い方向へ発生時間をズラしたのである。


○警告音は鳴っていなかった(隠蔽)、もしくは、音楽でかき消された(歪曲)。

 後者は、音楽で多少聞こえにくかっただけのものを、
「聞こえない」までに歪曲したと言える。

 
<B>

○Aが
「降りて」と言っていないにも係らず、そのように言ったと記憶に追加する(捏造)。

 そのように記憶を操作することにより、Bの責任は一切無くなることになる。

 

 補足しておくと、これら三つの手段を使用する際、良心の呵責の強さの度合いは「隠蔽=歪曲 < 捏造」となる。

 情報の一部を見ないことや伝えないこと(隠蔽)、そして、多少大げさにしたり、歪めたりすること(歪曲)は、後ろめたさをあまり感じずに比較的容易に出来るものである。むしろ、そのような操作をして他人に情報を伝えたことのない人はいないであろう。それは記憶の操作においても同じである。

 しかし、存在しない情報を追加すること(捏造)は、よっぽどの強い欲求が裏になければ、良心の呵責が大きくて出来ないものである。(※中には、何の良心の呵責もなく、捏造をやってのける人もいるものだが)

 では、何故、Bは
「Aが『降りて』と言った」というウソを記憶に追加できたのだろうか。

 それは、その時ではないが、似たような状況で
「Aから『降りて』と言われた記憶」が存在したからである。

同じく、AとBの二人で、どこかに遊びに行った際、その時は駐車スペースが非常に狭く、駐車後に両サイドから降りることが困難であった。

よって、Aは駐車スペースに車を入れる前に一旦停止し、Bに
「降りて」と言った。

 よって、「Aから『降りて』と言われた記憶」自体はウソではない(もちろん、大ゲンカした時には言われていないのだが)。

 しかも、似たような状況である。そして、(その4)で記載したように、もともと、「(6).似た話は記憶が混同しやすい」

 その「記憶の特質」を利用して、Bは無意識だが、半ば意図的に都合の良い記憶の部分を混同させ、大ゲンカした時に「Aから『降りて』と言われた記憶」を創り上げたのである。

 もちろん、B本人に
「記憶を捏造した」という認識は無い為、良心の呵責も生じえない。だから、他から見れば、「記憶の捏造」と思えることも平気で出来たのである。


 さらに、「記憶の改竄」が生じるシステムについて解説しておこう。

 例えば、
「ハワイの海岸を想像して下さい」と言われた場合、我々は自分が保有する記憶の中から「ハワイの海岸」に相応しい記憶の断片を結合して、想像を創り上げる。

 それはあくまで、自分が
「適切」と判断するもので、もし、「ハワイの海岸」「千葉の九十九里浜のようなもの」と勘違いしていれば、そのような「ハワイの海岸」が想起されることになる。

 つまり、
記憶を想起する際の「適切」か否かの判断は客観的なものではなく、主観的なものにしか過ぎないのだ。

 よって、(その5)で記載した心理学の実験のように、先入観さえ植え付ければ、容易に記憶の改竄がなされることになる。

 本人にとって、その先入観を前提とした記憶が
「適切」と判断されるからである。


 また、AとBの大ゲンカの例で言えば、事実を正確に思い出すことにより、自分に強いストレスや葛藤が生じるような記憶は
「適切でない」と判断されたと言える。
 先にも述べた通り、
「適切」か否かの判断は主観的なものにしか過ぎないからである。

 よって、ストレスや葛藤が生じないような「適切」な記憶が作り上げられる
「記憶の改竄」が、日常レベルでごく当たり前に発生しうることになるのである。

 なお、このような
「記憶の改竄」がなされるか否かには個人差があるのは、これまでも述べて来た通りである。

 
「記憶の改竄」「先入観」によるものであるなら、それは、その部分をたまたま正確に記憶していた場合、「先入観」を与えられても容易に改竄はなされない。
 また、他人の言うことに常に懐疑的な人も、「先入観」を植え付けられにくいので同様である。

 一方、AとBの例のような、
「欲求」に基づく改竄の場合は、普段から客観的に物事を考えるよう努めている人には発生しにくい
 そのような人にとって、自分の都合によって事実を歪めることは避けるべきであり、
「記憶を都合よく改竄すること」「適切でない」と判断されるからである。

 
結局、頭の中の出来事であり、記憶を想起する際、客観的であろうとするか否かも本人次第なのである。


 ※(その8)に続く

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※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)からの続き。


 

3.記憶の改竄

 当記事では、、(その1)で記載した事例につき、何故、そのようなことが起こりうるのかを順に見て行きたい。


(1).大ゲンカした後、後日、お互いの記憶をたどってみると、何故か、ケンカの原因が一致しない

  これは(その1)でも記載したように、「お互い、もしくは一方が、自分の都合の良いように原因を歪め、記憶を書き換えたから」である。

 例えば、大ゲンカした理由は、次の通りだったとしよう。

 AとBは友人で、休日はよくAの車で遊びに行く。

 その日も新しく出来たアウトレットモールに、Aの運転する車で遊びに行った。
 駐車場に着き、Aは駐車スペースに車を入れようと一時停止し、ギアをバックに入れた。すると助手席に座っていたBが突然ドアを開け降りようとしたのだ。
 Aは後方に注意を取られていた為、そのまま気づかずに車をバックさせ、Bが開けたドアは駐車場の柱で損傷することになった。

 Aは声を荒げて怒り、一方、Bも謝ることなく反発し、大ゲンカになった。

 通常、駐車スペースに車を完全停止させるまでは降車しない。今まで2人で車で出かけた時も、そうだった。ただし、一度だけ、駐車スペースが異常に狭かった為、先にBを降ろしてから駐車スペースに入れたことはある。

 また、Bがドアを開けた際、「ピー!」と警告音が鳴り始めたので、Aがそれに気づいて車の後進を止めれば、大事にはならなかった。

 

 このように、「降りて」と言われたわけでもないのに、通常、降車しないタイミングで降りようとしたB。一方、警告音が鳴っているにも係らず、車を止めることなくバックを続けたA。
 どっちもどっちだが、どちらがより悪いかと言われれば、Bでないかと思われる。

 この後、二人はしばらくして仲直りをし、数年後、再びこの時のことが話題になったのだが、その時の会話が次のものである。

A 「車がバックしている最中に、突然、ドアを開けるんだもん。ホント、ビックリしちゃったよ。お陰でドア傷ついちゃったし。」

B 「いやいや、何言ってんの? 駐車スペースに入れる前に車止めて『降りて』って言うから、ドア開けたんだよ。で、降りようとしたら、バックし出すんだもん。ビックリしたのはこっちだよ。
 しかも、警告音ピーピー鳴ってるのに無視してバック続けるから、ドアを柱で損傷することになったんでしょ。」

A 「え?『降りて』なんて言ってねぇし、警告音なんか鳴ってなかったって。いや、大音量で音楽かけてたから、その音にかき消されたんだよ」

 
(事実関係補足)
・Bがドアを開けたのは、車がバックし出す直前で、バックしている時ではない。
・Bは「降りて」とは言っていない。
・音楽を流してはいたが、警告音がきちんと聞こえる程度の音量だった。

 全く話が噛み合っていないのだが、よくある話であると思う。
 そして、このケースではAとB双方につき、自分の都合の良いように記憶の改竄がなされている。

 大ゲンカをするということは、最初はその場の勢いで反発しただけでも、後には引けなくなるものである。
 そして、大声で相手を怒鳴っておいて、後で冷静になって考えてみたら
「悪かったのは自分だ」と気づいたとしたら、葛藤が生じ、強いストレスを抱え込むことになってしまう。
 むしろ、
「自分が如何に正しいか、かつ、相手が如何に悪いか」を考え、再確認したいものである。
 
 
「ストレス・葛藤を避けたい」、「自分が正しいと思いたい」、そのような欲求は時に記憶さえも改竄する。

 (その5)で見た記憶改竄の例は、他から「先入観」を与えることによってなされていたが、このように自分の「欲求」でなされる場合もあるのである。

 そして、その際の「記憶の改竄」
で採られる手段は隠蔽、歪曲、捏造の三つであるが、ここで一旦切って続きは(その7)にて。
 

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※当記事は(その1)(その2)(その3)(その4)からの続き。


 

3.記憶の改竄

 これまで見て来た「記憶の特質」により、記憶の一部を改竄することはそう難しいことではない。

 まずは、心理学の実験を見てみよう。


(1).心理学での実験の事例

①.存在しないものの記憶

『超常現象をなぜ信じるのか』(菊池悟・講談社) P.87-88
存在しないものの記憶
 ロフタスは、こうした偽りの記憶が簡単に作れることを気づかせるため、「誰かに実際にはなかったものの記憶をもたせる」という課題を授業で出しているそうです。
 この課題に取り組んだある学生のグループは、駅やショッピングセンターなど人が多く集まるところで次のような実験をしました。
 女学生二人がベンチに荷物を置き、時刻表を確認するために荷物から離れます。するともう一人の学生が、いかにも人目を避けるように荷物に近づき、そこから
何かを取り出してコートの下に隠すフリをし、急いでそこを離れてしまいます。
 やがて戻ってきた女学生は
「まあ、私のテープレコーダがなくなっている!」と叫びます。彼女は、そのテープレコーダは上司が特別に貸してくれた高価なものだと泣きながら訴えます(これが居合わせた目撃者に対する事後情報に当たります。実際にはテープレコーダは最初からありませんでした)。そして二人は周囲の目撃者たちに、犯行の様子を教えてくれるように訴え、多くの人は協力を申し出ました。
 後日、それらの目撃者たちに捜査担当者をよそおって話を聞いたところ、興味深いことに、
目撃者の半数以上がテープレコーダを実際に見たと答えているのです。そればかりか、存在しないテープレコーダについて、多くの人がかなりくわしく色はグレーだとか、アンテナがついていたとか、本当に見たようにいきいきと目撃談を語ったのでした。

(※管理人注)文字に色を付けたのは管理人。以下同様。

②.捏造される幼児体験

『超常現象をなぜ信じるのか』(菊池悟・講談社) P.88-89
捏造される幼児体験
 さらに
研究者たちは、まったく体験したことのなかった事件について、偽りの記憶を植え付けることに成功しています。たとえばロフタスとピックレルは、「5歳のころショッピング街で迷子になった」という偽りの記憶を何人もの人に植え付けることに成功しています。
 まず、あらかじめその人の親や兄弟、親戚などから、その人の子供時代のできごとをいくつか教えてもらっておきます。さらにその人は
5歳のころ、そのようなショッピング街には行ったこともないし、迷子になったこともないこともあわせて確認しておきます。
 こうして集めた「子ども時代に実際にあったできごと」三つと
「ショッピング街で迷子になって老夫婦に助けられた」という架空の迷子事件のあわせて四つを書いた冊子を用意しました。
 次にその人にこの冊子を読ませ、四つのできごとをどれくらい思い出せたか、面接を繰り返して聞き取りました。もちろんその人は、冊子に架空の事件が混じっていることを知りません。
 その結果、実際に体験したできごとの68パーセントはすぐに思い出されました。そして
問題のニセの迷子体験の記憶も、何と24人のうち7人が、一部または全体を本当に思い出してしまったのです。 

③.誘導尋問の効果

『超常現象をなぜ信じるのか』(菊池悟・講談社) P.89-91
誘導尋問の効果
 ~(中略)~
 誘導尋問とは、単に相手の口をすべらせて証言を引き出すテクニックではありません。場合によっては相手の記憶を変容させる事後情報として働き、あたかも本当の記憶を引き出すように、偽りの記憶を思い出させることもできるのです。
 ロフタスとパルマーが行った次のような実験でも、質問の仕方で想起される情報自体が変わってしまうことが報告されています。
 
参加者は、まず車同士が衝突する場面のフィルムを見せられ、その後で、この事故で車はどれくらいスピードを出していたと思うかを聞かれます。
 ただしこの時、
ある人は「車が激突(smashed)したとき、どれくらいのスピードが出ていましたか?」と聞かれ、別の人は「車が接触(hit)したとき」と質問が変えられていたのです。他にも「衝突した」「突き当たった」などさまざまに表現を変えて質問されます。
 その結果、すべて同じフィルムを見たにもかかわらず、スピードの平均推定値は「激突」の場合は40.8マイルともっとも速くなり、「接触した」は31.8マイルともっとも遅くなりました
 ~(中略)~
 そこでロフタスらは一週間後に「あなたは車のガラスの破片を見ましたか?」と質問してみました。実際のフィルムでは、ガラスの破片は写っていません。
 その結果、実際にはなかったガラスの破片を見たという人の割合は、「激突した」と事後情報を与えられている群では、「接触した」群の二倍以上になったのです
 これは誘導尋問が言語的な反応をゆがめたのではなく、記憶自体をゆがめている証拠と考えることができます。


 これらの実験から分かることは、次のことである。

<記憶の改竄は、先入観を与えることによってなされている>

①.実際は何も盗られていないが、「テープレコーダーがなくなっている!」と叫ぶ

 ・・・ 本来の記憶では、おそらく、泥棒役の人の手には、何かあったか無かったか判別できない程の曖昧なものであったと思われる。
 しかし、このような先入観を与えることによって、別の記憶からテープレコーダーの映像を持って来て、
「泥棒役の手にテープレコーダーがあった」という偽りの記憶を創り上げてしまうのである。


②.本当の出来事に架空の迷子事件を紛れ込ませ、ウソが紛れ込んでいることは知らせない。

 ・・・ 被験者はおそらく、5歳のころ以外でショッピング街に行った記憶と、他の迷子になった時の記憶等を合成し、架空の迷子事件の記憶を創り上げたのであろう。


③.車同士の衝突フィルムに対して、
「激突した」と表現する

 ・・・ 
「激突」に相応しい記憶に塗り替えてしまう。
 


 「先入観を与える」とは、この場合は、「ウソを真実だと思い込ませる」と言い換えてもいいだろう。

 「記憶の特質」として次のものがあるから、ウソでも真実だと思い込みさえすれば、本当は
「想像しただけ」のものであっても、「思い出した」と勘違いしてしまうのである。

【記憶の特質
(1).記憶は曖昧なもの
(4).人は「思い出す」と「想像する」を明確に区別できない


<記憶の改竄の容易さには個人差がある>

 これら三つの実験例において、全員ではないが①については半数以上、②は24人中7人の記憶の改変に成功している(※③については記載なし)。

 よって、
「皆が皆、容易に記憶が改竄されてしまう」と言うわけではないが、一方で、「記憶が改竄されてしまうのは、ごく例外」というワケでもないと言うことだ。

 それなりの割合の人が、記憶が改竄される可能性を秘めているのである。


 以上、このように、記憶の改竄が心理学の実験でも実証されていることが分かったところで、次に、(その1)で記載した事例につき、何故、そのようなことが起こりうるのかを(その6)で見て行きたい。

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※当記事は(その1)(その2)(その3)からの続き。


2.記憶の特質

(5).出来毎を話す・・・「映像を思い出す」が作業の一部

 我々が、自分が経験した出来事を話す時、事前に必要な情報を抽出して文章化し、それを記憶して人に語る・・・なんてことはまずない。

 では、どのようにして、自分の経験を他人に話すのか。

 それは、
経験した出来事の映像を思い出し、そこから必要な情報を選択して話しているのである。

 そのことを確認する為に、今日、朝起きて何をしたかを語ってみて欲しい。

目覚ましで目が覚めて、あと10分寝ようと思ったら、30分寝てしまって慌てて起きて、とりあえず顔を洗って、「ああ、食事とってる時間ねぇや」と思いつつ慌てて歯を磨いて、着替えて・・・

 このような感じであったろう。そして、それは朝の映像を思い出しながらであったはずである。

 他の経験でも確認してみれば分かるが、我々は自分の経験を語る時、無意識にその経験の映像を思い浮かべながら話しているのである。

 そして、それは、自分自身が経験した場合だけではなく、ドラマの1シーンを他人に話す時もそうであるし、他人から聞いた出来事を別の他人に話す時もそうである。

 なお、他人から聞いた出来事を話す時は、前提として次の作業が入る。

他人の出来事を聞いている時に、その光景を想像しながら聞く

 そして、その話を別の他人に話す時は、その、想像した光景を思い出しながら話すことになる。


 このように、
我々は意識していないが、出来事を話す時には「映像を思い出す」という作業もしているのである。

 よって、ある出来事を話せば話すほど思い出すことになり、その行為は、(その3)で述べた記憶の定着の「繰り返し」を実施することになって、より強く記憶に残って行くことになる。


(6).似た話は記憶が混同しやすい

 我々の記憶は、何の整理も無く、ただ雑然と記憶されているわけではなく、
ある程度、似通った分野ごとにまとめられて記憶されている
 それは、パソコンのハードディスクに、フォルダー毎に分類されて保存されている状態に近い(そこまで、きっちり分類されているわけでないが)。

 例えば、

彼女から「ねぇ、初めてデートした時のこと、覚えてる?」と聞かれて、「ああ、もちろんだよ」と答えた後、前の彼女との初デートのことを話してしまった。

という話はよく聞くものである。

 これは、今の彼女と前の彼女の初デートの記憶が似たような場所に保存されていて混同し、誤って引き出した為に生じたのである。

 また、似たようなケースとしては、

彼女と頻繁に旅行に行っているが、Aという出来事があったのが、どの旅行に行った時なのか分からなくなった。

というものもよくある。

 こちらも、
「彼女との旅行」という分野でまとまって記憶されいて、混同が生じた為である。

 このように、
我々の記憶は、整然と記憶されているわけでないが、ある程度はまとまっていて、ざっくりと記憶されている。その為、似た記憶は混同が生じやすいのである。


 以上、これまで記載してきた「記憶の特質」をまとめておこう。

【記憶の特質
(1).記憶は曖昧なもの

(2).記憶が定着する為の3つの手段
 ①.強い感情
 ②.意味付け・関連付け
 ③.繰り返し

(3).思い出す≒想像する

(4).人は「思い出す」と「想像する」を明確に区別できない

(5).出来毎を話す・・・「映像を思い出す」が作業の一部

(6).似た話は記憶が混同しやすい

 なお、記憶の特質としては「時間が経てば、薄れる」などもあるが、当記事と直接関係のないものは割愛する。


 ※(その5)へ続く

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※当記事は(その1)(その2)からの続き。


2.記憶の特質

(3).思い出す≒想像する

 多くの人が気づいていないと思うが、実は、我々がする「思い出す」という行為は「想像する」という行為とほとんど同じである。

 それを確認する為に、まず、
「遊園地に初めて行った時のこと」を思い出してみよう。

 それはおそらく、子供の頃で親に連れられてだろう。
 そして、通常、そんな古い経験は、ほとんど覚えていないはずである。

 しかし、

「家族で初めて遊園地に行った時の光景を、頭に思い浮かべてみて下さい」

※実際に思い浮かべて下さい

と言わて、無理にでもやろうとすれば、思い浮かべることが出来るはずである。

 何故、記憶にないはずのことを、思い浮かべることが出来るのだろうか。

 それは、
様々な記憶の断片をつなぎ合わせて、脳内にそれっぽい光景を創り上げたからである。
 思い浮かべたのは、もしかすると、
「最初」ではなく、もっと後に家族と行った時の記憶かも知れないし、また、行った時の記憶ではなく、その時に撮った写真を見た記憶から再現したものかも知れない。

 「脳内にそれっぽい光景を創り上げた」。そのことを確認する為に、もう少しピンポイントで思い出してみよう。

「初めて遊園地に行った際、何かを食べた時に座った椅子はどんなでしたか?思い出してみて下さい」

※実際に思い出して下さい

 「覚えてるわけねーよ」と思って諦めてしまわずに、同じように無理にでも思い出そうとしたら、不思議なことに思い浮かべることが可能なはずである。

 
当然、普通、そんなモノを覚えているはずがない。

 あなたが今、思い出した椅子、それは、遊園地のレストランの椅子かも知れないし、露店近くのベンチかも知れない。

 それは、あなたの記憶に保存されている数々の椅子の中から、「初めて遊園地に行った際、何かを食べた時に座った椅子」に最適だと思えるモノを選んだだけなのである。

 むしろ、これは、
「思い出す」というより、「想像する」に近い行為である。例えば、小説に描写された光景を想像するのと同じ行為をしたからだ。

 そして、その際、おそらく、あなたは
「思い出す」「想像する」という二つの行為を明確に区別せずに行ったはずである。

 
「いやいやいや、ちゃんと、『想像しただけ』って分かってましたよ」

 そう言う人もいるかもしれない。
 しかし、そう言えるのは、覚えていないことが明白だからだ。

 そして、もし、その前提が不明であれば、我々は、「思い出す」「想像する」という行為の区別が付かないものなのである。
 「思い出す」「想像する」という二つの行為は、ほとんど同じだからである。


(4).人は「思い出す」と「想像する」を明確に区別できない

 (3)で述べたように、「思い出す」という行為は、「想像する」という行為とほとんど同じであり、人は、その双方を明確に区別できないことが多い

 これらのことをより、はっきりと確認する為、続いて、記憶に残っている最近の出来事を思い出してみよう。

「できるだけ最近で、誰かと二人(二人以上でも可)で一緒にいた時のことを思い出してみて下さい」

※実際に思い出して下さい

 例えば、「友人と会って、あの道を通って、あそこでこんな話になって、そういや、あの桜綺麗だったよな・・・」という感じで、少し長めに。

 そうすると、その記憶映像には、「自分の目から見た光景」「自分も含めた光景」の両方があったはずである(恐らく後者の方が多かったであろう)。


 不思議に思わないだろうか?

 もし、本当に記憶を再生しただけなら、
「自分の目から見た光景」しか思い出さないはずである。

 しかし、我々は、過去の出来事を思い出す時、「自分の目から見た光景」だけでなく、「自分も含めた光景」をも思い出してしまう(ぜひ、別の記憶でも確認してみて欲しい)。

 当然、
「自分も含めた光景」は、我々の記憶にないはずのものであるから、それは「想像した」ものである。

 その想像の元となったのは、道を友人と歩く姿が写った写真の記憶かも知れない、また、ドラマで見た、主人公が友人と歩く姿の記憶から顔と服装を変更したものかも知れない。

 とにかく、その
「思い出した」つもりの記憶は、先程の遊園地の椅子と同様、そのシーンに最適だと思えるモノを記憶の倉庫から選び出して構築した、つまり「想像した」ものなのである。

 一方、「自分の目から見た光景」が脳裏に浮かんだ場合も、それは、本当にその時の記憶のものかは分からない。

 
「思い出した」つもりの友人の顔は、別の時に、より印象に残った際の記憶から引っ張って来たものかも知れない。
 よっぽど、その時に印象に残る出来事でもない限り、
「100%その時に記憶したものです」なんてことは誰にも断言できないはずである。

 このように、
我々は、「思い出す」つもりで、同時に「想像する」もしているのであり、その二つを明確に区別していないのである。

 何故、そのようなことになるか。

 それは、どちらも
「自分の記憶に蓄積されたものから、該当のシーン等を構築する」という作業で、基本的に同じことをしているに過ぎないからだ。
 ただ、言葉の意味上で、次のように区別されているだけなのである。

○自分が経験して記憶していること
   → 「思い出す」

○自分が経験していないこと、もしくは、経験したが記憶から消えてしまったもの
   → 「想像する」

 そして、この2つが明確に区別できるのは、小説で描写された光景を「想像する」時のように、自分が経験していないこと、もしくは、記憶にないことが明白な場合だけである。

 一方、
「思い出す」は、先述のように、「想像する」「思い出す」の両方を行う。
 そして、その際には、いったい、どこまでが
「想像する」で、どこからが「思い出す」なのか、よっぽどはっきりと記憶に残ってでもいない限り、自分でも区別が付けられないのである。


 ※(その4)へ続く

 

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