皆川公美子です。
昨日の
美術の社会性①~その原初には「感じる」というモードがある
には結構な反響をいただき、
こんなヲタクな記事に!?とびっくりした皆川です。
今日は、アートそのものではなく、
それを語る、すなわち評価する、評論する、批評する、という
文化について書いてみます。
作る人、
語る人、ってことですね。
「美術の社会性②」~美術を語るという文化についての考察
① で述べた「美術の社会性に関する原初的モード、感じるを取り戻す」を書くにあたって、
現在の美術をめぐる状況について、私の感じるところを表現したいと思います。
そのひとつの、美術を評論するという世界について。
美術をめぐる雑誌や、展覧会のリーフレット、ウェブマガジンその他、現代美術にかかわる記述はリアル、インターネットを含め、たくさんの媒体、多くの種類があります。
そしてそこにはとても興味深い記事がたくさん載っています。
それはアートが作家から発信された、その事象をにおける作家と鑑賞者の1対1の関係を超えて、アートを社会の潮流として捉え直し、カルチャーというものに昇華させる作業と言えるでしょう。
またひとりひとりの作家が発信している、作家の内部世界が「点」「個」であるとすれば、
その個別の存在を、「線」につなげ、ひいては時代という「面」にまで昇華させる作業であるとも言えます。
時代におけるカルチャーという「面」を眺め、知らなかった知識を吸収し、
新しい切り取り方に接する。そこにはめくるめく世界があります。
作家の作品と対峙し「感じる」というのとはまた別の、知的な喜びがそこにはあります。
時代の座標軸の上に、作家の感性を捉えなおすということにも通じるでしょう。
個々の解説や評論は、美術という世界の扉を開くものでもあり、
時代の評価や過去の流れの再評価という、人間の知的世界の「最もすてきな遊び」とも感じています。
(遊び、という言葉選びについては意味がありますが、ここでは長くなるのでふれません)
そしてそれは時代や文化を捉え直すという歴史の流れの中の作業であるため、
おのおのの書き手の方は、非常に真摯にその責務に向かい合い、
厳密性、正確性をもとめ、日々研鑽を重ねられる姿に感動を覚えています。
一方それは、ふつうに日常を暮らす一般の方には、「美術の魅力」として届きにくくなっているという現状も否めないかもしれません。
「むずかしい」。という言葉も聞きます。
もちろんすべてではないです。
言葉が難解であったり、
その記述を読むのに、一定以上の知識を必要とする場面が多いから。
それはしかし、正確な記述を目指すという意図のもとでは
ある程度しかたのないことです。
けれど、図らずも「美術をめぐるカルチャーに接するために、必要条件を満たすこと」という心理的外壁が存在してしまうという逆説が存在するのもまた事実でしょう。
美術をめぐるカルチャーが、
一般に広く受け入れられることを目的にもしている美術をめぐる論述、
それが逆に一般人を遠ざけているとしたら。
それは悲しいことです。
どうすればいいのでしょうか。
「現在の著述をもっと易しい言葉に変換し、わかりやすく美術を紹介すること」は一見その解決策に見えますが、実はそうではありません。
現在の著述や美術雑誌のいわゆる「むずかしさ」を平易なものにスライドすることは、
彼らの仕事ではありません。
私は、こう考えています。
美術をカルチャーとして捉え直す著述や評論家の階層とは
もうひとつ別の階層が存在するのが一番良好な解決策ではないかと考えます。
それは「感じたこと、感じることを自由に表現しているひとたちの階層」
です。
美術というものを、知識の蓄積の上にたって、
歴史の流れとして評価している階層は、
ある種歴史的責任を負っています。
そこには正確な記述、難しくても論述的整合性のある記述が求められます。
それとは別に、
無責任に(ということばをあえて使います)、自分と向き合い、自分のなかに生まれた美術から受け取った感覚を表現する階層。それが美術を含むワールドのなかに必要なのではないかと思います。
無邪気に表現する階層、と言ってもいいかもしれません。
無邪気に。
邪気なく。
そこには他者の判断や
世間的な常識やプレッシャーなどから
解き放たれたものが存在できるのではないでしょうか。
現代は、社会的にその事柄が「正しいか」「正しくないか」という二元論において、物事が議論されることが多い時代です。
もっと言えば「自分にとってどうか」「自分にどういう影響があったか」を語る場があまり好まれない風潮があると感じます。
しかし、ものごとが「正しい」か「正しくない」かは実態のないことがらです。
世間の常識、世界の善悪は、ニュースをみていてもわかる通り、全く意味をなしません。
常識は地域によってかわり、善悪は国の立場によってかわります。世界はカオスです。
人を殺めてはならない。というような
これ以上明白な善悪はないでしょうと思う事柄においても
宗教によってはある条件下においてこれをよしとしている人たちも
いるように見えます。
アートには国境がありません。
音楽も美術も、なにもかもひっくるめて、そこにあるのは個が感じる心であるからです。
美術をめぐる文化にも、善悪や正誤の感覚なく、
「自分にフォーカスして」語れる場があれば、
それはアートを生み出す現場と
アートを時代の文化として昇華させる現場の架け橋となり、
その世界に健全性が生まれるのではないかと想像しています。
だからね、どうやって見ればいいの?とか
そういうのは全く必要ないのですよね。
ただ、自分に何が起こっているかを観察する。
自分の身体がどう反応するのかを観察する。
それが、アートを見る、ということだと
思うのです。
FBの投稿に反応してくださった
ぬまたたかこさん。
和文化、漆器の制作販売もされてます。