『史記』の世界 - 堯 | 鸞鳳の道標

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 五帝の三人目は帝堯(ぎょう)です。名は放勲(ほうくん)。帝嚳の子で、嚳が崩じた後に摯が帝となるも不善であったとし、摯が報じた後に放勲が帝となります。
 「その仁は天の如く、その知は神の如く、これに就くこと日の如く、これを望むこと雲の如し」とあります。また、「富裕でも驕らず、高貴でも舒(あなど)らず。黄色の被り物に純衣、彤車と白馬に乗る」というのは、謙虚で質素であることを意味しています。純衣というのは黒い服、彤車というのは赤い車。派手な飾りなどを施さず、素のままであったということです。そして、「よく馴徳を明らかにし、九族と親んで睦まじく、多くの人々をうまく使いこなして、数多の国を和合させた」と、融和を大事にしたということです。
 この後に四人の家臣についての記述が続くのですが、東を治めるものが農民に播種を教え、仲春を定めた。南は繁茂を教え、仲夏を定めた。西は収穫を教え、中秋を定めた。北は越冬を教え、仲冬を定めたとあります。
 細かい記述はありますが、これは言うまでもなく時の流れ、四季を現わしているものです。伝説として捉えるべきでしょう。
 
 その堯も後継者を選ぶ時期となり、適任はいないかと四獄と呼ばれる家臣たちに尋ねます。そもそも、丹朱という長男がいるにも関わらず、です。
 放斉が、丹朱は聡明ですと勧めれば「徳に欠け、争いを好む」とし、 讙兜(かんとう)が、共工に人望があると勧めれば「口先だけで僻みがあり、恭順な振りをしているが天を侮っている」と退けます。次にはみなから鯀(こん)を勧められても「命令に背き、一族の嫌われ者だ」と一度は跳ね除けるのですが、みながそれでもと勧めるので仕方なく鯀を九年間試用するも成果は捗らず、ついに鯀を見限ります。
「四獄たちよ。私は帝位に就いて七十年になる。お前たちは天命に従い、帝位を継げ」
「徳がありません。帝位を辱めてしまいます」
「貴戚、疎遠、隠匿の者をことごとく挙げてみよ」
「独り者で、民間人ですが、虞舜という者がいます」
「なるほど、私も聞いたことがある。それでどうか」
「目の不自由な父は頑迷で、母は口うるさく、弟は傲慢ですが、彼は和やかで孝行者。家の中をうまく治めて、悪いことをさせないようにしています」
「よし、試してみよう」
 これは少々奇妙です。
 あくまでも伝承で、後世の創作であるとしても、帝位に就いて六十年を過ぎた堯が、成果が挙がらない男を九年間も我慢して使い続けていたのはどういうわけでしょう。実はこれは、「夏本紀」に続く話になっています。そして、虞舜のことを「聞いたことがある」なら、なぜ舜はその前に推薦されなかったのでしょうか、あるいは堯が自ら言うに憚るとしても、促すことは出来たはずです。そして、「帝舜」でも述べますが、民間人という身でありながら(少なくとも統一国家の)帝位に就いたのは舜、前漢の劉邦、明の朱元璋(しゅ・げんしょう)だけとなっています。しかし舜は民間人であっても、後の二人のような卑賎の者ではありません。先祖を辿っていくと黄帝に繋がっています。貴戚、つまり高貴な家系にある親戚であり、貴族なのです。貴賤を問わず、としていないところに意図的な、この話を作り出した頃の時代性を感じさせます。
 富永仲基が加上で指摘したように、舜を持ち出したのは孟子です。劉邦が登場するはるか以前のことで、民間人が帝位に就くことなど到底あり得ないような、驚愕の発想だったのでしょう。卑賎の者が帝位に就くことなど、想像だにしなかったのでしょう。舜の推薦はこの話の主軸であり、敢えて別人を持ち出すことで読者を焦らし、悩ませ、最後には誰もが驚愕する展開を迎えるという演出技法を用いたものであると考えることも出来なくはありません。
 
 この後は、堯の話というよりは舜の話で綴られていきます。
 堯が二人の娘を娶せて、その扱いを見ようとすれば、舜は二人の妻に婦礼を教導したことで、堯は喜びます。
 ちなみに姉の名前は娥皇。妹の名前は女英、または女莹、または女匽という話が残っています。
 また、「五典を和した」とあります。これは、父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝であることを教化したことを示しています。
 百官を管轄させたり、四方の門で賓客を接待させたり、山林や川や沢などを担当させてみると、舜はこれらをすべてうまく捌いてみせたのです。
 また、共工を幽陵に流罪として北狄に変じ、驩兜を崇山に追放して南蠻に変じ、三苗を三危に遷して西戎に変じ、鯀を羽山に殛して東夷に変じたとあります。
 讙兜が共工を薦めたものの堯は一旦拒否し、試しに使ってみたところ仕事に偏りがあったために、推薦者も連座で追放されたのでしょう。三苗族は江淮や荊州で乱暴狼藉をしていたとあります。鯀は治水に失敗しました。「殛」というのは幽閉のことです。これらは「變(変じた)」とあります。中原の東西南北に位置する異民族たち、すなわち東夷、西戎、北狄、南蠻の元となったというわけです。ただ、これらの異民族たちの開祖という意味なのか、元々いた異民族たちの元へ追放されて同化したのか、これだけではよく分かりません。ただひとつ言えるのは、後世、中原の人たちは東西南北の異民族たちに対し、文明や文化を理解できない野蛮な民族という侮蔑の意味が込めることになりますが、この伝承が正しければ、三苗族以外は中原から出てきた者たちです。一方で、文明や文化はそもそも中原から始まったのだと示唆する話とも受け取れます。
 これらの考えは、今後覆る可能性があります。かつては黄河文明が最先端であるというのが主流でしたが、遼河や長江にもそれに匹敵する古い文明があったという証拠となる遺物の発掘が進んでおり、長江文明は最大で紀元前一万年まで遡ることが出来る可能性が出てきたからです。
 ともあれ、これらの事績で確信した堯は、舜に帝位を譲ることとします。舜は最初は固辞したものの、翌正月一日に文祖の廟で帝位を受け継いだとあります。
 これがいわゆる「禅譲」です。血統によらず、本当に徳と実力のある者へ、帝位を譲るという行為です。これは次の、舜から夏の禹へ行われるものと合わせて、歴史上に二回しか行われていない美談とされています。後世、多くの王朝が禅譲により前王朝から帝位を譲り受けるということが行われていきますが、それらはあくまでも禅譲に名を借りた簒奪です。しかし、奪った側はあくまでも、徳が衰えた前王朝の皇帝から懇願され、やむなく帝位を禅譲されたということにし、自分は徳が高いから帝位に就くのは当然だという世間への言い訳、簒奪という汚名を回避するための建前の道具に使われるようになってしまったのです。
 
 堯が舜を獲得したのが即位七十年目。それから二十年経ち、自ら老いを感じたため、舜に政務を代行させ、併せて二十八年目(禅譲して八年目)に崩御したとあります。天下の人々は父母を失ったかのように悲しみ、三年の間は世界中で歌舞が行われることなく、堯を偲んでいます。
 かつて堯は丹朱が不肖の子であり、天下を任せられないと思っていました。そのことに逡巡しているうちに「舜に天下を授ければ、天下はその利益を得られるが、丹朱が困ることになる。丹朱に授ければ、天下が困ることになるが、丹朱が利益を得られる。天下を困らせておいて、一人だけ利益を得るなどとんでもないことだ」と考え、舜に譲ることに決めたとあります。
 三年の喪が明けると、舜は天下を譲り、丹朱に位を譲り、南河の南へ移り住んでしまいます。しかし諸侯たちは困ったことがあっても丹朱の元へは行かず、舜の元を訪れるばかりなので、ついに舜も「天命である」と感じ、都へ移って再び天子となるのです。
 もっとも、この二回の禅譲も伝承に過ぎず、簒奪ではないかと疑う向きもあります。特に擬古派が主張しており、材料としてはそれほど多くはないのですが、舜の回の後にまとめておきます。
 
 堯の治世を称えるものに、「鼓腹撃壌」があります。
 これは『十八史略』にある話です。『十八史略』は南宋末元初の曾先之(そう・せんし。字は従野または孟参)が書いたもので、その名の通り、十八冊の史書から一部を要約した、すなわちダイジェスト版として編んだ書物です。しかし『史記』にこの話が載せられておらず、曾先之がどこから引用したのか分からないため、創作である可能性も否めません。ただ、どのような政治を理想としているのかを端的に表していることから、幅広く知られるようになりました。今回はこの話で締めくくりましょう。
 
 堯が天下を治めること五十年、世の中はうまく治まっているのか、いないのか、人々が自分を戴くことを願っているのか、いないのか。
 左右の者に聞いても分からず、民間の者に聞いてもよく分からない。そこで微服に着替え、こっそりと大通りへ出てみると、子供たちが歌っているのが聞こえた。
 立我烝民 莫匪爾極 不識不知 順帝之則
(私たちの生活は大丈夫、天子様のおかげです。知らず知らずのうちに、帝をお手本にしています)
 今度は老人がいた。
 口の中に食べ物を含み、腹鼓を打ち、足で地面を叩きながら歌っている。
 日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田食 帝力何有於我哉
(お日様昇れば仕事へ出かけ、お日様沈めばお家で一息。井戸を掘って、水を飲む。畑を耕し、飯を食う。帝の力なんて、関係ないさ)
 これを聞いた堯は、自分の政治は民衆たちに自分を意識させることなく、ごく自然に豊かな生活を実現させることが出来たと実感したのである。