勝部元気のラブフェミ論

コラムニスト・勝部元気の公式ブログ。恋愛、結婚、性などの男女関係をより満喫できるヒントとなるよう、男女関係における様々な問題点について解説しています。


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 「ドッジボールの教育現場での強制・半強制を禁止にするべきではないか」というつぶやきをTwitterで行ったところ、大変たくさんの方々から賛否両論を頂戴できました。

ドッジボールという弱い者イジメを禁止にするべきでは?
http://togetter.com/li/828700


 改めて、ここではわたくし考えを簡潔にまとめさせて頂きたいと思います。

 まず、ドッジボールは、運動エネルギーを相手の身体にぶつけることが許容されており、その意味では、ボクシング・柔道・剣道などの格闘技に近い要素がある競技です。それにより、以下3つの特徴を有していると考えられます。



 (1)運動能力の弱い側に生じる恐怖心や心的外傷の特異性

 「運動エネルギーを相手の体にぶつける競技」では、運動能力や体格の差による影響がモロに出てしまいます。それゆえ運動が苦手な人は恐怖心に苛まされやすいなど、子供の心に大きな傷を与える可能性が他の球技に比べて高いと考えられます。実際、上記のまとめをご覧頂ければわかりますように、それがトラウマになったと感じている人も多くいます。もはや単純な好き嫌い・得意苦手のレベルの話ではないように思うのですが、いかがでしょうか?

 にもかかわらず、ボクシングや柔道の階級制のような、運動能力や体格差への考慮がなされているわけでもありません。また、投球のコントロールや力加減、キャッチングをトレーニングさせるわけでもありません。ルールは平易かもしれないですが、安全にプレイするための体力やスキルを身に着けるのは平易ではありません。現在では柔らかいボールも普及し始めていますが、全国の学校で徹底されているわけでもありません。

 結果、コントロールもいまいちで力加減もできないのに力はそこそこある男子たちから直接硬いボールをぶつけられるわけですから、恐怖心やトラウマを抱いてしまうのは当然だと思います。

 確かにこの力の差による恐怖心や心的外傷は、運動能力のある人には分かりにくいかと思うのです。ですが、おそらく小学生の頃楽しかったという思い出のある人も、それが毎回と中学生を相手にしなければならないものであったとなれば、また違った感想を持っていたのではないでしょうか?

 また、顔に怪我をした時も、他の競技のようにボールがぶつかってケガをするのと、ぶつけられてケガをするのでは、心理的ダメージは明らかに質的に異なります。当然、心理的な影響はぶつけられるほうが強く残る可能性が高いと考えられ、おそらくもしサッカーやバスケットボールの選択制の提唱であれば、賛同を表明する人はもっと少なかったはずです。

 実際、私が出演させて頂いた「ビビット」(TBS系)の6月5日(金曜日)放送分でも、吉田明世アナウンサーが「ドッジボールという競技にだけ疑問を持っていた」「どうしてわざわざ鼻がもげるようなことをやらされなければならなかったのでしょうか」という体験を語られています(2015/6/8 23:56追記)。このように、ぶつけるということが故意に行われるという特異性ゆえに、「ドッジボールという競技に対する疑問を持つ層」が生まれることの一因でもあるでしょう。

 なお、「ドッジボールのような多少危険な競技を通じて、怪我の痛みを知ることも必要だ」という意見もありますが、もしそうであれば全員が等しく怪我の痛みを知る機会が必要でしょう。ところが、ドッジボールでは基本的に運動能力の低い子しか怪我を負わないわけですから、怪我の痛みを知る機会としては機能不全であると言わざるを得ません。



 (2)感受性の問題で受け入れることができない人が一定程度いる

 とりわけ女性に多いですが、相手の体にボールをぶつけるという行為自体に嫌悪感を持つ人も少なくありません。これは運動能力のある無しに関係無く、あくまで個人の「感受性の問題」です。ボクシングで人を殴る行為が野蛮な行為だという人や、柔道で相手を投げ飛ばすのが野蛮な行為だという人がいるのと同様に、ボールをぶつけるということを野蛮だと感じる人は一定程度いるわけです。

 私がドッジボールを「野蛮」と表現したことも賛否両論を巻き起こした一つの原因だと思うのですが、決して私個人の印象からその言葉を使ったわけではなく、実際にそう感じている人が一定数いるから使用しました。セクハラ問題なども同様ですが、トラウマ被害が一定以上の確率で発生しているようなシチュエーションでは、現状を肯定する側ではなくて、負の感情を抱いた側の感覚で決めるべきでしょう。

 「苦手なら練習すれば良いだけ」という反論もあったのですが、感受性の問題なので、練習したところで何も解決しないわけです。自分がされて嫌なことは相手にもしないと思っているから、努力して強者の側に回ろうとも思わないのです。

 「どうしても無理な子は外野に回せば良いのでは?」という意見がありますが、チーム編成によっては、「外野希望が殺到して内野に回らざるを得ない」というシチュエーションが生じています。ゲームを成り立たせるために先生が生徒を無理矢理内野に回すということもあるので、外野に回すという対策だけでは解決にはならないのです。

 また、感受性の問題であっても、大人になってその行為が引き続き必要であれば、学ばせるべきかと思います。ですが、他人にものをぶつけるという行為が、果たして大人になっても引き続きする必要があるのでしょうか?むしろ相手の気持ちを察することができず、特定の個人に向けた言葉のドッジボールをしてしまっている人はたくさんいるのです。

 たとえばインターネット上では、ママタレブログのコメント欄や2ちゃんねる、NewsPicksなどにおいて、平気で特定個人相手に言葉をぶつける現状があるわけです。また、リアルな生活でもモラハラや、ヘイトスピーチ、言葉のDVなど、人の痛みを理解できていない大人は数多くいます。

 結局、人の痛みよりも、人に暴力をぶつけることが許されるということを学んでしまっている人も多いのではないでしょうか?中には「ドッジボールは多少痛みのある競技だから、逆にそれを通して人の痛みを学べた」という人もいらっしゃるようですが、あくまで一部であり、その人の自身の人間性に依拠する部分が大きいと言えるでしょう。



(3)構造上、悪意のある生徒に悪用されると、被害者の心的外傷を増幅させやすい

 (1)のような構造的な問題を含んでいるため、悪意のある生徒に悪用されると、被害者の心的外傷を増幅させやすい競技と言えるでしょう。構造上、「どんくさい奴に当てる」ほうが有利な競技であるため、気に食わない奴に当てたいという欲求と一致しやすいのです。

 実際、私の意見に賛同を表明する方々の中には、「公開処刑に遭っていた」「教師公認の血祭りにあげられるような感覚だった」「顔面セーフを悪用された」「合法的なイジメだった」と述べていらっしゃる方が数多くいます。このように子供の人格形成に歪みを与えてしまう可能性があるということは疑いも無い事実です。

 にもかかわらず、スポーツマンシップの欠如した人が加害意思を持ってボールをぶつけることに対して「警告・退場・参加禁止」などの制裁を加えられることは基本的にはありません(※公式ルールではなくあくまで学校の現場で)。指導する側の力量の問題を指摘する人もいますが、そもそも教師が悪意を見抜くのはかなり難しいと言えるでしょう。イジメによる自殺が起こった時の記者会見で教師たちが「認識できていなかった」と言っているように、楽しそうにしているように見せかける子供の巧妙さを侮ってはいけません。

 ちなみにアメリカではドッジボールはキラーボールやマーダーボールと呼ばれたこともあって、禁止されている地域も出てきているとのこと。(※これはあくまで他国の事例であり、私の見解ではございません)

 

 以上3点が運動エネルギーを相手の身体にぶつけることを目的とする競技の特徴と、ドッジボールが質的に格闘技に近いとする論拠ですが、もちろん身体にダメージを与えるスポーツが存在すること自体は全く否定しません。むしろ、ボクシング、空手、フェンシング、テコンドー、相撲などと同様に、ドッジボールも素晴らしい競技の一つです。

 ただ、ボクシング、空手、フェンシング、テコンドー、相撲などが楽しみたい人だけが楽しむ競技であるのと同様に、ドッジボールも楽しみたい人たちだけが楽しめば良い競技にしたほうが良いと思うのです。ですから、仮に学校という場で扱うのであれば、中学校における柔道・剣道・ダンスが選択できるように、身体へのダメージを目的としたものを避けたいと思う子供が、自主的に避けることができる仕組みが必要だと思うのです。

 つまり、体育における競技の取扱いは、1.取り扱って全員参加、2.取り扱って選択参加、3.そもそも取り扱わない、の3つが存在するかと思うのですが、1と2の線引きの基準をどうするかについて、「他者の身体に運動エネルギーをぶつけることを目的にしているか否か」というのを基準の1つにするべきではないか、それに伴い、ドッジボールの取り扱いを1から2の選択制に移行するのがベストなのではないか、というのが私の意見です。

 今回はあくまでドッジボールの問題しか取り上げられませんでしたが、この3つのうちどこに配置するのが適当かという問題は他の競技にも言えることです。最近話題になった組み体操における人間ピラミッドの高層化問題などもそうですが、ドッジボールだけでなく、全ての競技において現状の取扱が正しいのかは、一度洗いざらい見直しても良いのかもしれません。



 なお、選択制導入ではなく、全員参加を保ったまま安全面への配慮を徹底する手段で対応するのが良いのではないかという意見もあります。実際、一部ソフトなボールの使用やドッチビーへの転換などで対策をしている学校もあるようです。もちろんこれは大変意義のある対策であるとは思いますが、私は安全面を徹底して全員参加させるよりも、やはり選択制のほうが手段として優れていると思っています。

 というのも、1.運動能力が高くほとんど怪我をしない、2.大好き、3.スポーツマンシップに則ってプレイできる、という3条件が揃っている人同士であれば、むしろ変に安全対策をするよりも、ドッジボールの公式ルールに則って全力でプレイしたほうが良いと思うのです。やはり全力でやるというのも競技の楽しみの一つですし、中にはその楽しさを知った生徒が将来スーパードッジボールプレイヤーになるかもしれませんから。

 そうやって「出来る子」が存分に力を発揮できる環境と、運動音痴の子がトラウマにならない環境およびボールをぶつけることを野蛮だと感じるような感受性を持った子に野蛮だと思うことをさせない環境を両立するには、やはり選択制が最も適していると言えるでしょう。欲を言えば、選択した人の中でも習熟度別で分けられると最高ですね。





 次に、選択制そのものの問題です。選択制そのものに対するご批判もたくさん見受けられましたので、「選択制の必要性」について2点ほど紹介したいと思います。

(1)同調圧力の問題

 批判意見の中に、「みんな仲良くすることが大切だ」という意見からドッジボールの選択制への転換を反対していらっしゃる方がいます。確かにみんなで一緒にやることの素晴らしさというのは否定しませんですし、人は生きている限り最低限の公共の福祉を守りながら生活しなければなりません。

 ですが、教育の現場にいて思うことは、団体行動となると、どうしてもそれができない子っているんですよね。必ずしも適切な例ではないですが、発達障害を抱えた子にはその傾向が多いと思われます。みんなで一緒にできない子を無理に「みんな」の枠に押し込めようとしたところで、みんなで一緒にやることの素晴らしさは全く伝わらないし、むしろ歪みが生じるだけです。

 また、「みんな仲良く」をあまりに求め過ぎることにも疑問を感じます。教育学の分野ではピアプレッシャーと言われているように、それが同調圧力としてかなり「生きづらさ」を生んでいるのは紛れもない事実です。先日、フリースクールを義務教育扱いとする法案を超党派の議連で提出することが話題になりました。結局のところこれまでの「みんな仲良く」の学校教育では現実の問題に対応できないから、フリースクール義務教育化のような対策が必要とされるわけです。

 また、かりにみんな一緒に仲良くすることの素晴らしさを子供に伝えるとしても、それがドッジボールという手段でなければならない意味は何でしょうか?他にもみんなで一緒に楽しさを味わうことができるものは、いくらでもあるはずです。前半部分で出てきた3つの特徴の無い他の競技ではなぜダメなのでしょうか?

 なお、今回のメインテーマとはちょっとズレますが、たとえそれが休み時間であったとしても、「お外で元気に遊びましょう~」と先生自身がドッジボールを半強制的にやらせたことで、拒否しようとすればクラスメイトから「みんなと仲良くしないやつ」という卑下の目で見られるのが苦痛だった、という人も結構います。みんな仲良くは果たして休み時間にまで適用されるべきなのでしょうか?「子供は元気な子」という大人の勝手な妄想のもとに、必要以上に同調圧力を助長するようなミスリードは、一刻も早く是正されるべきでしょう。

 「子供たちが純粋に楽しんでいたら良い」とも言われますが、大人は子供を良いように解釈しがちです。たとえば、「胎児がお腹を蹴る=元気」と勝手に解釈されてしまうのとかその典型ですが、ドッジボールで辛い思いをした人も、強制的に参加させられた時は先生たちから楽しそうにしていると勘違いされてきたわけですから、楽しそうだから良いというのは完全に先生や大人のジャッジミスなのです。



 (2)教育における「自主性」と「強制」

 ここでは反対意見や質問に答える形で回答して行きたいと思います。

Q◆何でも禁止にして良いのか?

A◆私は安易な禁止論には反対です。たとえば、公園の遊具が使用禁止にされているところが増えていますが、それには疑問です。ドッジボールと違って、公園の遊具は強制されてやるものではないですから。ドッジボールを楽しむ子たちもたくさんいて、彼ら彼女らの楽しみを奪うことは絶対にしてはいけません。

 私は教育において最も重要視されるべきは自主性だと思っています。それゆえ、子供の「自主性」「やる気」を尊重した選択制への転換を希望しています。興味のあることを見つけさせて、成功体験を積ませて、他の分野へのやる気を持ってもらうという、プラス感情を最大限に生かす教育がベストであろうと考えています。これは運動に限らず、勉強や芸術などもそうです。


Q◆自主性を重んじる教育では忍耐がつかないから、強制をさせるべきでは?辛い試練も必要では?

A◆もし本当に試練が糧になるのなら、大人になって「本当に辛かったけれど、おかげで強くなれた!」とみんなが口をそろえて言うはず。なのに、「辛い思い出だけで糧になっていない。むしろトラウマ」と感じる人が続出しているのですから、忍耐をつけさせるのには失敗していると思うのです。

 結局、辛い試練も必要だと主張する人の多くは、ある程度「成功している」人が多いように感じています。つまり、成功しているから過去の苦難にも意味を見いだせるのです。逆に、今成功していない多くの人にとっては、当時の苦難は今もただの苦難でしかありません。

 また、かりに子供に忍耐することを学んで欲しいというのであれば、それにはしっかりと仕組みを整えて、常に細心の注意を払って子供の心理状態をチェックするなど、徹底的なサポートが必要です。忍耐は単純にやらせているだけで自ずと身につくなんて、そんな生易しいものではありません。もし仮にドッジボールで忍耐がついたという人がいても、それはたまたま手に入れることができた、偶然の賜物でしかないのです。なお「痛みを知ることで弱い者への配慮も学べた」という人もいましたが、それも多くがたまたまにしか過ぎないのです。
 

Q◆自分は努力して乗り越えたから乗り越えようとしない奴が悪いと思う

A◆その考えには本当に反対です。努力しなかれば心を傷付けられて良いのでしょうか?このような努力至上主義が、子供の自己肯定感を蝕むのです。「子供に嫌いなものをやらせないのはダメだ!」と言う前に、まずは好きなものを見つけさせてあげるのが大人の責務だと思います。むしろ、大人が強制的にやらせることをばかり考えているから、子供がやらされたものが嫌いになるのだと思うのです。

 なお、彼ら彼女らのような「努力すれば報われる。報われていないのは努力が足りないからあなたが悪い」という人が陥っているのは、「Just-world hypothesis」という、社会心理学の分野でも問題にされている認知バイアスです。世界は公正にできていると誤った認知をしているがゆえに、被害者側に改善の余地があると信じ、被害者側を責め立ててしまうのです。実際、今回のケースに限らず、何か事件が起こった時に被害者側を責めたててしまう人が必ず出現します。


Q◆大人の世界は弱肉強食だということを教えるためにも、ドッジボールで苦痛を覚える経験も必要では?

A◆自己肯定感の育成が完了しない段階で弱肉強食に晒すのは意欲をくじくだけですし、そもそも弱肉強食を子供に押し付ける前に格差が広がる大人の世界のほうを修正するべきではないのでしょうか?


Q◆選択の権限を子供に与え過ぎでは?

A◆選択の権限って本当に子供に託し過ぎているでしょうか?むしろ私はまだ足りないと感じています。強制で育っているから、大人たちにも、「上から言われたことしかやれない」「自分の意思が無い」「自分の選択に責任が持てない」という例が多いのではないでしょうか?





 今回の一件を通して、ドッジボールほど、やって楽しい側とやられて辛い側がこれほど明確に分かれる競技は無いと感じました。楽しくやっている側は悪気は無いのですが、自己の優位性を自覚することが難しく、辛い側の心の痛みが理解しにくい。ですが、逆にそれが、余計に苦手な人が声をあげにくい雰囲気を招いているように思います。

 ドッジボールを「楽しかった」という人たちは、是非この構造問題に意識を向けて頂き、もしかしたら苦痛を感じる人々の上に成り立っている楽しみであるかもしれないということを知って欲しいと思います。

 でも、残念ながら反対意見を見ていると、かなりズレた意見も目立ちます。私が今回は話しているのは、ドッジボールによって心に傷を負う子供たちをこれ以上出さないために、どういう手段が取れるかという救済手段のアイデアであり、その一例としての選択制への転換です。にもかかわらず、自分が楽しかった思い出話など、ソリューションとは全く関係のない話を語る人も多くいらっしゃったのはとても残念です。

 先月「なぜ、部活動は肥満を招くのか?」という記事でも書きましたが、日本におけるスポーツの向き合い方には、運動嫌いを助長する面も多く、まだまだ改善すべきところがたくさんあります。もうすぐ二度目の東京オリンピックがやってくることを機会に、今一度生涯スポーツの観点から教育におけるスポーツのあり方を徹底的に見直すべきだと思うのです。




 ※スポーツマンシップに則って真剣にドッジボールを競技されている方々を応援しています。ただ、そのような方々こそ、「ドッジボール大嫌いだった」という多くの悲鳴を見て、自分の好きな競技がこんなにも嫌われているということに、イヤな想いをしたはずだと思うのです。また、私が「野蛮」という表現を用いたことは真剣にやっている人や子供への侮辱であるという批判を頂きましたが、現実問題そう感じていらっしゃる方々がいるのです。では、どうすればドッジボールを野蛮だと感じる人が減るかと言えば、もちろん野蛮だと感じてしまう人に無理矢理やらせなければ良いのです。そうすればドッジボールは野蛮では無くなります。是非、この現状を改善し、好きな人が思いっきり楽しめるスポーツになるよう、声をあげて欲しいと思っております。

 ※「ドッジボールがイジメにも利用されているケースも散見される」というところを、「ドッジボールを無くせばイジメが無くなる」という意味に誤読し、「ドッジボールを無くしてもイジメは無くならない!」という主張をされていらっしゃる方もいました。ドッジボールを禁止したところで、イジメが無くなるわけではないというのは私も同様の意見です。今回はイジメを解決するための提案ではなくて、あくまで「イジメに悪用されやすい競技を学校教育の場で全員参加のものとして取り扱う是非」のお話です。イジメの問題と競技の問題は完全に別の問題であり、イジメを無くすために取るべき対策も全く別の問題です。今回の内容はそこを論じているものでは決してありません。

 ※個人的にドッジボールに対する好き嫌いの感情は特にありません。あくまで社会に隠れた問題を炙り出すのが私のミッションであり、声なき声を抱える人々に寄り添える人間でありたいと思っております。 

追記情報
(1)文章が長くて見にくいというご指摘を頂いたので、前半のドッジボールと格闘技の類似点を説明する箇所と、選択肢のメリットを説明する箇所に番号付けを行いました。(2015/6/6 20:00)
(2)第6パラグラフ、第7パラグラフ、第8パラグラフ、第9パラグラフ、第10パラグラフ、第14パラグラフ、第15パラグラフ、第16パラグラフ、第17パラグラフを追加しました。(2015/6/8 23:56)
(2)一部、質問回答形式にしました。(2015/6/9 14:56)



ドッジボール





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