2008年10月11日(土) 22時04分14秒

なぜ「横井システム」はすごかったのか?

テーマ:インターネット
先日「任天堂が勝っている理由はただ一点「宮本システム」にしかない 」というブログを読んで
「その前に「横井(軍平)システム」があるのに」と思っていたが
同じ方が「横井システムの誕生と終焉が宮本システムを作った 」というエントリを書いていた。

そこで今日は・・・
なぜ「横井システム」はすごかったのか?
・・・ということを書いてみたい。


・・・とは言って、
内容はインタビュー記事の転載だけである。

今回掲載するインタビュー記事は
私が働いていたGAME BUSTERSというインターネットメディアで
現在はエンターブレインの局長のmiyaさん
横井軍平さんと直接会ってインタビューした時のものである。

インタビューをしたのは1997年7月。
軍平さんは、この前年の8月に任天堂を退職。
そして9月に自分自身の会社・コトを設立する。

当時、軍平さんは「くねくねっちょ」という
携帯玩具のパズルゲームを開発していた。
このゲームは後に「GUNPEY」という名前で
ワンダースワン(1999年発売)で登場し、ヒット作になる。

しかし、軍平さんはこの行く末を見ることなく、
このインタビューのおよそ3ヵ月後に交通事故で亡くなった。


「今考えると、非常に貴重な体験だった」と
miyaさんはこの時のインタビューをよく思い返している。
・・・そんな背景があるインタビュー記事である。

なお、この記事はInternet Archiveから引っ張ってきた。
http://web.archive.org/web/19971007225404/www.busters.or.jp/gb/news/1997/m07/d25/sp01a.html
http://web.archive.org/web/19971007225414/www.busters.or.jp/gb/news/1997/m07/d28/sp01a.html

記事はVol.1・2の2部構成になっているが
残念なことに、Vol.1・2とも後半の記事が残っていない。
もし、お持ちの方がいれば、
トラックバックなどで教えてもらえれば幸いである。


では、記事をどうぞ。





Friday,July,25,1997
横井軍平氏の「ものづくり」
~無限のアイディアが追い続ける「ものづくり」 VOL.1~

 横井軍平氏。現在は、研究開発を中心とした会社(株)コトの代表取締役社長である。同社は、設立して1年足らずだが、日本中の「おもちゃ屋さん」や「ゲーム屋さん」からもっとも注目を集めている研究開発会社である事は間違いないだろう。

 彼こそ1996年まで任天堂で製造開発部第一開発部部長を務め、多くの遊びを世界に提供してきた人物だ。横井氏の手掛けた代表作品には、「ウルトラハン ド」「光線銃SP」「ゲーム&ウォッチ」「ゲームボーイ」などがある。そして、横井氏が任天堂の最後に手掛けた作品として「バーチャルボーイ」 は、記憶に新しいだろう。

 1965年、任天堂に電気整備士として入社。しかし、ひょんな事から任天堂でおもちゃを作りはじめることとなる。以来、一玩具メーカーであった任天堂を世界一のゲームメーカーと言われるまで支え続けてきた第一人者であるといっても過言ではない。

 今回は、横井氏の「ものづくり」に寄せる思いや任天堂在籍中のお話、さらにゲームへの拘りを語ってもらった。横井氏が人生の中で遭遇した偶然や、出会いのエピソードも聞くことが出来た。

■任天堂入社のエピソード
 学生時代は落ちこぼれで、どこにも入れなくて。でも京都に住んでいたので「とにかく地元の企業なら」と思ってやけっぱちの感覚で、任天堂に入社しまし た。大学で電気工学を専攻していたので、任天堂の工場のメンテナンス係として。だから、良く言う「学生時代から一つの夢を追いかけて」とかそんな良い格好 はまるきり無く、やむなく任天堂に入ったというところです。

■もの作りのきっかけ
 小学校の1、2年生くらいの時に、ゼンマイで巻くブリキのモーターボートを買ってもらいました。しばらく遊んでいたらスクリューが取れちゃって。そこ で、はんだ付けというやり方を知っていたので、人に「やってくれ」と頼んだんですけど、直らなかったんですよ。こんな簡単なことがなぜ出来ないんだろうと 思って自分で挑戦してみたけど、やはり出来なかった。後から考えたら、あれは「はんだ」じゃなくて「ロウ付け」だったんですよ。はんだじゃ無理だったんで すね。それから、ものに対する執着心が出てきたんですかね。私自身、「あんなことが出来なかった」ということがものすごくショックだったんでしょうね。そ れから「ものづくり」というものが私の生活の中に入ってきたのです。

■ものづくり
 日曜大工を発展させた工作みたいなものは趣味の分野で非常に好きでした。学校から帰ってくると夜中まで、ものづくりをしていましたよ。子供ながらに他愛 もないものでしたけどね。たまたま隣に大工さんが住んでいたから、そこから工具をもらったりして。小学生にしては、非常に良い道具を持っていた気がするん ですよね。だから、ただ単に日曜大工だけではなくて、もう少し発展させたもので、ものづくりを楽しんでいた。布切れを拾ってみては、切ったりはっつけた り。自分で楽しむおもちゃを作っていた。中学生の時に、後に任天堂のヒット商品になる「ウルトラハンド」※1を自分で作って遊んでいた。その時は、一時の 遊びだったんですけどね。

※1「ウルトラハンド」とは、横井氏が1966年任天堂で始めて手掛けた製品。アームハンドのシミュレーションで、幾つも交差したひし形のプラスティック部分が伸び縮みし、物を掴むことができるという作品。中学生の頃は、角材をつなぎあわせて作ったという。

■任天堂での最初の仕事
 最初、私の本来の任天堂での仕事は、工場などのメンテナンスです。そういう仕事というのは、もともとやることなんてあんまり無くて、暇な時間に、中学の頃に作ったウルトラハンドみたいなものを工場で作りはじめたんですよ。

 私自身工具は沢山持っているつもりだったんですけど、工場には凄く良い機械が沢山並んでいるんですよね。穴一つ開けるのに、子供の頃は非常に苦労して開けたのが、難なく開いちゃうんですよ。だから、暇に任しては、工場に行って何か作っていました。

 私の仕事は電灯が切れているかどうかの点検ですから、そうしょっちゅう忙しいわけではないのですよ。電灯なんて、一回点検すれば、1ヶ月くらいは平気で すからね(笑)。そして、たまたまその「ウルトラハンド」を作っていたら、社長(任天堂社長・山内氏)に見つかってしまって。はじめは怒られると思ってい たら、「それを商品化せい」というとんでもない話になってしまったんですね。それからですよ。

■商品化する難しさ
 私個人としては、商品化するという難しさは全く知らないわけですよ。今までは、自分で作って自分で楽しむというだけですから。それを何千とか何万とか作 るということになって、初めてマスプロダクションの難しさを知りました。とりあえず一つ一つ木を切って穴を開ける、というわけにもいきませんので、プラス ティックを使って作る事になったんです。当時は、「プラスティックというもので作ことができるらしい」ということくらいしか分からなかったですよ。見様み まねで、図面を引いて・・・。電気屋が機械の図面を書くわけですから、いかにいい加減なものか(笑)。しかし、それなりに格好がついて。とんでもない設計 ですよ。

 普通、そういう専門の部門があるわけですよ。しかし、当時はそんな部門も何もない頃ですから、自分で金型屋を探して「こういうの作りたいんだけど」って 歩き回りました。すると「30万はかかる」って言われて、「そんな高いんですか!」って言いましたよ。今でも覚えてます。当時私の月給が2万5千円でした から。30万というと、会社としては大した値段ではないのかもしれないけど、私の捉え方は個人でしょ。そうなると、「30万も経費を使う」という感覚にな るわけですよ。それでも、恐る恐る社長に「30万かかる」と言うと「よし、それでも構わんからやれ」と言ってくれまして。で、金型を作って。でも、金型だ けでは作れないから成型するところを探さないといけ
ないわけですよ。金型屋がどこにその金型を卸しているかを聞いて、またそこに飛び込んで、成型して。そして部品を成型したものを工場に持ち込んで・・・。そうして、始まったんですよ。

■それまでの夢が・・・
 その前に任天堂は、食品会社をやっていました。そこがあんまり上手くいっていないようで、廃業にしようと思っていた工場があったわけですよ。当時の私 は、「この工場を閉鎖するんだったら、ここで何かを作ってベルトコンベヤーを流したいなぁ」という夢みたいなものを持っていました。しかし、入社してまだ 1年や2年の人間が「それは大それた夢」という感覚ですよ。それが、実際に2年目で実現してしまったんです。私にとって、最初の出だしは凄いという か・・・。

 任天堂が、ちょうど「花札」から何かを模索しようと動きはじめたところへ、たまたまへんてこな電気技術者が採用されたということでしょうね。

■ウルトラハンドが大ヒット
 売れるか売れないか分からない、素人の作った「ウルトラハンド」というものを出したら、それがびっくりするほど売れたんですよ。当時、ヒットと言われる 約10倍以上も売れたんです。偽物も沢山出回りました。しかし、偽物といっても単なる偽物ではなくて、専門家が設計して作られたものだからウルトラハンド よりも性能の良いものが出てくるんですよ。「あーこうしたらいいんか」なんて、偽物に勉強させられましたね(笑)。で、結局、それに味を占めたのか、開発 課ができたんです。「電気のことはほっとけ」って言われましたね。

■プレッシャーと勉強の日々
 今度、開発課になると、物を作るということが本職になりますからね。何かやらなければ格好が付かない。それまでは趣味でやっていたものが職になるわけで すから。プレッシャーがかりましたよ。それから、学生時代よりも一生懸命に勉強しました。そうせざるを得なかったわけですよ。

 普通は、一人の人間が10の力を持っていても、会社などでは、5くらいしか認めてくれない、だから不満が出るんですよ。しかし私の場合、10の力しか 持っていないのに、20の評価が出てしまったんですね。だから、何とかこのメッキを剥がさないようにやらなければ、どこまでごまかせるか、と考えながら勉 強しました(笑)。子供の勉強もそうだと思いますよ。親が「やれ、やれ」いっても駄目です。放っておいてみれば勉強すると思うんですよ。これほど勉強が嫌 いな人間がしましたからね(笑)。

■ウルトラの名でウルトラマシン
 「ウルトラハンド」というのは、その頃、体操で「ウルトラC」というのが流行っていたんですよ。だから、もしかしたら「ウルトラ」という名前で売れたん じゃないかと思って、それから「ウルトラマシン」※2を作りました。それも大ヒットしました。今は、任天堂ではなくて他が作っていますけど、今でも年間1 万とか2万とか売れているようですね。私の作った商品の中で、最も寿命の長い商品ですよ。かれこれ30年にもなろうかという商品ですね。

※2「ウルトラマシン」とは、1968年横井氏が任天堂開発課に入って2番目に商品として手掛けた製品。子供用のピッチングマシンで、電池でピンポン玉を飛ばし、同梱されていたバットで打つというもの。

■開発への拘り
 拘りはない。私の作ったものは全部バラバラなんですよ。普通、ウルトラハンドが一回売れたら、次は「ウルトラハンド2」みたいのを考えるじゃないですか。しかし、私はまるっきり違うものへ飛んでしまう。

 その発想は、自分でも分かりません。でも原点は、好奇心の強い子供であったことでしょう。子供の頃に何かを見て興味を持って、それをちょっとアレンジし て遊びに使おうと思ったけど、技術的に不可能だった。「不可能」「不可能」ばかりが頭の中にいっぱいになって。時間が経って技術が発達してくると、とんで もないことが可能になってくるんですよね。私にとっては、30年前に出来なかったけど、今ならできるというものが沢山あるんです。

■子供の時にイメージしたおもちゃ
 どうしたら儲かるかとか、どうしたら発想は出てくるかとか、良く聞かれますが、その度「もう一回子供から始めて、いろんなものに興味を持ちなさい。」とアドバイスするんです。でも、それって聞いている人からしてみたら意味ないですよね(笑)。

 私の発想とは、古いものを今の技術で可能にする。ものによっては、その頃まともにやってたら到底値段が合わないというものが、技術革新で安くなって、そ の中には「ゲーム&ウォッチ」※3なんて最たるものです。昔は、ハンディータイプにすると10万円はする電卓があった。それが2000円とか 3000円になったから「ゲーム&ウォッチ」は売れたんですよ。あの頃ハンディーのゲームを作りたかったけど、今だから可能だ、という時期もあり ますよ。

※3「ゲーム&ウォッチ」とは、1980年に発売された世界初の携帯液晶ゲーム機。この単純明快で携帯性に優れたゲームは一大ブームを巻き起こし、多くの子供たちを虜にした。約60種類が発売されが、そのうちの約50種類を横井氏が考えたということだ。

■アイディア
 「ゲーム&ウォッチ」50~60種類あります。今度「ヒロ」さんのところから出るゲーム「くねっくねっちょ」は、ヒロさんから「ゲー ム&ウォッチ」の感覚でアイディアを頂けませんか、と言われたものです。私にしてみたら、50個のアイディアも100個のアイディアも同じですか ら、まぁ簡単な話ですよ。

 普通アイディアというのは、一つ出てくるとそれに惚れ込んで、それが全てになりあとが無い、という考えになられる方もいるけど、私にはそれがないんです よ。アイディアとは無限にあるんだと。しかもそのアイディアを、どこがどう使おうと良いじゃないか、と思うんですよ。だから、「こんなのどうです」「あん なのどうです」って、あっちこっちに提案していますよ(笑)。儲ける気がないんですね。いろんな企画をあちこちにやってます。一つ一つ、各会社で作ってい ますけど、どこも皆さん「これは大ヒットしますよ」って言っておられますから、それがみんなヒットしたらえらいことになりますね(笑)。

 アイディアとは、子供のころ思ってた「不可能」なことを、いま雑誌などを見て、新しい技術のきっかけというか、ぱっと引っかかるものがあるんですよ。そこで昔のものと引っかけて新しい物が出てくるんです。

 アイディアノートとかはないです。よく、アイディアとか浮かんでぱっとメモをしておくとか言うのは、あれは大嘘です。頭の中で興味を持ったものというの は、確実に覚えていますよ。残ってますよ。書くということは、書かなければ忘れてしまう大したアイディアでないということですよ。

■子供のままのイメージ
 ウルトラマシンというピッチングマシンの製品の箱をどういうデザインにしようと言うことになって、そこで私が言ったのは、その頃からさらに20年くらい 前の「ポピュラーサイエンスという雑誌に”ストロボなんとか”という写真が載ってたから、あれ面白いから使おう」って言ったんです。そうしたら、周りの人 間がびっくりして、「20年も前の写真なんか覚えてるかいっ」って言われました。でも探したらあったんですよそれが。そうしたら「横井君の頭はどうなって んのや」ってみんなに言われました。

 ロボットピッチャーという、ボールを投げたら1コマ1コマ、ボールがポ、ポ、ポっていう写真なんですよ。分かります?そういうので再現していた写真が非 常に印象に残ったんですね。子供の頃、これどうやって撮ったんだろうって考えたのが記憶にあって、「あれを絵にしよう」と思ったんですよ。

■次も次も新しい商品であること
 先ほども言ったが、Aという商品が大ヒットすると、ワーっとその商品の偽物が沢山出回りますから、だから私は、A'(エーダッシュ)とバージョンアップ して戦おうという気は毛頭ないです。それはもう捨てる。そこで戦っていたのでは、絶対シェア争いになって美味しい話が美味しい話ではなくなりますから。全 部捨てて、全く新しいBという商品を作って戦うという感覚で、任天堂時代は、ものを作っていました。だからやることが、全然違うんですよ。出てくるものも 全然違うものになりますし。私の作ったものを順番に挙げていくと、本当に取り留めのないものになりますよ。

 商売になってからは、「どうしたら儲かるか」ということを主眼に考えるようになりますから、「こういう技術を使いたい」というのではなくて、「どうした ら儲けることができるか」を考えます。それは、その任天堂の社員としてやるからには、別に凄い仕事をして欲しいとは思ってないはずなんですよ。儲かる仕事 をして欲しいと思っているわけです。そうなると、技術屋の見栄えも外聞も全部捨てて、「どうしたら儲かるだろうか」ということに徹する、そういうものの考 え方になっていきました。


(続きあり)




Monday,July,28,1997
横井軍平氏の「ものづくり」
~無限のアイディアが追い続ける「ものづくり」 VOL.2~

 今回は、'97年7月25日号に続き、横井軍平氏の「ものづくり」に対する思いをまとめた「~無限のアイディアが追い続ける「ものづくり」 VOL.2~」をお届けする。

 コトという会社で、自分の好きなものをずっと作っていけるということが幸せであると言う横井氏は、「ものづくりが生きがい」だと語ってくれた。第2回目の今回は、横井氏のこうした人生と、これからのゲームに対する思いを紹介する。同特集の最後には、横井氏本人からのコメントを聞くことができる。

■ものづくりが生きがい
 もうこの歳になりましたし、今更金儲けも名声もいらないんですよ。そうすると、世の中が付き合いやすくなりました。1円でも儲けようと思って目の色変えてくる人もいるじゃないですか。そうじゃないですからね。協力者が非常に多いものです。

 任天堂を辞めた理由は、自分の頭の中にあるものを具現化したかったからです。それは、売れないよりは売れる方が良いけど、ただ大儲けするほど売れる必要 はなくて「コトが成り立つ程度に儲かりゃいいじゃないか」という感覚でやってるわけです。ものを作るということが私の生きがいですから、だから、それに よって周りがどんだけ儲けようといいわけですよ。

■ちょっとのお金
 協力者6人が、私に「何かやってくれ」と言ったんですが、お金が当然要るわけですよ。だから私は「私が何かするにあたってお金の心配を一切させないでく れ。」と言いました。「そんなに沢山のお金が要るわけではない、ものを考えるというのは、人件費だけで十分だ。」と言ったらその人たちが「一体どのくらい のお金が要るんですか?」と聞いてきた。だから「まぁ人件費だったら年間で1億か2億あればいい。」って言ったら、「そんなんだったらいくらでもバック アップするよ」って言ってくれたんですね。その代わり私がやったことでどんだけ儲かっても、私は必要な分しか要らないから、後は好きなように分けなさい、 という上で今進んでいるんです。

■6人との不思議な出会い
 その6人は、ゲーム業界とはまるっきり縁の無い人たち。その出会いが面白いものなんですよ。任天堂に居る時に、私を5年間つけまわした人がいるんです よ。私が任天堂で開発部長をやっていた頃に祇園のお寿司屋さんで知り合ったんですけど。「任天堂の開発部長をやっております」といって。それから私を接待 するんですよ。食事に行ったりゴルフに行ったり。しかし、その人が一向に仕事をくれと言わないんですよ。「あんた一体何の目的でこうするのかね。」と思う わけですよ。

 そして、ちょうど5年目に「横井さんに会わせたい人がおるんですよ」と言われて、祇園のお茶屋さんに行ったらその6人がおられたんですね。そういう人た ちは、各業界の全部経営者ですよ。ゲーム業界とは関係無い人ばかりです。弁護士、建築家、そういう人たちですよ。みんな飲み友達で、なんか面白いことをや ろうかといつも頓挫してた時に、その中の1人が私を引っ張り込んできたんですよ。この人に頼めば何か面白い事ができるのではないかと思ってくれたようで、 みんな大賛成してくれたんですよ。

 みんな京都の人です。6人いるわけですから、どこをとってもうちが面倒みるという人ばかりですよ。今は最初に「俺がやる」といったところがフォローしてバックアップしているわけですね。非常に脱サラという感覚とは違った、夢を持てた幸せなスタートができたんですよ。

■私はものを考えるだけ
 現在コトは、技術屋ばかり10人くらい。私はものを考えるだけですよ。人事とかも人任せだから、朝会社来て全然知らん人間がユニフォームきているから「誰だ」って聞くと「今日から来ました」って言われて(笑)。他はみんな、完全な頭脳集団ですよ。

■テレビゲーム業界
 テレビゲーム業界へは出て行く気は全く無いですね。本当に食べるのに困ったら出て行きますね。私の理念というものは、ゲームというのは今のテレビゲームみたいなものとは違うと思うんですよ。

 当初8ビットなり、ゲーム&ウォッチなりゲームの基本というのは、ああいうシンプルなものにスタートしたわけですよ。それでアイディアに行き詰 まってしまって、なんかとか差別して上に行こうとした時に、スピードを早くしたり、動きを奇麗にしようとか、グラフィックとか、絵の方に凝り出したわけで すね。そうすると今度は、ハードウェアが付いて来れないというわけで、8が16になったり32になったりしたわけですよ。そういう、本来のゲームのアイ ディアに詰まったから、しょうがないからゲームというのは変わったと思うんです。

 しかし、変わったからゲームというのが文化になったんだと思っています。だから非難は出来ませんよ。でも、だからこそ私は、テレビゲームはゲームではな いと思うんですよ。私なりに言うと、ゲームとは言って欲しくないんですね。ゲームとは、「くねっくねっちょ」みたいなものです。

■テレビゲーム
 テレビゲームは別の遊びじゃないかと思う。どちらかというと、アニメとか、映画に近いものであると思うんですよ。そういう所がまたもてはやされている。それはそれで良いんですよ。でも私は「ゲームのアイディアというものはまだまだありますよ」と言いたいんです。

 それは何かというと、格闘ゲームが人気と言われていても、結局「たまごっち」や「ポケモン」が流行るように、ゲームの基本が結構強いんですよ。私は、 ゲーム&ウォッチを50種類以上作ってきていますから、この分野は強いんですよね。最も得意とする分野です。だったらその分野で何かやったら一番 手っ取り早いかなと思って。テレビゲームというのは、確かに映像と音響とゲーム以外のところは凄いけど、これは、いずれ行き詰まってしまうんではないので しょうか。

 コンピュータグラフィックス(CG)が追い求めているのは何かと言うと、いかに自然な映像を作り出すか、というところです。しかし、それをすでに通り越 しているんですよ。CGのほうが凄くなってしまったら、実写の映像と合わなくなるんです。CGとは、実写の映像とCGの違いをいかに分からなくさせるかが 面白さであるわけで、あれはCGの質を落としてでも、実写の映像と合せているはずなんですよ。そうしないとCGだけが浮き上がってしまいますからね。そう いうものを追い求めていくと、今はもう行く所までいって、行き詰まっているんではないかと、そういう気がするんです。

 だから今のテレビゲームは、あれ以上リアルになってどう変わるんだと思うわけです。ゲームの本質なんて言うのは、昔と同じじゃないですか。

■横井氏の考えるゲームとは
 私がよく話をするのは、スーパーマリオのキャラクタがとことこ歩いて敵に遭遇してぶつかって、ここでパッタリやられてしまう。と、そこで、このキャラク タをミッキーマウスに置き換えて同じ事をさせると、やっぱり同じゲームが出来るわけですよ、一つはマリオのゲームでもう一つはミッキーマウスのゲームです よ。

 もっと言えば、ミッキーマウスでもマリオでも主人公を●にして敵を■にして世の中のゲームに置き換えたら、みんな同じ物になってしまうわけですよ。じゃ あ、なんのために映像を変えているかというと、私はCGいうのは、「HOW TO PLAY」を教えるものだと思っている。例えば、ミッキーマウスを操作してずっと来て、ぶつかったものが非常に奇麗なものだと味方だと思ってしまう。実際 は敵なのに。だからこれを恐ろしい映像にすることによって、説明書無しにこれを避けて行こうと思うわけじゃないですか。こういう目的で、ゲームのCGを昔 は考えたんですよ。

 ゲーム&ウォッチのゲームを考える時に、まずは●とか■とかでどういう事をしたら面白いかを考えるわけですよ。つぎに、その映像を何に置き換えるかという時に、どうしたらそれを説明書無しに理解することができるかという「HOW TO PLAY」をキャラクタに置き換えるのです。それが本来のゲームの姿なんですよ。

 今は、そのキャラクタだけが先走りして、後でゲーム性がついていってるから、ちょっとやったら飽きてしまうゲームが多いんですよ。ゲームをやり始めた ら、そこにはキャラクタも色も必要無い。だから、私はそういう理念を持っているからゲームボーイを作る時に絶対にカラーにしなかったんですよ。カラーにす る必要はない。

■ゲームボーイが白黒である理由
 カラーって言うのは面白いもんでね、概念的に見えるものなんですよ。黒板にチョークで雪だるまの絵を描いたら誰が見たって白く見えるんです。そういうも のなんですね、色っていうのは。それが白黒とかカラーとかいう話が出てくるのを聞いていると、昔、美智子様の結婚式の時に白黒のテレビがカラーになって大 ヒットしたと。だから白黒のゲームボーイをカラーにするとそうなるという変な結び方をするんですね。私はそうじゃないと思う。

 どこが違うかというと、テレビというのは情報機器なんですよ。情報機器というのは、例えばニュースで「青森でこんな真っ赤なりんごが取れました」という ことを知らせるには色があった方が良いと思うんです。しかし、ゲームの世界では、りんごが赤であろうが青であろうが関係無いんですよ。それはりんごの絵を 描けば殆どの人が赤に感じてくれるわけですから。

 単にぱっと見た時に派手さがあるというメリットがあっても、本当に必要なものではないと私はゲームの中の色やキャラクタに思うんですよね。だから、それ を同じ値段でカラーがついたり、細かく出来たりすればそれに越した事はないです。でも、そのために値段が高くなるというデメリットの方が大きいということ ですよ。

 ゲームボーイポケットをカラーにするという話は、何べんも起こりました。いつも私が「無駄なことは止めとけ」と言って。ゲームボーイを作った時、当然私 たち技術者の中でもカラーにするかどうするかという話は出てきた。例えばカラーを出した時、値段がどうなってどのくらいのデメリットがあるかを考えたら、 絶対に必要ないものであると思いました。だから、私は頑としてカラーにさせなかったんですよ。

 で、発売して。絶対にどっかの会社がそういう事を知らずにカラーを出してくるよ、と言ってたら本当に出てきたんですよ。最初見つけた人間が顔色変えてき ましたよ、「カラーで出てきた、えらいこっちゃ」って。でも私は、「えらいこっちゃじゃ無くて、良かった良かった」って言いましたよ。ゲームボーイの時に 一番怖かったのは、モノクロであのシステムを出されたらそれは強敵やな、と思いました。だけど、あそこまで確立してしまったらどこも出来ないですよね。

■面白さにカラーは必要ない
 面白さはカラーである必要はない。例えば碁盤を見て、ある人が碁を考えついた、「これは新しいアイディア」だと。これで将棋もできると考えたらこれも新 しいアイディアなんですよ。オセロもできるとかチェスもできるとか。これがゲームの考え方なんです。しかし、これ以上新しいことを考えられなくなったか ら、何かないかなって。そしたら「えい、碁の白黒が地味だから赤青にしよう」と、これが今カラーがついてるのと同じなんですよ。赤青になったら白黒よりは 奇麗かな、と思うけどゲームの本質は何も変わっていない。先ほどの、キャラクタをどう書くかという話ですが、私が例えば将棋にキャラクタ載せなさいって言 われたら何をするかというと、コマの進む方向に矢印を印刷しますよ。「HOW TO PLAY」それでわかりますよ。それがキャラクタだと私は思います。

■今は・・・
 しかし、ゲーム市場全体がそういう方向に動いているから、マニア化しているから。ゲームといっても本当はグラフィックスを追いかけるようになってるんで すね。だから作る方も買う方もみんなそうなっているのでしょうね。だけど、それをやってしまうと後でやることが無くなるよ、って思いますけどね。

 私は、ファミコンが出てきてスーパーファミコンが出てきた時に、これは先が不安だなと思いました。だから、これをいかにして違うことをやろうかなという のが私の念願でした。はっきり言ってファミコン時代、いわば 8ビットは、おばちゃんからおじちゃん、子供までみんなが楽しめたゲームなんですよ。それが、だんだん難しくなってマニア化していって16ビットになり、 32ビットになって。私にだって遊べないですよ、あの格闘ゲームは。どう操作していいのか分からない。そういう形でマニア化していってるんですよね。そう すると以前100いたユーザーが、恐らく50になってしまった。だた、50の人間が以前の3倍くらいのお金を使っているから、なんとなく市場は広がってい るように感じられるけど、絶対人口は少なくなっているはずです。そんな事をずっと続けていったら先細になって終わってしまうから、何かもう一回、かつての 100の人間を引き付けなければいけない。そういう「ものづくり」をしなければいけない、と思って作ったのがバーチャルボーイだったわけですね。


(続きあり)

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