佐ノ川谷藍子-ceramic works blog-

関西・大阪の陶芸家 佐ノ川谷藍子(さのがわやあいこ)のblog
Aiko Sanogawaya's blog from Osaka,Japan.


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安陽市内、朝ラッシュの大通りで半分以上の車線を封鎖するという、日本では考えられない手順の工事によるとんでもない大渋滞に巻き込まれ、大幅に遅れた今日のスケジュール(゜ロ゜)

なんとか抜けようとした車が
歩道を走ってましたよw





黄河の洪水で沈んだ「東洋のポンペイ」と言われる遺跡です。

どうやらあのドームでまるまる覆われてる様子。
他の遺跡でも感じたのですが、中国…遺跡にすっごいお金かけてます✨国家プロジェクト





ここでも漢代の農村の四季を表した
とんでもない大きさ長さの大理石のレリーフがあり、
まず通されたのは大きなシアタールーム。

スクリーンは半円状✨CGで水没前の遺跡の様子と洪水の様子がけっこうなクオリティで映像化させていました。





ところが普段やってる気配はなく、エントランスもがらんとしてて薄暗い(^_^;)付近の村人らしき方が待ってくれていて開けてくれました。

スクリーンは右3分の1が映らなくて、映らないですーと言ったら「壊れたみたい」でおわり。

極めつけはこんな最新施設なのにトイレの個室にドアがない( ゚д゚)壊れたから外した感じ

建てるときはドーン‼ビックスケール✨で、
維持にはあんまり興味ないみたいです






おおー☆ちゃんと家の形が分かる!!

漢代(王莽の貨泉が出てるので紀元後すぐ)
の農家なのですが、なんて文化的✨

写真では分かりにくいですが、間取りがハッキリと分かります。






日本では弥生時代。高床式倉庫の時代に

農村の民家で瓦屋根( ; ゜Д゜)

日本で庶民の家に瓦が使われるのは、
平安後期だそうです。


しかも出土情況から屋根の修理中に洪水に見舞われたようですダウン薄い瓦です





奥から手前に洪水が来ました。





池は人工。

今ではイメージしにくいのですが、

洗ったり冷やしたり飲ませたり、牛や馬を飼うのに池は必須でした。






トイレに⬇



排水路も完備☆




同行解説の弥生文化博物館の中尾先生によると、
弥生時代の遺跡でも良く見られるという牛農具のあと「すき痕」⬇





洪水が起こったであろう時間帯や情況から、

住民と家畜たちは氾濫が本格的になる前に高台に逃げた可能性が高いそうです。





ここは黄河中流域☆大きな洪水に黄河は動きます。

青いのが現代の黄河です。




ポンペイと比べるとアレですが、


紀元後すぐの農民でここまで文化的( ; ゜Д゜)というカルチャーショックのあるすばらしい遺跡でした✨

劉備さん、農民の出って日本の農民とずいぶん違うよ汗
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10月23日、ツアー三日目。午後1時30分に到着。

河南省安陽市郊外、

殷後期(紀元前1300年ごろから前1046年の滅亡まで)の陵墓群と祭祀場です。






公園ガイドさんの案内でここで見つかった世界一大きな鼎のモニュメント(ホンモノの2倍の大きさ)の前で説明を聞きます。

なぜか園内、奈良よろしく鹿が放し飼いになってました(((^_^;)草食べてた

しかも立派な角があり奈良の2倍の大きさ





左手奥が祭祀坑、十字が王墓と王妃の墓。

右手の王墓群の中にある四角の墓は、

牧野の戦いで討ち取られそのまま殷が滅んだため、
完成途中で放棄された最後の王 紂王の墓です。


ちなみに暗君として有名な紂王ですが、出土した甲骨文字の占いの内容からは政治も軍事訓練もちゃんとする王であることが分かっていて、

むしろ一生懸命にグイグイやりすぎて反発を招いた可能性があるそうです。





まずはM26王墓展庁、王妃の墓の見学。





ガイドさんの解説を添乗の(株)国際交流サービス 辻田社長が通訳してくれます⬇

ホンモノの墓は保存のため埋め戻され、同じサイズの精巧な再現です。

23代王武丁の正后の墓で、あの最大の鼎「司母戊鼎」が副葬されていました。あったのは今 鼎がある位置ではなく槨室の横。

木槨のふちの窪みは竪堀の盗掘坑あとで、盗掘はすぐあとの周代から行われていました。

また被葬者の腰の下には穴があり、犬が埋められていました。






写真左手、頭がい骨のやや上の窪みには、ガードマンとしての殉葬者の遺体。

たくさんの頭がい骨は…

殷の神(となった、これからなる祖先たち)は人の頭を好んで食べるとされていて、

主に殷の支配に反抗的だった西方の羌族
が人々が奴隷として連れてこられ、
ここ殷の聖地で捧げられました。

つまり頭が祭祀&お供えに必要➡鼎で煮られお料理される。

現地ガイドの張さんによると、奴隷の頭をたくさんあげるので子孫である王族の首は捕って食べないでねという意味があったそう。

体は長方形の穴に綺麗に折り重ねられて埋められました(地図の小さな四角群)。

ちなみにここから甲骨は見つかっていません。占いは日常行為で宮城などで行われ、祭祀はハレの行為で主にこの殷の聖地で行われました。





ひとつの穴に4から16のからだ。

250年の間に約27000~30000人(゜ロ゜)

こちらも埋め戻され、その位置が四角く石で囲まれていますが…





こちら⬇︎王陵墓葬展覧館の中。

これが見たかった…ヽ(*≧ω≦)ノ


殷を特集した、NHKスペシャル
「中国文明の謎 第二集」
は私のモウストフェイバリット番組で、

ipadでヘビーローテーションしています✨

そのハイライトがこの展示室の映像なのです。





考古学のなかでの死は少しニュアンスが違います。

ある種の虐殺の証拠である人骨であっても
それはその人が生きたあかし。

武力と祭祀を車の両輪にして、中原を支配した殷に抵抗した民族の人々が、

三千年の間、この四角い穴にとどまっていました。

1つの穴が一回の祭祀の痕跡です。





穴はホンもの、骨はレプリカで真下にホンものが埋まっていますが、

カバーのある この4つはホンものです⬇





考古学の成果による
歯の成分測定や甲骨文の研究などから、
九割が羌族で、安陽の西方 800kmの距離を歩かされて連れてこられたことが分かっています。

羌は甲骨文字では羊に人。おそらく羊を飼って暮らす羊人間的な蔑称です。

多くは殷の都市で働かされ、余剰の人数、反乱の恐れのある数を超えるとこの祭祀場に送られたようで、

殷が積極的に征服を行なっているときは、生贄の数が多く、消極的なときは少ないのです。

羌族は周が殷に反乱の狼煙を上げたとき、これに加わり、牧野の戦いにも参加したと言われています。





最後は車馬坑陳列館。

車馬は王侯の墓の横に整列して埋められる古代戦車ですが、馬としばしば騎乗する兵士や武器も共に埋められます。

ホンモノホンモノ✨゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚✨





二頭立てだーアップ

思ってたより車輪が大きい!

こういうタイプの馬車は中国やエジプト、中東の古代戦史においてはメジャーなもの✨
アレクサンドロスと戦ったダレイオス三世なども主力として繰り出して来ますが、

日本には無いですよね(*´・ω・`)b


サスペンション無しですから、黄河流域のような細かく硬く締まる土質の大平原でないと使えませんあせるダレイオスも決戦の前に石拾いさせてますし





さて今日も濃厚タイトスケジュール⌚

パネルなどもちゃんと見て、祭祀坑もう一回といわず二度、留まって味わい、

広い園内の埋め戻された墓の形が
植木で分かるように整えられたあたりに行ったり、ちょっと距離を取って鹿を観察したりと一日中楽しめますが、急いで出発‍あせる一時間半の滞在でした

次は殷の宮城遺跡と有名な未盗掘墓 婦好墓、殷墟博物館(((o(*゚▽゚*)o)))


日暮れまでに回れるのか…


添乗の辻田社長、現地ガイドの張さん、バスの凄腕運転手さんに委ねます(>人<;)








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ツアー二日目 午後4時。

銅雀台からツアーバスで30分、途中けっこうな悪路もありましたが、安陽市から案内に来てくれた現地旅行社 A社長のおかげでスムーズに到着☆

まずは係員さんの案内でパネル展示をひととおり拝見✨





今回お世話になっている(株)国際交流サービスの辻田社長が
バスの中で話してくれたのですが…

今回のツアーの目玉、世界遺産 殷墟のある安陽市とはちょっとした因縁がΣ(´□`;)






殷墟が指定を受けるための世界遺産フォーラムで中国テレビ局のインタビューを受けた辻田さん。

その後放送されたかどうかも知らずにいましたが、


「あなた知ってます!安陽では英雄ですよ!!」

と安陽で出会ったA社長に熱烈歓迎✨インタビューは繰返し放送されていて辻田さんはちょっとした有名人になっていました。

「変な日本人が中国語で“殷墟の世界遺産指定は大成功間違いなしだ!! ”とか言ってたのがインパクトあったみたい(^-^)」

と、漢詩大好きほんわかムードの辻田さん。





それからは辻田社長がツアーで安陽市に来るときは、
今回のようにAさんが歓迎&お心づかいくださるそうです。

Aさんが夕食時に差し入れ下さった白酒、
ホントにおいしかったです✨





この展示施設はあるアピールもかねていて…

例えばこの
「魏武王(曹操)がいつも使っていた治療用の枕」
と裏書きされた石まくら。





ひどい頭痛持ちだったという三国志の曹操に関する記述と合致するのですが、

曹操が武王とおくりなされたのは、死後 息子の曹否が漢王朝を滅ぼした後のことなのです。

時代が合わないという批判があり、「誰がなんと言おうとこれは曹操墓!!!」と言い切りたい地元政府。

残された頭がい骨も60代の男性のもので、曹操の亡くなった年と合います。





しかしこの墓は后とみられる女性が二人、のちに副葬されたときに開けられ改葬されていること、

洛陽市で見つかった、少し時代が降る魏の皇族の墓との連続性が確認されたこと⬇


http://www.sankei.com/smp/photo/daily/news/161118/dly1611180025-s.html


などからほぼほぼ曹操の墓で間違いなし✨





ものさしも権力の象徴として、
最高権力者の墓にしばしば納められるそうです。

(バラバラだった度量衡を統一した始皇帝にならい、尺度を決められるほど力量のある王という意味。権ははかりの一種。)





かなりたくさんパネルがあり、
まだかなまだかなホントに見れるのかな?と不安になったころ、

建物奥の扉が開きました。






おおおおおおーー✨゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚✨すごーい

曹操の墓だよー‼!!!





薄葬令を出し、自らも「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」と遺言した曹操。


墓は盗掘を受けていましたが、出土品の内容からもそのように葬られたことは間違いなく、

壮麗とシンプル、表現は反対でも、

その精神と死生感を体現するものとしては
始皇帝の墓と同じストレートさです。


中の様子はこちら⬇
https://youtu.be/Jebtsut53E4






気分は曹操とツーショット✨(*゚∀゚人゚∀゚*)♪✨






この回りにも墓の発掘成果や曹操の重要な戦いの流れ、業績を記したパネルが展示されていましたが、

五時でタイムアップ(>_<)

もう日暮れで暗かったのですが、
兎に角写真にとってきました。


































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