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2011-04-02 20:30:52

『宝島』

テーマ:古典・文学

海賊というと、なぜ、ロマンティックなものを感じるのだろうか。

現実は決して格好良くもなければ、ロマンティックでもない。
もちろん、世界の海のどのあたりの話であるかによっても、多少は変わるかもしれないが、基本のところは同じだろう。
海の犯罪人なのだ。

まあ、もちろんのこと、近代まで、どこの国でも、海賊と海軍が紙一重であった例はいくらだってあるが、そして有名な海賊も何人もいるのだが……。

それでも、海賊に対する「憧れ」を創り上げるのにあたって大きく寄与したのが、スティーヴンスンの『宝島』であることは言うまでもないと思う。
また、海賊を主人公なり、主人公に近いところに立つ脇役にした物語は、フィクションならば、しばしば『宝島』に影響を受けていると言っても良さそうだ。

ところが、改めて手にしてみると、どうだろうか。
この物語の登場する海賊といえば、最も有名なのがかのシルバーであるけれど、なんかなー。
大人の目で見ちゃうと、やっぱり海賊は海賊であって、それなりに、ずるくてヒキョ~だと思うんだよ。
なのに、なぜか、凄く魅力的に思えてしまう。

これは、もしかすると、シルバーなり、あるいは他の海賊もだが、決して絵空事のかっこよさをめざしているのではなくて、そのずるくてヒキョ~で残酷なところまで含めて、作者が目をそらさずにキャラクターの中に取り入れているからなのかもしれない。
つまり彼らの中には、単にかっこいい、まっさらのヒーローにはあり得ない、人間的な弱みを内包したかっこよさというべきものがあるのだ。

逆に言うと、そのような悪人であるからこそ、純然たる正義のヒーローより、人間味のあるものとして描きやすいという利点もありそうで、そう思って読めば、海賊が登場する物語って、たいてい、冷酷さのなかにある人間味というのが強調されているんじゃないかな。
冷静に考えると、彼らの人間味は、平凡な人間の人間味よりずっと少ないのかもしれないけど、悪党さが際立っているために、対照的に凄く人間らしく思えてしまうという仕組みなんじゃなかろうか。

そこへ、海そのものに感じる浪漫や、反体制というものに対する憧れがからむのだから、なるほど、海賊というのは、キャラクターとしてかなり最強に近いものなんだね。


宝島 (光文社古典新訳文庫)/スティーヴンスン
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2011-03-27 19:15:53

『ヒナギク野のマーティン・ピピン』

テーマ:古典・文学

『リンゴ畑のマーティン・ピピン』の続編であるこちらでは、マーティンとジリアンが結婚している他、かつて看守役をつとめていた乙女たちもそれぞれの恋人と結婚し、子供が生まれているという事になっている。
そして、乙女たちに恋物語を聞かせたマーティンは、子供たちに不思議な物語を語るという、こちらも枠物語の形式なのだけど、いまひとつ、枠の部分のイメージがあいまいであるように思う。
情景的には美しいのだけれど、ストーリーのついた動画ではなく、物語のワンシーンを描いた絵はがきを順番に見ているかのよう。

これはなぜなのだろうと、ずっと思っていた。
枠にはめこまれる物語はいずれも子供が主人公だから、児童向けのお話なのかという印象だが、考えてみれば、これはマーティンの視点が要になっているのだ。
つまり、子供というものを初めてもった親の視点。
かつては自分も子供だったはずなのに、子供時代が不思議なもので満ちているということは漠然と憶えていても、それがどういうものなのか、大人は再体験する事ができない。
それゆえの曖昧感なのだろうな。

はめこまれた物語の中で、唯一、そしていつまでも忘れがたいのが、縄跳びの話。
子供の頃から縄跳びが大の得意だったおばあちゃんが、ほんとに小さく縮んだ年寄りになってしまっても、凄い縄跳び技を披露する。
縮んでしまったというところがミソで、大人なんだけれども、年をとって縮んだから、幼い子供の頃の縄跳びが使えるというところ。
この縄跳びの取っ手が、キャンディでできているのだ。
普通に考えれば、そんな持ち手はべたべたと手にくっついてしまってどうしようもない。
(あ、どこかから、「なんて不衛生なの! 汚いからなめちゃいけません」なんて声が聞こえてきそうだ)。
もちろん、キャンディそのものも、とっても古風なやつ。
日本でいうと、金太郎飴とかそれくらいの、オーソドックスなやつで、しかしそれが、なぜかすごく美味しそうなんだ。

この縄跳びを使って、おばあさんは、それこそ、マザーグースの牝牛そこのけ、月だって飛び越えるほどの妙技を披露してくれるのだ。
実にファンタスティックだ。

枠物語の部分を含め、なんともいえない幻想味は、ファージョンならではのものだと思うが、リンゴ畑が基本的に、お日様の下をイメージさせるのに比べると、こちらは月の下であろう、と思う。


ヒナギク野のマーティン・ピピン (ファージョン作品集 5)/エリナー・ファージョン
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2011-03-26 19:56:34

『リンゴ畑のマーティン・ピピン』

テーマ:古典・文学

エリナー・ファージョンには幾つも作品があって。味わい深いのだが、一番好きなのはやはりこれだ。
日本では児童向けに紹介されて、今も岩波少年文庫に入っていたりするが、そもそもは、ファージョンが戦地にいる恋人に手紙として書き送った物語がもとになっているのだそうだ。
誕生からして、実は大人向けの物語というわけだ。

主人公というか、語り手のマーティン・ピピン、名前は林檎の品種から取られているらしく、物語の中にも、ピピン種という林檎が登場する。
親の許さぬ恋をしたため、井戸屋形に閉じ込められたお嬢さまの看守役として、乙女たちが林檎畑に詰めている、彼女らのひとりひとりから、井戸屋形の鍵(乙女の数だけ錠前がある)を譲り受けるため、マーティンはそれぞれひとつ、恋物語をしていく。
(この時、それぞれ別の品種の林檎と、林檎を使った遊びが紹介されているのが楽しい)。
たぶん、そこに登場する林檎は日本のものとはまるで違う、もっと小さく、酸味もありそうな、そんな林檎のようだ。

また、実だけではなく、林檎の花や若葉についても美しさが語られていて、ほんとうにこの物語はどこからどこまで林檎だらけ。

そんな背景を描写しながらマーティンが語っていく恋物語が並んでいくわけで、枠物語の形式になっているんだね。

私がこの物語を読んだのは(児童向けに展開されていただけに)小学生の頃だったと思うが、それ以来折に触れて再読してきた。
子供の頃は、白鹿の騎士の物語が一番のお気に入りだったと思う。
典型的な騎士物語を、そんなロマンスを夢見る貧しい森の娘に夢見させながら、伝説の魔法鍛冶を彷彿とさせる男を登場させ、これまた騎士がロマンスの中で追うべき白鹿が登場したりと、華やかでほろ苦い物語。

また、山のあなたの国に住む美しい乙女に巣食う一房の邪悪に関する物語も、美しく怖ろしく、印象深いものだったと思う。

しかし、大人になってからもっと味わい深かったのは、黒髪に蜘蛛の糸のような銀色を交えた女と海の音を伝える貝殻、そしてアヒル池の水夫の物語かもしれない。
かなりこれは地味なのだが、不思議と、「恋」というもののなかに潜む渇望が最も深く描かれていると思うのだ。

リンゴ畑のマーティン・ピピン〈上〉 (岩波少年文庫)/エリナー ファージョン
リンゴ畑のマーティン・ピピン〈下〉 (岩波少年文庫)/ エリナー ファージョン
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2011-02-25 10:36:07

『ロミオとジュリエット』

テーマ:古典・文学

シェイクスピアの戯曲でこれほど人気のあるものも、ないだろう。
二つのバレエが作られ、その他に音楽も作られ、映画にもなり、多数の翻案作品が作られ……。
戯曲を読んだり舞台を見たりした事がないという人でも、おおまかなストーリーは知っている、そういう名作だ。

舞台はイタリアの町ヴェローナ。
対立するふたつの名門のそれぞれに生まれた少年と少女(14歳!)が、数奇な運命のめぐりあわせで恋に落ち、両家の争いの中で犠牲になり、若い命を散らすという物語だ。
つまり、悲恋の物語だ。

しかし、この物語には、若者群像を描いているという側面もある。
そして、私にとっては、むしろこちらが魅力的だ。
性急で、ある意味何事にも積極的な、しかし優柔不断さも内包しているかのようなロミオ。
道化者と言いたくなるほど破天荒なマーキューシオ。
いかにも良家の子息的なパリス。
いささか乱暴かもしれないが、おそらくその世界観の中では優等生でもあるティボルト。
いずれも個性的であり、モンタギューとキャピュレットの争いの中で、実にいきいきと動いている若者たちなのだ。

人間の性格については、古今、さほどかわるところはないので(言動は背景となる文化によって変わってくるとしても)、ロミオとジュリエットの悲恋に格別の興味がない場合も、あるいはこの若者達の誰かに、とても共感をおぼえる事はあるんじゃないかと思う。
キャラクターの性格付けを追っていくだけでも、非常に楽しい。


ロミオとジュリエット (新潮文庫)/シェイクスピア
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2011-01-13 23:00:52

『日本書紀』(全五冊)

テーマ:古典・文学

おとなり中国では、何度も何度も王朝がかわりました、といっても、国土の広がりに変遷があるため、正確には、漢民族を支配する王朝がなんども交代したのだ、と表現するのが良いのだろう。
そして、神代はいざしらず、王朝が交代するというのは、「あとから来た者が前にいた王を倒す」という形で行われるため、そのたびに、王朝の正当性を主張するための史書が編纂されたわけだ。
(従って、近代的な歴史学とは違い、あくまでも、「現王朝の正当性を主張するための道具」である事を考えに入れておかなくてはならない!)。

この習いにしたがって日本で作られたのが、本書だという話だ。
ということは、当然、それ以前に存在した地方勢力(地方の王とかそれに準ずる権力者)をおとしめて、大和王朝の正当性を主張しているはず。
そのせいかどうか知らないが、『古事記』とは、語られている神話の内容も微妙に違っている。

もちろん、歴史をさかのぼればさかのぼるほど、「自分につごうのわるいものはけなしておく」というのは普遍的な習いであり、現代人の目をもってそれを批判してはいけないのだけれど、十代の頃はそういう「古代のスタンス」がいやに思えて、『日本書紀』をあまり読む事はしなかった。

まあ、そういう、大人の事情を理解してからでないと、読めないとも言えるわけだな。

そこらへんの「古代フィルタ」の存在を割り引きながら読むと、これがなかなか面白い。
いったい、当時の日本と中国大陸・朝鮮半島はどれくらい、また、どのあたりで交流があったのかとか、そういうところも見えてきたりするし、大和朝廷に「まつろわぬ」地方勢力がどんだけあったのかというのも、なんとなく見えてくる。
読みようによっては、かなり赤裸々な古代日本がわかるように思うのだ。


日本書紀〈1〉 (岩波文庫)/坂本 太郎
1994年9月16日初版
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2010-12-27 22:10:48

『デカメロン (下)』 第十日

テーマ:古典・文学

十日目、最後のテーマは「鷹揚」。
この徳目は、古来、貴人が持っていなくてはならないものとされていて、これがもしフランスとかイギリスの物語であったとするなら、おおむね、登場人物は王侯貴顕となっていたことだろうと思われる。
もちろん、『デカメロン』とても、このテーマで語られる物語は、他のテーマに比べ、王侯のものである率が高いのだが、それでも、平凡な騎士や、商人、あるいは豚番すら登場するのは、驚きだ。

いや、まあ、豚番はやりすぎというか、逆に、将棋の歩がなりあがって王将になるように、ここに登場してもなんらおかしくない。
やはり注目されるべきは、商人が相変わらず主人公として登場するところではないかと思う。
富裕であり、教養も豊かで、王者の雅量もそなえた、紳商というべき人物が登場するのは、ヨーロッパ的というより、むしろ東洋的。
地中海諸国は、ヨーロッパ側といえども、どこかこういう、東洋に通じるところがあるように思う。
中央ヨーロッパとの間は高い山々にさえぎられているけれども、東洋諸国とは、海を通じて往来があるという土地柄が、そんな気風を育てているのかもしれない。
また、同時に、この地中海があるため、イタリアは古くから商人の国であったのだとも、考えられそうだ。

そして、この十日目の物語のひとつは、まさしく、回教国の王の鷹揚さを描いたものであり、雅量あるイタリアの騎士と回教国王の交情を物語っている。
比較的長めであり、いささかファンタスティックな要素も含まれてはいるが、このエピソードが含まれている事も、イタリアという土地柄をよくよく物語っているように思えるのだ。


デカメロン〈下〉 (ちくま文庫)/G. ボッカッチョ
1988年1月26日初版
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2010-12-26 22:42:44

『デカメロン (下)』 第九日

テーマ:古典・文学

第九日目は、再びノーテーマで各人が好きな物語を語る。
こういったサロン的な物語の会をもよおすという設定ならば、最初の一日はともかく、あとはそれぞれテーマを決めていくというのが常套手段のように思うのだが、そこをあえて、このようにノーテーマの日をはさむのはなぜなのだろう?

フランス(宮廷)料理の源流となったイタリアだから、というのではないけれど、なんとなくコース料理の間にはさまる「口直し」のように感じられる。
つまり、このノーテーマがあるから、また、次のテーマがいきいきと語られるという仕掛けなのではないだろうか。

とはいうものの、第九日の十話は、いずれも、滑稽味のあるものが多いように感じられる。
なかでも活躍するのは、彼女彼らの物語にしばしば登場するブッファルマッコたち、フィレンツェのおどけものたちで、なんと十話のうち二話に登場しているのだ。

この連中だけが、デカメロンには繰り返し登場していて、必ず、滑稽な事件を起こす事になっている。
といっても、日本のきっちょむさんや、トルコのナスレッディン・ホジャのようにとんちをきかせるというのではなく、あくまでも3~4人(顔ぶれは毎回、多少の入れ替わりがある)が、滑稽な事をするというところが違うのだ。
この連中、いったい、何者なのだろう?
ちょっと気になる。
まあ、彼らに焦点をあてるなら、このフリーの場で登場するのは、ちょっと幕間狂言にも似ているのかも。


デカメロン〈下〉 (ちくま文庫)/G. ボッカッチョ
1988年1月26日初版
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2010-12-25 20:16:04

『デカメロン (下)』 第八日

テーマ:古典・文学

デカメロンの八日目は、「瞞着すること」すなわち、人をだますことがテーマ。
昔から物語の世界では、誰かをだますことというのは、かなり人気のあるテーマだと思う。
それは、悪いやつ(たとえば悪代官のような)をだまして、庶民がすかっとするというのもあれば、単に愚か者をかついで笑いのめすという笑い話もある。
もちろん、詐欺そのものも、今だってミステリというか、そこからの派生である犯罪小説では人気があるんじゃないかと思う。

ここでも、悪い恋人をだます話や、愚かな人を笑いのめす話などいろいろとりまぜて、十話語られているのだが、笑い話はともかくとして、詐欺の手口は、ほんとに昔から洋の東西で変わっていないよなあ、などと思う。
あまりにも変わっていないために、やっぱり読んでいて笑ってしまうんだけど、そういえば、オレオレ詐欺なんていうのも、世間に「こういう手口なんですよ」とかなり広まっているにもかかわらず、いまだに被害があとをたたないそうだ。

しかし、単に、信じやすい人の心を利用しただましのテクニックだけではなく、だます側がだまされるという、「俺はいつもだます側なんだから大丈夫!」というありがちなミステイクを突いた話なども入っているのは面白いことだ。

ところで、この「瞞着」がテーマの八日目だけではないけれど、イタリアの物語というのは、ほんとうによく商人が活躍する。
前にも書いたとは思うけれど、これは中部以北のヨーロッパにはない特徴だと思うのだ。
逆に、『千夜一夜物語』には同じく商人が活躍する物語がたくさんあることを思うと、イタリアというのは、ヨーロッパでありながら、やはり、地中海をこしたイスラム圏ともいろいろつながりがあるのではないかと思える
実際、『デカメロン』にも、ある程度遠い国というイメージではあっても、イスラム諸国がちらりちらりと顔を出す。
それもこれも、イタリアの商人は多く、船を使って交易していて、かつ、海をこえれば容易にエジプトなどにたどりつくというロケーションがあるのだろう。


デカメロン〈下〉 (ちくま文庫)/G. ボッカッチョ
1988年1月26日初版
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2010-12-21 22:00:11

『デカメロン (中)』 第七日

テーマ:古典・文学

当意即妙、機知に富んだやりとりのある物語の次にテーマに指定されたのは、女房が夫をたばかるというテーマ。
おおーっ。
今度は再び、男女の間の物語。

前にも述べたが、物語というものは、本来、子供だけのものではなく、むしろ大人のためのものであって、それゆえ、男女の間の「こと」は、決してタブーではなかった。
それどころか、好まれるテーマであったと言えるだろう。
ゆえに、ボッカチオがことさら艶笑譚を語ったというわけでは全くないのだ。

今でも、シリアスな恋愛ものがある一方、「ラブコメ」が好まれるように、ボッカチオの時代の物語も、こういった「たばかり」はとても好まれたのだと思う。
(そういえば、同じく大人向けの物語である『千夜一夜物語』にも、女房が夫をたばかる話は数多く含まれている)。
いずれもユーモラスであり、語り手の技量によっては、聞き手が大笑いするような、楽しい物語ばかりだ。
とはいえ、そこは上流の人々が雅に物語るものなので、さほど下品なものはないと言っておこう。

この中で面白いのは、夫をたばかる女房が、かなりの比率で、「嫉妬深い夫に監視されている」境遇だという事だ。
おそらく、それほど嫉妬深い監視を受けていなかったなら、彼女らは、あえてアヴァンチュールをしようとは、思わなかったのかもしれない。
あまりにも息苦しい生活となってしまったため、彼女らは、夫をだしぬこうと試みるわけだ。
しかも、そのやりかたは、なかなか機知に富んでいて、爽快だ。

このような物語が、けっして、夫が女房をたばかる話とならないのは、「相手を出し抜きたい」と思っている者が、必ず、だしぬく対象よりも、社会的階層が低いからだという事は、憶えておかなくてはなるまい。
逆に言うと、だからこそ、ボッカチオは「女性の味方」として、このようなテーマを設けたのだとも言える。

そういえば、日本にも「知らぬは亭主ばかりなり」という言葉があったね。
今どきは、夫婦の力関係は対等というかもしれないけれど、夫も女房も、過剰な嫉妬には用心した方が良さそうだ。


デカメロン〈中〉 (ちくま文庫)/G. ボッカッチョ
1987年12月1日初版
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2010-12-20 20:50:26

『デカメロン (中)』 第六日

テーマ:古典・文学


第六日目のテーマは、「機知に富んだ当意即妙な受け答えをした話」だ。
つまり、シリアスではなく、ユーモアのある話に転換したわけだ。
同時に、続いた恋物語からも方向性を転じた事になる。

このユーモア、もちろん、時代も国も違うために、ピンとこないものもあるが、そもそも、機知に富んだやりとりというのは、宮廷や上流社会で尊ばれたものなわけだから、ここでは、イタリアの騎士や貴婦人の世界を垣間見る事ができるわけだ。
もっとも、物語としては、庶民の世界に属するものもあるのだが、あくまでも、そういう物語を喜んで聞いているのは、貴紳や貴婦人であることは忘れてはならないだろう。

そんな物語の中に、聖遺物に関するものがひとつ含まれている。
ある修道士が、多くの寄進を募るために、天使ガブリエッロ(天使ガブリエル)が受胎告知をした際に落としたという羽根というものを持ってくるのだが、もちろん、我々から見れば
「そんなのありえるわけないじゃん!」
と思うわけだが、語り手もまた、今の人たちには通用しないのであるが、とこの聖遺物の事を語っている。
中世にはさまざまな聖遺物があふれていたそうだけれど、さすがに、あまりにあり得ないようなものはすぐにすたれていったのだろう。
そんな事情が垣間見えるのも、ちょっと面白いことだ。


デカメロン〈中〉 (ちくま文庫)/G. ボッカッチョ
1987年12月1日初版
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