『花の歳時記 冬・新年』 日本人の不思議な美意識 | 手当たり次第の本棚

『花の歳時記 冬・新年』 日本人の不思議な美意識

ちょこっと俳句を作ってみるようになって、早くもすでに半年なのだが、どうも私の場合、「これ」という花を見かけないと、俳句にしようという気がおこらないらしい。
ゆえに、歳時記も、いろいろなシリーズが出ている中、便利なのが季節ごとに、こちら、『花の歳時記』となるわけなのだ。

いやー、俳句って季語があるからね。
季語確認のために、やはり歳時記は必要なのだ。
参照するのはちとめんどいな、と最初は思っていたのだが、いろいろと、面白い発見もある。べつに俳句を作ろうとしなくても、歳時記というのは、自然が好きな人、日本的美に関心のある人なら、きっと開いてお得な本だ。

しかし、さすがに「花」となると、このシーズンは、少ないらしく、本の厚さが他の季節にくらべて、ぐっと薄い。
しかも1/3は、花の季語および写真とは直接関係のない、俳句そのものについての記事だったりする。
やはり冬は、花が少ない……。
おおざっぱに「花の」といっても、木とか草とか果物、野菜まで含む。
それで、このボリュームだからな。

だが、ひとつめだつことは、やたらと、「枯れた植物」の項目が多いこと。

他の国の人も、落葉だの、枯葉だの、 そういったものを歌わないわけではないと思うが、
いちいち、銀杏だ、朴だ、ツタだ、単なる落葉だ、いや、枯葉だ、枯れた羊歯だ、
などなど多種にわたって「季語」にしている民族は他にあるまい。

単なる紅葉・黄葉から、落葉にいたるまで、あるいは葉をぜーんぶ落としてしまった木まで。
日本人はそういった風景に「美」を見出す民族なのである。

日本文化は「わび」「さび」である、というのは、わりかし世界的に有名なのだろうと思うが、
そういう事を知っている外国人を、たとえば公園に連れて行って、きれいな黄葉が全て落ちきってしまった、銀杏の木立を見せるとする。
そこで、彼ないし彼女は、「美」を感じる事が、できるだろうか?
……いや、まずはできまい。
こればかりは、知識ではなく感覚の問題だからね。

感じられないからいけない、というのではない。

「枯れた美」というものを知っている日本人というやつが、同じ日本人としても、なんとなく面白い。


鍵和田 〓@5CFC@子
花の歳時記 冬・新年