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2010-06-30 21:18:47

『クシエルの啓示 (1) 流浪の王子』

テーマ:海外SF・ファンタジイ

第2部の中盤あたりからか、次第にクシエルがフェードルに幻視をもたらすようになってきていたが、第3部はさらに、それが顕著となる。
だからじこの邦題になったのだろうが、原題は Kushiel's Avatar 、すなわち直訳すると「クシエルの化身」または「クシエルの器」と、より生々しい。
苦痛に悦楽を憶えるアングィセットであるフェードルですら、これ以上クシエルの使徒である事に耐えられないと思うほど、彼女の任は重くなっている。

さて、例によって原初では1冊であるものを3つに分冊しているわけで、そのため、サブタイトルがつけられているのだが、こちらの「流浪の王子」はなかなか意味深い。
というのも、アシェラットの神託で保証された10年の平和を過ぎた時、フェードルを新たな使命に借り出すべく、訪れた霊夢は、まず、ヒヤシンスの形を取っていた。
ツィンガンの流浪の王子である彼(まさしく流浪の王子!)、今や叛逆の天使ラハブの呪いによって絶海の孤島に閉じこめられてしまった彼を解き放つ手段を、いまだ、フェードルは見つけていなかった。
決して忘れていたわけではないとはいえ、フェードルはヒヤシンスを救出する決意を新たにする。

ところが、ここにもう一人の流浪の王子が絡んでくるのだ。
何者かといえば、メリザンドの忘れ形見、イムリール。
今や10歳である彼が、隠されていた場所から、いきなり消失してしまう。
それは、なんらかの政治的陰謀によるものだろうと誰もが思うのだけれど、その行方を捜し始めたフェードルとジョスランの前に、少年の拉致が、非政治的なものではないかと示唆する証拠が現れる。

ヒヤシンスを解放する事ができるかもしれない情報も、拉致されたイムリールも、またまたフェードルにとっては未知の国へとつながっている。
つまり、全開フェードルがたどりついた東の島国テメノス諸島より、更に東へ。
第1巻でまずフェードルが赴いたのは、メネケット。
我々の世界地図なら、おおむねエジプトに相当するあたりだ。
しかし、ファラオが坐す首都はイスカンドリアであり、上流階級はヘラス語をしゃべるとなっている事から、エジプトはエジプトでも、かのクレオパトラを生み出したプトレマイオス朝あたりがモデルなのだろう。
もっとも、風俗は時代的な混淆が見られるのだが、どっちにしても、異世界の事だからなあ。

ともあれ、フェードルとジョスランはほぼいい関係を保っていて、さすがの二人も、それなりの年輪を重ねた事がうかがえる(ちょっとほほえましい)。
この二人が歩む「長い道」は最終的にどこまで続いていくのか。
最後まで目が離せない。


クシエルの啓示〈1〉流浪の王子 (ハヤカワ文庫FT)/ジャクリーン ケアリー
2010年6月25日初版
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2010-06-29 21:57:25

『英雄たちの朝』〈ファージング1〉

テーマ:ミステリ

ナチスがヨーロッパを席巻し、イギリスと講話を結んだ世界。
そう、これは、「if」ものの物語だ。
我々の歴史では、イギリスへ単独向かったヘスは死んでしまったけれども、ヘスの目論見が成功していたなら、というあたりが転換点のようだ。
但し、腰巻でも巻末の訳者の紹介でも、歴史改変と書かれているにもかかわらず、これは、現代乃至未来の登場人物が、誤った歴史を正道に戻すというような活躍をする事はない。
そういう意味での改変は一切見あたらない。
単に「if」ものというわけだ。

本作は三部作であるそうで、一貫しての主人公はカーマイクルという警部補となっている。
そう、そういうことだ。
我々とは異なる歴史上のスコットランドヤードが遭遇する三つの事件という形で物語がつづられるのだ。
すなわち、一作一作はミステリなのだ。

とはいえ-再三否定をしていくようだが-カーマイクルが扱う事件は、少なくともこの打1部を読む限り、政治的に非常に重要なものであるらしい。
つまり、表だって、並行世界の政治をシミュレーションするわけではなく、歴史を改変しようとする勢力が出るわけでもなく、作者として緻密にシミュレーションした事件を、その世界の、一介の警察官に捜査させる事により、読者にかいま見せるという手法をとっているわけだ。

従って、この作品、SFでもなければミステリでもなく、シミュレーション小説でもない、独特の特徴を持つ小説なわけだ。
まあ、強いて分類すればやはりミステリなんだろうな。

ところで、本作の作者だけれど、かつてハヤカワ文庫FTから出た『ドラゴンがいっぱい!』の作者でもある。
そういう意味では、SFやファンタジイのファンにおなじみという事になろうか。
あちらも、ヴィクトリア朝あたりのイギリスのような世界を舞台に、但し登場人物が全員ドラゴンという、ちょっと変わった面白いファンタジイだった。

うん、この作者の作品って、既存のジャンルにあてはめる事はできないのかもしれない。

さて、ミステリとしても十分面白く読める本作、ところどころにさりげなくマザーグースが登場する。
とくに作者を示されていない詩は、マザーグースのものと思ってさしつかえないと思うから、講談社文庫あたりのマザーグースから、探してみるのも面白いよ。
まあ、童謡として昔から歌われてきたのかもしれないが、19世紀末~20世紀前半が現存するマザーグースが、最も良く童遊びに使われたのかもしれないね。
その時代を連想させるのに、大きな一役をかっているように見えるのは、きっとそのせいなのだろう。


英雄たちの朝 (ファージングI) (創元推理文庫)/ジョー・ウォルトン
2010年6月11日初版
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2010-06-28 21:05:08

『MM9』

テーマ:日本SF・ファンタジイ

さあ。これは面白いぞ!
昭和後半に少年時代を過ごした人であるならば、絶対に面白いんじゃないかと思う。
なぜかというと、この連作短篇は、怪獣が日常茶飯事となっている並行世界を舞台としているからだ。
(わんだば!)

もちろん、単に、〈ウルトラマン〉に代表されるような怪獣特撮ドラマや、映画の世界がそのまま並行世界としえt実現しているわけではない。
そんなもんは、単なる「他メディア展開」であって、面白くもなんともないだろう。

怪獣が日常茶飯事である。
であるとするなら「怪獣が出た!」というのは自然災害だ。
(蝗害などと同じ扱いだね。一応)。
なので、怪獣は1年ごとに、登場した順番で、1号、2号とカウントされる。
「今年はもう怪獣5号ですよ。ちょっと例年に比べて多いですね」
「直撃してほしくないなあ」
こんな日常会話もあるだろう。たぶん。

そして、この災害を可能な限り予測しようとし、出現した場合、対応するのが、気特対。
所属は……気象庁!
従って、所属する人たちは……普通の公務員!
決してヒーローではないが、働く全ての人たちと同じく、かっこいいんだよこれが。

但し、気象庁職員である彼らは、十分な国家予算を与えられていないため、怪獣と実際に闘うのは、自衛隊。
陸自も、海自も、空自も、出るぞ出るぞ~。

どうだ、燃えてきたか?

さて、私は平成ガメラシリーズでいうと、第2作の『ガメラVSレギオン』が一番好きだ。
なぜかというと、自衛隊が活躍するから。
もちろん、ガメラは好きだ。
でもね、ガメラに任せきりというのはやっぱ良くない。
まず、人間自身がすごくすごくがんばって怪獣を撃退しようとするのがいいんだよ。
その点、(大人の事情があるからしかたないとはいえ)、ウルトラマンは、いくらドラマ性があったとしても、結局最後はウルトラマン頼りになるのが、幼い頃もなんとなく不満だった。
地球人ではないあんなのが戦ったって、爽快感はいまいちなのだ。
思い切り、町とか壊してるしね。
地球を守るという大義名分があるとしても、ウルトラマンは、そのあたり、全く気にしてないように見えるのだ。
いや、大人の事情だというのはわかっていますとも……今はね。

怪獣が日常的に、出る。
人間が(!)それと必死に戦う。
面白くないわけ、ないじゃん。

そして、この、怪獣が出ちゃうという現象が、実にうまく説明されている。
この手の巨大ヒーローものの検証ものでは、必ず指摘される事だけれど、あんな巨大なもの、地上に存在できるわけ、ないのだ。
機械ものでも相当やばいが、これが生物となるとね……。
めっちゃ難しい事になってしまう。
それが、こんなうまく、科学的に説明されているとは。
この部分は、しっかりと、ハードSFである。
荒唐無稽さは、全くないと言っていい。

それだけに、本巻最後のエピソードには、不満がある。
具体的な固有名詞は出てこないものの、ラストでクトゥルー神話が持ち出されてしまうからだ。
せっかく、作品独自の凄い世界観が確率されているのに、これはないよ。
なんだか、大好きな個人経営のレストランが、いきなり、大企業に買収されてしまったかのような寂しさだ。
クトゥルー神話を出すということは、既製品であるクトゥルー神話という宇宙の一部になってしまうわけで、いきなり作品全体が卑小化されてしまうからだ。
これだけは、正直、やめてもらいたかった。

しかし、それは、唯一の難点だし、なんとか無視しようと思えば、無視できる……と、思う(笑)。がんばれば。
怪獣がなにものであるかという考察は、この最後のエピソードに入っており、その謎解きも実に楽しい。

7月7日からドラマ化放送開始だそうで、テレビでもぜひ見たいと思ったのだが、激深夜番組であった。
25時30分開始だそうな。
平日深夜、これは厳しい。ヒットして、もうちょっと早い時間におりてきてくれる事を切に望む。


MM9 (創元SF文庫 ) (創元SF文庫 や 1-1)/山本 弘
2010年6月25日
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2010-06-27 21:07:40

『VINLAND SAGA (9) 』

テーマ:歴史・時代小説

奴隷編、と腰巻にも書いてあるのだが、燃え尽き症候群となっているトルフィンが、現在は奴隷の身であるという事だから、凶猛な戦士であったそれまでに比べると、どうもダルい感じは否めない。

しかし、ヴァイキングとして活躍した北の民は、基本的に、農民でもあった、と言われている。
まあ、北の……と言って、地球儀あたりを見るとよくわかるのだが、いわゆる北欧と呼ばわれ手いる地域は、本当に北の辺地にあたるわけで、小麦のできる地域は少なく、腫瘍穀物は大麦だかカラスムギだか、そういう別のものにシフトしていて、ゆえに農業といっても、むしろ、酪農が中心なのかな。
事実、デンマークあたりの民話には、まことによく家畜が登場する。

気候が寒いだけでなく、土地そのものもさほど肥えていないから、開墾も大変な作業であって、こういうところでも家畜を使わないとやってらんなーい、というのは本巻にも出てくるエピソードだ。
実際、北の農民を描いているという点では、このあたり、面白いと思うのだ。
地味だけどね。

しかし、トルフィンの仲間として、農民出身の男を一人廃したところに、どういう伏線を置いているのか。
これはちょっと、気になるところだ。
というのも、タイトルからして、翠したたり葡萄がたわわに実る地を求め、あてにならない情報を頼りにいずれトルフィンは船出するのだろうと想像できる。
そこに、今の状況がどう影響するかというのは、当然、興味がわくからだ。

人間としても、トルフィンは、復習にとりつかれたそれまでの生にかえて、新たな生き甲斐というか、生きる目標を見出さなくてはならない。
それは、今この時に芽が出ていなくてはならないはずだ。


ヴィンランド・サガ(9) (アフタヌーンKC)/幸村 誠
2010年6月23日初版
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2010-06-26 20:22:56

『プラネテス』

テーマ:日本SF・ファンタジイ



最近は、『ヴィンランド・サガ』が大人気なのだが、幸村誠といえば、やはり、私には『プラネテス』だ。
最近はアニメのブルーレイ版が出たためか、DVDもまだまだレンタルできるということで、懸案だったアニメの方を初めて見てみた。

漫画を読んだのがだいぶ前だったから、「あれ? こんなのあったっけ?」と首をかしげるエピソードに悩まされたのだが、そこを解決すべく漫画を再読して、アニメ版はずいぶんと、変更が加えられている事を知った。
主人公ハチマキの本来の職業、デブリ屋の仕事が、アニメでは漫画より詳細に描かれている。
また、ハチマキと入れ替わるようにトイボックスのクルーに加わったタナベが、アニメでは最初に新入社員として到来するし、トイボックス自体、テクノーラ社のデブリ課所属という設定になり、ずいぶんとアニメオリジナルのキャラも増えている。

さて、私の持論になるが、ある作品が別のメディアに展開する時、「オリジナル」に忠実であろうとする必要はない、と思うのだ。
むしろ、オリジナルの語ろうとしている事、描こうとしている世界を、新たなメディアの特製を活かして新たに描きなおした方が面白いものができる。
そういう観点からすると、この大胆な設定変更とストーリーの換骨奪胎は、面白いと思う。
おそらく、漫画ではこれほどヴィヴィッドにデブリ屋の仕事を描き出す事はできなかったかもしれないし、軌道上の企業社会を絡めたのもとても面白い。

また、フォン・ブラウン号のクルー選抜なども、アニメの方がよりヴィジュアル的にシビアな演出をしていたかもしれない。
もちろん、漫画は、ロックスミスの墓参などで、読者に行間を読ませるような演出をしているのだけれど、絵が静止していないアニメならば、その分を動きでこなさなくてはならないわけだ。

このあたりの演出が、実にいい。


プラネテス(1) (モーニングKC (735))/幸村 誠

プラネテス(2) (モーニングKC (778))/幸村 誠
プラネテス(3) (モーニングKC (863))/幸村 誠
プラネテス(4) (モーニングKC (937))/幸村 誠
プラネテス Blu-ray Box 5.1ch Surround Edition/田中一成,雪野五月,折笠 愛

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2010-06-25 20:52:14

『仇敵』〈密命23〉

テーマ:歴史・時代小説

このシリーズ、父と子が二人とも剣客として活躍するというところが特徴なのだが、佐伯泰英の他シリーズと比較するならば、父の方がすでに老剣客であるという点で、別シリーズの小籐次と共通している、という事になる。
ゆえに、この二人のキャラクターの間には、明確な差がなければなるまい。
最近、とみに小籐次が善人というか、酒仙というか、その目が常に「慈眼」と形容されるようになっているため、惣三郎は、いきおい別の道を辿らなくてはならない。
ゆえに、惣三郎が遥歩道は、単なる剣客ではない。
「剣鬼」なのだ。

また、だからこそ息子のすがすがしさが際だつという仕掛けでもある。
佐伯泰英の描く剣客は、たとえば他シリーズでいうと、磐音なども、剣者たるもの、景子に打ちこめばキモチがほぐれ、すっきりすrつお考える、まさに体育会系。
今回の清之助も、古巣である鹿島の道場をたてなおすため、自ら率先して、厳しい修行にのぞむ。
そして、なくなった師父への、真の訣別を、この地で告げるのだ。

しかし、この父子対決だけでは、あまりにも重苦しい剣豪小説になってしまうところ、江戸にのこる母、妹の姿が織り交ぜられるところが、いい感じだ。
今回はいよいよ、みわの祝言もある。
祝言のような晴れの日を描くことにかけては、佐伯泰英の右に出るものはなかろう。
いささか大げさにすぎると思うこともあるが、まさに、一服の美しい絵を思わせる描写は、どの祝言を読んでもいいものだ。


仇敵― 密命・決戦前夜〈巻之二十三〉 (祥伝社文庫)/佐伯 泰英
2010年6月20日初版
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2010-06-24 22:12:36

『夢魔』〈異形コレクション19〉 (後半)

テーマ:ホラー
人は「いかにして夢を見るか」。
小説というより、考察と思える。いかにして。いかにして……。
しかし、どれほど考えても、結局のところ、夢は見てしまうものなのかもしれないし、見ようとして見る事ができないものなのかもしれない。
ふむ、だとしたら、夢は人間と不可分のものなのだろうか。
いかにして、夢を見るか。

このシリーズ・アンソロジーには、別途、サーカスや遊園地をテーマにしたものもあるが、どちらもそういえば、夢に大きくつながりがあるように思う。
人に夢を与えるのがサーカスや遊園地の、ひとつの機能だからだ。
ならば、それが逆転してしまったとしたら?
「ナイトメア・ワールド」はまさしくそのようなテーマパークだ。迷い込む事がこれほどおそろしい遊園地もないだろう。

さあ、次は、SFだ。
ホラーのアンソロジーなのに、と言うなかれ。
もともと、ホラーとSFは、源を同じにしている。
「脳喰い」とは、突如太陽系にあらわれたおそるべき生物に与えられた名前だが、彼らが人間を襲うところは、ホラーSF風味と言えるだろう。(映画「エイリアン」のように)。
しかし、本作の真骨頂は、その先にある。
脳喰いは、脳を食べているのか? 何の目的で脳だけを奪取するのか?
結末は目をみはる内容だ。

人がどんな夢を見るかというのはよくわからないけれども、乗物に乗るというのは、わりとよくある夢なのかもしれない。
私も、夢で、車や、潜水艦や、宇宙艦に乗った事があった。
でも列車はどうだったかなあ。
「笑顔で待つ人」では、夢を見る人が電車に乗るのだけれど、そういえば、電車とか列車というものは、始点と終点が決まっている。
一定の線路の上を走るからだが、そういえば、停車する駅は、必ずしも同じではない。
ほらほら、鈍行と特急とかあるよねえ。
これは、電車のそういう面白い特徴を利用した悪夢なのだ。

なんの変哲もない街角で、自分以外に誰もいないというのは、なかなか怖ろしい光景のような気がする。
しかし、それが夢であり、しかも不特定多数の人が、ほぼ同じ内容の夢を見るというのは、かなり気味が悪い。
なるほどなるほど、「集団同一夢障害」とはそういうことか。
納得したような気にさせられてしまうのだが、実は、そこにはもっと怖い仕掛けがあるのだ。
夢と現実。荘子ではないが、どっちが夢やら現実やら、知れたものではない。

「ゆびに・からめる」といったら、何だろう。
普通に考えれば、真っ先に浮かんできそうなのが、糸、あるいは糸状のものかと思う。
しかし、ヒロインの指にからまるのは、夢。
しかも、傷つく癖のついた指にからまるのだから、ただの夢であるわけがない。
それはどんどん歪んでいく。

ところで、天使というのはどのような存在なのか。
文字通り、「天からの使者」であると言われる。天とは、すなわち、神の事だ。
なんらかの超越的存在からつかわされた使者……だが、それは神からと決まっているだろうか。
「偽悪天使」もまた、不思議な使者なのだ。

夢の中で、繰り返し同じ土地を訪れる事というのは、あるだろうか。
実は私にはあるのだが、それは、なんとなく「これは夢」とわかっているようで、しかも、どこをどう行けば、別の夢で訪れたところに行けるか、わかるという不思議なものだ。
「片靴」に登場するのも、そんな夢の街角なのだろうか。
夢は、やはり、つかもうとすればするほど、指の間をすりぬけていくものなのかもしれない。

さて、夢は夢でも、悪夢といえばナイトメア。
夜の雌馬と直訳する事ができる。
馬であるからには「鞍」を置く事もできるのだろうか? (わかりません)。
ナイトメアの系譜を辿りながら、主人公はナイトメアそのものと、語りあっていたのかも。

夢。そして、夢魔。
魔とつくからには、「魔」物の一種でもあるんだろうな。
部隊は明治、前半であろうか。
かつての旗本屋敷の奥に横たえられた娘は、まさしく、魔に取り憑かれている。
いわゆる西洋のインキュバスのように、彼女に取り憑いた魔は、淫らなことを為しているようだ。
娘の母親と、魔のようなものを視る事のできる女性の会話で物語は展開するが、この夢魔には不思議で哀しい因縁がからんでいる。

しかし、悪夢ならば、やはり怖いのは、自分の体が毀損されるというものかもしれない。
ならば、「怪物のような顔の女と溶けた時計のような頭の男」は、思う存分、その恐怖を突き詰めた物語。
そもそも、いろいろな意味でずたぼろになった女が、犠牲者として連れてこられる。
しかし、壊されていくのは、実は彼女ではない。

そして最後は、「夢魔製造業者」。
……ああ! 一瞬、ヴォークトの『武器製造業者』という作品のタイトルを思い浮かべたけれど、勿論、全然違う。
夢魔を製造するといえば、いったい何だろう。
うん、夢であろうと悪夢であろうと、映画はそれを作り出すものだったのだと思う。
映画全盛期のあとはテレビの時代となり、今やテレビですら、じわじわとネットに敗退しつつあるように思えるが、媒体は新しいものになるほど、広く、薄く、浅くなっていくようだ。
映画は、夢の焦点がはっきりしているものだったのだ。
だからこそ、夢を、あるいは夢魔を、作り出す人々の中には、このような物語も、生まれ得たのかもしれない。

夢か……。
ギリシア神話によれば、夢は、冥府の神の息子なのだ。
夢を見ることは、だから、半ば死ぬ事なのだ。
そのようにして自分を犠牲にしながら、人はどのような夢を見る?
そして、夢を見せているのは、誰。


夢魔―異形コレクション (光文社文庫)/井上 雅彦
2001年6月20日初版
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2010-06-23 20:57:54

『夢魔』〈異形コレクション19〉 (前半)

テーマ:ホラー
夢か……そう、夢だ。
夢は美しく、楽しく、しかし、怖ろしい。
哀しくも怖ろしい、あるいは、ただただ、怖ろしい。

小説家で、(あるいは他の分野の芸術家であっても)自分の見た夢をもとに作品を生み出す人は珍しくないと思うが、夢そのものをテーマにしたアンソロジーは、どんな結果が出るのだろうか。
もちろん、このシリーズに連なるからには、ただの夢ではあり得ない。
読了後は、久しぶりに、怖い夢を見るのかもしれない。

そういえば、怖い夢は大人になるにつれ、それほど見なくなった気がする。
それもまた、不思議な話だ。

----------
飯野文彦……「花林搭」
霜島ケイ……「夢憑き」
新津きよみ……「明日、見た夢」
安土萌……「十三番目の薔薇」
奥田哲也……「ドクター・レンフィールドの日記」
江坂遊……「浮人形」
山田正紀……「夢はやぶれて(あるリストラの日記より)」
田中哲弥……「げろめさん」
五代ゆう……「どっぺる・げんげる」
浦浜圭一郎……「夢の目蓋」
森真沙子……「大鴉」
朝松健……「妖霊星」
藤掛正邦……「眠り姫」
牧野修……「いかにして夢を見るか」
村田基……「ナイトメア・ワールド」
小林泰三……「脳喰い」
かんべむさし……「笑顔で待つ人」
小中千昭……「集団同一夢障害」
深川拓……「ゆびに・からめる」
久美沙織……「偽悪天使」
倉阪鬼一郎……「片靴」
井上雅彦……「鞍」
竹河聖……「魔」
平山夢明……「怪物のような顔の女と溶けた時計のような頭の男」
菊地秀行……「夢魔製造業者」
----------

夢の中で、私は唐を見た事はない。
しかし、夢の中で高くそびえるものというのは、なんとなく、怖さを秘めているような気がするのだ。
高さは、やはり、不安をそそるものなのだろうか。
黒糖を使った、くろぐろとした花林糖を、塔に見立てて立ててみる。
これが、夢の中で高くそそりたっていたとしたら。

「夢憑き」は、不思議な生き物の物語。
たとえば、犬神筋と呼ばれる特殊な家系が、日本の各地には存在して、彼らは不思議な動物(のようなもの)を操り、他から剤を盗み、運を盗む事によって豊かに暮らすと伝えられていた。
これもそんな犬神筋の家にあたるように見えるのだが、しかし、そこに隠されたものは、より怖ろしい。
『封殺鬼』の霜島ケイならでは。

世の中で最も尊い愛は、母性愛だという。
もちろん、それは、幾分か、本能もあるのかもしれないけれど、母親は、子供のためになら、どんな事でもする。
だからこそ、呼んでしまう悪夢もあるのかもしれない。
「明日、見た夢」のように。
そんな母性愛による犯罪の上に、昨今時々報道されるような、無差別殺人の例を重ねる事で、一掃の悲しみと恐ろしさが漂い始める。

「十三番目の薔薇」も、ひどく美しい。
夕暮れの多彩な空を背景にした、影絵芝居を見るかのようだ。
薔薇は、秘密の象徴。愛の象徴。場合によっては、死の象徴でもあり、ホラーを愛するものにとっては、限定された意味での「不死の象徴」でもある。
儚く妖しく怖ろしいからこそ、この物語は愛しい。

さてさて、「ドクター・レンフィールドの日記」なのである。
うわあ。レンフィールド医師って言ったら、あれだよなあ。しかも、ルーシーとかミナとか出てくるよ。
名前の羅列でほくほくしてしまうほど、登場人物は、『ドラキュラ』を思わせるラインナップだが、実に巧みに、『ドラキュラ』の腫瘍登場人物の名前から、ごく平凡な部分だけ、抜き出しているのだ。
ゆえに、これは、ヴァンパイアとは何の関係もない。ないはずだ。ないはずだが、ここに登場する怖ろしい夢魔も、実はヴァンパイアの一種かもしれないのだ。

「浮人形」は、江戸の情緒を漂わせる短篇だが、水に浮かんであたかも生人形のようにゆらゆらと動く人形は、それにはまりこんだ男たちから、とんでもない代償をとりたてる。
美しいからこそ怖ろしいという公式が、ここにもあてはまる。

「夢はやぶれて」しまうものだよね。うん、全うされる夢というものは、まことに少ない。
しかし、もしも夢が夢魔のような、夢を送り出すなんらかの存在によって織りなされるものであるとしよう。
だとすれば、夢がやぶれたとき、彼らはどうなるのか? やぶれるということそのものが、夢魔のしわざによるのだろうか。

むむ。今、もしかして何か食べていないか?
だとしたら、「げろめさん」は読んじゃダメだ。
タイトルからなんとなく想像したものがあるなら多分あたりだ。

ところで、夢が美しいと思えるのは、現実が厳しいからだ。たぶん、そうだ。
エリートとして世に出れば、それなりの結果を出さなくてはならない。
(そうだ、エリートは庶民とは違うのだ! 違う苦労があるのだ!)
だからこそ、夢は忘れてしまうのかな。
そんな男の前に姿をあらわす、不思議な女とは?
そういう女が見せようとするものにゆめ気をつけなくてはなるまい。
「どっぺる・げんげる」だとしたら、言い伝えによると、それを見たが最後あなたは命を落としてしまうんだよ。

だが、それでも、悪夢から目覚められなくなるよりはずっとましなのかもね。
「夢の目蓋」はそんな物語。
冷められない悪夢ほど、怖いものはないだろう。
それは、抜け出る事ができない地獄のようなものだと思う。

「大鴉」の部隊は鎌倉だが、者がtりは別に鎌倉特有の何かをネタにしているわけではなく、医師という、ことさらに世間体をはばかる職業の男だからこそ見るような、現実の悪夢の物語だ。
とはいえ、それも、やはり、鎌倉だからこそ、その雰囲気は大いに増すのだろう。

「妖霊星」はなんと読むだろう。
一発で「ようれぼし」とふりがななしで読めるなら、あなたは古典か、伝奇物が好きなのかもしれないな。
そう、これは、『太平記』に登場する鴉天狗たちの歌う、あれだからだ。
もちろん、天狗そのものは、平安時代から知られていたものだが、それでもやはり、平安は鬼の時代だった。
この『太平記』のシーンから、天狗がメジャーに躍り出たのだと私は思うのだ。
あ、今回は、一休さん出てきません。

さて、ちょうど中間に位置する「眠り姫」は、死と写真でつづる夢魔の物語だ。
紙面から伝わってくる雰囲気を心ゆくまで愉しめば良いと思う。
恐怖もまた、愉悦なのだ。


夢魔―異形コレクション (光文社文庫)/井上 雅彦
202001年6月20日初版
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2010-06-22 19:38:14

『世紀末サーカス』〈異形コレクション14〉 (後半)

テーマ:ホラー
「アクロバット」はまさしく物語のアクロバット。
不思議な鍵を手にしたふたりの少年が、次々に鍵をあけていく先で、サーカスの断片がさらされる。
時空を渡る、それがアクロバットなのだ。

邪悪なサーカスといえば、団長が一番邪悪と相場は決まっており、「フルベンド」でも、少年少女が団長に急所を握られて、逆らう事もできずに危険な曲芸を演じているのだ。
邪悪なサーカスには、邪悪な団長が欠かせない。
だとするなら、その裏をかくのも、少年や少女の使命なわけだ。

さて、サーカスの「猛獣使い」というと、どんな動物を操るのだろう。
ライオン、トラ、クマ、ゾウ……。
今はワシントン条約もあるし、もしかすると、猛獣使いが操れる動物は残っていないのかもしれない。
そういえば、地上でもっとも危険な動物というブラックジョークをしかけたというのはロンドン動物園だっけ?(それともあれは都市伝説なのだろうか)。
だとすると、猛獣使いが最後に操ろうとするのはやはり……。

なんといってもサーカスに欠かせないのはピエロだ。
ピエロのいないサーカスなんて、絶対に考えられないだろう。
そして、笑顔のメイクアップをしたピエロの素顔は、哀しいものというのが、お約束。
しかし、そんな演技を一日のほとんどの時間、365日、演じなければならなかったとしたら?
そのストレスはいかばかりか。
本作は田中啓文の面目躍如、哀しいピエロの物語だが、いわゆる先進諸国のエゴを醜う描き出した物語でもあるようだ。

さて、サーカスで定番なのは、「綱渡り」も同じこと。
これは空中ブランコよりも設備的に勘弁にすむためか、たとえば余生の舞台などでも演じる事は可能みたいだ。
それだけ身近という事でもあって、危険な、かつ唯一の道が綱渡りなんて表現される事もある。
これは、あさしくそういう比喩的な綱渡りが、一転して現実のものになってしまった男の物語。
その道筋はブラックジョークに彩られている。

崩壊した帝都は浅草十二階、少女だけの曲馬団、少女小説……。
妖しくも耽美な「帝都復興祭」は、レトロな美しさの中に、まさしく少女小説的耽美さをからめた、素敵な作品だ。
いい。これは実にいい。

さて、「理想のペット」は、サーカスのサの字も出てこない。
まあ、獣を使う妖しの技は、確かに、サーカスと無縁ではないのだろう。
本巻のテーマとストレートに結びついてはいないが、都市伝説的な怖さをもった面白い短篇だ。

そして、「サダコ」。
体の柔軟性を保つために彼女がとった手段は、おそろしく思い切ったものだった。
ここに登場するものは、今昔物語集などにも、凄い話があるけれど、まあ、それだけなじみ深いものという事になるのだろうか。
「ありえねーっ」と言いたいところだが、なぜか妙に納得させられてしまう物語でもある。

ところでサーカスというものは、体技の極地を披露するものなのだが、不思議と、サーカスの物語はアクション小説にならない。
本作を除いては。
ここにはカルトもからんでくるが、カルトというものは、宗教dかえではなく、政治的カルト、経済的カルトなどもある。これはエンタテイメント的カルトなのだろうか。

サーカスというと、どうしても、大テントを連想してしまうけれど、単独で演じる大道芸などもある。
大道芸なら、やはり定番は投げ物芸。放下師、ジャグラー、そんな風に呼ばれる芸人だ。
ボールにクラブ、ナイフに松明。
しかし、基本はボールなんだろうな。
素人でも、お手玉にするくらいだ。
でも、ここに登場するジャグラーは、すごい規模のジャグリングを披露してくれる。

80年代の事だったろうか、「エレファント・マン」という映画が大ヒットした。
オルゴールみたいな哀愁を帯びたテーマ音楽も美しかった。
しかし衝撃的だったのは、主人公のエレファント・マンが実在の人物だったという事だろう。
「朋類」は、そのエレファント・マンの、もうひとつの物語。
美しい月光が降ってきそうな、これも美しく哀切な物語だ。

ところで、サーカスのオートバイ芸って見たことある?
金網のボールのようなものの中を、オートバイが縦横無尽に走り回る。
ドームの天井まで勢いよく走るのは、ほんとうに手に汗を握らせられるものだ。
そんな、危うく、勇壮なオートバイ芸が語られるのは「オータム・ラン」。

ああ、そして、全ての幕を閉じるのは「JINTA」。
サーカスのための、あの三拍子のジンタは、いつだって、哀しくも魅力的なのだ。


世紀末サーカス (広済堂文庫―異形コレクション)/井上 雅彦
2000年1月1日初版
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2010-06-21 20:29:19

『世紀末サーカス』〈異形コレクション14〉 (前半)

テーマ:ホラー
サーカスかあ。
サーカスって好きなんだ。
それも、できることなら、生で見るに限る。
テレビでもいいんだけれどもさ、臨場感はやっぱり大事だ。

ところで、サーカスというと、
「悪い子はサーカスにさらわれてしまうよ。酢を毎日飲まされて体を軟らかくされて、芸を仕込まれるんだよ」
という都市伝説を聞いた事はあるだろうか。
私が物心ついたかつかないかくらいの頃に、叔父から聞かされた(というか、おどかされた?)記憶があるけれども、今はなさそうだし、いつぐらいまで巷で囁かれたのだろう。

このフォークロアは別に日本独自のものではなく、欧米にもあるらしい。
こちらは、「ジプシーに」というヴァージョンもあるようだから、日本より古いかもね。

でもね、なんとなくわかる。
ジプシー、旅芸人、サーカス、これも今はほとんど見ないけど、チンドン屋。
珍しくて、面白くて、ついつい、追いかけていく。
いつのまにか、どこか知らない場所にいる。
今でこそ、迷子がそのまま行方不明になるなんてことはまずないだろうけれど……。

----------
芦辺宅……「天幕と銀幕の見える場所」
石だ一……「我は伝説」
太田忠司……「黒い天幕」
倉阪鬼一郎……「夢の中の宴」
草上仁……「頭ひとつ」
奥田哲也……「砂の獣」
山下定……「たまのり」
江坂遊……「マイサーカス」
藤田雅矢……「暖かなテント」

横田順彌……「曲馬団」
平山夢明……「Ωの聖餐」
高野史緒……「パリアッチョ」
斎藤肇……「アクロバット」
久美沙織……「フルベンド」
村田基……「猛獣使い」
田中啓文……「にこやかな男」
岡崎弘明……「綱渡り」

速瀬れい……「帝都復興祭」
我孫子武丸……「理想のペット」
西澤保彦……「青い奈落」
竹河聖……「サダコ」
友成純一……「来るべきサーカス」
安土萌……「炎のジャグラー」
北原尚彦……「朋類」
菊地秀行……「オータム・ラン」
井上雅彦……「JINTA」
----------

芦辺拓のミステリが好きだ。
「天幕と銀幕の見える場所」、これも、芦辺拓による名探偵ものなのだが、ちょっとひねりがある!
通信社の記者が取材に行くにあたり、小林という少年を助手として連れていく。
これでピンとくる人は、私と同類だろう。

そういえば、サーカスの前世紀というのは、映画の無声時代と重なるものなのだろうか。
無声映画から有声映画に移行する時期の凄い怪談が、みごとにサーカスとからんでいる『我は伝説」。
怪談自体も素晴らしいが、気味の悪いサーカスというイメージがそこにぴったりとはまっている。

何かの願いとひきかえに、おまえの大切なものをひとつもらおう。
そういう悪魔との取引は、民話に時々出てくるのだが、今回はその魔的存在が、サーカス。
そう。サーカスは。邪悪なサーカスは子供をさらっていくものと決まっているのだ。

「夢の中の宴」はまさしく、悪夢の中のサーカスだ。
こんな悪夢に落ちたらと思うと、正直、ぞっとする。
悪夢の中で、ヒロインは、身体毀損された少女たちが、サーカス芸人となっている光景を見るけれど、「さらわれる(とらわれる)」、そして「身体毀損(されて見せ物となる)」、いずれも、邪悪なサーカスに関係が深い。

ところで、マジシャンという存在は今はサーカスとは独立した芸人になっていると思うのだけれど、もともと、サーカスの一員である事が多かったのかもしれない。
脱出マジックなんかは今でもサーカスで見られるのかな。
「頭ひとつ」抜けられるなら脱出可能、猫みたいだけれど、もちろん仕掛けがあるわけだ。しかしその仕掛けを知っている相手なら、その芸はどう見えるのだろう。

「砂の獣」はちょっと面白い。書くことに恐怖すら憶えるようになってしまった作家が、サーカスで何をみつけるかという話しだからだ。
しかし、考えようによっては、小説を書く作業そのものが、一種のサーカスなのかもしれない。
ならば、そこにも、ぞっとするような深みの獣が潜んでいるのかもしれない。

サーカスの花形芸は空中ブランコだと聞いた事がある。
しかし、玉乗りも棄てがたい。
正直いうと、一度、やってみたいなあ、と思っていた。そう簡単に乗れるものではないのだろうけど。
しかし、「たま」という言葉には、いろいろと意味があり、あてはまる漢字だってたくさんある。
「たまのり」にはどんな漢字があてられるだろう。

大がかりな設備や人員を必要とする興業は、たとえば、大貴族のようなスポンサー(パトロン)がいなくなると、すたれる宿命だったのだろうか。
しかし、ポケットに入るくらいのサーカスなら、我々でもオーナーになれるだろうか。
「マイサーカス」。いい響きだ。
もしかしたら。たぶん。しかし、そこに罠があるかもしれないのだが。

それにしても、サーカスの邪悪なイメージというのは、なぜこうも繰り返し出てくるのだろう。
それだけ、印象が強いのだろうか。
だが、これほど怖いサーカステントもそうはないだろう。
「暖かなテント」、寒い時には魅力的っぽいがちと怖いぞ。

ノミのサーカスって聞いたことある?
私は聞いた事はあるけど、もちろん、実物は見たkとない。どんなものかも知らない。
見る機会があったら見るかと言われると、これまたちょっと微妙だ。
だってノミだろ? 小さすぎるよね。
「曲馬団」は、そのノミのサーカスを、誰にも楽しめるようにというのがコンセプト。そうらしい。

ひたすらグロテスクな「Ωの聖餐」、スカトロジスティックな気持ち悪さの中で、展開される「サーカス」とはいったいどのようなものなのだろう。
ううん、これはちょっとわかりにくい、ような気がするんだけど、いや、もう、ほんと気持ち悪い。

さて、サーカスにはピエロがつきもの。
道化というのは、殿様に仕えて個人的に楽しみを提供もしたし、大道芸の一種でもあり、演劇にも口上役などとして登場する。
道化芝居というのもあって、これは、役柄が決まっている。
「パリアッチョ」は複数のオペラをコラージュしながら、入れ子芝居のように道化芝居がスラップスティックに演じられる。
ああ、もう、これぞ道化芝居の真髄かも。


世紀末サーカス (広済堂文庫―異形コレクション)/井上 雅彦
2000年1月1日初版
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