
ものにとりまぎれて買い損ねていた〈雨柳堂夢咄〉の12巻を手配したのをきっかけに、シリーズを逆順に再読してみる事にする。 (画像が画集と最新巻しか出ないようなので、本記事では画集の表紙を採択)。
何かにつけて愛読しているシリーズではあるが、さすがに後ろになればなるほど、記憶が薄くなってしまうのは、再読回数が当然最初の方の巻ほど、かさんでいるからだ。
さて。
ネムキの看板のひとつであるこのシリーズ、
そして先日テレビドラマ化もされた畠中恵の人気時代小説『しゃばけ』。
いずれも、器物の怪が主人公をとりまく作品であるという点が共通。
さらにいえば、どちらも、主人公は決して彼らの主人ではないというのも共通。
怪しのものどもは、主人公を”特別な人”とみなして、立ててはいるけれども、決して彼らの家来ではない。
しかも、重要な点として、主人公がその威を借りるべきものとしての、
あるいは、怪がおのずと従わなくてはならないものとしての、
「神」(絶対神)が、背景に存在しないのだ。
これはなかなか希有な世界だと思う。
というのは、キリスト教文化圏やイスラム文化圏は、言わずと知れた絶対神のしろしめす世界なので、どのような超人も、あるいは悪魔も、その神の権威を無視する事はできない。
従って、主人公はどんな特殊な力を持っていたとしても、それは必ず、神の権威に裏付けられるか、黙認されたものとして扱われるのだし、
一方の悪魔やもののけは、神の創造した世界にすまう以上、これまた、神の権威には屈服するしかない存在として描かれなくてはならない。
また、中国などのような儒教文化圏は、これまたヒエラルキーのはっきりとした世界なので、神仙の世界といえども、それなりの階梯というものがあるし、それは俗世でも同じ事で、
さらに、士たるもの怪なんぞ語ってはいかん、という孔子の教えがあるせいもあってか、たいてい、いかなる怪も、駆逐殲滅されるべきもの、という立場をとる事が多いようだ。
これらに対し、日本の怪は、実にずぶとく、自由奔放で、気ままな存在として描かれている。
もちろん、重箱を隅に向かってつついていくなら、
お稲荷さんなどはそれぞれ授けられる位だの官位があって狐もそれに応じて動いてんじゃないのとか、
高天原もいろんな神社も格付けがあるんじゃないのとか、
言うには言えるのだけれども、そういった、朝廷もどきの「格付け」は、あくまでも表向きの事であって、人々の信仰世界(つまり、俗信)にまでは及んでいない。
日本人にとっては、大切に長く使った品物は、当然、魂が籠もるものだし、
なおざりにされた器物は古くなれば化けるものだし、
いや、何もしなくても、ただずっとそこに「ある」だけで、なんらかの霊的な付加価値ができてしまうものなのだ。
つまりね、そうつきつめて考えていくと、日本人にとっては、そもそも、「ある」という事が、イクォール、「価値がある」のではなかろうか。
世の中に、無駄なものなど、何一つないという事だ。
そういや、数年前にアフリカの人が世界に広めた「もったいない」という言葉だが、これも、日本にしかない言葉というのはちと意外で新鮮に感じたものだった。
昭和中頃の消費促進、使い捨て万歳のおかげで、その精神もだいぶ錆び付いてしまったかのようだが、それでも根底には、まだ、そういう精神が日本人には息づいているのかもしれない。
実際、こういう漫画や小説の人気があるというのは、それが日本人に向いているからではなかろうか。
器物であろうと、生物であろうと、「もの」は、「ある」だけで価値がある。
そういう事を、一切教訓臭くなく(ここが凄く重要だ)、ナチュラルに描いているところがいいんだろうなあ。