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2006-06-30 21:56:48

『天使と悪魔 (下) 』

テーマ:ミステリ
悪魔を知っているか。
そう、悪魔だ。

実は、悪魔はもともと天使であったのだ、とされている。
もちろん、その筋の学問にてらせば、悪魔の出自はより複雑だが、いちおう、キリスト教的な常識では、このように語られる。

すなわち、神にそむいた天使が地獄に落とされて悪魔となりました。

そう、悪魔とは、本来、天使であったというのがキリスト教での考え方なのだ!

その悪魔の頭領は、サタンと呼ばれているが、これも、「神の敵」という名前なのだと語られる。
ここで、キリスト教にひとつのジレンマが生じる。

キリスト教の源流であるユダヤ教というか、ユダヤの民族宗教は、歴史的に、中近東の諸文化にさらされてきているのだな。
旧約聖書を読むと、実に多数のユダヤ人が地元の宗教に同化され、地元の神をまつったりしていた事がよくわかる。
でもって、バビロニアとかあのあたりの宗教は、極論すると、「二元論」がベースなのだ。
代表的なところをあげると、ゾロアスター教。
アフラ・マズダとアーリマンは、おおむね同等の力を持つ存在として相争う。
あるいは、ヒンドゥ/仏典に登場する、帝釈天と阿修羅の争いを考えても良い。

いちおう、善なるものが勝ってくれないと困るので、善(光)の側が、優勢ではあるかもしれないが、これらは二元論的にみて、パワーはほぼ同じなのだ。

従って、神に敵対するものとしての「サタン」も、本来は、アーリマンや阿修羅のように、神と「ほぼ同じパワー」を持っている存在だったようだ。

しかし、ユダヤ教/キリスト教は、基本的に、対立者としての「神」を認めない「一神教」であるから、実は、サタンの存在は、ちょっと浮いてしまってるのだよ。

サタンあるいは反キリストの存在は、
アーリマンや阿修羅のように、「当然存在するもの」ではないのだ。
教理上は「存在してはならないもの」であるから、余計に、恐怖の的となってしまうのだ。

人間、認知している悪より、認知できない悪の方が怖い。
なぜなら、それは、「あり得ないもの」であり、「不条理なもの」だからだ。
どう扱ったら良いのか、わからないものだからだ。

ところがですな。
困ったことに、天使というのは、本来、「神」の投影というか、
「神」という存在が流出したものだという考え方がある。
どういうことかというと、それは、本質的に天使は神の一部であるということなんだな。
そうすると、悪魔もまた、神の一部ということになってはしまわないか?

神は全能なのだから、教理上、あってはならないはずである!(笑)
ここでも、ジレンマが生じてしまう。

さらに困ったことに、善に対する悪という存在は、実は、いろいろな説明をする上で大変便利なのだ(笑)。
だから、教会では、昔から、この「悪魔」という言葉を都合よく利用してきた。

はやいはなしが、「教会の敵」は、すべて「悪魔」にされてしまったというわけだ。
(だからこそ、現代に近くなればなるほど、「悪魔」の素性は複雑怪奇になっていくし、イメージにもばらつきが出ていくのだ)。

思うに、聖書を中心とした宗教的な世界観は、科学とは別のロジックでなりたっているものなんだよなあ。
キリスト教と、科学。
同じ世界を見ているのであっても、使用しているレンズが違う。
たとえば片方が魚眼レンズを使用していれば、同じものをうつしていても、できあがった写真は全く違うものになってしまう。
そこで、
「いや、魚眼レンズでうつしたこちらの写真が真実であり、違うレンズでうつしたものは、間違いだ」
と言う事はできるか?
逆も同じだよな。

生活文化がそもそもアニミズム的で、多様な価値観が並立する事に慣れている日本人からすると、なぜそこのところが「わからない」のか、不思議に思えてしまうが、
一神教の理論では、「自らの宗教的世界観」に合致しないものは、認められない、となってしまうようだ。
つまり、真理はひとつ。
そこからはなれる事ができない。

しかし、それは、あまり現代的ではないよね。
だからこそ、物語の冒頭で殺されてしまった神父にして科学者である人物のような人が出てくるわけなのだけど、驚くべきことに、それを敵視する者は、たくさんいるというわけだ。

悪魔もまた、もともと天使であり、神から流出した「神の一部」なのである。
それを認められないために生じる歪みが、本作のメイントリックである。
でもやっぱ、テーマとしては、日本人向けではないよな(笑)。
もっとも、そういう事を無視して、ストーリーテリングだけで読めてしまうシリーズでは、あるのだが。


ダン・ブラウン, 越前 敏弥
天使と悪魔 (下)
角川文庫
2006年6月10日文庫新刊

※ 噛み砕いて書いているため、用語などは、専門的な定義からずれているものがあると思う。そこは、研究者のブログとかではなく、読書子が読書子のために書いているものとして許容してほしいと思う。(つまり、幾分方便をまじえているということです)
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2006-06-29 22:50:02

『天使と悪魔 (中) 』

テーマ:ミステリ
文庫版では、いよいよ中巻で事件は佳境に入るというわけだ。
具体的には、イルミナティによるテロが、次々に実行されていくというわけだ。
ここらへん、たとえば横溝正史作品のように、殺人は予告され、あるいは予測されており、探偵(役)は次に誰がどこで殺されるのか推理する事はできるのだが、残念ながら、それを防ぐ事ができない。
もっとも、本作に関しては、殺人事件そのものが「ミステリ」なのではなく、イルミナティという存在そのものが「ミステリ」であるため、実は殺人事件は副次的なものにすぎないのだな。

そのわりに、殺され方がなかなか猟奇的なのだけど、横溝的耽美さには欠ける。
ゆえに、猟奇といえども、日本人にとっては、単にグロいだけであり、カトリックでなければ、ショッキング性もあまり高いとは言えない、と思う。

そうなんだよな~。
先に文庫化された『ダ・ヴィンチ・コード』でもそうだったのだが、主人公がたまたま、宗教美術における象徴が専門である、という設定であるため、物語はどうしても、宗教的なものに関連してしまう。
しかし、それは、日本人にはいまいちなじみにのない、キリスト教に関するものなんだよな~。

まあ、見ようによっては、そういう「うんちく」的な部分は右から左に受け流して、主人公が次々に遭遇する刹那的な危機を楽しむというのが、一番シンプルで正しい楽しみ方なのかもしれない。


ダン・ブラウン, 越前 敏弥
天使と悪魔 (中)
角川文庫
2006年6月10日文庫新刊
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2006-06-28 23:52:25

『天使と悪魔 (上) 』 ラングドン第一の事件

テーマ:ミステリ
大ベストセラー、『ダ・ヴィンチ・コード』に続いて、主人公ラングドン教授にとって、最初の事件である『天使と悪魔』も、映画化が決定したのだそうだ。
おかげで、あの分厚いハードカヴァー上下巻が文庫化されるはこびとなったわけだが、文庫化先行した『ダ・ヴィンチ・コード』と同様、こちらも上中下、3巻構成となっている。

これって、持ち運びやすいのは事実だが、読後感からいうと、いまひとつ賛成しかねる構成なんだよな。

というのは、上中下にわけられた結果、この上巻は、1冊まるまる、プロローグにあてあられている形になってしまうからだ。

本作は、ヴァチカンにおける「教皇選出」と、そこに狙いを定めた反キリスト組織イルミナティの驚くべきテロルに、ラングドンが背水の陣であらがうという、
「とりあえずキリスト教とかカトリックとかイルミナティ関係のうんちくを別として読み飛ばしても」
面白い冒険小説またはミステリである事は間違いない。

しかし、その面白さは、やはり、ラングドンによる謎解きにあるわけだし、
彼の謎解きは、とうぜん、宗教美術に関するものなんだよな。

ところが、文庫版上巻は、事件に悪用される「反物質」について長々と語る、それだけに終わってしまうような感じで、なんとも肩すかしなのだ。

もちろん、上巻の終わりくらいから、テロリストとラングドンのスリリングなかけひきがスタートするため、どんどん面白くなるのだが、ようやく面白くなってくるかな、というくらいで、上巻そのものは紙数が尽きてしまうんだよ。

上中下に分かれているということは、買う側からすると、
「とりあえずお試しで上巻だけ買ってみようか?」
という事ができるわけなんだけど、本作に関しては、上巻だけだと、まるっきり、期待はずれでつまらないのではないかなあ。

ダビコーはともかく、本作はハードカヴァーと同様、上下巻にすべきだったのではないか。


ダン ブラウン, 越前 敏弥
天使と悪魔(上)
角川文庫
2006年6月10日文庫版新刊
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2006-06-27 21:37:21

『百器徒然袋-雨』

テーマ:ミステリ
基本的には、ダメダメ小説家関口の目を通してみる事になっている京極堂シリーズでは、榎木津という男、きわめつけの変人として描かれているのだが、こちらはその榎木津が「探偵として」活躍する中編3篇をおさめたものだ。

もちろん、榎木津の場合、探偵と言っても、いわゆる興信所の探偵とも、小説に出てくるような名探偵とも違う。
探偵=榎木津=神
という、わけわからん等式が榎木津の頭の中にある、それしか根拠のない「探偵」だったりする。
しかし、本巻は、視点が関口とは違う、全く新たな人物であるため、登場人物各々の描写も微妙に差異があるというのが、面白い。

何より面白いのは、京極堂シリーズにあっては、ワイルドカードのような扱われ方しかしない榎木津なのだが、榎木津中心の本巻では、その京極堂まで、榎木津に引っぱられて動いてしまうという図式になっている事だろうな。
そういえば、関口によると、榎木津は、京極堂(そして関口)とは、同じ学校の1年先輩なのだよな。
やはり、そこはかとなく、先輩風が吹いているのだろうか(笑)。

いずれにせよ、書斎からほとんど動こうとしない、京極堂が中心であるのと違って、
はなばなしく暴れたい榎木津を中心にまわっていく話なのだから、物語もどんどんと推進力を持っている形で、読みやすく面白いと思う。ていうか楽しい。
主人公(なぜか常に、その都度違う変名で呼ばれる事になる。本名はなんなのだ!)も、ごくごく普通の、元肉体労働者系の人という設定なので、ウシロムキな関口に語らせるより話のリズムが良い。

そういや、榎木津、鬱病の関口に比べて躁病的などと言われた事もあったが、
本巻を読むにつけても、躁病というより、爽病なのではないか?
変人には違いないのだが、活躍は爽快である。


京極 夏彦
百器徒然袋―雨
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2006-06-26 21:21:02

『神の名は-日の本神話異聞』

テーマ:日本SF・ファンタジイ


この作品、「月刊少女帝国」という、非常に短命な月刊誌に連載されていたため、単行本が出るまで、全く知る事がなかったものだ。
もっとも、単行本が出たのもすでに何年も前の話になるのだがな。
(要するに、今回は、再読したので記事にしているのだ(笑)

日の本神話異聞、とタイトルに添え書きがあるとおり、主人公は、ある理由で不死身の体になってしまった少年と、日本古来の「神」の一員だ。
とはいえ、いわゆる、名のある神ではない。
「あまのざこがみ」。
つまり、神としては、「雑魚」なのだ。
(古事記などにも、あまのざこがみ、として登場していて、天の邪鬼の原型だなどと言われてもいるのだが、ここでは、天の邪鬼はとりあえず関係ない)。

考えようによっては、日本には八百万の神がいるわけで、こういった、「公の記録の上では名もない神」がわんさかいるはずなんだな。
だから、アマテラスだのツクヨミだのスサノオといったようなものより、「より」日本的な神になるのかもしれない。

そのような神と、人間とが、「異国の神」の魔手に立ち向かうというのがストーリーの根幹だ。
時は戦国、嵐の時代なので、やってきた異国の神も、半ば当然のように、サタンなのだ。
そりゃ、西洋からいろいろな文物が流れ込んでくる時代でもあったのだから、サタンだって、到来していても不思議ではない。
だから、それは良い。

問題は、この、サタンというものが、日本の風土になじまないっていうことなんだな。
すなわち、サタンというのは、「神の敵」を意味すると聖書に書かれており、そのレゾン・デートルは、絶対者である「神」に立ち向かう、対立者なのだ。
ところが、日本にはいないんです。
そういう絶対的な神というやつが。

日本は元来がアニミズム的要素の濃い国だ。
一元化された多神教ではなく、八百万の神が、実際のところは、乱立している国であり、人は、特定の神だけを拝まなければいけないという事がない。
価値観はそもそも多様であり、従って、そこには「対立者」が入り込む隙が、なかなか、ない。
怖かったり危なかったりするものは、そのような価値観の中、
祭り上げられたりしちゃう(あんた特別だから! と敬して遠ざける事で鎮める)。
正邪ではなく、
荒魂と和魂しかないのだ。

すると、サタンが日本に到来した場合、いったいどのような事が起こるのだろう?

……もちろん、ミルトンが描いたような『失楽園』みたいな事にはなり得ないのだな。
神と悪魔が戦う!
という、二元的な構図が成り立たないのだ。
ゆえに、サタンがなす事は、単なる「暴虐な神」として暴れる事だけなのだが、
実は、そういう神を日本は知らないわけではなく、前述のとおり、祭り上げてきたわけで、
主人公たちがやったように、追討するような事はしたとしても(タケミカヅチがタケミナカタを諏訪まで追いつめたように)、
そこでこてんぱんにやっつけて地獄に投げ落とすという事は、ない。

従って、ストーリーも、「異国の神(サタン)」と戦っていくように見えながら、
実は、サタンに取り込まれた者どもを、少しずつ「鎮めて」、
救うというか癒すというか、そういった結果になるわけだ。

日本の風土の神が主人公のかたわれである事を考えると、非常に自然な結果だ。

ただし、漫画としては、いささかカタルシスに欠けるものでは、あろう。

ゆえに、日本の神話世界をベースにしたものとしては、ある意味でとても良くできているのだが、
いまひとつ漫画としてのインパクトはなく、「惜しい」読後感のある作品かもしれない。

楠 桂
神の名は日の本神話異聞 1 (1)
神の名は日の本神話異聞 2 (2)
神の名は日の本神話異聞 3 (3)
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2006-06-25 21:32:10

『陰摩羅鬼の瑕』

テーマ:ミステリ
「常識などは、ないのだよ」
京極堂風に言えば、こうもなろうか(笑)。

実際、人が常識だと思っている事は、実は、思うほど「常識」ではない事がしばしば、ある。
しょせん、常識というのは、その人が賊するコミュニティのローカルルールでしかないのだ。
たとえば、東京の常識は、大阪では通用しないかもしれない。
十代の常識は、六十代には通用しないかもしれない。
男の常識は、女には通用しないかもしれない。
極論するならば、十人十色ならぬ、十人十常識ですら、あるのかもしれない。

だが、人はついつい、「常識」に頼るクセがあり、自分が知っているものは、誰でも知っていて当然の事実だと思いこむクセがある。
……それは、妄想なのだよ。

本巻は、この、「常識」というものをみごとなミスディレクションとしてトリックに用いたすばらしいミステリである。
その点、シリーズの他の作品とは、ちょっと毛色が違っているようにも思う。


なぜなら、京極堂のシリーズは、ミステリとしては、いまひとつ、「すばらしい」とは言えない。
それは、まず第一に、一般的なミステリと、「作法」が違うのだ。
探偵が自ら捜査してみたり、
あるいは安楽椅子でパイプでもくゆらせながら推理をめぐらせたり、
まあどちらでも良いのだが、
それはやらないのだ。
京極堂つまり中善寺秋彦も、
探偵であるはずの榎木津も、
あるいはその他の登場人物も、
いや、登場する刑事たちすら、実はほとんどそういう「探偵」は、作中ではしていない(作中に出てこない部分ではしていることになっているのだろうけどね)。

それどころか、時には、扱われる「事件」すら、一部が曖昧なまま終わる事すら、ある。
たとえば織作茜殺人のように。
したがって、面白いが、ミステリとしては型破りに感じられるのだ。

だからだろう、(たぶん、ミステリのファンであればあるほど)ミステリとしては物足りないという意見も、ちらほらうかがえる。

では、なぜ、このシリーズが面白いのか?
これほど、ファンが多いのか。

思うに、その理由のひとつは、京極堂に集まる者たちの「会話」にあるのではないか。

もちろん、その場には、単にひっかきまわすだけの榎木津だの、関口だのというキャラもいるのだけど、
基本的には、京極堂本人を中心に、あるテーマについて、いろいろとうんちくを傾けた討論が重ねられる。
いや、討論といっても、激しいディベートとは違う。
論拠やデータを並べたて、厳しく主張するのでもない。
それは、たいてい、根拠となる文献などから話者が根拠を示す事はしたとしても、「興味深い推論」にとどまる。

非常にサロン的な雰囲気だが、
最近でいうと、特定のブログ上に集まる常連グループとも似ているだろう(笑)。
かわされるコメントは、それなりに知的なやりとりになり得るが、あくまでもそれは、知的なテーマに沿った、会話の楽しみなのだ。

会話というのは、もちろん、登場人物のキャラが立っていないと面白くないものであるし、
逆に、会話が多いほど、登場人物のキャラは立ちやすい。
そこらへんも、魅力のひとつかな。

そして、それが一般的な「ミステリの作法」のかわりに、システムとして働くような仕掛けになっているわけだ。

しかし、それはおいて、本巻がミステリとしてすばらしく感じられる理由は、実は、そのシリーズ独特のスタイルから、よりオーソドックスなミステリのスタイルに歩み寄っているという事もあるだろう。
実際、本作は、横溝正史へのオマージュとも考えられる。
(作中、横溝正史自身が登場するが、その正体が明記されるまでの数頁、「この人物はもしかして!」と、スジモノのマニアはわくわくするであろう)。

地方に住む名族の、半ば孤立した屋敷。
「呪い」の言い伝えと、そのとおりに死ぬ人々。
密室であるようでいて、密室ではない、微妙なケース。
シチュエーションも、ちょっと横溝作品っぽい(笑)。


京極 夏彦
陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず)
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2006-06-24 23:04:20

絵手紙に興味ありますか

テーマ:その他
インターネットだ、常時接続だ、などと騒いでいたのはもう昔の話。
昨今は光回線もだいぶ値段が下がり、一般的になりつつあるらしい。
そうでなくとも、回線は加速度的に速度があがってきているので、動画配信なんてのも、もはやまったく、普通。

その一方で、こういう世相に反発するかのように、アナログな趣味というのも、流行っているらしい。
ひとつには、近年大流行の、脳トレが影響しているのだろうけれども。

塗り絵をやってみたり、
えんぴつで奥の細道を書いてみたり、
書店の店頭にはそりゃもういろいろな「グッズ」的な本が並んでいる。
(そうなのだ、なぜかみな、書店にあるのだ)。

そんななか、絵手紙というのも流行り始めているらしい。
それも、従来の、幼稚園や保育園の先生とか、
小さい子をもったお母さんなどがつづるものではなくて、
大人が大人に対して送るものということだ。

上にあげたような本が、その典型かな。

まあ、絵手紙はいいね、といったところで、素人には、さっと描けるようなものではない。
だから、テキストのようなものが出てくるというわけだろう。
(なかには「絵手紙で儲ける」というような本まで検索に引っかかってくるのだから、驚く)。

しかし、たしかに、ちょっと絵の添えられた手書きの手紙(葉書を含む)というのは、受け取れば嬉しいと思う。だからこそ、なのだろうけど。

そのうち、今度は、葉書作成ソフトなどに、「絵手紙機能」が盛り込まれてくるような気もするんだよなあ(笑)。


後藤 栖子
えんぴつ写生と五七五絵手紙のすすめ
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2006-06-23 20:40:28

『ぼくのねこ みなかった?』

テーマ:海外SF・ファンタジイ
主人公の少年には名前がなく、その飼い猫にも名前はない。
あくまでも、「ぼく」と「ぼくのねこ」なのだ。
しかも、その「ぼくのねこ」は、いないのですよ。

いなくなってしまったんだね。

ゆえに、「ぼく」は、ねこを探す。
なぜか、インドや、
アフリカや、
メキシコや、
北アメリカや、
ペルシアや、
いろいろなところに行って、現地の人にたずねるのだ。
「ぼくのねこみなかった?」

指さしてもらった先にいるのは、
ピューマとか、
ヒョウとか、
ジャガーとか、
トラとか。

……ねこ……?

なんかインパクトあるだろう。
そりゃ確かにそれらはネコ科の動物なのだが、あえて
「ねこ」
と、君は言えるか!

「ぼく」は、あっさりと答えるのだよな~(笑)。
それは、ぼくのねこじゃない。
(いやいや、ピューマとかヒョウとかトラなんだってばよ!)

でね、必ず、ページを開いて右側に、「ぼく」がたずねている人がいます。
左に、でっかく、その「ねこ」(違)が、いる。

エリック・カールの絵本であるから、かの『はらぺこあおむし』同様、非常に美しい色彩で描かれているのだ。
良いだろう。
いろいろなネコ科の動物が、ページいっぱいに、のたばってるのだ。

そして、ようやくラストで「ぼく」がみつけた「ぼくのねこ」は、
ほんとに、街角のどこにでもいそうな、
ごくごくふつうのねこである。
たとえば、上の画像の表紙にいるみたいなやつ。
すんげ~平凡なねこなんだけど、それは、「ぼくのねこ」なのだ。

「ぼくの」というところが、とってもとっても、重要なのだ。

エリック・カールの絵本は、その絵のすばらしさもさることながら、こういう、心がぬくまるような「落差」が良いよなあ。


エリック カール, 大附 瑞枝
ぼくのねこ みなかった?
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2006-06-22 21:25:13

『トッキュー!!(11)』

テーマ:冒険・アクション
学生運動が終熄し始めた頃に、目立ってきたのが、モラトリアムの世代なのだという。
そこから、現在の「ニート」まで。
若者の主流は、不完全燃焼だったのかもしれない。
それは、なぜなのだろう。

燃え上がる前に、ニヒリズムや倦怠感に侵される。
だから「燃えること」が、バカに見えてしまうのか?

いや、事実、
燃えること、
一所懸命になること、
命をかけること、
これは、バカにならなくてはできない事なのだが。

そして、燃えられない事を自覚するから、内心では、それに憧れてしまうという事もあるのだろうか?

本巻では、まさしくそういう、愚かな若者たちが出てくる。
言うなれば主人公たちとは、正反対の精神的立場に立つ者たちというわけだ。

その一方で、
「潜水しに憧れる!」
という女子高生たちも登場。
しかし、彼女らの興味も、ひたすらミーハーなものとして描かれている。

これらの若者像は、主人公たちと対比させ、「トッキュー」の特殊さとすばらしさを際だたせるための演出になっているわけだが、現実には、どうなのだろう。

日本は、さきの戦争に敗れてから、長らく平和を享受している。
治安も、世界的にみて驚くほど良い国だと言われている。
最近は、これもかなり低下してきていると言われるが、それでも、
「一歩そこに足を踏み入れたら命や貞操の危険を覚悟しましょう」
というようなエリアは、まず、ない。

命が危険にさらされる状況というのは、ほとんどの日本人にとって、「他人事」だ。

けれども、それは、「命のたいせつさ」というものも、実感できない社会ではないのだろうか。
もちろん、そのために、平和でない/治安が良くない社会であるべきだというのではないけれども、そんな副作用も、確実に「平和な日本」という社会には、ありそうに思うのだ。


小森 陽一, 久保 ミツロウ
トッキュー!! 11 (11)
2006年6月16日新刊
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2006-06-21 21:55:07

朝鮮民話『とらよりこわいほしがき』

テーマ:海外SF・ファンタジイ
朝鮮半島には、虎の民話が多いのだそうだ。
それはそうだ。
なんつっても、まず、シベリアから沿岸沿いに下って東南アジアにいたる地域は、虎の生息地隊である。
んでもって、朝鮮半島の場合、虎よりでかい獣は、いない(せいぜい、熊くらい)。

虎が一番でかい。
虎が一番つよい。
虎が一番えらい。

民話に出てこないわけがないのだ(笑)。

しかし、強いということは、一面、民話などでは、おどけものの役を割り振られる事もある。
まさしくそのタイプの民話が、こちら。
松谷みよ子の手で、日本の子供むけにリライトされているが、それでも、朝鮮民話の特色はよく伝わっていると思う。
(それになんたって、どのページにも、虎が描かれているのだ。虎が主役)。

えー。
ともかく。
虎が主人公なのだ!(笑)

でか~いつよ~いえら~い虎が、食べるものを探して里に下りてくる。
おりしも、泣きやまない赤ん坊をなんとかおとなしくさせようと、母親が、「人食い虎」を持ち出して、子供をおどかしているところだ。
それが発端となり、闇の中で、虎と牛泥棒と干柿が、とんでもないドタバタを演じる事になってしまうのだ!(笑)

なかなか、ユーモラスな話だ。
表紙を見るならば、ともかく、なんとなく焦った表情をしているその虎が主人公。
背中で「げげげ」というような顔をしているのが牛泥棒。
なにゆえ、かれらがこんな妙な状況になっているのか。

なにもかも、み~んな、干柿が悪いのさ。

ちょっとした勘違いから発生するドタバタ劇は、どの民族にもあるような話だけど、
たとえばヨーロッパならば悪魔、
日本ならば鬼。
それが、朝鮮半島では、虎なのですな。
これらのものどもは、強くて(ふつうは)怖いからこそ、いざって時に、おそろしく滑稽な事になってしまうというわけ。


小沢 清子, 太田 大八
とらよりこわいほしがき
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