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2006-01-31 21:37:48

『惑星カレスの魔女』

テーマ:海外SF・ファンタジイ
宇宙冒険SFで、「魔女」とタイトルについたものは、実はけっこう、あるのだ。
筆頭が、C.L.ムーアの『大宇宙の魔女』だろう。
なんつーか。
そもそも、宇宙冒険SFというものは、単刀直入に言って、「男の世界」なのだ。
ゆえに。あまり、女性の出番がなかった。
あるとすれば、それは、
フロンティア、または人跡未踏の地(宇宙)ということで、
それこそ昔の、フロンティアで見られたような、蓮っ葉な女であるか、
さもなければ伝説にも出てきそうな、不思議な力を持つおそろしい女。
そういう事だ。

実際、本作も、そういう路線の話かなあ、などと思っていたんだよな。
ところが、そうは問屋がおろさない!

そもそも、作者のシュミッツという人は、冒険SFを大変巧く書く人なのだが、必ず、
「なくて七クセ、隠した四十七クセ」
くらいを作品に盛り込む人なんだ。
ゆえに、これも、いろいろ面白い発想や仕掛けがしてあって、中でもSFズレした読者を「あっ」と言わせるところは、
タイトルにいうカレスの魔女として登場するのが、いたいけな(いや、すごく元気な!)三人の姉妹だということだ。

まかりまちがっても、ボン、キュ、ボーンッ! な 、妖しげな、男をとりころしちゃいそうな魅力を……
持っていない(笑)。
ぜんぜん、持っていない。
先に記事にされた辻斬り書評 でも触れられている事だが、表紙を、かの宮崎駿が描いている。
そして、この三姉妹は、まさしく、宮崎駿がアニメーション作品で描いているような、元気明朗な姉妹というわけなんだ。
いやほんと。ぴったりです!
そして、宮崎駿が表紙を描いた(ジブリとは関係のない)本など滅多に見た事がない、というのを考えても、まさしく、「そういう」雰囲気濃厚な作品と言える。

だが、SFファンがまず注目してしまうのは、シーウォッシュ航法だろう。
これね、魔法が使われてたりするんだな(笑)。
魔法でFTL(超光速航法)するといえば、錬金術と宇宙航法を結びつけた物語なんてものもアメリカSFには存在するが、これは、シリアスに魔法を宇宙冒険SFに持ち込んだもの、というよりは、
ファンタスティックに魔法と宇宙を結びつけたと言う方が良い。

ともかく見事なほどに、「魔法」というものが、明るく楽しく描かれている。
カレス自体が、なんだか焼きたてのパンのにおいがしてきそうな、アットホームな惑星に思われる。

とはいえ、SFらしさも背骨のところにしっかり一筋、通っているので、
「なあんだ。ファンタスティックで魔法? それじゃSFじゃないじゃーん」
というような事も、全くない。

そうだな。
SFが好きな人も、
ファンタジイが好きな人も、
児童文学が好きな人も、
あるいは、宮崎アニメは好きだけど小説はあんまり読まないよー、という人も、
安心して手にとって、存分に楽しめる物語なのだ。


ジェイムズ・H. シュミッツ, James H. Schmitz, 鎌田 三平
惑星カレスの魔女
創元SF文庫
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2006-01-31 12:42:05

『闇の守り手1』〈ナイトランナー I 〉

テーマ:海外SF・ファンタジイ
西洋のファンタジイは、キリスト教文化が背景にあるためか、しばしば、「光と闇」の二元的世界で物語が展開される。それが多神教の世界であっても、同じ事だ。
「勧善懲悪」とも結びつきやすく、シンプルな構図である事は疑いがない。
もちろん、シンプルだということは、「わかりやすい」という事でもある。

しかし、それって、
「飽きがきやすい」
という事にも、つながるのだな。
従って、作者は、そのような思想をベースに用いるのならば、よほどうまく味付けして料理していかなければ、ユニークなファンタジイを生み出す事はできない、という事にもなる。

とはいえ、あまりにも突飛な色づけをすれば、それはそれで読者を得にくくなるわけだから、基本、どういうところに重点を置いてユニークさを出すかにも定石がある。
一番やりやすく、かつわかりやすく、読者の心をとらえやすいのは、
「キャラ造形」
これだろう。

こうして見ると、ナイトランナーの主役たちも、脇役も、それぞれが非常にオーソドックスだ。
「え。それじゃだめじゃん!」
そう思うかもしれないが、なに、このオーソドックスさが、かえって本作の場合は、長所となっている。
というのは、まず第一に、オーソドックスであるからこそ、わかりやすく、入りこみやすく、
定番時代劇のように安心できるというのがあげられる。

わかりやすい、というのは、物語の中に入り込みやすい、という事でもある。
キャラの心情は、くどくどと語られてはいないが、その言動から理解しやすい仕組みになっているので、読み手が男だろうと女だろうと、あるいは大人だろうと子供だろうと、
容易に、
「利発ではあるが田舎者、でも弓の名手であり、忠実」
というポートレイトの主人公アレクに共感し、アレクが
「命の恩人であり、(なし崩しに)いろいろな事の師匠ともなる」
サージルに抱く憧れや信頼、友情を体感する事ができるわけだ。

この、読者を問わぬ入り込みやすさというのは、簡単なようでいて、なかなか難しいんじゃないかと思う。
あざとさや、退屈さを感じさせたら、一気に台無しになるものだからね。

なにかこう、邪悪な勢力が胎動を始めていて、
この二人は、サージルの仕事の途上、偶然、「魔術的にやばい」品物を手に入れてしまう!
そこまでの物語前半は、ふたりの巡り会いや旅の始まりを物語り、
後半は、いかにその「やばいもの」を持ち運びながら、サージルの命をまもり、目的地にたどりつくかを描いている。

ふたりのコンビ結成を決定づけるとすれば、非常に納得のいく筋立てだ。

とはいえ、物語はまだ「ほんの冒頭」部分のみ。
しかも、1巻のラストは、非常に「ひき」な状態で終わっている(笑)!
もしこれから手に取る人がいるならば、2巻がすぐに手に入る状態を確保しておいてから、読んだ方が良いかもしれない。


リン・フルエリン, 浜名 那奈
闇の守り手1 - ナイトランナー I
C☆NOVELS
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2006-01-30 22:27:24

『ローゼン・メイデン(6)』

テーマ:日本SF・ファンタジイ
ローゼン・メイデン、すなわち「薔薇乙女」。
(ただし、ローゼンという人形師が作った一連の人形のシリーズ、という意味も含まれる)。
実に精巧なこの人形たちは、人工精霊をパートナーとして与えられている他、特定の人間とミーディアム(力を媒介する者) の契約を結ぶ事により、一種の霊力を得て、考え、しゃべり、動き、不思議な力をふるう事ができるのだ!

いやもう、人形だけに、美しいし、かわいいし、気位も高い。
しかも、彼女らは、「父」である人形師ローゼンの「愛娘(アリス)」になるためのアリス・ゲームを戦うという宿命もある。

シリーズというからには、複数ある人形が、その戦いによって、ただの1体に(いや、ひとりに)勝ち残るというわけだ。
その戦いはなかなか凄惨で、主人公とその周囲に集まった人形たちは、シリーズ中でも特異なほど「邪悪」な、”水銀燈”との死闘を終えたばかりなのだった。

ここまでの間、可憐な人形たちが実に凛々しく、戦いを演じるという「萌え」要素満載の漫画でありながら、
一方で、引きこもりの中学生であるという主人公の少年が、契約を結ぶ事になった人形、”真紅”を通じて、まず、だんだん、真紅に心を開く。
他の人形たち(もちろん、それぞれに個性豊か)を含め、世話をしたり、共同生活(!?)をしていく事で、実は周囲の人間……たとえば姉と、再びつきあうことができるようになっていく。
それが、全く説教臭くなく、少年の成長物語として描かれている点が面白い。

さて、一度は敗北した「邪悪な人形」たる”水銀燈”(変な名前だが、これ、人形の名前なのだよ)。
ちなみに、彼女は、思い切り「ゴスロリ」な美人さんなのだが……。
水銀灯がなぜ「邪悪」であったのか、今後も邪悪であり続けるのか?
(どうも、必ずしもそうではないのかもしれない)
という、砂糖をティースプーンに半分だけ入れた濃くて熱い珈琲のような情景が展開されていき、けだるげな時間がたつのかと思いきや。

新たな「敵」なのか? とも思える、”薔薇水晶”(これも人形の名前ですよ)が登場するのだ。
もっとも、傷を癒す水銀灯のかぶるように、少しずつ姿を見せているだけなので、ちょうどこの巻は、物語のターニングポイントといったところだろうか。

☆登場する薔薇乙女たち☆
真紅……気位の高いプリンセスタイプ
雛苺……とってもおこさま、幼女タイプ
翠星石……ちょっと不良でイジワルなお嬢様タイプ
蒼星石……男装の美少女タイプ(翠星石とは双子の設定らしい)
金糸雀……頭脳派を自認しているらしい(現時点で本筋に関係ない)
水銀燈……ゴスロリ全開の敵役
薔薇水晶……本巻の時点では、まだ謎

ところで、主人公と契約を結んだ真紅は、思い切り定番に美しいのであるが……。
実は、敵役たる水銀灯、そして今回登場する薔薇水晶は、いずれも、世間様一般が認めるところの「美」には、ちょいと欠けるところがある。
たとえば、水銀燈は今現在、黒く巨大な翼をおさめる事ができない状態であるし、
薔薇水晶は、はなから、片目がなく、そのかわりに棘のある蔓を伴う薔薇の花が眼窩に飾られている。

少女の人形は、そもそも、完璧に美しい事が条件であるはずなのに、水銀燈や薔薇水晶は、どこか(または露骨に)瑕があるのだ。
それは、ぱっと見、グロテスクなのだけれども、それがかえって、奇怪な美をかもしだしてもいる。
そしてまた、非常にわかいりやすい、主人公の成長物語の影の部分に、
たとえば水銀灯の、「変化の物語」が展開されている。

「萌え」漫画の仮面の裏には、実はこのような仕掛けがあるわけで、それが作品の魅力を深めているといえそうだ。


PEACH-PIT
Rozen Maiden 6 (6)
2006年1月24日新刊
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2006-01-29 19:52:09

『パーフェクト・ブルー』〈マサの事件簿〉

テーマ:ミステリ
ブルー。この色から、いったい何を思い浮かべるだろうか?
空の青?
海の青?
ここを白い鳥がはるけく飛翔していくなら若山牧水の名歌だが、青といっても、いろいろある。
たとえば、鉱物にも青はいろいろあるよね。
サファイア、トルコ石、瑪瑙、アクアマリン、藍銅鉱、瑠璃、ハウライト、コバルト。
そういえば、小学生の頃、すごーくほしかった硫酸銅の結晶。
すごく鮮やかな青で、それなのに毒だというので、なんだかますます、魅力的だった。

そう。
青には、毒を吹くんだ青もある。

一方で、青空をかける白球、
あるいは高校野球に賭ける青春!
青は、若々しい、すがすがしい、そういうイメージもあるんだよなあ。

さて、この物語には、そういった、いろいろな「青」が詰まっている。

ある意味、「作られたすがすがしさ」である高校野球の選手をめぐり、
あまりにも汚れた大人の世界がぎりぎりとねじをまわし、
殺人事件が企業の陰謀に結びついていくのだ。

キーワードは、パーフェクト・ブルー。

もっとも、そのプロセスは、なかなかにはなばなしくはあっても、
社会派アクションものの少女漫画のように、鋭さを見せながらもどこか強引で、華やかに見えながらも展開がちょっと苦しかったり。
細かな齟齬もあちこちめだつ。

そもそも、パーフェクト・ブルーというそのキーそのものが、いささか牽強付会でもある。
野球の完封試合とからめるとか、いろいろな意図はあるのだと思うけど、出し方としてインパクトが弱い。
言葉のイメージは強いのにね。

「ブルー」である必要性はわかるのだけど、
(その仕掛け自体は、うまく作っているなあ、とも思うが)、
毒としての「ブルー」を何も知らぬ相手に与えるアイテムが、これまたちと苦しい。
ブルーという色が、鮮やかで印象的であるだけに、その存在が、ヴィデオテープの中に登場するまで、誰も、思い出の中で触れていないのが、不自然。
青い飲食物というのはそもそも少ないので、「鮮やかな青の飲料や食料」を摂取した事があるならば、その事はあっさり忘れられるとは思えないんだよな。

高校野球の扱いが非常に面白いだけに、そういった強引な展開は、残念だ。

とはいえ、細かな事にこだわらなければ、一気に読めるライトミステリでもあると思う。


宮部 みゆき
パーフェクト・ブルー
創元推理文庫
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2006-01-28 19:19:28

『夢の通い路』 日本は曖昧な国

テーマ:日本SF・ファンタジイ
櫻 日本人はなにかと曖昧である、などと言われる。
YESかNOか、はっきりしない、と苛立つ外国人は、相当数いるらしい。
日本人が浮かべる「あいまいな」笑みも、海外では有名だそうだ。
また、それは、狭い島国で他人とぶつからず、うまくやっていくための、文化的特性なのだという論もある。

しかし、日本のあいまいさというのは、何もYESとNOの世界だけではない。
じつは、人間の「リアル」な世界と、それ以外の他界との境目も、非常にあいまいなのだ。
たとえば、神霊の世界と人間の世界。
あるいは、死者の世界と生者の世界。
あなたはこっち、私はこっち、と峻別されているという事がない。

また、日本は、かなり貪欲に、「海外」のものをとりこんでしまうのだけれど、それも、半ば日本化されながら、完全に日本に飲み込まれてしまうというわけでもなく、これまた、出自と日本化の度合いがあいまいだったりするのだ。
たとえば、おとなり、中国から入ってきた文物など、その良い例かもしれない。
漢詩だ、南画だ、などと言いながら、鑑賞基準はちゃっかりと、日本独自の感覚で鑑賞していたりするのだからな。

本作は、まさしくそういう、日本独自の「あいまいな世界」になりたつ物語だ。
生と死のあわせめ、その非常にあいまいな境界線上というか、一種の「亜世界」のようなところ、いや、この世ともなんともつかぬ、あいまいな世界を主人公は動いていく。
この世のモノとも、あの世のモノともつかない。
主人公自身が、妙にあいまいな存在なのだ。
相手役、あるいは脇役として、多数の歴史上の人物(もちろん、死者であるはず?)が登場するけれども、これまた、生きているんだか死んでいるんだか、曖昧模糊としている。

なんともはっきりしないのだが、それがみょうに心地よい。
まるで、ぬるい露天風呂にぼーっとつかりながら、夜桜なり、月夜なり、紅葉なり、積もった雪景色なり、見ているような、そんな感じ。
もし、全く日本らしい、日本独自のファンタジイはいかなるものかと問うならば、
その答のひとつは、まさしくこういう物語ではないだろうか。


倉橋 由美子
夢の通ひ路
講談社文庫
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2006-01-27 20:35:16

『69』 青春は熱く、けだるく、泥臭い

テーマ:その他
69とは、1969年のこと。
この時期に高校生だったというと……。
むぅ。私自身より、だいぶ世代が上、ということになってしまい、私にとっては、ほとんど「神話と伝説の時代」になるのだが。
というのは嘘で、おおむね「伝説の時代」というところだ。

実は、世代の離れている私としては、まず、その時代背景にどうしても目がいってしまう。学生運動が、高校にも、普通に浸透していた時代。
いや、私が学生時代にも、まだ、かろうじて民青などは生き残っていたらしかったけれど、ほとんどの学生は、そういうものには見向きもしなかった。
時代遅れの化石みたいなものだったのだ。
むろん、高校ではそんなものは、すでに影も形もなかった。

音楽のことも、
映画のことも、
いくつか前の世代に属する人たちから、思い出として語り聞かせられてはいたが、
自分の日常ではないため、世界に入り込むのに、少しかかったというのが本音か。

しかし、そういう事をある程度膚で理解してしまえば、そこにあるのは、いつの時代も変わらぬ、17歳の姿だと思う。
汗臭く、泥臭く、
目覚めたばかりの「性」をどう扱っていいかわからず、
かといって、「知らない」「わからない」「教えてくれ」なんてのは、
口がさけても言えないような、人生でいちばん、見栄っ張りな時代でもあるな。

そして、そういう、ちょっと甘酸っぱく、気恥ずかしいような、青春時代ってやつが、
ところどころに散見される4倍角のキーワードと、
「というのは嘘で」というフレーズで連結される、17歳の見栄と現実が、うまくつづっているのだ。

これがいいよなあ、と思う。
「というのは嘘で」。
なんかこう、非常にうまく、17歳の夢と現実をあらわすフレーズではないか?

誰にとっても、たぶんm17歳というのは、とても特別な人生の一時期だ。
(それを、うまく文章に出来る人は、そうはいないと思うけれど)。
時にはふりかえって、自分が17歳の時を思い出すのも、良いかもしれないな。
気恥ずかしかったら、つぶやいてみると良い。
「というのは嘘で」。


村上 龍
69(シクスティナイン)
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2006-01-26 21:38:05

『カノン』 音楽の神髄、あるいはものごとの真実

テーマ:その他
音楽は、全ての芸術がそうであるように、「美」という神そのものに向かって、ただひたすらに「究めたい」という欲求を呼び起こす事がある。
だが、それは、あくまでも、ほんの一部の「選ばれた」(または、「魅入られた」)人間のみが選ぶ道であり、それ以外の、ほとんど全ての人にとって、
音楽とは、悦楽であり、それ以上の意味は持たない。

ここに、ひとつの断絶が生じる。
もしも、宗教であるならば、人は自然に、一部の人がその神髄を究めよう、悟りを得ようとする行為を、不思議とは思わない。自分にはできなくとも、そういう事を求める人がいるという事を理解するからだ。

しかし、音楽(あるいはそれ以外の芸術)は、ほとんどの人にとって、なんらかの感覚器官を満足させる「愉しみ」に過ぎないため、それを通じて、美を究めようとする心、あるいはそういう心を持つ人の存在を、理解する事ができないのだ。

この物語の主人公も、そのような「理解し得ぬ者」だ。
もっと単刀直入に言うならば、主人公瑞穂は、どうしようもなく、俗物である。
ひとたび、プロの演奏家としての道を歩みながら、彼女は音楽の美を理解する事がない。

そして、彼女にとって(そして相手にとって)あまりにも不幸なことに、
彼女が恋しいと思った男は、音楽の神髄を目指し、しかもそれ以外が見えない「天才」であった。

「天才」、香西にとって、瑞穂は、救いようのない俗物であったがために、まさしく、ファム・ファタルであった。
いや、本来、彼にとって第一のファム・ファタルであった女性と似ていたというのも要因であっただろうが、第一のファム・ファタルである「ナスターシャ」は、芸術としての音楽を理解する事ができない、全く異質の人間であったため、単に、ある事件によって彼の人間性に打撃を与えはしたものの、香西の「音楽性」には傷ひとつもつける事ができなかった。

ところが、瑞穂は、香西と出会った時、かなり腕の良いチェリストであった為、かえって、香西を惑わせてしまうのだ。
音楽を究める同志であるのだ、と香西は謝って認識してしまうのだ。
ところが、実はそうではなかったため、結局のところ、香西は音楽を究めようとしながら、精神的に、孤独な状態へと追い込まれてしまう。
彼のような、天才にして、異形である存在にとって、自らの理解者を求める事は難しい。
一人いる、と思えば、新たに別の理解者を得よういう気をうしなう、シャイな天才も多いからね。
でも、それが実はほんとに理解者ではなかったとするならば?
結局、理解者のいない天才は、孤高の道を歩み、滅びるしかないのである!

とはいえ、いかに現実が醜く、厳しく、非常であろうとも、自らの道を歩みきった香西は、一面、幸せな男であったのかもしれない。
そして、その死と、その絶唱が誤った形で瑞穂の手に渡ったため、世界そのものが歪み崩れていこうとする。その点は、なかなか面白い。

音楽がリニアな存在であるというのは、美学論ではべつだん、ユニークな発想とは言えない。
リニアであり、かつアナログであるという点で、時間になぞらえられる事も、しばしば、ある。
従って、それを作中に書いてしまうというのは、バッハに関する考察を書き連ねる事と同様、かえって、「あさはか」な印象を読者に与えてしまうのだが、
本来、「音楽としての究極」を、純粋音楽の最高峰であり、対位法の最高権威たるバッハの曲を通して得ようとした演奏を、逆回転させることで、さまざまな怪異が発生するという点は、着目しても良いと思う。

それは、現象として、瑞穂と正寛の精神状態と記憶を、時間にそって遡行させるのだが、
実はそれだけではない。
様々な感情や想い、「過去の記憶」を昇華させ、高みを究めようとする行為をも逆転させることにより、その逆転させられてしまった演奏は、人の心の奥底に封じ込められたいろいろな情念や記憶を噴出させるという働きをするからだ。

しかし、それは、はたして彼らの生活を、精神を、突き崩していくだけのものなのだろうか?

そもそも、人が「俗物」となってしまう理由のひとつは、子供の頃に持ってうまれた「ピュアな心」が、
さまざまな傷を受け、痛みを感じるうちに、自己を防衛するための殻を作っていくところにある。
傷つかないため、世間と妥協して生きるために、人は俗物となっていくのだ。

音楽の純粋さを、数学的に、かつ美学的に究めようとする。
それは、別に、プロ(すなわち、その行為によってカネを得て生活の手段とするという意味)でなくとも、問題なくやれる行為なのだが、そのことに目をつむり、
「まともな社会生活もいとなまず、趣味にばっかりうちこんで」
と、蔑む。
その裏側には、自分がやりたくてもやれなかった事を、その人物がしている事への、マイナスの感情が潜んでいるのではないか。
しかし、そうして盾を作らなければ、それらのマイナスの感情に、自分が傷つき、立ち直れなくなってしまうかもしれない。
ゆえに、自分がそれを捨てた子供時代に、まだその人物が浸っているものとみなし、
「自分はそれとは違って一人前の、立派なキャリアのある、大人なのだ」
と、自己正当化をするのだ。

だが、それを突き崩されるというのはどういうことか?

逆転させられたのは、瑞穂や正寛の心だけではなく、香西の心も、逆回転させられたのだろう。
なぜならば、かように美を探求する人は、その美を理解できない人は、全く異質で、空気のような存在であるが、それだけに、多少なりとも自分を理解していそうな人には、
尽きることなく、最後の最後まで、自分の究めようとしている「美」を、ともに理解する事を求めてやまないのではないか。
だから、逆に、彼には「俗物」の殻が、邪魔でしようのないものに見えるはずだ。
そんなものは捨ててしまえ、
君にはわかるはずだ、
約束したはずだ、
一緒に真のバッハを演奏しようって。
おぼえていないのかい?
ぼくはまだ、待っているんだよ。

その呼びかけに、結局、瑞穂も、正寛も、それぞれの形で、応えてしまうことになる。
それが、彼らにとって幸せな事であるのかどうかは、はたからはわからない。
いや、はたから見れば、バカらしい事に見えるのではないか。

だが、人は。
たとえどのような俗物であっても、いや、俗物であるがために、
実は、真の美に呼びかけられたならば、たとえ無理であろうとも、そこに手を届かせたいと想ってしまうものなのかもしれない。
そして、そのような人間の、本質的な性向こそが、結局は、香西のような稀なる人間を生み出す大きな海となるのだ。


篠田 節子
カノン
文春文庫
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2006-01-25 23:26:02

『強救戦艦メデューシン』(上下巻)

テーマ:日本SF・ファンタジイ
看護婦といえば、 ナイチンゲール。
ナイチンゲールといえば看護婦である。
ナイチンゲールは看護婦の原点みたいに言われるが、実は、それ以前から、看護婦自体は存在してたのな。
正しくは、ナイチンゲールは近代的な看護婦の祖、と言うべきだ。
そして、従軍看護婦の象徴でもあるよね。

従軍看護婦かあ……。
どうですか?
看護婦って、ただえさえ、コスプレの一種目みたいにみなされる事があり、
(それは看護師さんにとっては不本意な事だと思うけれども)
一般の人の目には、どうしたって「憧れの存在」としてうつりやすい。
ま、実際、病気でくるしー、怪我でつらいー、
あるいは身近な人がそういう状態で入院している。
そうなれば、てきぱきと、あるいは優しく接してくれる看護婦さんが、女神のように見える事すら、ないとは言わない。

それが戦場という、究極の非日常、
(今のアメリカ軍などとは違って)女性兵士が前線にいない状態、
そうであるならば、なんかこう、よけい、女神度が増して見えるんじゃなかろうか。

だがしかし、看護婦というのは、すんげー汚れ仕事で重労働なんだよね(現実には、だからこそ、頭がさがるというものなのだが)。
戦場ともなれば、クリーンな病院ではなく、野天で看護しなきゃならないかもしれない。
いずれにせよ、血と泥とその他人体から発するありとあらゆる「きたないもの」まみれになって、獅子奮迅の働きをしなければならない(こともあるだろう)。

では。
もしも、たまたま、医師の絶対的にな人数が足りず、看護婦が医師の肩代わりまでしなければならない状況があり得るとしたら?
いや、もちろん、それが可能な知識や経験は積んでいるとして、なのだが。

その末期的な戦場、
末期的な医療現場、
過酷な上にも過酷な「現実」。
まさしく「極限」。

そういう「状況」をまず作り上げ、その中にキャラクターをぶち込んだのが、本作『強救戦艦メデューシン』である、と言えるだろう。

冒険物語の醍醐味は、なんといっても、登場人物がはなから極限的な状況に放り込まれている、という事にある。
そして、それがどういう「極限状態」であるか、というのが作者の腕の、第一のみせどころ。
そう考えると、実にこれは面白い小説だ。

キャラも動かし方も面白い。
いわばスーパーナースである彼女らは、さまざまな、「きたないもの」にまみれながらほんとに奮闘する。
(セクシャルな面から見れば、美しく清潔なものを汚すというのも、ひとつのエロティシズムである)。
しかも、上巻では、チームひとりひとりが、メデューシンに乗り込んだ理由を見せていくことで、そういう極限状況に飛び込んだ彼女たちの素顔を、みごとに紹介してくれるのだ。
いいね、こういうやりかた。

さて、小説は上下巻に分けられているが、背表紙を並べると、みょ~に下巻の方が分厚い。
つまり、単に長いから2冊に分割しました、ということではない。
上巻、下巻で、メデューシンが行く国が違っているのだ。
それと同時に、上巻ではメデューシンが戦っている戦場そのもの、
下巻では、メデューシンの母国の事を見せるという対比もある。

もうひとつ、上巻で伏線をはった、奇妙な病気の謎解きは、下巻で行われる。

ページ数から考えるとアンバランスな上下巻は、非常に良く構成が整理されている。
ちと整理されすぎているきらいはあるが、それでも、見事な構成力だ。

ただ、難を言えば、結末の爽快感に、やや欠ける。
それなりに、ハッピーエンドのシーンは用意されているものの、彼らの置かれている舞台そのものは、決してハッピーエンドとは言えないからだ。
いや、戦争の現実をシミュレーションするというのならば、「それ、あり」なんだけどね。



小川 一水
強救戦艦メデューシン〈上〉
強救戦艦メデューシン〈下〉
ソノラマ文庫
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2006-01-24 20:13:31

『やじきた学園道中記(28)』 赤目編まだ終わらず

テーマ:冒険・アクション
さて、最新巻なのだ。
相変わらず、伊賀の赤目で物語が展開しているのだが、いまだ、高校の敷地内にあるという「お宝?」の正体はわかっていない。
しかし、この「お宝?」に関する動き、風祭玉彦が先頭立ってやっているのかと思えば、日光の姫御前やハーディが登場、雨宮と草薙が登場、葵上総介(だっけ?)が登場。
いやーどんどん風祭玉彦って影が薄くなるのな。
(そして、彼が登場した騎士編を読んでみて、最初からそういうキャラだったのだと納得)。

今回は、そもそもの事件の発端に、玉彦の父親が関わっている事が判明したのだが、
「関東番長連合」総長である、雪也が拉致された報復に、玉彦の従姉を人質にしたばかりか、その父親まで監禁するというあたり、
手配した貴子さん含め、普段いかにお坊ちゃんお嬢ちゃんしていようとも、
「不良学生に関わった報いとお思い下さい」
この潔さがたまらん。

あくまでも、彼らは、礼儀正しい。
しかもそれが慇懃無礼までにはなっていない。
ときに時代劇的なところもある、やじきた学園道中記だが、不思議と、登場する高校生たちは、ほとんどが、奇妙なくらいすがすがしく礼儀正しいのが良い。

しかし、最新巻を見ると、なぜか、昔よりキャラクターの顔立ちが、可愛らしくなっているような気がする(笑)。
やじきたしかり、影の薄い玉彦しかり。
もちろん、長年描き続けられているものであれば、絵柄は変化するものだろうけどな。


市東 亮子
やじきた学園道中記 28 (28)
2006年2月15日新刊(発売中)
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2006-01-24 19:58:35

『やじきた学園道中記』 騎士編

テーマ:冒険・アクション
最新巻を読むにあたり、一部のキャラがよく思い出せなかったため、前の巻を引っ張り出してきた。
つまり、風祭玉彦ってどんなやつなんだっけ?
これが思い出せなかったのだ。
やじきたコンビが神戸で出会ったやつって事以外。
で、神戸の事件が「騎士編」というやつだ。

(さて、騎士編、私の手元にある単行本だとBONITA COMICS 版21巻に収録されているのだが。上の画像とは表紙の絵が違います(‥ なので、収録巻がずれていたなら、ご容赦を願いたい)

最初の頃は、ひたすら関東でのみ展開するのかと思っていたやじきた学園道中記、いつのまにか、箱根へ、清水へ、と東海道を”のぼって”いき、京大阪に執着するのかと思ったら、一足飛びに神戸まで行ってしまった。最新巻では伊賀に戻って(?)いるので、神戸が最も遠い編入校ってことになるんだろうな。
「神戸はおしゃれな土地」
ということになっているのか、彼女らがまとう制服も、今までで一番、おしゃれな感じになっているようだ(笑)。

で、またこれにあわせたというのか、この掌篇、フェンシングの試合でクライマックスとなるわけだな。
なんと、篠北礼子はフェンシングも達人だったというから、驚きだ。
いやー、スーパーガールの面目躍如なので、別に文句はない。
作中、篠北自身が、フェンシングの方が剣道より自分にあっているように思う、というが、確かに冷酷な攻めっぷりで、見ていて愉しい(笑)。

しかーし!
フェンシングって、ほんとは、見て面白いものとはあまり思えないのだけどね。
なぜなら、剣の動きが、あれは凄く速い。いやいや、速度でいえば別に剣道でも、中国武術で剣や刀を遣う場合でも、速いは速いだろう。
ただ、フェンシングは格段に剣が細いから「みづらい」んだよな。
近くで見られるわけでも、ないしね。

それを思えば、試合の中継を試みた、放送部はツワモノと言うべきだろう。
(普段からそんなもん、中継しているとは思えないからなあ)。
剣の動きがすばやいだけでなく、フェンシングの用語も、舌を噛みそうな、ながたらしいフランス語だったりするもんな(笑)。

この試合、最後はハーディと篠北の一騎打ちで幕を下ろすのだが、
そういや、風祭玉彦がほんとは試合の主役ではなかったのか!
なのにトリを飾っていないとは……?

最新の伊賀編で再登場して、どうも他のキャラに比べ、印象が薄い理由がわかった。
そもそもの登場からして、いまいち、影の薄いキャラクターだったのだ。

そういえば。
騎士編の舞台になった神戸の学校って、校名が出てきていないような(‥


市東 亮子
やじきた学園道中記 (第21巻)
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