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2005-09-30 10:27:48

『ふしぎなにじいろ』 ポケモンだいすきえほん2

テーマ:絵本・児童文学
サーヴィスが開始された時、Ver.1『ふしぎなぎょうれつ』を紹介した、ポケモンだいすきクラブ のWEB絵本、「ポケモンだいすきえほん」。第2弾、『ふしぎなぎょうれつ』が配信スタートしている。
会員でないと見られないのだが、登録は無料なので、WEB絵本の好きな人にはなかなかお奨めなのだ。

とりあえず、ポケモンがわからなくても大丈夫(笑)。

クリックしてページを開きながら絵本を見ていく、
読み上げサーヴィスがある(ここでは、男声・女声2ヴァージョン)、
ここらへんはまあ普通か。
音声はスタートしてからアイコンクリックで切る事も可能。でも、読み上げのレベルはなかなか高いと思うよ。

絵も、いかにも絵本的な、やわらかいラインと色調で、目にやさしい。
なにより、面白いのは、一度最後まで見終わって、「もういちどよむ」をクリックすると、今度は一種の仕掛け絵本として、「ふしぎ」な部分の解明をしてくれることだな。

さて、今回の『ふしぎなにじいろ』は、かの有名なピカチュウの前段階ヴァージョン、ピチューのカップルが、森の中で迷子になる話。
いきなり、虹色の霧が出てきて道に迷ってしまうんだけど、その霧の中から、いろいろな「かお」が出現するのだ。これ、ポケモンを知っている人には、「かくし絵」になっています。(で、そのかくしてある部分を、後で見せてくれるわけ)。

途中、ちょっと(ピチューたちにとって)気味悪く、怖いシチュエーションがあり、ラストはハッピーエンドという、山場の作り方は第1弾と同じだけれども、
「道に迷う」つまり迷子になるというのは、なんつか、童心に訴えかけるものがあるんじゃなかろうか。
その点で、第1弾より第2弾の方がすぐれているかもしれない。

浮かび上がるふしぎな木の実、
謎めいた虹色の霧など、
いろどりも第2弾の方がファンタスティックだ。

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2005-09-29 19:15:42

『仮面ライダーSpirits 8』 なぜ、俺は立ち上がってしまうんだ

テーマ:日本SF・ファンタジイ
たとえ、どんなに苦しかったとしても。
たとえ、死ぬような思いであったとしても。
男は立ち上がってしまうのだ。
それは、単に、生き延びたいという、それだけのためなのか?
いや、それなら、立ち上がらず、死んだふりをしたり、どこかに身を潜めたりする事だってできるだろう。単に生き延びるというためならば。

立ち上がること。
それは、戦い続けるという意志のあらわれだ。
たとえ、勝てなかったとしても、負けないために、繰り返して立ち上がるのだ。
そして、それこそが、「仮面ライダー」という存在なのだろう。
到底勝てないほどの、強大な敵であっても、彼らは、
「悪を滅ぼすため」ではなく、
「悪に負けないため」に、戦い続ける存在ということなのだ。

ゆえに、バダン首領の、「魂の器」として作られたゼクロス、その、「仮の魂」とされた村上が、わけもわからず繰り返し立ち上がり続けるのは、村上が本質的に仮面ライダーである、という事なのだ。
たとえ、まだそうと自覚してはいなくても。
とはいえ、バダン首領ジュドーのための、「最後のいけにえ」という十字架を背負わされた村上が、仮面ライダーとして自覚するためには、相応の道程が必要なのだな。
まず、立ち上がり続けること。
そして、何の為に立ち上がるのかということを、本巻でようやく、村上は、我が手につかみつつある。

腰巻上には、早々と、「仮面ライダー10号誕生の時」とあるが、実際のところは、生まれる直前または直後というところじゃないかと思う。
昭和ライダーのファンとしては、テレビシリーズで戦ってきた面々の活躍が、今回あまりないのは残念だが、それもこれも、最終決戦への準備段階だと思えば、仕方のない話だな(笑)。


石ノ森 章太郎, 村枝 賢一
仮面ライダーSPIRITS 8 (8)
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2005-09-28 11:44:36

『砂の妖精』 あるいは、おねがい!サミアどん

テーマ:絵本・児童文学
ネズビットといえば、イギリスはもちろん、アメリカでも人気のある児童文学作家、ということになっている。
もちろん、日本でもいろいろと訳されているのだが、私のまわりでは、ネズビットが好き! という人が登場した試したない。
もちろん、だからといって、いないとは限らないし、こうしてネット上に書くと、
「私はネズビット好きなんです」
という人が、出てきそうな気もするが(笑)。
で、私自身にとっても、非常に印象の薄い作家なのだ。

なんでだ?
別に児童文学が嫌いだとか、そんな事は全くないわけだし。
イギリスに限ってみても、トールキンも、C.S.ルイスも、A.A.ミルンも、サトクリフも、最近でいうとD.W.ジョーンズなんかもよく読むし、中には凄く好きな作品もけっこうあるんだよなあ。
ネズビットだってそれなりに読んでいるはずなんだがな。

そういえば、『砂の妖精』は昔読みかけて、つまらなくてやめたか、一度しか読まずに、あと忘れたかの、どちらかだったような気がするぞ。
そして、手元にあるネズビットは、アンソロジーに入った短編だけだ。
じゃあ、ひとつ、『砂の妖精』をもっかい読んでみようじゃないか。
かつてNHKでアニメ化された作品でもあり、ネズビットの代表作と考えても良いだろう。
(アニメ化された時のタイトルが、「おねがい!サミアどん」なのだ)。

そして、ようやく、なぜ自分がネズビットに興味を持たなかったのか、よくわかったのであった(笑)。

さて。
ヨーロッパの民話には、「三つのねがい」というタイプのものがある。
妖精なり、聖人なり、悪魔なり、ともかくスーパーナチュラルな存在があらわれて、ごくふつうの人、たとえばお百姓さんなどに、三つの願いをかなえてあげるよ、と申し出る話だ。
願いは、良くも悪くもともかく三つしかない。
で、たいてい、お百姓さん、あるいはそのおかみさんが、うっかり、ヘンな願い事をしてしまうため、ちっとも良い結果にならないのだ。
その瞬間は滑稽であるが、後味はいまいち。
ハッピーエンドのように、「わあっ♪」というキモチにはならないし、かといって、
カタストロフで終わる物語のように、「うぅ、かわいそう(こわい)よぅ」にもならない。
一瞬の滑稽味のあとは、味気なさだけが残ってしまうのだ。

そして、『砂の妖精』とは、この「三つのねがい」のバリエーションなのだ。

田舎に引っ越してきた子供たちが、ある日、奇妙なものをみつける。
それは、茶色っぽくて、もこもこしていて、小さくて、おまけに、目はカタツムリの目みたいに、眼柄の先にくっついている。
おおっ。なんだか奇妙でへんてこりんで、もしかしたら、かわいい感じじゃないか?
子供だったら、「うわーっ」と喜んで、さわりまくりそうな、そんなやつ。

ところが、こいつは何千年も生きている妖精……砂の妖精(ギリシア語でサミアード)。
すんごい年よりなだけに、ヘンクツで気むずかしい。
いかにもふかふかでやわらかそうなのに、子供達にはほとんどさわらせてもくれない。
で、一日に一度、なにか願い事をかなえてくれるという事になるのだな。

まず、興ざめなのは、こんなに魅力的な姿(子供にとって、だよ)のサミアードであるのに、その外見的な特徴が、お話の中では全く活かされていないのだ。
ヘンクツな爺さんキャラだから、子供たちにさわらせない、というのなら、それでもいいだろう。
でも、せっかくの眼柄を、ひょこひょこ動かすとか、そういう描写が少しはあってもいいのじゃないか。
そのせっかくの、眼柄は、なんのためだ!(笑)

もうひとつは、この「何千年も生きている」サミアードの思い出話が、石器時代にさかのぼるということ。
しかも、サミアードが語る思い出話は、石器時代人が毎日サミアードのところにやってきて、毎日、食べ物を願う。それも、スーパーに並んでるパック詰めの食肉じゃあるまいに、切り分けて食べられる(料理できる?)ばかりになっている、メガテリウムだのイクティオサウルスの肉を願う、というところだ。
なにこれ。
イクティオサウルスが食えるかどうか、人類が出現した時にもいたのかどうかはおくとしてもだ。
そのあまりにも退屈な日常性は、なに。

そもそも、妖精界に存在すべき妖精が、石器時代……。
なにかこう、ミスマッチというか、なっとくのいかない取り合わせじゃあるまいか。
いや、そもそも、サミアードは自称妖精であるし、それはそれで良いのだけれどもさ。
これがたとえば、トールキン・タイプの作家であるなら、ここまでしっかり人格を持つ存在は、人間でなくとも、人間扱いで描くだろうと思うのですな。
具体的には、英語で書かれているものだから、代名詞は he (彼)になると思うのだよ。
ところがだなあ、これ、原題について言う限り、it (それ) になっているのです( ‥)/

そりゃ、英語では、もっぱら、人間以外の存在は、怪物だろうが動物だろうが、伝統的に it かもしれん。
しかし、それらが人間の友達となり、個性を出した段階では、it にはならんよ。
he か she ですよ。
なのに、it なんだぜ?
つまりね、ネズビットにとって、サミアードは、人格のある存在ではないのだ!
サミアードは、単なる狂言回しでしかないわけだ。
だからこそ、あの愛嬌のある外見も、全く物語中に活かされていないということになるんだろう。

……がっかり。

そして、「三つのねがい」にあるように、子供たちは、サミアードにいろいろな願い事をしては、その結果として、ひどい目にあう、という事を繰り返す。
これまた「三つのねがい」にあるように、うっかり口走った事が、願いごととしてかなえられてしまう事も、半分くらいは、あるのだ。

そりゃもちろん、願いごとは毎回違うものだし、そこから生じるトラブルも毎回違うさ。
しかし、「三つのねがい」のとおり、その場その場は滑稽でも、全体に、ちっとも面白くない事件という事になってしまうんだなあ。
実際、物語中で、子供たちも、
「願い事をしてもちっとも面白いことにならない」
と気づく。
そして、実際にはいろいろな邪魔が入って成功しないのだけれど、なんとか、実効性のある願い事にしようとするあまり、実につまらない方向へと、考えをすすめていく事になるのだ。
「今のお金で、大人に怪しまれないくらいの額面の貨幣で、怪しまれないくらいの合計金額」みたいな。
気持ちはわかるけれどもさ。
それが、一番上でも小学生を脱していないくらいの、子供たちの願いごとですかね?
つまらなすぎるぞ、おまえら。

「三つのねがい」がもとなのなら、それはそれでいいとしよう。
でも、子供のための、夢のような物語、としたいわけだろ?
妖精という魔法的な存在を出すわけだから。
それを、どんどん、現実的にしていってどうするよ。
もっと、夢の広がるような願いごとをするように、子供達を誘導した方が、物語として素晴らしいんじゃないか。

子供たちが陥るトラブルは、それはそれで毎回、面白くないとは言えない。
ただ、全体として見た時に、いかにもつまらない、夢のないものになってしまっている。

思えば、ネズビットは、児童文学を「生活の助けとするため(お金を得るため)」に、書いたのだそうな。
確かに、才能のある人だったのだろう。
イメージ力もそれなりにあったのだろう。
だけどなあ。
決して、子供の心を理解して書いたり、子供に夢を与えるために書いたものとは思えないのだよな。

やはり、私は、ネズビットは評価できない。
決してつまらなくはないが、夢がないからね。


イーディス ネズビット, H R ミラー, 石井 桃子, Edith Nesbit
砂の妖精
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2005-09-27 21:53:23

『王妃の離婚』

テーマ:歴史・時代小説
離婚。
そこには、裁判がつきものだ。
そう、裁判だ!

小説には、法廷ものっていうジャンルが確かにあるが、ふつー、それは刑事裁判だよね。離婚裁判を小説にしたものなんかあるだろうか。

それが、ここにひとつあります。
佐藤賢一の『王妃の離婚』、これは離婚裁判の話なのだ。

なんつか、目の付け所がすげえな、と思う。
まあ、離婚裁判をとりあげる、という事そのものがスゴイんだけれども、
ここに登場するフランスの王と王妃は、当然、カトリックだ!
カトリックつぅことは、タテマエとして、離婚はできないのです。

離婚なんてものは、そもそも、どろどろしたものだけれども、王様の離婚だから。
政略結婚とか、そういうものも絡んでいる。

それに、国中の注目の的に(笑)。

こういう、どろどろしていて、なんか危険な香のする裁判で、被告となった王妃の弁護をするために立ち上がる、一弁護士が主人公なんだけど、これがまたいいキャラなんだ。
むっちゃ頭がいいけれども、ちょっとしたつまづきがもとで、パリ大学を追放され、エリートコースからドロップアウトした、地方の弁護士なんだよな。

頭が良すぎ、しかも経歴があいまって、はすにかまえていて、
それじゃあ、かなりのニヒリストだろう、と思いきや。
若い頃から中年の今にいたるまで、カラダは貧弱かもしれないが、精神的にはすげーマッチョで、熱血で、反骨精神の塊で。

燃えるだろ?
すげー燃えるだろ?

こういうキャラだから、どろどろとした、政治と愛憎と陰謀渦巻く(言い過ぎのようだが言い過ぎじゃない)、王家の離婚裁判という泥沼を、スパッと快刀乱麻、不利きわまりない王妃を助ける事ができるわけだ。
その過程が、また、痛快。

さらには、主人公の、「若気のいたり」の恋と、その結果も、ストーリーに密接にからみつき、法廷もののはずなのに、恋あり、冒険あり、アクションあり、陰謀あり……
いいのかこれで!(笑)

王妃は美人じゃないぞ。
法廷を構成する法曹界の連中は、主人公も、検事も、判事も、傍聴人も、ともかく全て、禿頭、もとい、河童頭だぞ!
(そうです、例のトンスラです。ただし、ここでは、「コロナ」とフランス風?に呼ばれているもよう)。
どっちを向いても、黒、白、灰色、茶色、どっちを向いても禿頭(違うって)。

なのに、なぜか魅力的で、わくわくどきどきで、熱血で、面白い。
直木賞受賞作だけれども、そんな肩書き、むしろない方がかっこいいな、とも思う。
なぜって、ねえ?
主人公が反骨の人だからね(笑)。


佐藤 賢一
王妃の離婚
集英社文庫
直木賞受賞作

※ 遺憾ながら、本記事に対する海外からのコメントスパムが激増しています。このため、やむなく本記事に限り、コメントの受付を停止しています。ご面倒ですが、アメブロユーザーの方は下記スクラップブック の方へ。アメブロユーザーでない方は、掲示板 にコメントいただければ幸いです。


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2005-09-26 23:34:19

煙草は、ほんとは、文化だった

テーマ:人文・社会・ノンフィクション
煙草。
たかが煙草、されど煙草である!

かつては、断然、愛煙家が肩で風を切って歩いており、煙草を吸わない人はおろか、健康上の問題で煙草の煙や臭いがだめな人も、
「煙草を吸わないで下さい」
となかなか言い出せないのが普通だった。

今はどうかというと、なんだかこれが逆になってきたかのようで、日本はアメリカに追随するかのように、だんだんと「嫌煙権」が強くなり、全面禁煙となる公共のエリアが、広くなってきている。

まあ、それは、悪い事ではないだろう。
事実、駅だの路上だの、不特定多数の人が交錯する場では、どこに、煙草の煙や臭いで具合の悪くなる人がいるかは、わからない。

しかし、愛煙家と嫌煙家の論争は、年々激しくなり、しかもお互いに相手を罵倒するばかりの泥仕合になるのがもはや定番。
これは、見ているだけでも、非常に不毛に感じてしまう。
しかも、よくよく両者の意見を聞いてみると(いや、ネット上の場合は「読んでみると」かな)、どちらも、一見筋の通った事を言っているようにみえながら、困った傾向がひとつ際だってしまっている。
それは、どちらも、
「自分が正しい。相手の言う事は受け容れない」
という姿勢が見えてしまうことだ。
はたして、喫煙は絶対悪なのだろうか。
嫌煙は絶対の正義なのだろうか。

さて、白状するが、私は大学時代には相当のヘヴィ・スモーカーであった。
ところが、如実に心肺機能が落ちるということを、運動中に自覚して、きっぱりとやめたのだ。
なので、なんとなく、喫煙家の言い分も、嫌煙家の言い分も、それぞれ、「一部」は納得できちゃうんだな。
そして、お互いが相容れないのは、今、「煙草」というものが、文化ではなく、単なるストレス発散の手段に落ちぶれてしまったという事が、でかいんじゃないかなあ、などと思う。

喫煙は、「かつて」、文化であった。
もちろん、そこには、現代と同じく、ストレス発散という意味合いも、あっただろうとは思うけれども、単にそれだけではなく、煙草をくゆらす時間を楽しむ、という側面がでかかったのだ。
たとえば、イギリスの紳士は、喫煙室でスモーキングジャケットを着用し、パイプをくゆらしたりした。
ミアシャムやブライアのパイプをいかに使い込むかが、愛煙家の勲章だったりした。
日本では、煙管の細工を楽しみ、煙草盆などというものを考えだし、花魁は長煙管を吸い付けて手管のひとつとし、「煙草のある生活」を楽しんだのだと思われる。

煙草は、結局のところ、嗜好品。
ストレスを発散するため、あるいは単に手持ちぶさただから、なんとなく習慣で。
それだけで吸うのは、煙草にとっても、ある意味、可哀想かもしれない(笑)。

喫煙すること、あるいは喫煙具を楽しむことを復活させ、
煙草を吸わない人には迷惑のかからない方法で、煙草をくゆらすことを楽しむという方向はめざせないものかなあ。

さて、上の特集では、たとえば喫煙をしない人にも、インテリアのひとつとしてパイプを楽しむということを提案している。
こういうのはいいですねえ。
別に、西洋のパイプじゃなくてもよい。
ちょっとしゃれた煙草盆と煙管が飾ってある、なんてのも、なかなか趣味の世界として面白いのじゃないか。
また、そういうところから、今、犬猿の仲になっている、愛煙家と嫌煙家が、もうちょっと歩み寄れないものか、などと思う。

そうそう、そういえば。
煙草はアメリカ大陸原産なわけだけれども、かつて北米原住民の方々は、「平和のしるし」として、パイプを使ったのではなかったか?
それが、今や争いの種になっているのは、やはり煙草の本意ではあるまい(笑)。


ホームズとパイプ [大人の嗜好]

日本パイプスモーカーズクラブ
パイプ大全
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2005-09-26 19:26:45

『妖精物語の国へ』 トールキンによる妖精物語論

テーマ:人文・社会・ノンフィクション
J.R.R.トールキン。
この人物については、ほとんど説明の必要はないだろう。
そう、『指輪物語』の作者だからだ。
また、オクスフォード大学の、言語学の教授でもあった。
巻末の、訳者によるあとがきに記されている、トールキン教授の略歴を見ると、1892年に生まれ、1973年に没している。
第一次世界大戦に従軍した事が、その後の人生に大きな影響を与えた、なんてくだりは、この略歴で初めて知った。

さて。これはトールキンによる、妖精物語に関する小論だ。
あえて、最初に、簡潔に内容を説明すると、
「妖精物語とは、想像力の産物であり、人が逃避する先であり、人を癒し得るものであり、ゆえに、決して、子供だけのものではなく、むしろ大人に向いた文学である」
という事を主張しているのだ。

なあんだ、と思うだろうか?
たしかに、今では、大人が妖精物語を読む事など、別段さほど奇異な話ではない。
そもそも『指輪物語』は、世界中の「大人」に読まれてるんだしな。
しかし、トールキン教授が生きていた時代は、妖精物語といえば、子供のものであって、そこには、イソップにあるような動物寓話とか、あるいは、物語中で動物が言葉をしゃべっていたり、あり得ないほど小さい人が出てくるというだけで、「子供向けのお話」とみなされていたものは、全て妖精物語に数えられていたのだそうだ。うーむ、今の我々からみたら、かなりめちゃくちゃだ。

そういう、同時代の価値観にトールキン教授は一石を投じたわけで、その「妖精物語論」は、もちろん、『指輪物語』成立に、深く関係する。
てか、『指輪物語』成立の原動力であって、根っこの部分にあたると言っても良いのかもしれない。

また、教授が、妖精物語と分類されるものを明確に、かつ柔軟性をもって定義していきながら、
それが「逃避のための文学」である、ということを、堂々と主張している事も興味深い。
逃避って、なんだか悪い事みたいに考えられちゃうだろ?
「逃げてもいいんだ」
なんてことは、滅多に言う人がいない。
かくして、だんだん、現代社会に疲れた人が増え、うちひしがれていく人が増え、「癒し」というものが必要なのだと認識されてきた今、トールキン教授の、
「現代の大人にこそ、逃避する場としての妖精物語は、必要なのだ」
という主張が、いかに先を見たものであったか、実感できるのだ。

たまたま、教授は、神話や妖精物語の価値を否定するものとして、友人であるC.S.ルイスに反論する、という形を取るのだが、そういえば、C.S.ルイスとJ.R.R.トールキンを対比すると、面白い事に気づく。
ふたりとも、すばらしい文学を遺しているのだけれど。
C.S.ルイスの描く「モンスターあるいは敵役」は、かなりのところ戯画化されてしまい、悪い人間とそう変わらない、等身大のもので、そのために、かえって、「強大な(神話的)敵役」としてのリアリティに欠けるのだ。
白い魔女も、邪神タシも、獅子の皮をかぶったロバと同様、ある意味卑小であり、「底知れぬ怖さ」は感じられない。
これに対して、トールキン描くところのサウロンは、実体を持たず、とくに『指輪物語』では、究極の敵役であるはずなのに、常に最後方にいて、実に得体が知れない。その描写には、確かに、神話的な、あるいは妖精物語的な、「恐怖」を描こうとしている事がうかがえるわけだ。

また、ここには、トールキンの手になる詩劇が収録されているのだけれど、その詩劇そのものと、それに付された解説から、トールキンが「英雄」というものをどのように考えているかというのも、わかる。
これも、あえて簡単に言ってしまうと、
大義の為に命を捨てられる者が、いわば「黄金」であり、
しかしながらそこには、名声欲がつけいる隙が出来てしまうもので、そのような名声欲に基づく(立派な)行為が、黄金ならぬ「合金」なのである。
そう書かれている。

どうですか?
『指輪物語』の中に登場する、大義に殉じようとした人々や、
あるいは、大義に殉じる気持ちはありながらも、名声欲に負けてしまった人々、
それらの横顔が彷彿としてこないか?

『指輪物語』のファンは、きっと、一読すれば納得できるところがいろいろあると思うが、
格別『指輪物語』は読んでいないよ、という人であっても、一般的な価値観を打破する論者の姿を見るという点で、興味深いかもしれない。


J.R.R. トールキン, John Ronald Reuel Tolkien, 杉山 洋子
妖精物語の国へ
ちくま文庫
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2005-09-25 19:16:46

『雨柳堂夢咄9~10』 夢もうつつも紙一重

テーマ:日本SF・ファンタジイ
2巻に収録されたうち、最後の1篇で登場した、篁青二郎と、(義理の)姪にあたる釉月をめぐるサイドストーリーは、10巻でようやく、ほとんど大団円を迎える。
贋作を作ってきたがゆえに、生じてしまった「悪しき因縁」。
まあ、恨みを買うよなあ、贋作作りなんかやってれば。
そこで作ってしまった敵が、いわば青二郎の「弱点」である、釉月を狙う。

誘拐が発生したり、悪霊めいたものが出てきたり、火事が起こったり、
敵役の方は、青二郎を刺そうとするは、拳銃で射とうとするは、いやー。
いかにもスローな時間が流れていそうな骨董屋の話なのに、サイドストーリーは波瀾万丈、ほとんどアクションものに近い。
セピアだけど。

とはいえ、このサイドストーリー、おおむねハッピーエンドを迎えているわけで、なによりなにより。
そして、敵役にとりついた悪霊のしわざで、この2巻の間は、夢にまつわるものがとっても多いようだ。
悪夢を退治する獏も出てくるし。

さらに、釉月の特殊な能力、青二郎(青藍)の作った壺、これが呼応して、「夢渡り」なる不思議な現象も発生。ニュージーランドやオーストリア、あるいは北アメリカなどには、夢を通じて一種の旅をする伝統宗教的な「方法」が伝わっているけれど、なんとなく、それを連想させる。
夢は無意識の世界への扉であり、無意識は、全ての人間が共有しているという考え方もある。こちらは宗教ではなく、むしろ心理学か?

ともあれ、思いをとどめる骨董や古道具は、それら自体が、媒体となり、時空をこえて、いろいろな人の夢とつながっているようなもので、このシリーズのタイトルが、夢咄、となっているのもいかにも自然な事だ。
まあ、できることならば、悪夢は願い下げにしたいものだが。

目次------------------------------
午後の清香
おつかい猫
紫煙の夢
鬼のくる夜
たずね人
----------------------------------
大晦
形見
嫁取り狐
夢喰い
夢わたり
最後の破片
秋黴雨
----------------------------------

この中では、だんぜん、おつかい猫というキャラクターが魅力的だけれども、話そのものでいうと、私は「午後の清香」が好きだなあ。
茶壺の名品と、清国の留学生と、グラント先生の話だ。
ここで登場する、茶壺を使って中国茶を淹れる方法が、実際にこの当時の清国で、すでに成立していたのかどうかは知らない。
最近は、東京にも何箇所か茶藝館があって、こういう方式で中国茶を楽しむ事ができるそうだけれど。
茶藝館そのものは、台湾で、10年くらい前からかな、流行り始めたのだそうだ。
(とはいえ、台湾の中華系文物は、当然、清国渡りですねい)。

んでもって、武夷山のお茶。
岩茶ともいうそうな。
これ、ほんとに良い香りがします。
武夷岩茶「水金亀」(青茶)50g もっとも、岩茶といっても種類がえらくたくさんあって、その香りも、種類ごとにまったく違うのだ。違いはするが、清冽であることにかわりはなく、物語中登場する、ちょっと気むずかしい唐子のイメージ、なんだかぴったりに思える。

微笑ましいといえば、「大晦」に登場する、童子の歳神もなかなか微笑ましい。
波津彬子は、こういった、子供の姿の「もの」を描くのが、実にうまいなあ、などと思う。てか、やんちゃでいいよね(笑)。

さて、このシリーズは、完結したわけではない。ただ、進み具合がゆっくりで、9巻と10巻の間も、2年弱、あいているのだ。てことは、11巻が出るのは、来年くらいだろうか?
まあ、スローな時間が流れる世界の物語なので、読む方も気長に待たなくてはね。


波津 彬子
雨柳堂夢咄 (其ノ9)
雨柳堂夢咄 其ノ十
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2005-09-25 15:44:50

『幸福な王子』 あるいは、『漁師の魂』

テーマ:絵本・児童文学
オスカー・ワイルド。
美を愛する者であり、
快楽を追求する者であり、
体制や道徳に反する行いをするとそしられ、
そしてまた、常に、社会の半歩外にいた男。

私は、オスカー・ワイルドが好きだ。

そして、ワイルドの姿を最も簡明に表しているのが、『ドリアン・グレイの肖像』や『サロメ』ではなく、一連の童話であると思うのだ。

しかし、オスカー・ワイルドと、童話!
なんという組み合わせ。
非常にミスマッチではないのか。
事実、ワイルドが童話を書いた事そのものを、批判する意見もある。
(巻末の解説で紹介されている、アーヴィンの意見のように)。

もちろん、それは、美しく、優しく、徳の高い内容でなくては、子供に与えられない、と考える、大人の意見であろう。
ちょっとでも、歪んで見えたり、皮肉な内容であったりすれば、子供は喜ばないし、与えるべきでもない、と勝手に解釈すれば、そうなる。
……ほんとは、子供だからこそ、そういうものをストレートに見られると思うのだけどね。

とはいえ、私は、ワイルドがこのような「童話」を書いた事は、とても自然な発露ではなかったかと思う。
なぜなら、ワイルドの反体制的な表現や主張は、実のところ、彼が信奉していたキリストの愛とあいまって、ひたすら、「ピュアであろう」と志向していたのであり、
「ピュアであること」とは、余分なものを捨て去ることだからだ。

また、「ピュアである」ことは、子供の純粋さ、汚れなさにも通じる。
もちろん、子供の持つ「ピュアなもの」は、子供がまだ未熟であり、経験がなく、心身が未発達であるからだ。
もっとも、そうでなければ、人は、経験し、学んでいく事ができない。

ひるがえって、ワイルドのように、大人になっても「ピュアであること」は、まず、大人になるまでに染みついたさまざまなものを捨て去って手にするものであって、
それは、何かをひたすらに感じ、追求し、いや、希求する姿勢を意味すると思う。

とはいえ、かように「大人でありながら、ピュアである」ということは、ピュアならざる社会に馴染まず、また、受け容れられ難く、従って、異端児となってしまうのだ。

ところで、ワイルドが目指す、「捨て去ることによって得られる純粋性」は、究極的に何を求めているのだろう。あまりにも、それは無私であるために、物語の上っ面を見ると、全く報われない、虚しいニヒリスティックなものに見えるけれども、幸福な王子も、人魚に恋した漁師もそうであったように、最後は、
「自己を捨て去る」
というところに行き着く。

すなわち、ワイルドにおいて、最上の愛とは、愛のために自分自身を捨て去ることであって、これは、人類のために十字架上に我が身を捧げたイエスを思わせる。
キリスト教的な、無私の愛が、そこにあるわけだ。

かたや、報われる事を期待しない、ある意味一方的な愛や献身は、ワイルドの現実の交友関係(ドリアン・グレイのモデルとなった若者との交流)をも連想させるのだけれど、なぜワイルドがそういう関係に耽溺したかについては、単に、相手に魅了されたというだけでなく、やはり、自分を捨てて純粋な「愛」を求めるという気持ちが、根底にあったのではないかと私は想像する。

つまるところ、ワイルドという人は、「大人になれなかった子供」ではなく、
「子供の心を持ち続ける事を選択した大人」をめざした人ではなかろうか。
ゆえに、その発露が、童話という形になって表現されたのだろうと感じられる。

とはいえ、確かに、これは「子供に語るために書かれた童話」ではないよな(笑)。
ワイルドが、自分自身を表現するために書いたものであって、ある意味、そこには、対象となる「子供」は存在しないのだから。
その点では、批判者の意見も、真実を突いているように思う。

実際、大人になってから読んだ方が、ワイルドの童話は、含蓄がある。
なぜなら、子供のように、最初から持っている純粋性ではなく、
「捨て去る事によって得られるピュア」という貴重品の意味は、大人にならなければ、わからないからね。


ワイルド, 西村 孝次
幸福な王子―ワイルド童話全集
新潮文庫
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2005-09-25 12:46:09

『雨柳堂夢咄6~8』 ものにとらわれる人々

テーマ:日本SF・ファンタジイ

骨董品は、なぜか不思議にも、美術品より、
「人の心をとらえ、まどわす」
という性質が、強いように思われる。
それは、なぜなのだろう。
あるいは、単に長年人に愛され、古びてきたというだけでなく、飾ってながめる美術品とは異なり、日常の用も果たしてきた器物が多いからかもしれない。

つまり、より肉体的な、「触覚」、「ふれる」という事を通じて愛されてきた器物だからこそ、同じ感覚を通じて、人を魅了し、惑わすものとなるんじゃないかと思う。
また、それを象徴するかのように、しばしば、蓮も、器物に触れる事によって、それが経てきたものを体感する、という事をやっている。

もうひとつ、「ふれる」という事は、人間同士だと、「心を通い合わせる」基本的な手段だということも、忘れてはならないだろう。

さて、蓮の他、釉月も、ものに触れてそれを感じる特殊な能力をもった人物として描かれている。
ここへもってきて、いよいよ、物語中でも、釉月が深水家の人である事が明らかとなり、青二郎と今にも行き会いそうでいて、なかなか出会えないのだが。

触れることによって、そのものの、もとの形を感じ取り、修復する事ができる釉月。
彼女が青二郎と実際に出会ったら、さて、どうなるのか?
いわば、青二郎は、壊れてしまった器のようなものだから、この出会いが、非常に興味深いのだ。

目次------------------------
幽かな花
蜃気楼
月夜の恋人
井筒
----------------------------
虎月楼奇談
背守りの犬
夕暮れにはばたく
恋文
春待ち月
月琴諷話
----------------------------
お嬢様のお好み
鴉屋敷
むさし野
翡色の石
更紗夢紋様
通り悪魔
鬼の灯
----------------------------

ところで、本筋にも記事の趣旨にも全く関係のない事だが、7巻の冒頭は、虎の話なのだ。
しかも、なかなか素敵な虎だ。
こおどり。


波津 彬子
雨柳堂夢咄 (其ノ6)
雨柳堂夢咄 (其ノ7)
雨柳堂夢咄 (其ノ8)
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2005-09-24 23:11:16

『趣味は読書。』 あるいはベストセラーについて

テーマ:人文・社会・ノンフィクション
履歴書とか、
アンケートとか、
あるいはどこぞでの自己紹介とか。
「趣味はなんですか?」
という設問に対して、非常に安易に使われる回答がある。
それは、
「読書です」
これだ!(笑)。

あまりにも広範に、かつ安易に使われるため、ディープに読書をする人が、しばしば、同じ設問に同じ答を書くことを、嫌がるほどなのだ。
だから、この本を見た時、タイトルに興味を持った。
『趣味は読書。』
ふぅん?
この著者は、いったい、何を語りたいのだろう?

さて、ページを開いてみたところ、この著者は、まず、読書人を4つのカテゴリーにわけて、レッテルを貼ってしまう。すなわち、
「特定のジャンルしか読まないたぐいの人」
「広くいろいろなジャンルの本を読むが、他人にも本を読め読めと迫る人」
「本を読む事に耽溺し、読んだ結果をネットなどに垂れ流す人」
「著者の言うことをそっくりそのまま素直に受け取るメジャーなグループ」
詳しくは、つなさんのブログに掲載されているが、 まあ、こんな感じだね。

その後に、どんな本が売れているか、それはどんな本か、何が売れなかったか、などについて、順番に並べていくわけだ。
つまり、著者は、本が売れるか売れないかという点を、まず、読者のタイプに求めていると言って良い。

もちろん、これは、根本的には正しいと思う。
だが、冒頭で読書する人を4つに分けてしまったように、どうも著者はカテゴライズする事、いや、レッテルを貼ってしまう事が非常に好きと思われる(笑)。
こういう人はこれこれのタイプだから、こういう定型的な行動を取る、と型にはめて考えるわけだ。
同様に、こういうタイプの本はこれこれだから、こうなる。そういう順序で考えているように思われる。

しかし、「売れる本」、すなわちベストセラーというのは、他にも理由があって「売れる」のだと思うのだよな。
まず、ひとつは、宣伝がすごくうまい、ということ。
どんな品物でもそうだが、売るためには宣伝力が必要だ。
とくに、食品などのように、いつ何が出るかが決まっていて、ほっておいてもある程度売れるような品物と違い、本は、日々新たな商品として出てくるわけだから、余計に、宣伝というものが、重要になるわけだ。

そして、宣伝と同様、出版社に営業力がなければ、意味がない。
すごく簡単な話をすると、たとえば、角川、新潮みたいな大手出版社で、文庫の老舗レーベルを持っているようなところは、町の小さな本屋でも、黙っていたって本を並べてくれる。
それだけ露出度が高く、新刊も平積みになるため、他の出版社の、他の本に比べて、売られやすいだろう。
で、そういう定番商品以外の、限られたスペースを、その他の出版社がしのぎを削って、奪い合う事になるわけだ。

もうひとつは、時流にのっているかどうか、ということ。
どんな名作だろうが、求められなければ、売れない。
逆に、どんな駄作だろうとも、その時の時流にマッチしていれば、バカ売れしたりもする。
その時のメジャーなニーズにマッチした本が出たなら、そりゃあ売れないわけはない。

この条件が1つ以上そろい、世評が高まるならば、欲しいという人が増え、ますますその本は売れて、今度は「爆発的ベストセラー」になるんだよな。

最近でいえば、ハリー・ポッターが代表選手だろうし、
もちっと卑近なところでいうと、『嫌韓流』なんてのもあった。
後者は、宣伝力と営業力には欠けていたものの、あまりにも世評にのぼることが多くなり、まずはネットから売れ、その後大型の実書店、中書店へと露出していった例。

そして、そうやって売れる本は、特定のジャンルであったり、特定の傾向であったりするわけじゃないのだから、著者がわけたような、特定カテゴリーの読書人が「ベストセラーであるがゆえに」、読むか、読まないかに分かれると考えるのは、ナンセンスでもある。

いや、もちろん、あまりにも評判になり、あまりにもあちこちに露出してしまうと、
「もう、表紙を聞いただけでたくさん」
そう食傷してしまう読書人は、かなりいる事だろう。
それもまた当然の話。
そういった読書人は、普段本を読まない人に比べて、はるかに、書店へ出入りする回数が高いのだ。
その分、頻繁に「ベストセラー」の表紙を目にする事となり、それがとりたてて自分の興味をそそりそうな内容でもなければ、タイトルを聞いただけで、
「げー」
となるのはあたりまえだろ?

本でなくとも、十分にあり得る話だ。
たとえば、節分には恵方巻を食べましょう、なんてのが年々はやり、節分前に、コンビニにもスーパーにもテイクアウト寿司屋にも、はては路上や駅内のワゴンセールで、あっちもこっちもどっちを向いても太巻が山盛り!
よほど太巻が好きな人でもなければ、うんざりしてしまうんじゃないか?

とはいえ、著者は、非常に頭の良い人だろうな、とも思うのだ(笑)。
だからこそ、ついつい、身の回りのいろいろな読書人を見ながら、もどかしさをおぼえたり、いらいらしたりしたんじゃないかなあ。

しかしながら、そこで自ら高いところにのぼり、読書する人を俯瞰しつつ、まず、レッテル貼りをしてしまった。
そこで、残念なことに、著者自ら罠にはまってしまった、とも言える。
なぜなら、著者自身が、レッテルを貼り、クサしたグループの行動に、
「他の読書人を批評し、かつ自ら本を寸評していく」事をしたため、いきなり同列になってしまっているからだ。
人を呪わば穴ふたつ。
それを、地でいってしまったかのようだ!
内容は、一面、真実をついているのに、非常に損をしているのだ。

この著者、頭は良いが、賢くはない。
これが私の読後感である。


斎藤 美奈子
趣味は読書。

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