「まいたタネは必ず生える」
という信念のもとに、
「自分を見つめ直す」とき、必ず問題になることがあります。
それは、
「こころのタネまき」です。
「自分のまいたタネ」を振り返る時、
身体でやったことや、言った言葉は当然問題になりますが、
それ以上に、
「自分自身」を反省した時、
「自分の心」も気にせずにはおれません。
心のタネまきは、
態度や雰囲気を醸し出し、
言葉のニュアンスや抑揚となり、
眼差しや表情となって現れます。
見えるものを通して、見えないものがにじみ出てきます。
「なぜ生きる」には、次のようにあります。
外にあらわれる体や口の行いよりも、
見えない心が大事にされるのは、なぜだろう。
体や口の行いは、心の指示によるからである。
心が火の元であり、体や口の行為は火の粉にたとえることができよう。
火の粉は、火の元から舞い上がるように、
体や口の行為は、心の表現であるからだ。
「戦争は心の中ではじまるのだから、平和の砦は心の中につくられねばならぬ」と、ユネスコ憲章も宣言する。
残虐非道の戦争も、根元は心と見ての訴えであろう。
消火も火元に主力がおかれるように、仏教はつねに心の動きに視点がおかれる。
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心のタネまきは、また、
「しない」種まきとしても現れます。
良くも悪くも、「しない種まき」は、
決して小さくない結果となって表れます。
分かりやすいのは、「無視」でしょうか。
敢えて、視ない、話しかけない、何もしない。
しかしこれは「何もしていない」という種まき“ゼロ”なのではなく、
存在を認めない、否定するという強い心の種まきの表れです。
それは、相手に与える結果・影響の大きさからも明らかです。
逆に、「何もしない優しさ」というものもあります。
見守ることは、何かをするよりも、
暖かく、大きな優しさとして相手に伝わることがあります。
人間関係の悩みや、
耐えがたいダルさや吐き気や痛みが襲う病気など、
つらく、打ちひしがれている時、
何かをしてもらいたいわけでも、
アドバイスがほしいわけでもないけれども、
そばにいてほしい、独りでは居たくないこともあります。
そんなとき、そんな気持ちを察して、
ただ、そこにいてくれる、寄り添ってくれることが、
何よりもうれしく、あたたかい気持ちになります。
doing よりも、beingがありがたいという事実も、
「心でまいたタネ」に、大きな力があることの証ではないでしょうか。