『原発事故への道程』(NHK ETV特集9/18,9/25放送)を観たあとの、先に紹介した感想をもった友人とはまた別の友人の気づきがきっかけとなって話し合ったことに、脱原発という考えを明確にすることは、職場をはじめとする周囲の人々から仲間はずれにされてしまう恐れがあるために困難だという問題がありました。

 しかし、真実に気づいていながら、それをハッキリとした意見の形にしたり、態度に表すなどして外に伝えてゆくことができないとしたら、本人にとっても苦しいことだろうし、社会全体にとってもよくないことだと思います。


 まず、自分が真実だと思うことを誰かに伝える。そのことがないかぎりは、人と人とが手をつないでしだいに大きな輪となり、ムーヴメントとなって、状況を変えてゆくという流れにはならないことでしょう。


「真実を言う」


 これは、とくに国のエネルギー政策の方向性が決まろうとしている現在にあって、なかなか大事なことだと思うのです。

日本があれだけの原発事故を起こし、放射能汚染など深刻な事態がまだ進行中です。世界中から日本がこれを機にどう変わるかが、注目されています。


 諸外国の目は、もはや日本の国民は原発への依存をやめて、国内の原発をすべて廃炉にするためにも、代替エネルギー政策を積極的に進めながら、脱原発国家をめざすにちがいない、地球環境の未来にも脅威となっている原発輸出も、これ以上しないのは当然の責務だろうと思って、これからの動向を見守っているはずです。


 9月6日現在、日本国内の54基の原発のうち、運転中は11基のみです。
残りの43基が停止中ないし定期点検のために稼働していません。

日本の穀倉地帯といわれる北海道の泊原発3号機は活断層の上にありますが、反対の声を無視して知事が運転再開を許可したことに68団体が賛同する抗議文が八月、九月と二度も送られました。立候補時の「はぐくみ、伝える。50年、100年後の北海道への『贈りもの』ー未来を担う子どもたちを安心して育てられる環境をつくります」とのマニフェストを掲げた知事本人からの返答はなく、役人言葉で本質から逸れた回答だけが返ってきています。

 電力会社主催の公聴会での「ヤラセ」問題でマスコミを騒がせた玄海原発でも、浜岡原発と同様、原発廃止を求める提訴が行われます。一方、9月下旬に出された原子力委員会の国民へのパブリッシュコメント募集の集計結果は、原発がなくなることを願っている人が98%にものぼることを明らかにしています。

http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/sakutei/siryo/sakutei6/siryo3.pdf
原子力政策に 原子力政策に 原子力政策に 対する 対する 国民の皆様から 国民の皆様から 国民の皆様から の意見 募集 結果 について



 原発をなくしたくないという人々の考えと、なくしたいという人々の考えがあり、その間に流れにまかせればよいという人々の考えがあると思います。

 問題は、なくさなくてはいけない、なくしてほしい、そういう考えが自分の内なる真実に支えられていると感じている人々が、その真実にたいしてどこまで忠実にその考えを妥協なしに保持できるのかということだけです。

「真実を言う」といったのは、ここでは、それを理解しない人々に向かっていきなりそれを行うことではありません。理解しない人にたいし、自分の考えを押しつけても、不調和な雰囲気を生むだけで、何も創造的なことはもたらしません。


 けれども、つぎのように自分自身にたいして、つぶやくときには、気をつけなくてはいけないと思います。


 「どうせ現実は変わらないのだし、歴史は繰り返されてきたのだ。

世の中は必ずしも理想どおりにはゆかない。むしろ正しいことがまかりとおらないのが世の中で、そちらの現実に適応してゆくほうが
自分が生きてゆくには必要なんだろう。


 だから、たとえ現実の政治などで行われていることが間違っていたとしても、大多数の人々がそれに従って生きている以上は、この社会ではそれが正しいということなのだ。


自分がいくら正しいと思うことでも、それを言うだけ損なのだ」


 そんなふうに自分に言い聞かせる行為に、自己欺瞞の心はないだろうか。

 

 そう自分の心に問いかけてみたら、どんな答えが返ってくるでしょうか。

 「真実を言う」とは、自分の本心にたいし、また、宇宙の神にたいして、今の自分が信じていることを宣言することにより、周囲の人々や社会がどんな恐れや欲望を抱き、ある種の考えを排除し、ある種の考えを推奨または強制しようとしてきても、それに影響されずに、少なくとも自分が何を望んでいるのかを見失わず、自分自身の本心を偽らないということを意味します。


 それによって、与えられた命を大切にし、受け取った直観をよりどころに、これが正しいにちがいないと確信をもって真実と信じることを表現してゆくことが可能になります。


 明瞭な想念は、くっきりとした輪郭をもった想念形態となります。その想念が利己的な感情や個人的な欲望から遠ければ遠いほど、人類全体、地球の生きとし生ける命や自然のすべてを守り、蘇らせるのに裨益する想念として働ける、宇宙的な真理にかなった、崇高で清純な感情のほとばしりをともなったものであればあるほど、美しい幾何学的な形態を描いて、強力なエネルギーを放射して、時空を超えて多くの人々の心に届いて、それぞれの正しい心、潜在している叡智と勇気を呼び覚ますように作用します。

そういう人が増えれば増えるほど、その明瞭で強力な想念のエネルギーは、互いに同じ振動数と周波数で共鳴し、結びついて、強大な力へと成長してゆくことができます。


 だから、私たち一人ひとりが、理性に照らして、まず自分自身の本心に忠実であることが、望ましい現実を創造してゆくための第一歩になります。

 もし、それを抑圧してしまえば、自分自身の内部神性と生命の本質である、どこか心の奥で生まれる前に決めてきたはずの、宇宙と直結した真理とともに生きてゆくという人生の決定を裏切ることになるのです。

 そして、その結果、望まない現実ができあがってゆくのを手をこまねいて傍観しているだけでなく、本心に背くような行為を強いられるような運命を招いてしまうことになります。


 それは、たいへんに悲しいことです。

 それが、日本国民が巻き込まれていった戦争でした。ついに原爆により、日本は世界初の被ばく体験をしてしまいます。

あるいは、戦後も公害病のために苦しんだり、立地の条件として第一に狙われた過疎地の住民が、お金によって買収されて、原子力発電所の建設を受け容れ、その結果、環境が破壊され、体と心の健康が損なわれ、人々の心が荒廃することになってしまいました。


 これこそが、私たち日本人がそこから多くの大切なことを学ぶべき体験ではないでしょうか。


 体験の根底にあるのは、恐れです。我が国には、昔から村八分という言葉があります。


 仲間はずれにされると、集団において安全でいたいという欲求が妨げられる。たったそれだけの理由で、国の大事な命運と未来の生命の行く末を左右する重大な決定にたいし、口をつぐんでしまう。いや、その前に自分が正しいと感じたものを取り下げてしまい、自分でも意識下の闇に葬り、その考えをよく見つめながら育ててゆくことに自信を喪失し、果ては世の中で何が正しい生き方なのかわからなくなってしまう。



こうした日本人の無意識の条件づけは、たいへんに根深い病といえます。

ここで起きていることを、神智学の言葉によって説明すると、どうなるでしょうか。


 まずは、低位のアストラル体が、恐れの感情という粗雑な質料の放つ波動で振動しています。

 それは、真実でいることを犠牲にしてまでも安全でいたいという盲目的な欲望(カーマ)にもとづいています。

これらとリンクした、下位精神(マナス)のメンタル体の習慣的な思考(メンタル・エレメンタル)のパターン化されたつぶやきが、前に掲げたつぎのセリフでした。


 曰く、「どうせ現実は変わらないのだし、歴史は繰り返されてきたのだ」


 曰く、「世の中は必ずしも理想どおりにはゆかないのだ」(父や母から子に、子が親になれば、そのまた子へと言い継がれてきた洗脳パターンの呪文です)


 曰く、「むしろ正しいことがまかりとおらないのが世の中で、そちらの現実に適応してゆく知恵や技術を身につけるほうが自分が生きてゆくのには大切なんだろう」


 曰く、「たとえ現実が間違っていたとしても、大多数の人がそれに従っている以上、この社会では結局、それが正しいということなのではあるまいか」


 曰く、「自分がいくら正しいと思うことでも、それを言うだけ損なのだ」


 こうした呪文が暗号のように、メンタル体に刻印されて、遺伝子によって、世代から世代へと運ばれてきた結果が、相変わらず人々が、一定の思い込みの思考パターンの牢獄に幽閉され、自由を失った精神の囚人になっている、悲しく惨めな状態であるということです。


 そこを、どうやって突破(ブレイクスルー)してゆくか。

 これこそが、原発事故の責任追及や再稼動をはじめとするエネルギー政策、事故の後処理や放射能測定や食品安全などの諸問題にどう対処するかという、表面で起きていること以上に、今私たち日本人が直面しなくてはならないたいへん重要な国民的課題だとはいえないでしょうか。

 

 なぜならば、「急がば回れ」という諺どおり、まずは集団の意見である世論の形成において、いとも簡単にマインドコントロール(洗脳)されてしまいやすい国民の精神のメカニズムを各人が究明し、これを改善して、自ら考え、自分の言葉で語るということができたとき、万人にとって、正しく賢明な選択が何であるかが、忽然として明白となり、小さな利害の対立を超えて、
権力も富もたない国民が一致団結して事に当たることで、かつてない強大なパワーを発揮して、あらゆる問題を一挙に解決できると信じるからです。



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