昨日は、内野先生との勉強會を行ひました。

 内容的には、今泉定助先生の『國體講話』に於ける「神籬磐境の御神勅」についての議論と私の『平和研月報』五月号に掲載させて戴く『江戸期天皇御製に學ぶ日本の心』の後水尾天皇樣の御製についてをやらせて戴きました。

 やはり、内野先生の直感力は凄いものがあり、多くの學びを頂けました。
 本日も家に殆ど家に籠もりきりになりさうです。
 

 さて、昨日の記事『江戸期天皇御製に學ぶ日本の心』の續きを御紹介させて戴きます。

 後陽成天皇様は豐臣秀吉の桃山時代と德川家康の江戸時代初期にわたられて御在位された天皇様と云ふことをきのふは御紹介させて戴きましたが、けふは御在位中最も大きな事件といへる関ヶ原の戰に於ける日本文化を守られた逸話などを御紹介させて戴きます。

 

 猶ほ、この平和研月報は、平和研の會員になりますと近日中にURLから全文をダウンロードできるやうになるさうですのですので、全體を通して讀まれる方はそちらからどうぞ。
 

『日本平和学研究所』ウェブサイト
  URL http://psij.or.jp/about-2/

 
《平和研月報原稿》(平成廿九年四月)

 

下記ブログの續きです

http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-12267827885.html
 

 【江戸期天皇

  御製に學ぶ日本の心】 3
  

後陽成天皇(ごようぜいてんわう)

  (第百七代天皇)桃山~徳川時代 
  御在位 天正十四年(1586)~慶長十六年(1611)

  元亀二年(1571)~元和三年(1617) 
 

*後陽成天皇

 

 正親町天皇の皇子誠仁親王の第一皇子。

 皇太子であつた誠仁親王が薨去された爲、天正十四年(1586)正親町天皇より譲位され踐祚されました。

 


 御題 懷舊   文禄三年(1594)八月九日 「御著到百首より」
よむ歌のふかき心を慕ふ身に

   過ぎにしむかしかへる世もがな
 

【大御心を推し量る】
 さて、次に御紹介させて戴きます御製は、後陽成天皇様が歌道を守る爲に戰爭を止めたお話を御紹介致します。

 その逸話とは、和歌文化の奥義斷絶を妨ぐ爲に、後陽成天皇様が勅旨を發せられて戰爭を止めたといふものであります。
 

 この御製の上句の御心は、和歌の眞髄が籠つて居るのではないかと拜察します。

 歌を作るにしても、詠ずるにしても、そこに籠められた深い心を感ずる事が出來たなら和歌といふものの樂しみが更に増えると思へるのです。
 この御製は、豐臣秀吉の桃山時代にお作りになられた御製でありますが、和歌に對する後陽成天皇様の御心が籠つてゐる大御歌ではないでせうか。

 この御製を拜詠させて戴いた時、後年関ヶ原の戰の前哨戦ともいへる丹後田邊城の戰での「細川幽齋古今傳授」の逸話が思ひ浮かんで參ります。
 當時、細川幽齋は三條西實枝から歌道の奥義を傳へる古今傳授を相傅されてゐて戰國時代に於ける唯一の和歌文化の繼承者でした。

 

*細川幽齋像

 

 その幽齋が関ヶ原の戰の前哨戰といふことで石田三成率ゐる一萬五千の西軍にその居城を包圍されて、健闘虚しく落城寸前といふ情況に陷りました。

 それを傳へ聽いた後陽成天皇様は、幽齋が死んでしまふと歌道の奥義の斷絶にもなりかねぬと憂慮され、西軍の石田三成と細川幽齋に勅使を遣はし、戰爭を止めたのでした。

 これによつて細川幽齋の古今傳授の奥義を後世に傳へられ和歌文化が守られたのでした。
 

 
 御題 寄瀨述懷
おろかなる身はあはれなる名取河(なとりがわ)

   瀨瀨にありてふ埋木(うもれぎ)にして
 

【大御心を推し量る】
 さて、次に御紹介させて戴きますこの御製は、權力者との鬩ぎ合ひの中でのお苦しみを拜するのは穿ち過ぎでせうか。
 

 御歴代天皇樣の御製に於て、これ程の憂ひ深き大御歌は數少ないといへます。

 第三句の「名取河」とは、現實に存在する河ではなく、「名を遺したい」などといふ「名を求める」といふ人間の本性の一つの事を詠つてゐるのではないかと拜察します。

 下句に於ける「瀨瀨にありてふ埋木にして」は、世の中の流れの中に生きてゐる埋もれてしまつてゐると云ふやうなことではないかと拜察します。

 
 後陽成天皇様が、國民が安んじることができぬのは御親らの至らなさによるものと嘆かれてゐたことが、この御製から拜する事が出來るのではないでせうか。
 後陽成天皇様は豐臣秀吉の桃山時代と德川家康の江戸期に跨がつてゐます。

 そして、その御境遇は、時代にによつて大きく變つてゐます。
 

 後陽成天皇様に對する尊崇は、秀吉と家康では大きく變つてゐます。

 私の調べた限りでは信長、秀吉は天皇の權威に對しては常に敬意を以て接してゐました。

 しかし、徳川家康は、その幕府權力の維持のため、朝廷權威の仰制を謀り、干渉を強めたのでした。

 官位の叙任權や元号の改元も幕府が握り、朝廷の權威を利用した治世を行つた爲、その後、天皇は國民と遊離されてしまいました。
 そして、德川家康は畏れ多くも朝廷に對し奉り様々な足枷を附けてゆきます。

 「公家諸法度」や、「紫衣諸法度」など、天皇の本來の權限にまで制約を加えて、あらうことか天皇ご本人に對しても、禁中公家諸法度を作り、その第一條に於て「天皇はたゞ學問して居ればよい」などと僭越な法律を定めたのでした。
 これは日本歴史上前代未聞の事でした。

 武家が朝廷の上に立つなどといふことになるからです。

 形式的には、國事的な事は勅許を受けるといふことを保つては居たものの實質的には京都所司代の管轄下に天皇すらも置くと云ふ日本國體上あり得ない國家體制を作つたのでした。
 この江戸期に於ける御歴代天皇樣は、この德川幕府との戰ひの中で御在位されてゐました。

 この御製に於ては、後陽成天皇樣は、世の中に平安は戻つたが國體上に於て御親らの役割を果たせぬ悲しみを感じられてお作りになられたのではないかと拜察します。
 そんな外的環境の中に置かれても、後陽成天皇は文化の復興にも大いに盡され『日本書紀』を發行させたり、御親ら『源氏物語聞書』や『伊勢物語愚案抄』等を著されました。

 

 

(次回に續く)