ごあいさつ

こんにちは!
こちらは、インド・ヨーガ研究所の付属大学卒業生による
伝統的な古典にもとづいたヨーガクラスを紹介しています。

ヨーガは健康法や美容と思われがちですが
古典をひもとくと、その“心と体の構造原理”に驚かされます。

ポーズや呼吸法が、なぜ体だけでなく心にも影響があるのか?
動ではない静の深まりが、なぜ心身の調和をもたらすのか?

心と体を理解するための「智恵」と「技法」が古典にはあります。

思えば、物事がよりよく実現されるとき、
無理矢理、思いどおりにしようするより、
環境(条件)が整っていれば、自ずと実現されていくもの。

心と体も同じように、「使い方」が整えば、
それがよき環境(条件)となって、
自ずと物事がスムーズに最適になっていくのでしょう。

「どのように心と体を扱うか」
古典は原理と技法を通して教えてくれます。

また、ヨーガの伝統思想は仏教と共通するものが数多くあります。
ヨーガを学ぶことは、
日本の伝統の精神思想の土台を学ぶことにもつながります。

心が落ち着く歓び、
状況に動じない安定感、
物事に囚われない自由な感覚。

ヨーガとともに日常に活かせていけたらいいですね。
どうぞ一緒に、伝統的ヨーガの体験を深めていきましょう!














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2017年06月23日

2017/06/18 プラユキ師瞑想会~よりよき思考を育もう~

テーマ:瞑想あれこれ

 

今回の瞑想会のテーマは・・・「思考」です。

先日、プラユキ師のツイッターで、哲学者の先生と話題になり、
「思考とは一体なんだろうか?」を考えるきっかけになりました。

仏教において思考は、「思考にハマる」「思考にとらわれる」といった、

あまりよくない文脈で使われることが多いかもしれません。
瞑想でも「雑念を起こさせない、

思考しない状態」が理想的と思われがちです。

ですが「ブッダは思考を否定してはいない」と、

プラユキ師もよく語られています。
日常でも豊かな創造が生まれるとき、

そこには「価値のある思考」は必ず存在しているはずです。

ならば、仏教の教えでは、「思考」はどのように語られるているのだろうか?
私たちが囚われがちな「マイナス思考(非機能的な思考)」は、

いかに「役立つ思考(機能的な思考)」へと育めるのか?

プラユキ師も「雑念と呼ばれるものの中には、

よりよき創造を生む宝の原石もある」とよく語られます。
この言葉をあらためて理解するための瞑想会を開いてみよう(!)、

ということになりました。


~~~~~


お話し会では、まず「ハマりがちな「ネガティブな思考」に、

私たちはどのように囚われていくのか?」を

仏教の原理から理解していきます。

通常は「十二因縁」のループ(回転作用)で説明されるところですが、

今回は、プラユキ師は別の図式を示してくださいました。

私たちの意識が五官(感覚)を通して
「触」という「何かの対象と触れる」ことで
「受」という「感覚的な感受(快・不快など)」が生じて
「想」という「情動的(感情的)な作用(貪・瞋・痴の三毒含む)」が生まれ、
「〇〇は~でないと、~でなければ」といった「概念化(妄想的なモノの見方)」が生まれていく。

この「概念化」に自分が同一化していくことで
パターン化(固定化)した反応が生まれやすくなる、ということです。

とりわけ、今回のアンケートでも顕著だったのが、
「不安、落ち込み、怒り」という、ネガティブな反応に囚われる状況ですね。

プラユキさんは
「よく『人は見たいようにしか物事を見ない』
『世界を自分が見たいように見ている』と言うよね。
必然的に“心のクセ”で見てしまうんだね」
とわかりやすい表現で語られます。

そして、ここからが、プラユキさんならではの
興味深い仏教解説になります。

私たちは、「思考」と一言で言っているけど、
この「想」を境界線として、
「思考」を「思」と「考」の作用を分けて整理すると理解しやすいよね、と。

まず、私たちが思考の「思」で「思う」ことは、
自然に起こる心の反応で、
これ自体は、ネガティブな思いであろうと、否定しても仕方ない。
むしろ、否定することで余計な抑圧が生じてしまう。

むしろ問題は、それが起きた“あと”にくっついてくる「考え」のほう。

つまり、次の「概念化」へつながるプロセスで、
自分の「ネガティブな思い」に対して、
心がブツブツと考え出す「心のつぶやき(考え)」こそ、
反応を固定化(自己同一化)させる問題の大元。

この心のブツブツは、自分の思いに対して、さらに

「否定したり」「抑圧したり」「より増長させたり」

とするようなものだったりもする。
悪循環な連鎖反応も引き起こしている。

これを無意識に進行させないで
「そのまま気づいて(念)、受容する(定)」していこう。

そうすると、この「考」自体は変化していく(!)

プラユキ師は、
「あるがままに受容していけば、
今までの『モノの見方(概念化)』から抜け出し、
新しい別の「見方」が自然と生まれてくるようになるよ」と
明確に語ってくださいます。

さらに、この「変化」についても語られます。

「気づいて受け入れる」ことで知る「変化」は
仏教の教えで大変重要な「無常(万物は変化する)」でもあり、
これが、私たちが体験的に理解していきたい「智慧(縁起観)」なのだ、と。

「無常は変化であり、その体験と理解が智慧である」。

わたしたちは、一見、
「智慧があるから、素晴らしい思考ができる!」
と思い、その前にある、
「素晴らしくない思考」を否定して、
「智慧」を手に入れようとしますが・・・

おそらく、ここがかん違いのポイントかもしれません。

「素晴らしくない思考」を
「否定するのではなく受容する」。

ここが、智恵が生まれる適切なプロセスと言ってもいいようです。

そして、この「気づいて受け入れる(念と定)」を適切に育むために、、
「気づきの瞑想」の実践が、
とても重要な役割を果たす、と教えて頂きました。




~~~

毎度のことですが、
プラユキ師のお話しのすごいところは、
「私たちのネガティブな思いを否定しない」ところです。

私たちにとって
「許しがたい相手や状況へのイラ立ち」
「ささいなことから湧き出る不安感」
などは
「消えたほうがいい」として、
どうしても「排他的」なアプローチをとってしまいがちです。

しかし、プラユキ師は、
それを「そのまんまでOKにしてみよう」とおっしゃいます。

あるがままに受け入れていく、否定性がない意識は
新しい発見、理解を生む土台になる、というのです。

それが、ブッダの教えであり、瞑想の実践の根幹なのだ、と。

じつは、この「受容」については、
瞑想会のあとの「歓談会」でも話題になりましたが、
「定(サマーディ)」を「受容」と訳したプラユキ師は

本当に画期的だと思われます。

従来、一般的な教本では「定」は「集中」とか「専心」と訳されることも多く、
どこか「思考しない意識状態」の側面に

光があたっている印象のようでした。

もっとも、修行という環境であれば、
現実世界の妄想性(思い込み)を見透かす意識として、
「集中」という表現は、最も自然なことだったと思われます。

とはいえ、日頃、仕事や人間関係にもまれて生きる私たちにとっては、
この集中は、もう少し「幅」をもって理解しないと、誤解が生じそうです。

「集中」で自身の「感情や思考を消し去る」訓練をしても、
生活の中に、心を刺激するものがたくさんあるわけですから、
「消し去りきれない!」というほうが普通だと思います。

そうなれば、「修行法が悪いのではなく、自分が悪い」と
過剰な自己否定も生まれかねません。

(プラユキ師が語る、瞑想で人生をよくしようとしたのに、
かえって人生の困難を増させてしまう「瞑想難民」という状態ですね)

「消し去ろう」というより、
「受け入れる」プロセスが、
「変化するという法則に即した心(智慧)」を理解するのに、

適しているのだと思います。

私たちが目指したい「自由」や「解放」というものは、
自分の感情や思考を否定したところには存在しないのだと思います。

長年、個人面談を通して、
日常を生きる人々の生々しい苦悩の姿を見てきたプラユキ師だからこその
法則性の本質をついた解説なのだと思います。






~~~

さて、この「気づいて(念)受け入れる(定)」ですが
私自身、的確に理解するまでに、結構時間がかかった、

という思いがあります。
(今でも、十分に実践できていないことも多々あります)

というのも、「受容」というと、
「受け入れがたい状況(外側)のほうを受容する」と思いがちだからです。
(納得できない相手の態度とか、不条理と思えるような出来事のほうを)

でも、ここで語られている「受容」とは、、
「その状況を受容できない“自身の心”(内側)のほう」
だということです。

たとえば、
「何かに失敗した」という状況で、私は自分を責めがちなところがありました。
「なんて軽率なんだ、人間として不十分だ」と。

また、そうした自己否定を本当は止めたいのに止められず、
それもまた、次なる自己否定になったりもしました。
(止まらない悪循環ですね…)

こんな状態の中で、「受容しよう」なんて、さらさら思えないし、
思ったところで、その思いは、すぐに情動や思考の嵐にかき消されます。

でも、自身の瞑想のつみ重ねのおかげか、
あるとき、プラユキ師が語る「受容」の核心が、自分に訪れました。

私の場合、それは「受容」という表現より、「許す」という表現に近い印象でした。

ある日の落ち込んだ夜、
「この状況も思いも、受容できるだろうか?」と思ったその瞬間、

「受け入れられないからこそ、こういう思いなんだ!」と
と突発的に、心の中で大きく叫びました。

でも、次の瞬間、
「いいよ、わかった!
じゃ、この受容できない自分を許そうよ!」

自分でも意外な言葉が生まれました。

「今は、そう思いたいんだから、仕方がない。
そう思っている自分を否定しない。
そのままの自分にOK出す」

「受け入れがたい現実」も
「それを受け入れられない自分」も
「その自分を否定したい自分」も

「全部そのままでよしとしてみよう!」と。

・・・そうしたとたん、何かが変わり始めました。

すぐにではありませんが、やがて、
止まらなかった思考が落ち着きだし、
また思考が始まっても、「それを許そう」と思った時点で、
制御できなかったエネルギーがスッと抜けるような体験をしました。

面白いもので、私は、自分にどれだけ無理をかけていたのか、
自分でもわかっていなかったのだと思います。

あるがままの自分を認められないことが、
こんなにも思考の暴走の原因になっていたとは、

適切には理解できていませんでした。

しかし一旦、受容ができると、心に余裕ができるので、

自分に対する問いかけが生まれてきます。

「じゃ、自分にとって、何が否定しなくてすむことなんだろう?」
否定ばかり募る自分の内側を、広く見ようとする意識が生まれてきます。

問題となった出来事の背景や理由に意識がおよんでいき、
それまで考えられなかった可能性に目を向けることができ始めます。


自分で自分の考えに「納得」が、少しずつ生まれていきます。

すると、自分が実現したかった、大元の“願い”が、ふと思いだされてきます。
「そうだ、自分がこんなに苦しいのも、

世界や自分に対して、こうあってほしいと

理想としたことがあったからだ」と。

 

「この願いを叶えるやり方として、

現実は自分の期待とは違ったけど、

これじゃなくてもいいんだよね。

ほかにも道はあるんだよね」
と、どこか素直になっていきます。

そうすると、
「この状況から、自分はどうしたいのか?」

「うん、今後はひとまず〇〇してみよう」


それまでどうしようもなかった状況に対して
「自分なりの自己決定(次の行動選択)」
が浮かんできます。

「そうか、自分なりの答えは、こんなふうにあったのか(!)」
これがわかると、なんだか、しみじみしてきます。

(この「願い」は、プラユキ師の語る「欲ではなく意欲のほう」ですね。
特定の結果に囚われずに、

自身の目的(原因)に即した選択ができる状態ですね)

一度、この体験をしてからは、
「受容」の意味が自分の中で、本当によく理解できていきました。

もちろん、ネガティブな思考は今でもあります。
すぐに落ち着く状況もあれば、時間がかかる場合もあります。
「こんな自分、以前だったら認められなかったな」というものも、よくあります。
 

でも、「受容の場」に自分をポンと置くスイッチが、

だいぶ入りやすくなった気がします。

「この自分を受け入れたら、自分はどうなるんだろう?」
その行方を見守ることは、新しい自分を知るチャンスとして、

少し楽しみでもあります。

確信としてあるのは、
「必ずいつかは、自分なりに納得できる『自己決定』にたどりつける」
ということ。

受容を通して、この確信を知ったことが、本当に嬉しいことだと思います。

私にとって、受容は、
「現実に起きたことも、それに対する自分の反応も、
『受容できない自分自身を受容する』」
というところから、理解と実践の一歩が始まりました。

「受容」という実践と理解を指導してくださるプラユキ師には

本当に感謝しております。




~~~~~

さて、話を本題に戻します。

今回、この「気づいて、受け止め、理解する(念定慧)」を理解するために
「子育て論」を素材に、プラユキ師に語っていただきました。

子育て論は自分の「心育て論」と同じ。

親が子どもに対してやりがちな問題の行動パターン、
「過干渉」「虐待(対立)」「ネグレクト(放棄、無関心)」の3つは、
仏教の「貪・瞋・痴」の教えに共通している。

そして、このパターンは、私たちが「対相手」「対自分」にとってしまう
ネガティブなパターン性と共通するものだ、と語ってくださいます。

つまり、私たちの自我は、
何らかの出来事や、それに対する自分の感情を「子ども」としながら
それを認められない「親」として、抑圧の態度をとってしまうことがある。

子どものあるがままの状態を、気づいて受容するのではなく、
最初から「こうでないと」という条件を押しつけてしまう。
(もしくは、認知しないフリをしてしまう)

私自身、この親的自我の「3つの問題行動パターン」を
自分の日常に照らし合わせた時、いろいろなことが見えてきました。

ふだん、自分がしがちな「当たり前の反応」は、
実は、受け入れがたい物事に対しての「過剰な反応」だったのではないか(!)

「あれ、この出来事(人)に対して、なんでこんなに過干渉になってしまうのだろう」
とか、一方では、
「こっちの事に対しては、見たくないという無関心をやっている」
とか。

結局、この「過剰反応」こそ、
「親に、そのままの自分を受容されなかった子どもがとる暴走」
と言えるのかもしれません。

プラユキ師は、温かい笑顔で語ります。
「“どんぐり”も“かしの木”も、どっちがスゴイ、
というわけじゃないよね。
どっちもアリなんだよね。
子どもの素直な感情に対して、
条件をつけてしまうのではなく、
無条件で、そのまんまいいんだよ、
ということを、言ってあげたいよね」

まさにその通りです。

その温かい目で、自分の「過剰反応」も、そのままに受け入れていくと、
これはどこか「自己防御ゆえの反応だったのかも」と感じられてきます。

あるがままに受け入れてほしかったけど、
そうしてもらえなかったゆえの暴走。

自分が自分を受け入れるにはまだ未熟だったころ、
「親」に受け入れてほしかったこともあるだろうし、
「世界」に受け入れてほしいと願ったこともあったと思います。

「自分がこうしてきたのは、世界のほうがこういう振る舞いをするからだ!」
なんて、どこか犠牲者になったかのような声も聞こえてきそうですが、
これはもう仕方ないこと。

「そうした行動こそが、自分を守るための大切なプロセスだった」
このことは、プラユキ師がつねに大切に語り、寄り添ってくださるところです。

私たちは、気づいた「今ここ」において、

適切な受容をすればいいだけなんですね。

そうすれば、この「過剰反応」の根底にある
現実世界に対して「どんな願い(意欲)を持っているか」が明らかになり
それを実現するための創造力、推進力を育んでいくことができます。

プラユキ師は、それこそが、
私たちが求める「役立つ思考(機能的な思考)」だと教えてくれます。

何事かを受け入れがたいとしているのであれば
その奥には、必ず「目の前にある現実より、

よいよいものを創造したいという願い」がある。
そこに光をあてていこう、と。

この3つの反応パターンは、3つの「力」に変えていけると説明されました。

・過干渉(貪)⇒「育成力」
・対立(瞋)⇒「改善力」
・痴(無関心)⇒「創造力」

この解説は大変面白かったです。
参加者からの質問もあって、
そもそも「貪瞋痴」がどういった背景からくる原理なのかを

含めた説明がなされました。

それは、「無明(無知)」という、

私たちの根本を表す仏教の教えにもつながります。

「それまで見ようとしなかった(無明=受容できなかった)何事かが

見えるということが智慧なんだよ」

私たちは、どうしても、智慧を何か「知識」めいたものにとらえがちですが、
「自身が見ていなかったものこそ観る」
この働きこそが智慧のようです。

もともと自身の内にある、それを観る力こそ智慧。

だからこそ、
「気づいて、受け入れ、理解する(念定慧)」という気づきの瞑想の実践は、
大きな力を与えてくれるのだと実感しました。

今後も、瞑想とともに、

さらに「役立つ思考(智慧)」を育んでいきたいと思いました。

プラユキさん、今回もよきご指導、本当にありがとうございました。
よき瞑想会の時間となりましたこと、感謝いたします。



~~~

最後に、皆さんの感想の声を、一部ご紹介いたします。

「三毒に対して否定的になりがちだったので、修正するきっかけになりました。『次の一手を自由に選べる』が、実感できました」

「思⇒考を分ける。そして、智慧に向かう。この流れが理解できたのがよかったです」

「子育てという具体例がわかりやすくて、自分の心の反応の理解が深まりました。イラストがわかりやすくてよかったです!」

「自分の中で、『受け入れる』ことと『過干渉』が、あいまいに理解されていたことに気づけてよかったです」

「三毒が念定慧で具体的にどう変容するか、とても興味深かったです。智慧について、ブッダがいろいろな用語で説明されていたことが、具体的に確認できたのがよかったです」

「ネガティブな思考を消したい、と思っていましたが、否定しなくていいんだとわかって、ほっとしました。智慧も、手に入れようと頑張るというより、受け入れれば自然と起こるんだとわかって、できそうな感じがしました」

「仏教用語に慣れていないため、理解しにくいところもありました。もっと十二因縁と関係づけて理解したいと思いました」

「いつも一人で瞑想していましたが、みなさんと一緒にやることで、初心に戻れました。歩行瞑想で『新しい一歩に戻れる』という指導の言葉に、とても安心感がもてました」

(以上)

今回の資料は、「この三毒を念定慧によって変化できるプロセスをイラストでわかりやすく見せたい」というプラユキ師の希望のもと、
かねてより、プラユキさんの十二因縁の説明イラストを描かれている“ざぼんさん”に、新規で描いていただきました。

心がほっこりするような、温かなイラストのおかげで、皆さん、自分なりの「心育て」の希望が実感されたご様子でした。
素敵なイラストを、ざぼんさん、どうもありがとうございました。


~~~

今後も、瞑想会は行われる予定です。
また、皆さんとご一緒できる機会がありますこと、楽しみにしております。

どうか智慧と慈しみのよき縁につながれていきますように。


 

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